(40)俺が約束を破った事がある?
ルチア達はすでに屋敷を後にしたらしい。
誰もいない夕暮れの庭を足早に駆け抜け、屋敷の鉄の門扉を出てからも、キーラはエイジャの腕を掴んだまま、黙って街を歩き続ける。
何か声を掛けなければと思いながら、エイジャは何も言えずに、ただキーラの後ろ姿を見つめながら、手を引かれるまま後に続いた。
街の表通りでは、夕食を求める人々が屋台の前に列を作り始めていた。
香辛料の香りと砂埃の匂いが混じり合い、鼻をツンと刺す。
肌の色も顔立ちも違う、様々な人種の人間でごった返す雑踏。耳慣れないイントネーションの言葉が飛び交う、夕暮れの屋台街。
その人混みの中を、腕を引いてぐんぐんと歩いていくキーラ。
見覚えのある光景が、懐かしくせつない記憶を呼び覚まし、エイジャの胸をぎゅっと締め付ける。
「キーラ」
声を掛けると、キーラはようやく足を止めて振り返った。
「懐かしいね。昔、よくこうやって市場歩いたよね」
先程見せた表情など、まるでなかったかのように、にっこりと笑う。
「……そうだね。ここは、王都に似てる」
エイジャが話を合わせると、キーラは強く握り締めていた手の力を緩めた。
拘束を解かれた腕をキーラの背中に回し、エイジャはキーラを周囲の人間から庇うようにして歩き始める。
「キーラはここで2年も、がんばって働いてきたんだね」
エイジャは独り言のようにつぶやいた。
一軒の屋台を見つけ、エイジャが足を止めた。
「キーラが好きなやつだ」
鶏肉と野菜を交互に串に刺して直火で色よく焼いた料理は、王都でも屋台街で人気のあるものだった。少し酸味のあるソースが特徴で、王都から遠く離れた西の街の名物なのだと、後に耳にした。
もしかしたら、キーラの故郷の味なのかもしれない。
エイジャは屋台の主人に声を掛けて銅貨を支払い、串焼きを二本受け取って一本をキーラに渡す。
「……覚えててくれたんだ」
キーラが言うと、エイジャは笑みを返した。
「あたりまえでしょう。何本、一緒に食べたと思ってんの?」
エイジャの答えに、キーラは声を立てて笑った。
当時、屋台の主人にまでよく飽きないなと言われるほど、頻繁に食べていたのだ。
二人は屋台街を少し外れた広場まで足を伸ばすと、もう水の出ていない古い噴水の縁に腰掛けて串焼きを頬張った。
慌ただしい人の流れを眺めながら、これといった会話もなく、ぼんやりと佇む。
まるで2年前にタイムスリップしたかのような、緩やかな時間。
「ロメオさんとケンカしたの?」
エイジャが切り出すと、キーラの表情が曇った。
エイジャの方に顔を向けず、人混みに視線を留めたまま、キーラは口を開く。
「いつものこと。ロメオったら、うるさいの。あーだこーだ、保護者にでもなったつもりなのかしら。放っておいてくれればいいのに」
こちらを見ないキーラの横顔を、エイジャは黙って見つめる。
「俺ね」
再びエイジャが口を開いた。
「ずっとキーラがどうしてるか、心配だった。
昨日キーラに会って、元気そうなのを見て、安心もしたけど、実はちょっと悔しかったんだ。
俺がいなくても全然元気そうじゃないかって、あんなに心配したのに、キーラにとっては何でもなかったのかって」
「そんな……違うよ、エイジャ」
慌てて反論したキーラに、エイジャは軽く首を振り、ばつが悪そうな苦笑を返した。
「分かってる。キーラはこの2年間、この街で一生懸命生きてきたんでしょう?
俺の中で、キーラは2年前に別れたキーラのままで止まってたんだ。でも、そんなわけないよね。キーラはキーラで頑張って生きてて……。
それを支えてくれてたのが、ロメオさんなんだね」
キーラは黙り込んだ。
「……あんまり、家に帰ってないんだって?」
そう尋ねたエイジャに、キーラは顔をしかめた。
「ロメオが言ったの?」
エイジャが頷いて見せると、キーラは唇を噛んだ。
「あんな……ナンパ男。人攫いから女性を守るためだとか言って、女と見れば片っ端から声を掛けて家に連れてきて。屋敷を女ウケしそうな風にゴテゴテ飾り立てて。
夜になると、毎晩かわるがわる、誰かを部屋に呼びつけて。最低よ。
大嫌い、ロメオもあの家も」
エイジャはキーラの発言に言葉を失った。
まさか、あのメイド達が皆ロメオの愛人だというのだろうか。
ロメオの語った話からは、安全を提供するかわりに身体を要求しているなどとは思えなかったが……。
「キーラ、それ本当なの?その、夜になると部屋に呼びつけてるって……。
話をしているだけじゃない?ロメオさん、軽そうに見えるけど、そんな事をするような人には見えないんだけどな」
「それなら、何を話したのか教えてくれたっていいじゃない!
何をしてたのか、何を話したのか、誰に聞いても皆絶対に言わないのよ!?」
キーラが声を荒げる。
エイジャは少し考えた後、キーラの顔を覗き込むようにして問いかけた。
「ねえ、キーラ。それ、ロメオさんにも聞いてみた?」
キーラは勢いに水を掛けられたように口ごもった。
「……ロメオには聞いてない」
その返事を聞き、エイジャは少し表情を緩める。
「やっぱり。
ちゃんとロメオさんに聞いてみなよ。ロメオさん、キーラがその事をそんなに気にしてるって、分かってないと思う。
ロメオさんはキーラの事、大切に想ってるよ。そのキーラが嫌がる事、するはずない」
「なんでエイジャにそんな事が分かるの?」
ふてくされたように言い返してくる。エイジャは少し瞳を伏せた後、顔を上げて視線を人混みに移した。
「キーラの側にいた男同士だから……かな?」
独り言のように告げられた言葉を耳にして、キーラは少し身を堅くした。
「……エイジャも私の事、大切に想ってくれてた?」
キーラが不安そうに尋ねる。
「大切に想ってたよ。
今も、キーラには幸せになってほしい」
昔と同じ、穏やかな甘い声。
キーラはさっと頬を赤らめると、俯いた。
「……ロメオに、ちゃんと聞いてみる」
いつのまにかすっかり日は落ち、街灯の明かりがキーラの横顔を照らし出す。
「明日は早くに発つの?」
キーラがぽつりとつぶやいた。
「うん……たぶん。先を急いでるし、この街には探してた魔道具職人の人はもういないみたいだから」
「そっか……。せっかく会えたのにな」
キーラは寂しそうに瞳を伏せる。
「キーラ、俺、帰ってくる時にまた必ずこの街に寄るよ。だから、またすぐに会えるよ」
「ほんと?絶対よ」
「うん、約束」
「じゃあ……、これ、持って行って」
キーラは着ていたブラウスの襟元に手を入れた。
チャリンと軽い音を立てて引っ張り出されたものを見て、エイジャが目を細める。
「……それ……持っててくれたんだ」
「うん」
それは、エイジャがキーラに送った碧玉のペンダントだった。
「これね、私ずうっと肌身離さず、身につけてたの。私にとって、これはお守りだったんだ。
王都を出てからここに辿り着くまでも、このペンダントが守ってくれてるのを感じたの。エイジャが、守ってくれてるって思った。
無事に出国して、この街に来てからも、すごく運に恵まれてきたわ。きっと、なにか特別な力があるって信じてるの。
だから無事にお仕事を終えて帰ってこれるように、持っていって?それで、帰ってきた時に、返してもらうの」
キーラの提案に、エイジャは顔を綻ばせる。
「ありがとう。すごく嬉しいけど、気持ちだけで十分だよ。それは、キーラにあげたものだもの。キーラに持っててほしい。
これまでキーラを守ってくれてたんだったら、これからもキーラを守ってくれるよ。それを俺が持って行っちゃったら、その間にキーラに何かあったらどうしようかって心配になっちゃうし」
「でも、エイジャの方が危険な目にあうでしょう?シアルに行くだなんて、何があるか分からないじゃない」
「大丈夫だよ。俺が約束を破った事がある?」
そう言われて、キーラは口をつぐんだ。
「……ないわ」
「でしょう?だから心配しないで」
立ち上がったエイジャの腕を、キーラが強く掴む。
「絶対絶対、無事に帰ってきてね、エイジャ。それで帰ってきたら、一番に会いに来て」
それは2年前、仕事に出掛けて行くエイジャに、キーラがいつも言っていた言葉。
「うん、分かった」
エイジャが微笑んで頷くと、キーラも精一杯の笑顔を見せた。




