第9話 Side:13A.R.K. 積み木街のコーデリア
―早朝。
積み木街の一角に、彼女は居た。
兄を、その仲間を戦いへと送り出した朝は、いつも心が重い。
それを否定するように強く握ったホウキの柄が乾いた音を鳴らす。
そんな、普通で普通である筈の無い朝―
彼女は、一人の男と出会う。
「……これでよし、と」
第13A.R.K.――
民間人や、ヤドリギたちが暮らす積み木街の一角。
質素な服の袖を捲り、額に僅かな汗を浮かべホウキを片手にした三つ編みの少女――コーデリアは、早朝にも関わらず清掃活動に勤しんでいた。
「燃える物は、こっち。 燃えない物は、こっち……」
手にした手作りのホウキで掃き集め、また腰袋に拾い詰めたゴミを集積場所へと丁寧に仕分けしていく。積み木街で集められたゴミは、可燃の物は火力
発電の資材に。不燃物も、例えば鉄くずは溶かされ純度に応じて用途別に再利用されていた。
こうした清掃活動で集めたられたゴミもまた数少ない資源の一つ。
それらの奉仕活動を行う者には、僅かながらA.R.K.から賃金が支払われる。
身内――兄であるギルバートがヤドリギとして働き得る報酬は、一般的な就業で得れるものより格段に多い。
いわゆる被扶養者である彼女は、この様な仕事をしなくとも十二分に生活していけるだけの余裕はあるが……兄が任務で居ない時は、必ずこうした奉仕活動に汗を流す事にしていた。
親を亡くし、世話になっていた叔父を亡くし。
この歳まで自分を養ってくれた兄に対する感謝の念は、その細い両腕で抱えきれない程大きなものだ。
だが同時に、ヤドリギとして戦う兄を想う気持ちは、同等――いや、それ以上に大きい。
「あ……名前、書いておかないとね」
コーデリアは疲れからか、または兄を思ってか、ぼうっとしていた自分を目覚ますように首を何度か横に振ると、ゴミ捨て場の脇、雨よけのトタン屋根に掛けられた13A.R.K.と印字されたくたびれたノートを手に取り、丁寧に筆をはしらせる。
このノートには清掃した範囲や詳細、集めたゴミの大まかな種類や量を記載する決まりになっていた。
これを回収に訪れたA.R.K.の職員が目を通し、一定額の賃金の支払いが行われる。また、誰がどこを清掃したのか、後から同じく清掃に訪れた者がどこを受け持つかの目安としても使われていた。
コーデリアは書き終えると、何気なくぱらぱらと前のページを眺めていたが、ある者の名前を見つけると、その手を止める。
――ひがしく・こじいんまわり ゴミのりょう、ばけつ2はい。 ベル・ノマ
拙い文字だが大きくはっきりと書かれたその一行に、笑みが漏れる。
「ベル、ノマ……これって、あの夜うちに来たあの兄妹かな……? ふふ」
ギルと詩絵莉はアダプター2に出向していたため、斑鳩、ローレッタ、そしてアールのみの出席となった、あのささやかな祝勝会。
おそらく、書かれている名前は彼らが連れてきたあの兄妹の事だろう。お調子者で、ちょっと粗雑。でも妹想いのベル。その妹ノマも、兄を慕う様子がとても可愛らしかった。
兄妹の嬉しそうな笑顔を思い出していたコーデリアだったが、テーブルを挟んだその対面――
用意した料理を前に、突然抜け出て行ったアールの辛そうな顔が、その脳裏に過る。
「……アールさん、大丈夫……かな」
彼女――
アールとは、もう随分前に感じるけれど……以前は一つ屋根の下で寝床を共にし、色んな話もした。
と言っても、もっぱら彼女は興味深そうに自分の話を静かに聞いてるばかり、だったけれど。
綺麗な紅い瞳を目いっぱい開き、自分が趣味で描いた風景画をベッドの上で手に取り、穴が開くほど見つめて、褒めてくれた。
自分もいつか、コーデリアの様に絵を描いてみたい。そう言って、ランプに照らされ温かく染まった綺麗な髪をふわりと揺らし、僅かにだけど、優しく笑った彼女の顔……。
けれど昨晩、宴の席。
彼女が焼き立てのパイを口にした時、見せたあの表情は……
兄と、部隊の仲間とで初めて特製パイを食べた時に見せてくれた、驚きと喜びに満ちた顔からかけ離れていた。程なくして彼女はコンテナを飛び出して行って……その後遅れてやってきた斑鳩さんは、心配ない、と言っていたけれど。
皆と話す彼の表情は、普段のそれでは無かった様に思う。
「……そうだ、お洗濯もの、取りに行かなくちゃ」
――もやもやする。
こういう時に、兄に聞いたらどう答えるだろう?
きっと、「難しい事ばっか考えてると、イカルガみたいになっちまうぞ」と、笑って私の頭をくしゃくしゃとかき撫でるのだ。
そこで私は、抵抗しながら、こう言う。
「私だって、いつまでも子供じゃないんだから」
コーデリアは少し寂しそうに呟くと、その足を洗濯屋へと向けた。
こうやって身体を動かせば、兄たちの無事を祈る時間が短くなる。気が紛れる。この清掃活動も、孤児院の子供たちの世話も、家事も、料理も。
……本当は全て気を紛らわす、その為にしているだけにすぎないのかもしれない。
兄が命を張る背中を、ただ見ている事しか出来ない歯痒さは……きっと兄には伝わらない。
でも、それでもいい。……だって、私は今の兄が好きだから。
お金のためだけに命を削るよう任務に赴き、殺伐としていた兄を溶かしてくれた、斑鳩さんが。
躊躇なく兄に「バカね」と言える詩絵莉さんが。
言われて反論しようとする兄の脇腹をにやにやしながらつつくローレッタさんが。
そしてたった一日だけど、一緒に寝泊まりして、夜通し話をしたアールさんの事は、おこがましいかもしれないけれど、今はもう、他の皆と一緒……そう、慣れ親しんだ家族の様にすら感じる。
……今朝、新しい任務へと出立して行った兄は、多くを話してくれなかった。
あの祝いの料理を振る舞った夜、斑鳩さんも、ローレッタさんも。
――だけど、分かるよ。
コーデリアは俯き足早に駆けながら、歩き慣れた積み木街の路地を抜けて行く。
……きっと兄たちは、前よりも危険な場所に身を置く事になるのだろう。
出向先でも、ギリギリの戦いだったと伝え聞いた。それがきっと、兄たちの日常になろうとしているのかもしれない。
笑顔で料理を作って、無事を出迎えるのも……いつも通り朝、兄を起こし、見送るのも……
あの夜が、この朝が。最後になる日が……あるいはそこまで……
――どんっ……
「――っとと」
「あッ……」
俯き早足で曲がったコンテナの角。
コーデリアは何か――いや、誰かとぶつかった衝撃に思わず目を閉じ、大きくよろけてしまった。だが、その彼女の肩をすぐさま捕まえる様に伸びた男性の大きな手に支えられ、何とか転倒は免れる。
「いやあ、これは申し訳ない。 お嬢さん、大丈夫だったかな?」
抱え支えられたまま、コーデリアは声の主を見上げる。
年の頃、40歳手前といったところだろうか?ややクセのある金色に近い茶髪をきっちり7:3に分けた男性が、にっこりと微笑んでいた。
細身ながら高い身長の身体を包むのは、A.R.K.の職員の制服……だろうか?
積み木街で見る職員たちとは明らかに違う。その男が纏っていたのは、高級そうな造りをした観た事の無い制服……。
「あ、す、すみませんっ……」
思わず委縮してしまい、頭を下げるコーデリアに、男は驚いた様に目を見開く。
「いやいや、こちらこそ申し訳なかったね。 それにしても、ぶつかったのは自分でもあるんだけど、真っ先に頭を下げるなんて。 内地よりも最前線のA.R.K.の方が人当たりがいいって言うのも、不思議だねえ」
「……?」
コーデリアは垂れていた頭をおずおずと上げると、ひとり言を呟く男性を見上げる。
そのなんとも言えない視線に気付いてか、彼はバツが悪そうに頭をぽりぽり、と掻いてみせた。
「――ああ、これは失敬。 自分はキース。 最近13A.R.K.に赴任してきたもので、開いた時間で居住区を見ておこうと……フラフラとここにね。 ええと……?」
キースと名乗った男はそう言うと、す、と右手を差し出した。
コーデリアは一瞬、あっけに取られた表情で差し出された手を見つめていたが、握手と名を求めたものだと気付くと、反応が遅れた事に恥ずかしそうに頬を赤く染め、慌てて手袋を慌てて外しその手を遠慮がちに握る。
「コ……コーデリア。 コーデリア・ガターリッジ……です」
「……ガターリッジ」
彼女の華奢な手を優しく握り返したキースの眉が、ぴくり、と跳ねる。
「……そうか。 君がギルバートくんの妹さんかな」
「! おに……、いえ、兄を……知っているんですか?」
思いもせずギルバート……兄の名が出た事に、コーデリアは目丸くして驚いた。
最前線の基地だけあってこの拠点には当然、それなりの数のヤドリギが在籍している。その数居るヤドリギの中、ガターリッジという苗字だけで兄妹と結び付けた人は、彼女にとって初めてだった。
「うーん、そうだね。 彼とは昨日顔を合わせたばかりだけど……もちろん、知っているよ。 ある意味彼らは今話題の部隊だからねえ。 それに自分は、一応彼らの上司……に当たる立場なんだ、これがね」
言いながら柔らかく苦笑するキースを、コーデリアはまじまじと見つめた。
――お兄ちゃんの上司……斑鳩さんも含めてだよね……? ひょっとして、偉い人なのかな。
そう考えれば、積み木街で今まで観たことの無いその制服にも頷ける。
兄たちに命令を出すような、そんな立場の人……なのだろうか。
――でも、こんなユルい雰囲気の人が……お兄ちゃんの、ううん斑鳩さんたちの……上司?
軍部の偉い人、と言えばもっと厳格な人を想像していたコーデリアだったが、目の前に居るどこか間の抜けたようなキースに首を傾げる。
「あ……兄の、そ、その上司さんがこんな朝早く、どうして積み木街に……?」
彼女が向ける怪訝そうな視線に再び困ったように、頬をぽりぽり、と右手で掻くと、一つ頷いて辺りを見渡す。
「自分は元・第11A.R.K.で住民たちからの苦情を処理する課に居てね。 今回、別命でこの13A.R.K.に赴任したんだけど……どうにも、職業柄だねえ。 ここで暮らす人たちを、一応この目で直接、視ておきたくてね」
「苦情を処理……そんなお仕事が、他のA.R.K.ではあるんですか?」
「そう。 13A.R.K.には無いでしょ? それだけ、この箱舟では職員さんと住民さんの関係がいいんだろうねえ。 いい事だよ、もしここに苦情受付課があれば、自分は随分サボれただろうけど」
残念だ、と言わんばかりに笑うキースにコーデリアは「は、はぁ」と力無い返事を返す。
「……しかし、酷く疲れた顔をしているね。 大丈夫?」
「えっ……」
唐突にコーデリアの顔を覗き込んだキースの言葉に、彼女は思わず一歩後ずさる。
「ああ、申し訳ない、他意は無いんだ。 元の職業柄っていうか……駄目だなぁ、初対面の女性が相手だと言うのに、つい……」
言いながら、キースは眉間に寄せたシワを右手で押さえる。
コーデリアはその様子をぼんやりと見つめながら、彼の台詞……自分に向けられた"疲れた顔をしている"という言葉が、頭の中をぐるぐると巡っていた。
――そ、そんな酷い顔してるのかな、私……。
思わず手鏡を取り出して確認したくなったコーデリアだったが、ぐ、とその気持ちを抑えると、今一度丁寧にキースに頭をぺこり、と下げる。
「だ、大丈夫です。 その……ぶつかってしまって、ごめんなさい。 私、まだお仕事があるのでこれで……」
「忙しいところ、邪魔しちゃって申し訳なかったね。 うん、気を付けて」
キースは苦笑を浮かべると、ス、と彼女の正面から身体をずらす。
コーデリアは再び足早にその彼の横を通り過ぎたが、数歩進むと、その足を止めた。
――お兄ちゃんの上司。 だったら、色々お話が聞けるかもしれない……?
「あ、あの!」
一瞬躊躇したが、辺りを見上げながら立ち去ろうとする彼の背中に声を掛けると、キースは「ん?」と相変わらず緊張感の無い表情で振り返った。
「ちょ、ちょっとだけ、聞きたい事があるんですが……っ」
◆
◆◇◆
◆◇◆◇
「……いやあ、この積み木街の朝は、内地にはない雰囲気があるように感じるねえ」
まだ早朝という事もあり、人気のない広場の片隅に設けられたベンチに腰を下ろしたキースは、隣でだまりこくるコーデリアを気遣うようにひとり言を宙へと浮かべるように、朝靄が晴れ往く空を見上げた。
「す……すみません、その……呼び止めて、しまったのに! その……」
ぷしゅう、と頭から煙でも上がりそうな彼女に、キースは優しい眼差しを向ける。
彼は目を細めると、朝靄が流れる空をもう一度見上げて、ゆっくりと口を開いた。
「……自分の大事な人も、遠くに出掛けてしまってね。 ……引き止めはしたんだけど」
その言葉に、コーデリアは俯いていた顔をキースの横顔へと向ける。
「でもまあ、結局行ってしまったんだけどねえ……後釜を、自分に押し付けて。 酷い話でしょ?」
「……そ、そうなんですか……」
大事な人が遠くへ。
彼の台詞に、コーデリアは心の中に兄と、その大事な仲間たちの顔を浮かべる。
「……引き留めたとき、彼女は言ったんだ。 これは、私にか出来ない事だから、って。 そして仕事の後釜にと自分を指名して、貴方以外には任せられない仕事だから、ってね。 …卑怯だよねえ、そんな頼み方」
言うと、キースは少し寂しそうに苦笑を浮かべながら、ふうっと、肩を大げさに竦めてみせる。
「正直、最初は断ろうと思ってたんだけど。 そもそも、本来自分は誰かの上に立つような人間じゃあないからねえ、見て貰えばわかると思うけど」
「い、いえ、そんな……」
空を見上げながら謙遜するキースの瞳に、先ほどまでと全く違う色が浮かんでいる事に、コーデリアは驚いていた。
ぶつかり出会い、言葉を交わした時はなんとも柔らかい印象だったが、今、空を映す彼の瞳から感じる"何か"を、コーデリアは兄の瞳にも観たことがある。
「それでも彼女は自分にここでの仕事を託して、この13A.R.K.と……君の、お兄さん」
「あ、兄ですか?」
「そう。 君のお兄さんと、その仲間の子らの為に、ここを後にしたんだ。 彼女は必ず戻る、と言っていたけれど、どうかな……。 正直、確証があっての事じゃないと思う。 それでも彼女は行ってしまった。 ……何故だか分かるかい?」
未だ遠く見上げるキースを横目に、コーデリアは普段の暮らしの中、ふと気が付くと同じようにぼんやりと空を見つめている自分を思い出していた。その空に観ていたのは、兄たちを憂う気持ち……いや。兄たちを待つ自分を憂う気持ち――なのかもしれない。
「……よく、わかりません」
「だねえ」
コーデリアが返した言葉に、キースは嬉しそうに応えると、ようやくその視線を彼女へと向けた。
「自分もわからないんだ。 だからそれを知るためにもと思って、彼女の後釜に就く事を承諾した。 彼女がここで何を見て、何を想い、発つ決意を固めたのか……ね」
「キースさん……」
「互いに、待つだけの身は辛いねえ、コーデリアさん」
どこかひょうひょうとした態度に戻り、肩を竦めるキースの瞳は、柔らかいものに戻っていた。
この人はどこまで本気なのか、とコーデリアは思わず苦笑する。
「……私は、ただ……お兄ちゃんたちが無事でいて欲しいだけなんです。 他の事は、よくわかりません……。 本当はただ、一緒に、美味しいものを食べて……笑っていたい」
俯きぽつり、ぽつりと語るコーデリアの言葉に、キースは真剣な眼差しで耳を傾ける。
「だけど最近のお兄ちゃんを見ていて思うんです。 きっと……お兄ちゃんたちもそうなんだろうって」
コーデリアの脳裏に、ひと時の"日常"――
皆が集まり、自分が振舞う料理を美味しそうに食べながら、談笑に華を咲かせる光景が鮮明に浮かぶ。
あの場で、兄やその仲間が浮かべる笑顔は、本当に……愛おしい。
あのひと時が永遠に続けばいいのに、とコーデリアはいつも想う。
盛られた料理の皿が、飲み物が注がれたカップが空く頃、いつも本当は、涙が溢れそうになる。
だけどあの"日常"は、命を賭した兄たちが戦い得たもの。きっとその手で護った、大切な時間……。
――そう……。私を、含めて。
「お兄ちゃんたちのおかげで、ここでの暮らしがある。 分かってるつもりなんですが……でも、やっぱり……って、あはは、何言ってるんだろう私!」
自虐するようにふと自らが浮かべた笑みに、コーデリアはハッとすると、思わず自らの両頬を両手で挟み込んだ。
「こんな愚痴みたいなの、言った事無いのに……ど、どうしてだろ、やだな」
思えばこんなにも自らの想いを誰かに対し口にしたのは初めてだ。
ゆっくりと溢れ出る感情と言葉に、コーデリアはキースを置き去りに一人で語ってしまったと恥ずかしさと、申し訳なさの両方で再び顔を赤らめる。
「美味しいものを一緒に食べるため……か」
だが当のキースはそれを気にする様子もなく、コーデリアをじっと見つめたまま、彼女の発した言葉をうわごとの様に繰り返していた。
「……うん、コーデリアさん。 ……案外そんな些細な事が……全ての理由なのかもしれない。 ……うん。 そうか、美味しいものを、一緒に……そう、か……」
「キースさん……?」
キースはコーデリアから視線をゆっくりと外すと、再び空を仰ぐ。
「……いや、そうだね。 うん、コーデリアさん、君と話せて良かった。 ありがとう」
ゆっくりと頷きながら、先ほどとは違いどこか遠くを見据えるような、キースの瞳。
コーデリアはその横顔を再び見上げながら、こくり、と喉を鳴らす。
――やっぱり……お兄ちゃんや、皆が時々見せる眼と一緒……
彼らの瞳に込められているものは、なんなんだろう?
きっと……今の私には無いものを、この人たちは抱えているに違いない。誰かを想う気持ちは、私だって同じだけど……きっとそれとも違う……"何か"を。
キースの瞳に観る感情も、「ありがとう」の意味も計りかねる様に、コーデリアは自らの瞳を伏せると、きゅ、と唇を噛む。
――やっぱり、子供なのかな。 ……私。
「っと、もうこんな時間か。 そろそろ戻らないと局長にどやされてしまうなあ……」
広場に掲げられた古びた時計の針が示す時間に驚くと、キースはゆっくりと立ち上がる。
そして一歩前へと足を踏み出すと、コーデリアに背を向けたまま小さく頷いた。
「彼女が自分へ託したものと同じ様に、君にもきっとお兄さんたちが、君だけに観る"何か"は必ずあるはずだよ。 それを互いに、大事にしながら過ごしたいものだねえ」
――お兄ちゃんたちが、私に望むこと……
いつも通り元気で居て、美味しいご飯を作って「おかえり」と出迎えてあげる事……。
きっとそれが兄たちの望みで――そして、私の望みでもある。
そう、兄たちが、無事に帰ってくる事こそが、私の……望み。
――だけど本当は……。
「……私は、わがままな子供でしょうか」
「わがままを言う権利は大人にだってあるよ? でも、それには責任が伴う。 責任と……覚悟がね。 それを背負えるかどうか……コーデリアさん、もしその時が来たときは、考えればいいさ」
「責任と、覚悟……」
自信無さげに俯いていたコーデリアは、その顔を上げる。
変わらずキースは背中を向けたまま、時計を見上げていた。
「責任と覚悟から逃げたツケは、必ず来る。 そうなったときに後悔しても遅いんだ……自分のようにね。 ……だからこそ、今は自分に出来る事をやるしかない」
背を向けたまま、淡々と話すキースの背中が、何故だか少し小さくなったようにコーデリアは感じていた。どこかもの悲しいような、後悔の念が滲む様な……。
「……と、思わないかい? まあ、言葉で簡単に言い表せるほど、物事は簡単に行かないんだけどね! 後悔先に立たず、と昔の人は言ったらしいけど……」
「そうですね、キース司令代行……後悔先に立たず。 ええ、私も大好きな言葉です」
一瞬見せた後悔の念はすっかり嘘の様に消え失せ、にっこりと微笑みひょうひょうとした口調に戻っていた彼だったが、その微笑みは突如通路より現れた女性の怒りを孕んだ声に凍り付く。
「ヴィ…ヴィッダ補佐官…」
「探しましたよ? ええ、探しましたとも。 もうとっくに兵站部との朝礼は始まっています。 これ以上後悔が大きくならないうちに、さあ、こちらへ」
キースは何事かと困り顔のコーデリアに対し、親指を立てたまま、ふ、と笑みを浮かべる。
そしてすぐに踵を返すと、「うん、僕も今の本業に戻るよ、また!」と口早に言い残すと、引きつった笑みを浮かべたままヴィッダから逃げる様に走り去って行く。
「あっ、ま、待ちなさいキース司令代行…ッ」
その彼を慌ただしく追い駆けてゆく女性の背中を、コーデリアは訳も判らず右手を小さく振りながら見送っていた。
そして程なくして訪れる静寂に、コーデリアは小さくため息をつく。
「……私に出来る事を、やるしか……ない、か」
そう呟き見上げた空には、先ほどまで立ち込めていた朝靄は晴れ、いつもと変わらぬどんよりとした雲が、いくつも浮かんでいた。
「……うん。 そう、だね……」
……兄や、斑鳩たちが望むものは何だろう。
コーデリアは視界に写る強い風に流される灰色の雲を、ぼんやりと目で追う。
――あの束の間の"日常"が、兄たちが求めるものだとしたら。
――だったら。 ……私はその"日常"でいたい。 お兄ちゃんたちが護る、"日常"に。
コーデリアは大きく頷くと、ベンチから立ち上がり駆け出した。
前へ前へと足を運びながら、今日の予定をいつもの日常通り頭の中で組み立てていく。
受け取った洗濯物を綺麗に畳んで……孤児院で万能ナッツのパンを焼いて。そうだ、ベルくんとノマちゃんにも会いに行こう。新しい料理にも挑戦しよう。万能ナッツの新しい苗木も買わなくちゃ。
――だってそれが、きっと……お兄ちゃんたちが護る"日常"に、全部繋がっていくはずだから。
駆け出したコーデリアの足は、軽い。
徐々に増え始めた通路に現れる積み木街の住人たちに挨拶をしながら、彼女は大きく頷くのだった。
……――第9話 積み木街のコーデリア ―終―




