【Chit-chat 06】グレイプニールと猫
本日も晴天なり。
東の大洋に臨む港町に、曳航船の汽笛が響き渡る。低い短音2回の合図は、大きな船が取り舵を知らせる合図だ。船はほどなくして接岸し、大量の荷物が運び出されていく。
大型船と客船の乗り場の200メルテ南には、漁師達の船が係留された入江がある。ウミネコ達はそちらの方がお気に入りなようだ。
ミャーミャーと鳴いて空を旋回し、今日も魚を選別する女性達の隙を狙っていた。
そんな長閑な昼下がり。
海沿いの民宿では、1人の青年が昼寝をしていた。猫耳、猫の尻尾の猫人族、イース・イグニスタ。今でも英雄の息子という枕詞を付けられるが、本人の活躍も随分と認められるようになっている。
その愛剣の名はグレイプニール。黒い刀身は光に当てれば僅かに青く光る。アダマンタイト製の逸品の切れ味は抜群。
おまけに剣自身が意思を持ち、普段は羽根のように軽い。剣撃の瞬間だけ重くなったりと、持ち主のサポートも万全だ。
主のイースが眠っている一方、そんな愛剣グレイプニールはばっちり起きていた。
「ろけい、4時まるなで……おぁ? あとどでなけおなすび……」
イースからは16時になったら起きると言われている。グレイプニールは剣である以上、その間勝手に動くことは出来ないし、する事もない。
「いま2時35ぷん。ぬしおなすび……ボクあびちぃ。れんちょのうわうわ、きおちいいます、でもボクおねむるしまい。おなすびまいなす」
グレイプニールはボソボソと呟く。イースを起こしたくないが、勝手に起きてくれる分には構わない。声に反応して自然と目が覚めないかと淡い期待を抱いている。
「つよいもしゅた、斬るしでみだいまぁ……ボク、よごでぎるますか。よごで……おぉう、めこ」
グレイプニールの視界に猫が入り込んだ……目はどこにあるのだろうか。
茶や黒や白や黄色の毛が混ざり合った大柄な猫は、風に揺れるレースのカーテンの下をくぐり、窓台にちょこんと座る。
2階だからと窓を開けていたため、手摺りを伝ってやってきたのだ。
「めこ、ぬしと同じ耳ます。めこ、ぬしと同じちっぽます」
部屋にはイースがおやつとして食べていた乾燥肉があり、猫はそれを狙っている。乾燥肉がはみ出した紙袋は、イースの頭のすぐ上にある棚の上。
そのすぐ隣にはグレイプニールが置かれている。ただ、グレイプニールは主の大事な乾燥肉を守りたいが、天鳥の羽毛マットの心地良さを手放せない……剣の手はどこだろうか。
「めこ、ぬしのおみくますよ」
「……」
イースが起きないと判断した猫は、大胆にも窓台から降り、そろりそろりとイースの枕元に近寄ってくる。
グレイプニールの声にも耳がピクリと動く程度。小さくタンっと鳴った着地音は、イースを起こすほどではなかった。
「めこ、どぼのますか? めこ、だめますよ」
声の主が分からないからか、周囲を見渡し誰もいないのを確認しつつ、猫は紙袋に近づいてくる。
ベッドの白いシーツの上で寝息を立てる姿に、まったく警戒心を抱いていない。野良猫ながら人に慣れているのかもしれない。毛並みもツヤツヤ、ふわふわだ。
「めこ、あっ、めこ!」
猫は躊躇いなくイースのベッドのサイドテーブルに飛び乗った。鼻を膨らませながら乾燥肉の匂いを嗅ぎ、大好物である事を確認している。
「めこ、ぬし、めこが、めこが!」
「んー……」
イースが寝返りを打つと、猫は何事もなかったかのようにそっぽを向いた。まるで肉など狙っていませんと言うかのよう。
イースがまた寝息を立て始めると、猫は躊躇いなく肉に噛り付いた。
「あっ、めこ……」
グレイプニールの声に驚いたのは最初だけ。聞こえても姿はなく、怒鳴られるわけでもないため、猫はすぐに慣れてしまった。
猫は干し肉をあっという間に平らげ、その場で毛づくろいを始める。
ザラザラな舌がゾリッ、ゾリッと音を立てて毛を整えていく。
「めこ、ごめまさい、しまさい」
「グルルル……グルルル……」
「おぁ、めこ、ごめまさいますか? ごめまさい、おりこうます」
猫はご機嫌で喉を鳴らし、グレイプニールはそれを謝罪と勘違いする。会話は全く嚙み合っていないが成立した。
猫が毛づくろいをやめ、周囲を見渡した後、ある一点を見つめた。それはグレイプニール……の下に敷かれている天鳥の羽毛マットだった。
「めこ?」
「グルルル……」
「ごめまさい、もう仕方まいなす。もういいます」
「グルル……グルルルルル」
「おぉう、いぱいごめまさい思うしるますか」
猫はグレイプニールの勘違いを無視し、イースの頭の上の棚に移動した。グレイプニールが置かれていてもお構いなしで、マットの上に足を乗せる。
「だめっ、ボクの! ボクのうわうわ!」
「グルル……ぷにゃーん」
「にゃーん、何ますか?」
「んぐるるにゃーん」
「むむむにゃーん、何ますか?」
猫が香箱座りをし、グレイプニールの上に圧し掛かる。グレイプニールが猛抗議するかと思いきや、部屋の中は静まり返ってしまった。
「……めこ、うわうわ。めこあままかい。ぷぁ~……めこうわうわ、すままち、しまわせ」
猫のふわふわな毛と程よい体温が気に入ったのか、グレイプニールはご機嫌だ。それっきり喋らなくなったかと思えば、そのまま眠りについてしまった。
それから1時間が経った頃。イースが目覚め、まだ鳴らない目覚まし時計を止めた。ゆっくり起き上がり、視線の先にある光景に驚く。
「え、えっ? 猫? グレイプニール、何してんの? ……あ、こいつ干し肉食べてやがる」
猫は香箱座りから堂々と姿勢を変え、グレイプニールの上で伸びきっている。これが聖剣バルドルなら気絶していただろう。バルドルは猫が苦手なのだ。
バルドルは自身の鞘を爪研ぎにされた経験があるため、猫を害獣と認識している。猫を可愛がる人を見ては「モンスターを愛でるなんて! 猫は人を操る危険なモンスターだ!」と騒ぐ。
一方、グレイプニールにとってはこれが初めての猫との触れ合いだ。グレイプニールにとって、猫はふわふわで気持ちが良く、すぐに謝るお利口な生き物になっている。
「おぁ? ぬし起きたます」
「おはよう、もうすぐ夕方だけど。ところでその猫どうしたんだ」
「おみく、食べるしまた。食べるごめまさいしまた。おなすびしまた」
「オレの干し肉食って……眠くなってそこで寝てんのか」
なぜグレイプニールがおとなしく敷かれているのか、イースは混乱している。
「ぬし」
「ん?」
「めこ、いきもも」
「ああ、そうだけど」
「いむ、いきもも。いむ、おたんぼ、めこ、おたんぼ。ひと、お連れます」
「そうだね、犬や猫を飼って散歩してる人は多いからね」
「ぬし、めこかいますか?」
「えっ?」
イースが思わず聞き返した。猫を連れ歩くバスターなど聞いた事がない。戦いの際は邪魔になるし、下手をすればモンスターに喰われて終わりだ。
「ぬし、ボクがんまった、おもうび。めこほちいます」
「何で猫が欲しいんだ?」
「めこ、うわうわ。めこ、あままかい。れんちょのうもまっど、めこ、2ちゅうわうわ、しまわせ」
「生き物を物にカウントすんな」
イースがそっと手を伸ばすと、猫は薄目を開けて尻尾を振り、腹を見せて撫でろと要求する。グレイプニールと同様、どうすれば可愛がって貰えるのかを知っている。
「……可愛い、確かに手触り気持ちいいよな。いずれ飼うのも悪くな……」
「ぬしっ、ぬし! まぜめこ撫でるますか! ぬし撫でるボクますよ!」
イースが猫を撫でた途端、グレイプニールが慌て始めた。
「え、猫飼いたいんじゃなかったのか」
「ぬし、ボクのぬします! めこ撫でる、だめ! ごめまさいしまさい!」
「……」
グレイプニールにとって、ねこはあくまでも「刃触り」が良い生き「物」だ。愛玩動物として認めるつもりは更々ない。
「ぬしボク撫でまい、めこ撫でた……めこあち行くます! めこ!」
イースは苦笑いで猫を抱き上げ、窓の外へ追いやった。
「ぬし、ボク撫でますか? めこ飼うだめます」
「……猫って、結局武器の天敵なんだな」
イースはため息をついた後、「犬猿の仲とはよく聞くが、そろそろ世の中に剣猫の仲という言葉が生まれそうだ」と言ってグレイプニールを拭き始めた。
イースが猫を撫でる事が出来る日は、おそらくもう訪れない。




