3ー5.レモネード
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3ー5.レモネード
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葦花愛海の自宅は、小じんまりとした普通の家だった。
玄関には花々の鉢植えがところ狭しと置かれ、見上げると二階のベランダより、涼し気なユウガオのカーテンが下りている。
第一印象はかわいいお宅。あの愛海が育った家とも納得できるもの。
『ジリリリリ……』
まずは軒先に立ちチャイムを鳴らす。
娘より事前に連絡が届いていたこともあり、すぐにその玄関は開かれた。愛海によく似た女性が、たおやかに零夏を歓迎して、どうぞ中へと招き入れてくれる。
「レモネードで良かったかしら?」
「はい、ちょっと疲れていたので助かります」
「ごめんなさいね、娘が好きなのでつい好みを聞き忘れてしまったわ」
その愛海の母、葦花さんは母性を感じさせるやさしい人だった。
とても40過ぎとは思えない若さで、若い頃は……いや、今もきっとモテること間違いない。
老いを知らない柔和な口元が、親しみ深く客人へと微笑みかけていた。
「先日知り合ったばかりですが、愛海さんにはお世話になっています」
「とても親切な人で、彼女がいなければ困ったことになっていました」
素直に思ったままのことを口にする。
レモネードの甘みと爽やかな酸味が、夏日にうだった身体へと染み渡る。
「あらそう、ふふふっ、ちゃんとがんばってくれてるようでホッとしちゃう」
「母として誇らしいわ」
嬉しそうに葦花さんは満面の笑顔を浮かべる。あの屋敷の住民にはとても出来ない、健全な表情だ。
「…………」
その姿を見ていると、これから彼女にしなければならない用件が嫌になった。自分はこの善人の過去を詮索し、暴き立てに来たのだから。
「そういえば、ご用件は何だったかしら」
なのに葦花さんは、相手のためらいに配慮して逆に問いかけてくれた。ろくな話ではないとわかっているだろうに、本当に人が出来ている。
「失礼しました。実は……そうですね……」
「葦花さんは二年前から、屋敷の仕事を休んでおられますよね?」
まずは前置きから。慎重に言葉を選んで、相手の善意を裏切らないよう問いかけた。
「そうね、もうそんなになるかしら」
「……休業の理由はなんですか?」
「それと、今は何をされているのでしょうか?」
聞かなければならないとはいえ、ずいぶん無遠慮な質問だ。詮索以外の何物でもない。
「うーん……そうねぇ……」
幸い相手は出来た人間で、そのくらいでは気を悪くなんてしなかった。
「あなただってわかると思うけど、大きな屋敷を数人で切り盛りするのは大変なの」
「歳をとって体力が落ちると、今まで何とか出来てたことが、どんどん辛くなってゆくわ」
苦労話だというのに、葦花さんはふんわりとした微笑みを崩さなかった。ただただ穏やかに、彼女は淡々と事実をつらねてゆく。
「でも直接のきっかけは……」
「うっかりお屋敷の階段を踏み外して、足に怪我をしてしまったことね」
「そうなんですか」
彼女はロングスカートをそっとまくって、すねに出来てしまった醜い生傷を見せる。
「痛そうです……」
それは階段の角で深く打ったのか、皮膚が白いこぶとなって浮き上がっていた。おそらく骨折も併発したのだろう。
「そうね、でももうだいぶ良くなってるわ」
「完治したら仕事に戻れるのだけど、なかなか難しいものなの」
「あの子には大学を休学してもらってまで働いてもらっているのに…………本当に私、情けないわ」
申し訳なくてならないと、彼女はついに笑顔を崩して暗く肩を落とした。
深刻なその姿は何かを思い詰めたが、すぐに明るくたおやかな葦花さんへと巻き戻る。
「ごめんなさいね」
「いえ……」
罪悪感を覚えないわけがない。しかしこれも千冬を救い、悪人に天誅を下すためだ。
本来の目的を思い出し、強い意思をもってこの女性の秘密を破ることに決める。
「休養の理由に、人間関係は含まれますか?」
「――!」
反応があった。グラスを持つその手がワンテンポだけ止まる。
「……………………」
口へと運ぼうとしていたそれを、力なくテーブルへと戻して、葦花さんは突然黙り込んでしまった。
客人のためにつけられた冷房機がガタガタと騒ぎ、窓の向こうの遠くからツクツクボウシの声がまぎれこむ。
「あのね……」
やがて母はポツリとつぶやいた。
「あの屋敷の人たちは、可哀想な人たちなの」
「財閥の莫大な富と責任が、人並みの幸せや生活を奪ってしまったの」
それは哀れみであり、何か諦めにも近いものだ。人間関係という切り口は、デリカシーという大切なものさえ無視すれば、最適な手口だった。
「……………………」
「…………」
その後の沈黙は深く、いつまで待っても彼女は口を開かない。決断も妥協も拒絶も行えない、自閉的な精神状態へと陥っていた。
「すみません、話したくないことはわかっています」
「ですがそろそろ、非情なことですが本題に入らせていただきます」
「…………いいのよ、ごめんなさいね」
すっかりグラスを見つめたまま動かなくなっていた瞳が、我に返って零夏を見上げ直す。
「実は千冬さんのことで話をうかがいに来ました」
可能な限り誠実に、はっきりとそのことを伝える。
「そう……やっぱり……」
「そうだと思っていたわ……」
力ない声。もうたおやかな母に笑顔はない。
「千冬さんが刺殺されたその日、戸締まりの担当は貴女でしたね?」
「ええ……そうよ……」
覇気のない言葉で肯定される。
零夏の胸の中で、モヤモヤと罪悪感が生まれたが、ただただ堪える。自分の役割は、こういった汚れ仕事なのだと形だけでも開き直った。
弱り切った女性をあえて鋭く睨み、力強い言葉で、問いつめなくてはならない疑問を投げかけた。
「戸締まりは本当に完璧でしたか?」
「!!」
強くグラスを握り過ぎて、美しいその手が白く染まった。両手は震え、中の氷がカラリと鳴る。
「それ……は……っ」
消えそうなほどに言葉は小さく弱く、彼女が何かを隠しているのは確実なものとなっていた。
「私は主人の代理で動いています」
「その主人――文継様なら、きっと貴女にこう問うでしょう……」
厳しい口調から、涼しく落ち着いた零夏本人のものへと戻る。
「足、もうすっかり治っているように見えます」
「少なくとも、玄関を開けて私を招いた貴女は健康そのものでした」
「大変なお仕事とはいえ、まだまだ葦花さんは若く健康です。高報酬の奉公を、全くきっぱり打ち切ってしまうのはおかしいです」
文継ならばこう言うだろう。彼女は彼になり切って、善人なら言うに堪えない詰問を進める。
彼みたいに行儀悪く肘をつき、両手の指を組んで、自分本位に相手を見定める。相手の心境などお構いなし、それが彼女の主人で、その長所だ。
「ならば理由は他にある」
「なぜ貴女が屋敷の仕事を辞めてしまったのか……」
急に人が変わってしまった彼女に、葦花さんは怯えて目線を上げようとしない。
高い推理力と詮索能力は、ただそれだけで恐ろしい存在となる。零夏は身を持ってそれを実感していた。
「やはりそれは、人間関係ですね」
「使用人である以上、貴女は上苑一家の依頼に逆らえない……」
「…………きっと誰かに言われたのでしょう」
「例えば、そう……恋人と逢い引きをしたいので、居間の窓を開けておいてくれ、と」
「っっ、っっ……やめて……」
苦しそうに頭を振る。声にならない声が悪魔の詮索を拒絶した。
「しかしその結果、事件が起きてしまった」
「だから貴女はもう二度と、屋敷の仕事に戻れなくなってしまったのでしょう……?」
組んだ指が戻される。肘や丸めた背中が伸ばされて、行儀の良い零夏へと戻る。
「申し訳ございません」
「ですが主人の言葉と行動を代弁するならば、こんなところだと思います」
ところが葦花さんは彼女の変化に気づかなかった。葦花さんの頭の中では、鋭い詰問の言葉がループして、現実世界に意識を戻すことが出来ない。
彼女は苦しそうにただただ狼狽に震えていた。
(かわいそうな人…………一体なにがあったのかしら…………)
その様子を哀れまないはずがない。罪悪感を覚えないはずがない。
「あの、主人は言っていました」
「使用人は悪人に利用されるものだと……」
「けれどだからこそ、葦花さん……貴女のような信頼のおける人物が選ばれます」
やさしい言葉で怯える彼女を慰めると、まるで神にすがる弱者となって顔を上げた。
「私も同業者のようなもので、貴女のことはよくわかります」
「ですが…………私たちも人間なのです」
「仕える家に忠義を尽くすとしても、限界がある」
(まあ……私は際限無く、あの因業な主人に尽くすと決めておりますが…………)
女性は零夏の言葉に聞き入る。まるで救いのおつげとして届いているのではないかと思うくらい、無防備だが切実な表情で。
「ここからは主人ではなく、私の推論です」
「おそらく、主人も同じ結論に至るかと思いますが……」
「…………貴女の姿を見れば私にだってわかります」
深く息を飲む。この女性も被害者なのだと確信する。
「葦花さん……貴女……」
「誰かに脅されていたのではありませんか?」




