(41)真夜中の訪問者
「エイジャ、遅かったじゃないっ!」
宿に帰り着いたエイジャを出迎えたのは、腰に手を当て怒りの表情をあらわにしたベルだった。
「あ……ごめん!夕食、待っててくれたの?」
「夕食はたしかにまだだけど、そんな事はどうだっていいのっ。あのキーラって女と話してたんでしょう!?遅いじゃないっ!」
「ごめん、ちょっと街のほうに行ってたんだよ……屋台街を廻って、それから噴水のところで話して、キーラを屋敷の前まで送って……」
ベルの勢いに気圧されてしどろもどろに説明し始めたエイジャだったが、それがかえってベルの怒りに火をつけてしまったようだった。
「何それ〜〜!!私だってそんなのしたい!エイジャとデートしたい!あの女ばっかりずるい!元カノのくせに!」
「うるさい。公衆の面前でギャンギャン騒ぐな」
背後から現れたルチアに一喝され、ベルが不満そうに口をつぐむ。
「ちゃんと話はできたか?」
「……うん、ありがとう、ルチア」
ルチアはエイジャの表情が先程ロメオの屋敷で別れた時に比べ、随分と柔らかくなっているのに気付いた。
安堵と嫉妬の混じり合った複雑な想いを隠し、ルチアはエイジャに尋ねる。
「なんで俺に礼を言うんだ?」
「だって、ルチアが背中を押してくれなかったら俺、ちゃんとキーラに大事な事を言えずに別れてたと思うから」
(……うまくまとまったって事か……)
ルチアは思わず心の中で肩を落とした。
そうするように勧めたのは自分なのに、往生際の悪さに情けなさを覚えながら。
「キーラ、ちゃんとロメオさんと話してみるって」
フェルダを加えた四人が揃って、宿の食堂でテーブルを囲む。
エイジャの発言に、ルチアとベルはすぐに意味を把握できず、怪訝な表情を見せた。
「……ロメオさんと?話す?なんの話?」
ベルが戸惑いながら聞き返すと、エイジャは少しテーブルの中央に顔を寄せ、声を抑えて説明した。
「ロメオさんが言ってただろ、キーラに嫌われてるって。
そんなはずないと思ったんだ。キーラは、この街に来てからはオーナー……ロメオさんに良くしてもらってるって言ってたし。嫌いな人の事、そういうふうに言う子じゃないから。
たぶん、あの二人、大事な事をちゃんと話し合ってなくて、行き違っちゃってるんじゃないかって」
「まあ、そんな所でしょうね」
フェルダが相づちを打ったのを見て、ルチアはいぶかしげに顔をしかめながらテーブルに肘を付いた。
「それが気になって、もう少し話したいって言ったのか?」
「うん」
「エイジャったら、もう。ほんっと、お人好しよねぇ。元カノの人間関係なんて、ほっておけばいいのに」
ベルが不満そうにこぼし、エイジャが苦笑を返す。
「しかし、お前にしちゃ読みが鋭かったな」
ルチアが言うと、エイジャはぷうと頬を膨らませた。
「なんだよ、それー。失礼だな。俺、けっこう他人の気持ちには敏感なんだよ?」
(……誰が他人の気持ちに敏感だって……?)
ルチアは心の中でつっこむ。ふと横を見ると、白けた目をしたベルと視線がぶつかった。
同じ事を考えているのがお互いに分かり、気まずさに顔を逸らせる。
エイジャがキーラに抱いているのは、単に昔なじみの女に対する淡い情なのだろうか。
元恋人が、雇い主とうまくいっていない事に気付けば、エイジャなら放っておけないのは当然だ。
仮に女のほうがエイジャに未練を残していても、エイジャの方は案外よりを戻すつもりはないのかもしれない。
そう考えると少し気持ちが浮上したルチアだった。
「フェルダ、明日は朝のうちに出発するのか?」
「ん〜……そうねぇ……」
ルチアの問いかけに、フェルダは意味ありげな表情を見せた。
「もう一日、この街にいるわ。アタシは明日出掛ける所があるけど、あなた達は自由行動でいいわよ」
「なんだ、何か調べる事があるのか?」
意外そうにルチアが尋ねると、フェルダは手にしたグラスを口元に運びながら薄らと微笑む。
「ちょっとね」
こういうふうに返してくる時は、問いつめてものらりくらりと答えを交わされるのが常だ。
ルチアは早々に追求を諦めた。
「ねえ、エイジャ、それじゃ、明日は私に付き合ってくれる?市場を見て廻りたいんだけど、女一人だとちょっと心細いから……」
ベルが上目遣いで甘えた表情を作る。
「うん、いいよ。じゃ、朝食を食べた後、出掛ける?」
「うん!」
「ルチアは?一緒に行く?」
話を振ってきたエイジャに、ルチアは目を瞬かせた。
「あー……いや……」
ちらりとベルを見ると、鬼の形相でルチアを睨みつけている。
「……いや、俺は他にやる事があるから。お前達、二人で行ってこい。危ない場所には行くなよ」
「ふうん、分かった」
ベルに気を使う必要もないのだが、三人で出歩いてベルと火花を散らすのも疲れる。
(明日ぐらいはエイジャを独り占めさせてやるか)
キーラの登場に心を乱されているのが分かってしまうだけに、少々気の毒な思いもあった。
片付けておきたい仕事があったのも事実で、明日は一日部屋にこもって書類仕事に没頭する事を決めた。
誰もが寝静まった真夜中。
サラシを取り寝間着に着替えたエイジャは、ベッドに仰向けに横たわったまま、窓から見える月を見るともなしに眺めながら、物思いにふけっていた。
昨夜キーラとの再会によって心が散り散りに乱れていたのが嘘のように、穏やかな気持ちだった。
2年前の突然の別れから、心の奥にずっと刺さっていた小さな棘が、じわりと溶けて消えたような不思議な感覚。
(私あの時、エイジャの事……、
本当に好きになっちゃったの。だから、言えなかったの)
キーラの言葉を思い出す。
好きだったから、本当の事を話せなくて、離れた。
未だ恋を知らないエイジャにとって、キーラのその心情は自分の経験にはなかったものだったが、なんとなく気持ちが分かるような気がした。
だって、本当の事を話して、受け入れてもらえなかったら?
相手に対して想いが深ければ深いほど、その傷は大きくなるのではないだろうか。
そんなの、怖い。
きっと、キーラもそう思ったんだ。
俺がキーラにそう思わせてしまった。
キーラの求める愛情を返してあげられない後ろめたさを抱えていた事に、きっと彼女は気付いていたんだろう。
ふいに、部屋の扉を叩く音が聞こえた気がして、エイジャは体を起こした。
そら耳かと思うほど微かな音。
だが、耳を澄ませて待つと、もう二度同じように鳴らされて、誰かが意思を持って叩いたものと分かった。
エイジャは足音を忍ばせて扉に近付く。
「……だれ?」
声を潜めて訪ねると、扉のむこうから抑えた声が返ってきた。
「ごめん、私……。キーラ……」
申し訳なさそうに俯いたまま、キーラは静かに部屋に足を踏み入れると、表情を見せないままベッドに腰掛けた。
エイジャはその横に座り、顔を覗き込む。
「どうしたの、こんな時間に……危ないじゃないか、一人で出歩いたりして」
キーラはますます顔を下に向けた。
「ごめんなさい」
軽卒な行動を嗜めたものの、こんな夜中に自分を訪ねてきたキーラに、よっぽどの事があったのだろうというのは容易に察しがついた。
「……ロメオさんと、何かあった?」
エイジャが尋ねると、キーラはさっと顔を上げた。
頬に幾筋も残る涙の跡を見て、エイジャは眉をひそめる。
「キーラ……泣いたの?」
「う……」
キーラがぽろぽろと涙の粒を落とす。
エイジャは思わず肩に手を伸ばそうとしたが、キーラの体はその手をすり抜けた。
ふいに目の前が暗くなり、バランスを崩してベッドに仰向けに倒れこむ。
いや、エイジャが倒れ込んだのではなかった。押し倒したのはキーラだった。
唇に押し当てられた柔らかな感触。
鼻と鼻の先が触れ合う距離まで彼女の顔が離れ、初めてそれがキーラの唇だと分かった。
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