エピローグ 天国への階段
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エピローグ 天国への階段
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「起きなさいよ……」
「ねぇ……起きなさいってば……」
「…………おーきーてーっっ!」
やっと寝入った両頬へと、ペチンと平手打ちがやさしく触れた。
「うぉっ?!!」
びっくり彼は目を覚まし、浮遊する彼女に顔を包まれていることに気づく。彼女はそのまま手を放そうとはしなかった。
「おい……さすがにこれはないぞ……くそ、やっと寝れたっていうのに……」
「ごめん……」
うっとうしそうにその手をどける。
ベッドから身を起こすと、千冬は妙におとなしく、だがなれなれしく彼の膝に乗った。
「何だ……?」
不自然だ。彼は抵抗も止めて相手の顔をのぞき込む。
彼女にあった病的なものは、全て綺麗さっぱり失われていた。
「何だろう……疲れちゃった……」
「自縛霊が疲れるとか、何ともシュールな話だな」
「あ、あはは……でもマジで疲れちゃって……」
「全部終わっちゃったから……緊張が一気に途切れちゃったのかも……」
元気がない。千冬はうつむいて黙り込んでしまう。
これで三度目の夜這いだ。今回は自主的でしかも大胆。膝に彼女の体重と体温を感じる。
「そうか」
外していたメガネをかけて、彼は少しだけ千冬との距離をつめた。暗がりの中にあるその顔を、もっとはっきりと確認するために。
「あはは……ちょっと大胆過ぎたかな……」
血色を増した顔は、暗がりの中では上手く確認できない。でも自分でしておいて、今の状況に恥じらっている。
「やれやれ……これで何度目だろうな……」
普段の彼ならすぐに本題を要求しただろう。彼は苦笑するばかりだった。
「…………あのね」
彼女は黙り込んで、やっと口を開いた。言わなければならないことがあった。どこか寂しそうに、言葉の続きを紡ぐ。
「もしかしたら……」
「わたし、今夜中に天へと召されるかもしれない……」
「え…………」
ショックだったのかもしれない。文継は心臓をわし掴みにされた気分になった。驚きに肩をビクリと揺らして、目の前の少女を見つめ続ける。
「消えちゃうかもしれない……」
彼の凝視に、千冬は視線を外してことさら寂しそうにつぶやく。
「でも、そんなに未練はないの……」
「わたしの人生って、一体何だったのかなって……どうしてわたしだけ……とか」
「そんなふうには思うけど……でも仕方ないし……ここまでしてもらえたら、もういいかな……って」
おそるおそる千冬は視線を彼に戻そうとした。目と目がぶつかって、また彼女はそっぽを向く。
幸せそうに頬が赤く染まり、少女めいた微笑が生まれる。
「けど……もし二度目の人生があったのなら……」
そこまで口にして、千冬は勇気を振り絞って彼を見つめた。文継は呆然と彼女を見つめるばかりで感情が読めない。
「その時は本当にアンタに仕えてあげる……それが約束だったから……」
感情が高ぶって、千冬は耳から首筋まで赤く染めて恥じらった。言い方はどうあれ、それは彼女なりの大胆な告白だった。
「…………」
なのに文継は言葉を返さない。表情は難しい顔へと変わって、やがて不満に眉をつり上げた。
「気が変わった、成仏しなくていいぞ、ずっとここに居ろ」
「え…………」
彼本来の願いとは逸脱した言葉が、勝手に口から飛び出す。不機嫌から真剣へと顔付きが色変わりする。
「キミが来てからというものの、騒がしくてペースをかき乱される気分だった」
「……だが、諸々の問題は解決した、そうだろう?」
「え、え……文継……?」
意外な反応だった。てっきりせいせいするとでも言われると思ったのに。
「キミが善良な住民としてここで暮らせるのなら、部屋の一つくらい正式にあてがおう」
「遠慮はするな、人がここに居て良いと言ってるのだぞ!」
不器用なその言葉は必死で、千冬は驚き、喜びに微笑んだ。
「もしかして、消えるとわかって急に寂しくなった……?」
「なっ、なに言うっ?!!」
「頭は良いのかもしれないけど、アンタってとんでもなく不器用で、自分に鈍感だよね」
「ふふふっ……おっかしい……」
引き留めてもらえた。千冬にとってそれは喜びだった。正直じゃない彼に、幸せな笑顔を向けなおす。
「うっ……その笑顔は反則だ……」
すると文継はブツブツと言って、視線を合わせたり戻したりを繰り返した。
「恋をする余裕なんて、わたしの人生にはなかったけれど……」
「せめて消える前だけは……そのまね事をしてみたって、許してもらえるよね……」
悲しそうに彼女は笑って、彼の両肩へと手を置いた。
「?!!」
そっと自分の瞳を閉ざして、未解析な好意に従って、少女は少年へと口付けする。唇と唇が不器用に重なり、ほんの少しの時間だけやわらかさを楽しんで、すぐに離された。
「ばいばい……本当にありがとう、いくら感謝してもし足りない……」
もう恥じらってる余裕はない。全てを終えたやすらかな顔は、消えるその瞬間まで彼の姿を記憶に焼き付けようと、ひたすらその二つの瞳を見つめ続けた。
「ま、待て!! 勝手なことは許さん!! キミは俺を置いていくのか?!!」
「俺は……っ、俺はキミと違ってっ!! 頼む、止めろ、行くなぁぁっっ!!!」
傲慢で見栄っ張りの彼がここまで引き留めてくれる。彼女は幸せで胸がいっぱいになった。
彼と共に生きられないのが残念だが、彼には綾宮零夏がいる。だから何も問題ない。安心だ。
「短い間だったけど……わたし、あなたのことが大好きでした……」
「ふふふっ……これは嘘。嘘だけど……最後くらい、このくらい言ってもいいよね……」
「本当にありがとう、さようなら」
彼は叫んだ。一人にしないでくれと。惨めに、見苦しく、不器用に。
この晩、小宮千冬の亡霊は姿を消した。
彼はいつまでもいつまでも、あの騒がしくも平穏な日々が続くと、思い込んでいたのだ。




