Black or White-07 Let's face it
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「……イースくん、あなたの綺麗な耳が欠けたのはその、残念だけど。それがあなたの全てじゃないでしょ? 立派なフサフサの尻尾は健在」
「全てじゃないけど、一部なんです。オレの……猫人族としての誇りの」
「そうだけど……」
鏡を見てから30分くらい経っただろうか。外はすっかり暗くなった。でもオレはまだ強いショックから立ち直れずにいた。
玄関には閉店の札を掛けてあるという。あんなことがあった後だし、オルターは事情聴取中。椅子は一脚壊れ、カウンターにはヒビ。開店祝いにいただいた陶磁器の鉢は無残にも割れ、土がこぼれている。
オレも今は笑顔で接客なんて出来ない。
「ぬし、大丈夫まない、ボク何でぎますか」
「……オレ、耳が元に戻る魔法を研究する。剣術やめて魔法使いになる」
「おぉう!? ボク捨でまいでくまさい! ぬしぃ、ボクあびちぃ……」
オレはカウンターに突っ伏して、顔を上げられずにいた。
いくら嘆いても、いくら賠償金を貰っても、もう耳は戻らない。
この悲しみは時が経てば慣れて癒えるのか。それは痛みに慣れるだけで癒えてはいないんじゃないか。
そんな無益な考えが頭をぐるぐると回っていた時、隣にいたレイラさんが立ち上がった。椅子がガタっと音を鳴らし、足音がカウンターの中に向かう。
「イースくん。本当にごめん。これで許してくれるか分からない、あなたの得になんて全くならないけど」
何か店のお酒を出してくれる、という事だろうか。何かがカチャリと涼しげな音色を奏でるのに気付き、オレはようやく顔を上げた。
オレのために何かをしようとしてくれる気持ちを無視し、そのまま突っ伏しているわけにもいかない。
そんなオレの目の前に飛び込んできたのは、色鮮やかなカクテルでも、店のとびきりのつまみでもなかった。
「ぬし!」
「レイラさん!」
オレはカウンターに身を乗り出し、咄嗟にレイラさんの腕を掴んだ。
レイラさんが震える唇を噛みしめ、耳のイヤリングを思い切り引き千切ろうとしていたからだ。
「何をしてるんですか!」
「なっ……だ、だってぇ……」
レイラさんは震える唇を震える指で押さえ、その場に泣き崩れた。
「あたしも、お……同じ、耳、千切れたら一緒、じゃない! イースくんだけじゃ、なくて!」
「分かった、分かりましたから! 大丈夫です、オレもう大丈夫ですから!」
レイラさんが初任給で買ったと自慢げに話していた、3つ連なったシルバーリング。そのリングの付け根、耳たぶのピアス穴は赤く血が滲んでいた。
あと少し気付くのが遅かったら、本当に引き千切っていただろう。
指が白くなるまで力を込め、唇を震わせ、涙を浮かべながらの行為は、ただのパフォーマンスには思えなかった。
オレの耳が欠けた事に誰よりも心を痛めていたのは、オレじゃなくてレイラさんだったんだ。
自分じゃなくて他人が傷ついた現実に後悔し、泣きだしたかったのを抑え、オレを励ましてくれていたんだ。
「耳、消毒します。アルコール消毒を」
「いい」
「良くないです。化膿したり、痕が残ったり……」
「いいってば! 痕なんか残ればいいじゃない! そうすれば、一緒でしょ! あたしの耳はまだ髪で隠せる、失くたって誰も気付かないわ!」
レイラさんは消毒を拒んでイヤリングをむしり取り、壁に投げつけた。
驚いて耳を見ると、血は出ているものの、金具が壊れたのか耳たぶが千切れる事はなかったようだ。
「あたしの……あたしの意地のせいでイースくんは傷が残った! オルターくんは人を撃った! あたしは後悔だけでいいなんて!」
「オレやオルターがレイラさんも道連れで傷つけばいいなんて、思うわけないでしょう!」
レイラさんは再び崩れるように泣き出し、しばらくそのままだった。
何もできないのが悔しい、守るつもりが守られていたのが悔しい。そうボソリと呟き、何度もオレ達にごめんと謝った。
ああ、そうか。オレに欠けていたものはこれだったんだ。
悔し涙を流したことはある。だけどこんなに我を忘れる程の悔しさや無力さを感じた事はなかった。無力な自分が誰かを後悔させた姿も見た事がなかった。
親の七光りと言われても、怒ったり泣いたりしなかった。そういうものだと受け入れ……いや、諦めていた。
悔しい、何とかしたい、そんな事を思いながら、時には決意もした。覚悟もした。
でもそれはその時そう思った事に満足していただけ。
心の底では変われていなかった。本当のオレに絶対にこうしてやる、こうなってやるなんて気はなかったんだ。
オレの生ぬるい決意ごっこは、レイラさんの覚悟や夢を支えるに足るものではなかった。それに気付いたオレは自分が情けなくなった。
耳が欠けた事で、図らずもオレに欠けていたものが分かったなんて。
「レイラさん。オレの耳の事、もういいです。オルターの事はオレもオルターに謝ります」
「猫人族の耳は命だって、あたしだって知ってる。もういいなんて嘘よ」
「いや、オレはレイラさんに嘘ついた事ないです」
「……グレイプニール、イースくんが本当に嘘付いたことないか教えて」
「ぷぇ? おぉう……ぬし?」
……そんな風に確認されたら、オレが嘘を付いていると言って良いのかを確認してるみたいじゃないか。
「何でも言っていいぞ」
「ぬし、なほうちかい、なるまてん」
「……ははっ、確かにそれは嘘だった」
少しは落ち着いただろうか。まだレイラさんは鼻声で、時々声帯筋が収縮してヒクヒクと息が漏れる。でももう泣き声は上げていない。
「さて、このまま閉めていたらあの男の思うツボです。開けましょう」
「……無理。あたしきっと目腫れてる、化粧も落ちたと思う」
「じゃあ、オレがカウンターに立ってますから、落ち着いたら……」
レイラさんが開店を拒むのもむなしく、誰かが閉店の札を無視して扉を開いた。
「あの、すみません。今日はちょっと……あっ」
そこに現れたのはオルターだった。オルターはどこかうわのそらで、店の中に入ってきておもむろにカウンターへ何かを置いた。
「……どうした、警察は大丈夫だったのか」
「も、もらっちゃった」
「え?」
オルターはカウンターに置いたものの1つを手に取り、胸の前で広げる。それは感謝状だった。
「は、犯人を勇敢にも止めてくれたって、その場で署長さんが自ら賞状書き始めて……」
「えっ」
「あ、い、イースのも」
そう言うと、オルターはオレにも賞状を渡してきた。名前は違うが、内容はどちらも同じ。
オルターは警察署前で町の新聞社の取材も受けたという。明日の新聞の一面はきっとオルターだ。
「なんか、めちゃくちゃ、褒められた……。白い目で見られるって、思ったけど……あのままだと死人が出てたって、野次馬とか、ハーヴェイさん達も証言してくれて」
オルターは半笑いだ。でも、それはシラケているのではなく、気持ちが笑いに追いついていない感じ。
「って、レイラさんどうしたんすか、その顔」
「その顔とか、言わないで。ちょっと……安心して泣いちゃっただけ」
「え、ちょっとイヤリングが!」
「自暴自棄になって、ちょっと壊しただけ」
オルターがオレに視線を向ける。でもさすがに言うことは出来ず、オレは自分の耳を指差した。
「あー、耳……なんか厳つい雰囲気になったな」
「まあ、うん。そういう事」
「イースの耳がこうなったから、自分も耳を千切って詫びるみたいな事か」
「……何よ、文句ある?」
「レイラさん、そんな……めんどくさい女だったんですか」
「めんどくさい女とか言わないで!」
レイラさんが笑いを堪えたようにオルターを睨む。それからゆっくり手を差し出し、何かをくれと要求した。
「え、何ですか、握手?」
「あたしの賞状は」
「え、ありませんけど」
「何で! 何であたしのがないの!」
そうレイラさんが叫んだ後、数秒の沈黙が流れ、誰からともなく吹き出して笑い合った。レイラさんは腫らした目でニッコリ笑い。オレとオルターに抱きつく。
「有難う、2人とも。あたしは……最高の仲間に出会えた」
「おぉう、ボクあびちぃ……」
「あなたもよ、グレイプニール。さ、今日は打ち上げ! パーッと飲みましょ!」




