(52)背信の代償 -4
※軽度の流血表現があります。苦手な方はご注意頂きますようお願い致します。
次の日の朝、ひとつの決意をしたリヴィオは、いつもより少し早く研究室へ向かった。
だが、鍵を手に扉の前へやってきたリヴィオの目に入ってきたのは、すでに扉の横に立って自分を待つタオの姿だった。
「おはようございます、リヴィオ様。今朝はお早いですね」
「……タオさん。タオさんこそ」
タオはいつもリヴィオより先にやってきて、こうして待っているのだ。本当は、今朝はタオよりも早く来て、彼を迎えるつもりだったのだが。
「もしかして、いつも一晩中ここにいるわけじゃないですよね?」
リヴィオが尋ねると、タオはいつものように静かに微笑む。
「ご心配には及びません。休憩は取っております」
それは問いに対する肯定だったのか、リヴィオはそれ以上の追求を阻まれたような気がして、扉の鍵を開けた。
研究室に入ると、リヴィオは机の上に置いた魔術書を横目に、椅子に腰を降ろした。いつもなら、すぐに書を開くのにそうしようとしないリヴィオを、タオが見やった。
「タオさん、ご相談があるんです」
少し口調を改めたリヴィオに、タオは切れ長の目を少し見開き、リヴィオの目の前に足を進めてきた。
「この……魔術書の事なんですが」
リヴィオは片手を書の表紙に重ねる。
一晩考えて出した結論。
それは、直接大公に報告する前に、まずはタオに相談して意見を聞いてみようという事だった。
信仰心に厚く義を重んじ、温厚なタオであれば、この背教の書の扱いについて正しく導いてくれるはず。
大公の信仰心を疑うなど恐れ多い事だが、そのままを報告するにはあまりに罪深い内容である。この書が、処分される事なく、大公家で大事に守られてきたという事実も不安をかきたてた。
「もしや、解読ができたのですか」
「……はい、その……。まだ全部ではありませんが、ロジックは分かりました」
タオは目を輝かせた。
「おめでとうございます。すぐに大公へご報告を」
「いえ、あの、その前に……ご相談したいんです。内容が内容だけに、そのまま大公へご報告して良いものかどうか……」
タオは訝し気に眉を歪めた。
「どういう事でしょう?」
「この書は……アイサル神の教えに反した、背教の書です」
タオは言葉を返さず、ぴくりと目を眇めた。
「このような物は、大公家にあるべきではありません。すぐに処分するべきです。悪魔の書物です」
「そのような事。気にされる事はありません」
タオの返答に、リヴィオは耳を疑った。
「え?」
「リヴィオ様がなしとげられた事は大変な偉業です。大公のお側で、この書の研究を続けられるべきです」
「言ったでしょう?これは悪魔の書物なんです!大量殺戮を唱っているんですよ!?アイサル神の教えに真っ向から反しています!」
リヴィオはタオの反応を理解できないように声を荒げた。
「それは大公がお決めになること。あなたや私が決める事ではない」
「そんな……だって」
「あの方は神の化身。あの方の御言葉が神の御心です。リヴィオ様は何も気に病まれる事などないのです。あの方へ全てを委ねれば」
リヴィオは後ずさりした。
まともじゃない。
タオの揺るぎない信仰心が、「アイサル神の化身たる大公」への狂信であった事が分かり、リヴィオは愕然とした。
アイサル神は輪廻しない。唯一永遠の魂である。
それは教義の大前提であり、神の威光を笠に着る独裁者が現れないよう、という戒めでもあった。神のうまれかわりを称する事は、教義に反する大罪なのだ。
そんな事まで忘れてしまっているのか。
タオの穏やかな微笑みが、突然恐ろしいものに見えた。この人はもう、何を言っても通じない。
「フィアマ」
リヴィオが言葉を紡いだのに気付き、タオが目の色を変えた。
「……何をされるおつもりか」
「この書をあなたに渡すわけにはいかない」
後の事など何も考えていなかった。ただ、タオの主張を呑む事は、神官としての自分も、研究者としての自分も、全て裏切る事だという確信はあった。
「おやめなさい。あなたは、ご自分が何をしようとされているか分かっていない。これは大公への背信です。あなたがその書を手にかけた瞬間、私はあなたを斬らなくてはいけない」
「本望です。この書を世に出すわけにはいかない」
リヴィオの瞳に浮かぶかたくななまでの信念の色を読み取り、タオは居すくんだ。
向こう見ずな正義感。若さ故か。だが、だからこそ恐ろしい。
膠着状態を動かしたのは、ドアをノックする音と耳慣れた声だった。
「おはよう、リヴィオ。あのね……」
リヴィオがドアの方へ顔を向けたのと、ドアが外から開かれたのと、タオが身を翻したのは同時だった。
「ニナ!」
リヴィオが声を上げる。タオの動きは目にも止まらないほど素早く、次の瞬間にはニナの体を後ろから捕らえていた。
事態が飲み込めないニナは、凍り付いたようにただ体を強ばらせて立っている。鎖骨のあたりに添えられた剣の切っ先に気付き、ごくりと息を呑んだ。
「詠唱を。解除して下さい」
あくまでも丁寧に、いつものように、穏やかに。タオが言い放つ。
視線を反らす事も手を動かす事もできない。
「や……めろ……。ニナには、関係ない。その剣を降ろしてくれ」
「私に従って下されば彼女を傷つけなどしません。まずは詠唱を解除して下さい」
抗う事などできるはずがない。リヴィオは目の前で右手をゆらりと振り、火炎魔術の詠唱を解除した。
「本を、そこのテーブルへ置いて。あなたは下がって下さい。そう、壁際まで」
タオの指図に従い、リヴィオは部屋の奥の壁際へと下がる。
ニナに剣を押し当てたまま、タオは慎重に足を進め、テーブルの上の魔術書を手に取った。
「早く、ニナを離してくれ」
リヴィオが懇願するように呻く。だがタオはニナを抱え込んだ手を離さず、そのまま後ずさると、後ろ手で扉を開いた。
「待っ……」
「動かないで下さい」
制止しようと声を上げたリヴィオに、タオの指示が飛ぶ。
「ニナ……!」
「だい、じょうぶ……リヴィオ、大丈夫よ」
ニナは気丈に固い笑顔を作って見せた。何とか自分を見失わないよう気を張っているのだろう。
タオがニナを連れて出て行く。扉が閉まりかけた瞬間、リヴィオは床を蹴って走り出した。
バン!と木製の扉がけたたましい音を立てる。外に飛び出したリヴィオの目に映ったのは、今まさにこちらに向かって振り下ろされる刃だった。
「リヴィオ……ッ!!」
「神よ……!」
祈りの言葉を口走る。
足元に、何かが崩れ落ちた。
「フィアマ・エスト!」
事態を理解する前に、反射的に魔術を放った。
タオの手の中の魔術書から一気に火の手が上がる。
「ああ……っ何を……!貴様……ッ!!!」
狂ったように叫びながら、火を消そうとのたうつタオの姿は、もはや目に入らなかった。
リヴィオはがくりとその場に膝を付く。
「ニナ……」
震える手でニナを抱き起こす。背中に当てた手の平がぬるりと滑った。
それが何かを確認する事はとてもできなかった。
「リヴィオ、早く、逃げて」
「ニナ、嘘だろ……こんな……」
「おね、がい、生きて……」
最後に、リヴィオの生を願って。
リヴィオは、動かなくなった少女の体を初めて抱き締めた。




