ねえさん、初めてのメイク
「うーん。元の良さを潰しちゃった」
美咲は唇を突き出しながら残念な顔になった明美ねえさんを見た。ねえさんはクスッと笑った。懐広いね。
私はファンデの裏の使用説明を読んだ。
「どこで何をミスったんだろう? 彫りを全部潰しちゃうなんて。塗りすぎたかな?」と私は立ち上がった。「さっき百均で買ったパフを濡らすか!」
しずく型のパフを取ってトイレに向かった。洗面所でジャバジャバとパフを濡らした。パフを絞りながら横を見たら、浴槽上にロープが張られて洗濯物が干されていた。ちょっとだけLINEを見た。居間に戻るとき、ハードルのように置かれている大きなスーツケースを乗り越えた。わざわざ居間の入口に置くのは強盗対策らしい。
「そう言えばねえさんっていつアメリカ行くの?」と私は床に地べたで座り込んだ。
「明後日。高認の結果はたぶんアメリカで見ることになると思う」
「ふーん」と私はパフでポンポンとねえさんの顔のファンデを軽く取った。少しマシになった。「誰かが言ってたけど、顔の中央はファンデ厚めにして端のとこは薄めがいいらしい」
「ほう」
「よし。なんとかなったかも」と私は首を傾げた。
あとは崩れないようにパウダーを塗った。今度こそ厚くならないように……。ちゃんとした化粧なんて初めてだもん。本当に責任重大だ。
「ねえさん、マジで元がいいよね。学校にもハーフいるけど、ねえさんほど美人じゃないよ」
「そうなの?」とねえさんは眉尻を下げて微笑んだ。
「うん。しかも涙袋ぷっくぷくで中顔面短いし、彫りが深くて顎のラインも綺麗」と私は力強く頷いた。「責任重大だよ、私」
「ありがとう、化粧の実演をしてくれて」
「いいえ〜」と私はねえさんの顎を少し持ち上げた。
ねえさんと目が合った。目の色が綺麗。灰色のガラスに青い絵の具を垂らしたみたいな色。ねえさんは20歳になったばかりにも関わらず化粧したことがないからか、マリー・アントワネットも憧れそうなくらい綺麗な肌をしている。
何となく緊張する。小さく手を震わせながら筆にアイシャドウを含ませた。まずベースカラー、次に二重幅までのゾーンにピンクを塗る……。ねえさん二重幅広くない?
涙袋にピンク色のラメを塗るとねえさんがピクッと瞬きした。
「なんで下瞼にもアイシャドウを塗るの? 目元が弛んでいるように見えない?」
「涙袋も書いたら盛れるよ?」と私は一旦手を止めた。陰も書いたら涙袋は完成だ。「目が大きく見えるよ」
「アイライナーじゃだめなの?」
「うん。下の目までアイライナーをガッツリ書いたら隙がないでしょ?」と私はリキッドアイライナーを取った。「あと目がちっちゃく見えそう」
「何? 日本では涙袋に光を入れるのが流行っているの?」とねえさんは首を傾げた。
「そう。すごく流行っているよ。みんなやってる」
ねえさんは迷うように手鏡を取った。私はほんの少しだけ口角を上げた。勝算ありだ。ねえさんは「みんなと違う」ことに対して敏感で嫌がる。ねえさんは小さく息を吐いた。
「薄めにしてね」
「了解!」と私はほくそ笑んだ。
ハッピーハッピーハッピー、ハピハピハピハッピー!
涙袋の陰を描こうとアイライナーを涙袋の下に当てた。さて、真剣勝負だ。ゆっくりとアイライナーを動かした。
ピンポーンとチャイムが鳴った。
「何? 誰?」とねえさんがビクッと玄関を睨んだ。
「あー!」
涙袋が……極太の陰ができた。目の下のクマやん。私は思わず天を仰いだ。ねえさんがゆっくりとお腹を庇いながら腰を上げた。私は慌てて立ち上がった。
「ねえさん、私が見に行くよ!」
「ありがとう、美咲」とねえさんは腰を下ろした。
私は廊下に置いてあった棒を剣道っぽく構えてドアを開けた。パンパンに膨らんだ風呂敷を持った翔一だった。学校帰りなのか、まだ詰め襟着てる。
私は「あ、いらっしゃーい」と棒を背後に隠した。
翔一は「お邪魔しまーす!」と大声で奥にいるねえさんへ呼びかけた。
あ、そう言えば……。居間から物音がした。
「美咲ー! どなたー!」とねえさんから質問が飛んできた。
「翔一だよー!」と私も大声で返した。
翔一は顔を引き攣らせ「狭いアパートなのに大声で呼び合う必要あるの?」とドアを閉めた。
ねえさんが居間から出てきた。確か翔一とねえさんって今までの人生で2回くらいしか会ってないよね?
翔一は「お久しぶりです。おね……明美さん」とペコっと頭を下げた。
ねえさんは「いらっしゃい」と居間へ通した。
翔一が「明美さんのメイクってお前がやったんでしょ? 目元ひどくない?」と私にコソッと囁いた。
「うるさい」と翔一の肘を小突いた。
ねえさんがひとこと謝ってから座った。お腹が重そう。翔一がねえさんの前で軽く膝立ちになった。
「明美さん。あの、美咲から伺いました」と風呂敷の結び目を解いた。「えと……ご無事を祈ります」
「ありがとう。翔一」とねえさんはやや固く礼を言った。
翔一は風呂敷の中身を丁寧に出した。赤ちゃん用のタオル、ガーゼ、ハンガーだった。中3男子が、妊娠した姉に贈るものとして変わっているラインナップだ。思わず変な笑いが漏れた私を、チラッと見てからねえさんはクスっと笑った。
「ありがとう、翔一。全部すごく助かる。この間、水通しをした時に足りないなーって思っていたの」
翔一は「どういたしまして。いつごろ、生まれる予定なんですか?」とカチコチのまま風呂敷を畳んだ。
「来月よ」とねえさんはお腹を撫でた。
私はコスメをなおしながら「名前決まったの? 男の子なんでしょ?」とポーチを探した。
「決まった。ウィリアム・オスカーにする」
「日本ネームはつけないの?」と私は小さく眉根を寄せた。
「私はイギリス籍にするもん」
「名前の由来は何かあるのですか?」と翔一。
「あるよ。オスカーは私の父の名前で……」
一瞬、不自然にねえさんの言葉が途切れた。ねえさんは言葉を選ぶように唇を噛んだ。小さく目が泳いでいる。
それから、ねえさんは「ウィリアムはパートナーの名前」と顔を上げた。
やっぱり、赤ちゃんの父親についてはあまり触れない方がいいんだろうな。「ウィリアム」と言う欧米の名前の人だってことは分かった。翔一は微かに顔を強張らせながら、黙々と赤ちゃん用のタオルを畳んだ。




