王家の残照
「デイヴィス夫人、レティシア嬢。退いていただきたい」
「いいえ」と母は伏せていた顔を上げた。「息子たちは引き渡しません」
石造の塔にある8月だというのに涼しかった。外気の影響を強く影響を受けやすい建物なのに。
母は汗を流しながら庇うように両腕を広げ、戸の前に立っていた。母の背に守られながら私はカミーユとルーカスを掻き抱いていた。アブラーモも私の側から離れず母の肩越しに兵を見ている。無力感のある眼差しだ。
私はこっそりと「アブラーモ、諦めないで。お母様は強いのよ」と囁いた。
アブラーモは祈るように目を瞑り、何かを呟いたがよく聞き取れなかった。「王族たるもの明瞭にものごとを言うように」と言われながら育ったのに。特にお父様の第一王子だったアブラーモは私以上に厳しく育てられただろうに、どうして曖昧な発音をするのかしら?
「そうですね、姉上」
アブラーモは優しい笑顔を浮かべた。カミーユとルーカスの頭を撫でた。私も2人の頭にキスを落とした。ふと目を上げるとアブラーモは歯を食いしばっていた。私が口を開きかけた時、お母様が突き飛ばされた。咄嗟に飛び出したアブラーモはお母様の肩を支えた。2人とも少しよろめいている。カミーユは私の腕から抜け出そうと身を捩った。私はより強く抱きしめた。離してしまえばお父様のように会えなくなるような予感がしたのだ。母を突き飛ばした兵を押し退けるように少佐が中に入ってきた。
「国民の権力を奪い、独占した国王の息子はすべてこちらで養育する。故に王子たちを引き渡せ」と少佐の無情な声が響く。
「いやです!」とお母様は悲鳴を上げた。
少佐は小さく顎を動かした。すると兵が数人、無遠慮に入ってきた。カミーユとルーカスを抱き締める私の腕を数人の兵が掴む。私は必死に腕に力を入れた。お母様が駆け寄ろうとしたが、1人の兵がお母様の顔を殴った。お母様は倒れ込んだ。唖然としたアブラーモはお母様の顔を軽く叩いている。お母様は意識をなくしたようだ。目を見開く私の腕がボキッと開かれ、幼いルーカスが腕から消えた。悲鳴を上げる私を嘲笑うようにカミーユも奪われた。
「やめろ!」とアブラーモの力強い声が部屋に響いた。「母上と姉上には危害を加えないでいただきたい」
襟首を掴まれたルーカスが泣いている。助けようと伸ばした私の左腕はダランと下がってしまった。顔を顰めた。折れたのかもしれない。アブラーモは少し青ざめた表情だ。微かに震えている。だがアブラーモはお父様のように力強く立っている。
「そして4歳のルーカスはこれから如何ようにも其方らが望むように育つことも可能だ。生かしさえすれば後世の其方らの子孫が民衆と家臣らを操るため、ルーカスの身に流れる王家の血を使うこともできる」
「血」という単語に冷たいものが背筋を走った。
少佐は軽く鼻で笑い、兵たちに非情な指示を出した。カミーユとルーカスは部屋から出された。少佐は仁王立ちするアブラーモの前に立った。
「王家の血。それはレティシア嬢も持っているであろう」と下卑た視線を私に向けた。
アブラーモは小さく身を動かした。少佐の視線が遮断された。
少佐は「ではアブラーモ元・皇太子。我々に同行願いたい」と侮蔑するようにお辞儀をした。
「では姉と少し話をさせていただけますか?」とアブラーモは穏やかに丁寧に言った。
少佐の許諾が得られたらしくアブラーモは振り返り、身を屈めた。そして痛む私の腕を取った。
「これは……関節が外れているのでしょうか?」と小さく顔を顰めた。
「アブラーモ」と弟の名を呼ぶ私の声は情けなかった。「危険なことはやめて。あなたはお父様の息子なのよ、身を落とす必要などないわ……」
アブラーモは安心させるように笑い、私の目尻を優しく拭った。
「姉上……、なぜ涙を流しているのですか? まるで僕が死ぬみたいではありませんか。父上だってまだ生きているのだから、大丈夫ですよ」
涙を抑えようと上を向こうとしたが、アブラーモから顔を離したくなかった。一雫、頬から落ちた。
私たち兄弟は「感情を表に出しすぎないように」と乳母に言われて育った。だから、泣きそうなアブラーモの顔など初めて見る。きっとアブラーモも、私の涙など初めて見るだろう。私たちは第一王女、第一王子だったのだから。
幼かったバベットが突然亡くなった時も、フローレンスが寒さに震えながら冷たい石の部屋で命を落とした時も……私たちはお互いの前で涙を流さぬよう務めた。
涙を堪えるため無理やり唇の端を上げた。アブラーモの琥珀色の瞳を見るに、きっと彼も妹たちのことを思い返していたのだろう。
「姉上」と無理やり明るい声を出したアブラーモ。微かに空気が震えている。「母上をお願いします。彼女はあまりにも王族らしくも貴族らしくもなく感情が豊かな人でしょう? だから、母上の心を守ってあげてください」
きっと私も声を出せば、無様にも震えた声を出してしまうのだろう。私は何も言わず頷いた。アブラーモはゆっくりと立ち上がった。
「母上に愛していると伝えてください」とアブラーモは笑った。それからふ、と目線を逃した。「そして……同じ言葉を姉上にも送ります」
私はキュッと唇を噛んだ。あの少佐さえいなければ私は、震える唇で15歳の弟への愛の言葉を贈っただろう。
アブラーモは踵を返した。少佐に腕を捕まれ、部屋を出た。私は格子越しの窓の向こうへ目を向けた。
「神様、どうか弟たちに……お父様の上にあなたの加護を……」
神様は洗礼式があった時以外、教会へ行ったことのない私の祈りなど聞いてくださるのかしら? 部屋の隅で倒れるお母様に目を向けた。
「あなたを心から愛する私のお母様……ジョセフィン・デイヴィスの夫と息子たちです……。どうか、お母様に免じてお守りください……」
それからいつも通り、太陽が淡々と沈み上ることを片手で数えられるほどの回数繰り返した。窓から大きな声が響いた。民衆が集まっているのだろう。どうしてかしら? 静かに朝食をとるお母様を横目で見てから、椅子を引きずり窓の下に置いた。椅子の上に立ち、窓から広場を見た。熱気のある民衆が口々に叫んでいる。異口同音とは程遠い彼らの叫びは殺意に満ちていた。私の目は一点に止まった。お父様が断頭台に上っていた。護送馬車の中に弟たちがいる。やめて。民衆の叫びが最も高くなった時、私は目を逸らした。息が荒くなっている。右腕で格子を掴みながら私はしゃがみ込んだ。




