闇、搔き毟りて
◆
生まれ落ちた瞬間から躓いていたのだろうと思う。母の話によれば、私は予定日より二週間も遅れて出てきたくせに産声はか細く、看護婦が慌てて背中を叩いたという。それでも私はろくに泣かず、ただ目を閉じたまま、この世に生まれ出でた事実をぼんやりと受け入れていたらしい。母はその話をするたび、あんたは昔から要領が悪かったのよと笑ったが私にはその笑いの奥にある微かな失望が見えた。いや、見えたような気がしていただけかもしれぬ。私はそういう人間である。
幼稒園の頃から、私は何をしても人より遅かった。お遊戯の振り付けを覚えるのに皆の三倍はかかり、覚えた頃には発表会は終わっている。折り紙を折れば角が合わず、粘土を捏ねれば何を作っているのか自分でもわからなくなる。先生は根気よく教えてくださったがその根気が尽きていくのを幼い私ですら感じ取ることができた。
「ゆっくりでいいのよ」
先生はそう言った。しかしその声にはもう諦めましたという響きがあった。私はその言葉に妙に安堵したのを覚えている。期待されるということはその期待に応えねばならぬということでそれは私にとって途方もない重荷だったのだ。期待されなければ、失望されることもない。その発見は五歳の私にとって一種の救いだった。
小学校に上がると、私の無能はより鮮明になった。算数の計算は桁を間違え、国語の音読は詰まり、体育の跳び箱は跳べず、図工の作品は賞に選ばれることもなく廊下の隅に貼られる。給食当番をすれば汁物をこぼし、掃除当番をすれば塵取りの中身を廊下にぶちまける。担任の先生は私の通知表に「もう少し落ち着いて行動しましょう」と書いたが私は落ち着いていないわけではなかった。むしろ落ち着きすぎて、自分の手足がどこにあるのかわからなくなるのである。
クラスメイトたちは次第に私を避けるようになった。班を作るとき、私は必ず余る。先生が誰か入れてあげてと言うと渋々手を挙げる者がいて、私はその班に入る。そういうとき、私は自分が透明になったような気がした。いや、透明ならまだいい。私は泥のようなものだった。誰の目にも見えているのに誰も触れたくない。触れれば汚れる。そういう存在だった。
中学に上がると、私はさらに目立たなくなった。それは私が目立たないように努力したからではなく、ただ私という人間が平均以下の集積であったからだ。成績は下から数えたほうが早く、運動は論外、容姿も取り立てて良くも悪くもない。強いて言えば顔色が悪いことだけが特徴だった。保健室の先生に何度か貧血を疑われたが検査の結果は正常で私はただ顔色の悪い人間だということが判明しただけだった。
その頃、私は本を読むようになった。理由は単純で本を読んでいれば誰にも話しかけられずに済むからである。休み時間に一人で本を読んでいる生徒は珍しくなく、私はその集団に紛れることができた。読んでいたのは主に小説で最初は娯楽小説を手に取っていたがいつの間にか純文学と呼ばれる類のものを読むようになっていた。太宰治の「人間失格」を読んだとき、私は奇妙な感慨を抱いたものだ。この主人公は私に似ている。しかし同時にこの主人公は私よりはるかに才能があり、女にもてる。私はこの主人公にすらなれぬ人間なのだと思った。
中学三年の冬、私は初めて恋をした。相手は同じクラスの女子で名前は忘れてしまった。いや、忘れたふりをしているだけかもしれない。彼女は特別に美しいわけではなく、成績が良いわけでもなく、ただ少し変わった子だった。休み時間に一人で窓の外を眺めていることが多く、そのぼんやりとした横顔が私にはなぜか眩しく見えた。
私は彼女に話しかけようとした。何度も何度も。しかしそのたびに私の足は止まり、声は喉の奥に引っ込んだ。彼女が振り向いたらどうしよう。話しかけて、それでその先は。私には何もなかった。話す言葉も見せられる自分も何一つ。だから私は話しかけなかった。話しかけないことを選んだのではなく、話しかけられなかったのだと、そう自分に言い聞かせた。
卒業式の日、彼女は男子と手を繋いで歩いていた。私はそれを遠くから見ていた。胸が痛んだかと問われれば、痛んだような気もするし、痛まなかったような気もする。ただ、ああ、そうか、と思った。そうなるだろうと最初からわかっていたのだ。わかっていて何もしなかった。それは私が臆病だったからか、それとも私が賢明だったからか。おそらくそのどちらでもなく、私はただ私だったのである。
高校は家から近いという理由だけで選んだ。偏差値は低く、進学率も就職率も芳しくない。しかし私にはそれで十分だった。上を目指す気力も能力もなく、ただ三年間をやり過ごせればそれでよかった。
高校生活は中学とさほど変わらなかった。私は相変わらず目立たず、成績は振るわず、友人と呼べる者もいなかった。ただ一つ違ったのは私がこっそりと小説を書き始めたことである。きっかけは国語の授業で出された創作課題だった。原稿用紙五枚程度の短い話を書けというもので私は自分の日常をそのまま書いた。朝起きて、学校に行き、何も起こらず、家に帰る。ただそれだけの話。
先生は私の原稿を読んで不思議な顔をした。
「これは小説なのかい」
私は答えられなかった。先生は首を傾げながらも文章は悪くないと言った。その言葉が私には意外だった。褒められ慣れていない人間はたまに褒められると困惑する。私はまさにそれだった。
それから私は誰にも見せないつもりで小説を書き続けた。原稿用紙を買い、夜、部屋で一人、机に向かう。書くことは苦しかったが書かないでいることはもっと苦しかった。私の中には言葉にならない澱のようなものが溜まっていて、それを吐き出さなければ窒息しそうだったのだ。
書いた原稿は押し入れの奥にしまった。読み返すことはほとんどなかった。読み返せば、自分の文章の稚拙さに耐えられなくなるとわかっていたからだ。それでも私は書き続けた。誰に読ませるためでもなく、ただ書くことそのものが目的だったのかもしれない。
高校三年になると、周囲は進路の話題で持ちきりになった。大学に行く者、専門学校に行く者、就職する者。私はどれも選べなかった。いや、選ばなかったと言うべきか。大学に行くほどの学力はなく、専門学校に行くほどの目的意識もなく、就職するほどの社会性もない。私は自分の無能さを棚に上げて、ただ迷っているふりをしていた。
結局、私は地元の小さな工場に就職した。父の知り合いが経営している工場で人手が足りないから来ないかと言われたのだ。私は深く考えずにそれを受けた。考えても仕方がないと思ったし、断る理由もなかった。
工場での仕事は単純作業の繰り返しだった。機械に部品をセットし、ボタンを押し、出てきたものを箱に詰める。それを一日中繰り返す。私はその仕事に向いていなかった。いや、向いていないというより、私はあらゆる仕事に向いていなかったのだろう。部品のセットを間違え、ボタンを押すタイミングを誤り、箱詰めの数を数え間違える。先輩たちは呆れた顔で私の尻拭いをした。
「お前、ぼーっとしすぎだぞ」
先輩の一人がそう言った。私は謝った。謝ることだけは得意だった。いや、得意というより、それしかできなかったのだ。
一年が経ち、二年が経ち、私は相変わらず最低の評価を受け続けた。昇給は最小限でボーナスも雀の涙ほど。それでも私はクビにはならなかった。人手不足だったからだ。私は自分が必要とされているのではなく、ただ人がいないから仕方なく置いてもらっているのだと理解していた。その理解は私を楽にした。必要とされるということは期待されるということでそれは私には重すぎる荷物だった。
二十代の半ば、私は再び恋をした。相手は同じ工場で働く事務の女性だった。三つ年上で離婚歴があり、小さな子供を一人で育てていた。彼女は私に親切だった。ミスをしても笑って許してくれたし、たまに差し入れをくれた。私はその優しさに甘えそうになった。
ある日、彼女が私を食事に誘った。
「今度の日曜、暇だったらご飯でもどう」
私は一瞬、言葉を失った。それから、すみません、その日は用事がありますと答えた。用事などなかった。彼女は少し寂しそうな顔をしたがそう、残念ねと言っただけだった。
なぜ断ったのか、自分でもわからなかった。いや、わかっていたのかもしれない。彼女と親しくなれば、いずれ私は彼女を失望させる。私の無能さ、私の空虚さ、私のどうしようもなさを知られれば、彼女はきっと離れていく。それなら最初から近づかないほうがいい。傷つけないためではない。傷つきたくなかったのだ、私が。
それからしばらくして、彼女は工場を辞めた。再婚が決まったのだと聞いた。私は心の中でおめでとうと呟いた。それが本心だったのか、私にはわからない。
三十を過ぎると、私の周囲は結婚ラッシュになった。同僚たちが次々と式を挙げ、私はいくつかの披露宴に出席した。隅のテーブルで料理をつつきながら、私は新郎新婦の幸せそうな顔を眺めた。羨ましいとは思わなかった。ただ、ああいう幸せは私には縁のないものなのだと、改めて確認しただけだった。
私は相変わらず実家で暮らしていた。一人暮らしをする金銭的余裕もなければ、その必要性も感じなかった。両親は私の将来を心配していたがあからさまに口に出すことはなかった。その遠慮がかえって私には辛かった。直接言われれば反発もできるが言われないと何も言えないのだ。私はそういう、どうしようもなく卑怯な人間だった。
三十五のとき、父が亡くなった。心臓発作だった。朝、母が起こしに行くと、父はすでに冷たくなっていたという。私は父の死に際に立ち会えなかった。立ち会えなかったというより、立ち会う機会がなかったのだ。突然だった。あまりにも突然で悲しむ暇もなかった。
葬式の手配は叔父がやってくれた。私は何もできなかった。受付に座って香典を受け取り、頭を下げることしかできなかった。弔問客の中に父の知り合いだという初老の男がいて、その人が私に言った。
「お父さんは君のことを心配していたよ」
私は頭を下げた。ありがとうございますとだけ言った。その言葉が適切だったのかどうか、今もわからない。
父の死後、母は急に老け込んだ。私は仕事を続けながら、母の世話をするようになった。世話といっても大したことではない。買い物に付き合い、病院に連れて行き、たまに話し相手になる。それだけのことだ。しかしそれだけのことが私には重荷だった。母と話していると、自分の無能さを突きつけられるような気がしたのだ。
「あんたも早く身を固めなさい」
母はたまにそう言った。私は曖昧に笑って誤魔化した。身を固めるとは結婚のことだろうが私にはその気配すらなかった。出会いがないというより、出会いを求めていなかった。求めれば失望が待っている。それがわかっているのにわざわざ傷つきに行く必要があるだろうか。
四十になったとき、私は工場を辞めた。理由はリストラだった。経営が悪化し、人員整理が行われることになった。真っ先に名前が挙がったのが私だったという。当然だろう。私は二十年以上働いて、何一つ成し遂げなかった。上に立つ者もおらず、下の者を育てることもできなかった。ただ与えられた仕事を最低限こなすだけの存在だった。
退職金は雀の涙ほどだったが文句は言えなかった。むしろよくここまで置いてくれたものだと思った。私は荷物をまとめ、工場を後にした。誰も見送りには来なかった。来てくれとも思わなかった。
それからの私はアルバイトを転々とする生活を送った。コンビニ、警備員、清掃員、倉庫の仕分け。どれも長くは続かなかった。私の要領の悪さは年齢とともにひどくなっていたし、若い頃にはなかった体力の衰えも加わった。店長に叱られ、同僚に呆れられ、客に怒鳴られ、私は職場を転々とした。
四十五のとき、母が倒れた。脳梗塞だった。救急車で運ばれ、一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残った。私は母の介護をしなければならなくなった。アルバイトを辞め、介護保険を申請し、ヘルパーさんに来てもらいながら、私は母の世話を始めた。
介護は想像以上に過酷だった。母は気丈な人だったが自分の体が思うように動かないことへの苛立ちを隠せなかった。私に当たることもあった。
「あんたがもっとしっかりしていればね」
そう言われたとき、私は何も言い返せなかった。その通りだと思ったからだ。私がもっとしっかりしていれば、もっと稼いでいれば、もっとまともな人間であれば、母は楽ができたはずなのだ。私は母の前で頭を垂れ、すみませんと謝った。
五十のとき、母が亡くなった。最期は穏やかだったという。私が買い物に出ている間に眠るように息を引き取っていた。また、私は立ち会えなかったのだ。父のときと同じだった。私はいつも大事な場面に間に合わない。
葬式は簡素に済ませた。参列者は親戚が数人だけ。私は喪主として挨拶をしたが何を言ったか覚えていない。ただ機械的に言葉を並べただけだった。涙は出なかった。悲しくないわけではなかった。悲しみが大きすぎて、涙という形で出てこなかったのだ。少なくとも私はそう思いたかった。
母の死後、私は一人で実家に住み続けた。家は古く、あちこち傷んでいたが直す金もなければ気力もなかった。私は最低限の生活を送った。年金暮らしの老人のように質素に静かにただ日々を消化していった。
五十五を過ぎた頃、私はまた小説を書き始めた。高校時代以来、三十年以上ぶりのことだった。きっかけは特になかった。ある夜、ふと机に向かい、原稿用紙を取り出した。押し入れの奥にしまい込んでいた昔の原稿用紙は黄ばんでいたがまだ使えた。
私は自分の半生を書いた。小学校のこと、中学校のこと、高校のこと、工場のこと、父のこと、母のこと。恋のこと。恋と呼べるほどのものだったかわからないがそれでも恋のこと。全部書いた。書いているうちに不思議な感覚が湧いてきた。これは私の人生だ。どうしようもなく、救いようのない、失敗だらけの人生だ。しかしそれでもこれは私の人生なのだ。
書き上げたのは六十になる少し前だった。原稿用紙にして二百枚ほど。短編というには長いが長編というには短い。中途半端な長さだった。私はその原稿を何度か読み返した。文章は稚拙で構成は杜撰で何一つ取り柄のない作品だった。しかしそれは紛れもなく私の言葉だった。
私はその原稿を出版社に送った。なぜ送ったのか、自分でもわからない。誰かに読んでほしかったのかもしれないし、ただ捨てるのが惜しかっただけかもしれない。いずれにせよ、何かが返ってくるとは思っていなかった。出版社には毎日、山のような原稿が届くという。その中から私の原稿が選ばれる確率は限りなくゼロに近い。それはわかっていた。わかっていて、送ったのだ。
それから数ヶ月が過ぎた。私は相変わらず静かな生活を送っていた。朝起きて、簡単な食事を取り、散歩に出て、図書館で本を読み、夜は安い酒を飲んで眠る。そういう日々の繰り返し。何も起こらない。何も変わらない。私はそれでよかった。変化は私にとって恐怖だった。変化は期待を生み、期待は失望を生む。何も変わらなければ、失望することもない。
六十の誕生日を迎えた翌週のことだった。私のもとに一通のメールが届いた。差出人はあの出版社だった。
私は暫くそのメールを開けなかった。どうせ落選の通知だろうと思った。いや、落選どころか、読んでもらえなかった可能性のほうが高い。出版社は忙しいのだ。無名の老人が送ってきた原稿など、ゴミ箱に直行しても不思議ではない。
それでも私はそのメールを開いた。
文面は事務的だった。拝啓、突然のご連絡失礼いたします。先日ご応募いただきました作品についてお知らせいたします。選考の結果、あなたの作品が本年度の大賞に選ばれましたことをお伝えいたします。つきましては授賞式の日程等についてご相談させていただきたく──。
私は何度かその文面を読み返した。大賞。その二文字が頭の中でぐるぐると回った。私の作品が。あの、何の取り柄もない、失敗だらけの人生を綴っただけの、稚拙な文章が。大賞。
私は笑い出しそうになった。しかし笑えなかった。笑いの代わりに胸の奥から込み上げてきたのは言いようのない恐怖だった。
成功してしまった。私は成功してしまったのだ。
六十年間、私は失敗し続けてきた。もし、私がもう少し頑張っていれば。その問いを私は六十年間、自分に向けないようにしてきた。頑張らなかったから失敗したのではない。私はそもそも頑張っても成功できない人間なのだ──そう思うことで私は自分を守ってきた。失敗は宿命であり、私の責任ではない。だから後悔する必要もない。そういう理屈で私は生きてきたのだ。
しかし今、その理屈が崩れようとしている。私は成功してしまった。ということは私にも成功する能力があったのだ。あの恋に踏み込んでいれば。仕事でもう少し頑張っていれば。人と関わることを恐れなければ。私の人生は違うものになっていたかもしれないのだ。
思う所はあった。しかしそれでも嬉しくもあった。選ばれたのだ、私は。選ばれる悦びがこれほどに甘露なものとは知らなかった。
パソコンの画面にはまだメールが表示されている。私はそれを何度も何度も読み返した。何度も、何度も、何度も。
そして──。
押し入れの奥から、古い紐を取り出した。父が何かに使っていた紐でまだ丈夫だった。私はそれを持って家の梁を見上げる。
後悔とは後から悔いると書く。そういう意味で、この人生を総括してみれば私に後悔はない。なぜなら最後に選ばれたのだから。これまでの人生は、こうして選ばれるためにあったのだ。まぎれもなく、私は今幸せである。
だがこの満足感を、幸福感を脅かすものがまだある。
それを無くしてこそ、潰してこそ、消してこそ、殺してこそ私の人生は完成する。
私は紐を梁に結び、輪を作った。その輪に首を通し、台の上に立つ。
夕暮れの光が窓から差し込んでいる。薄汚れた部屋が一瞬だけ美しく見えた。
「良し」
私は呟いた。
そして、台を蹴った。
(了)




