-凍てつく世界- Part 1
天気予報によれば夕方には止むはずだった黒い雨は、夜の十時を超えても全く止む気配を見せない。まだ降り足りないと言いたげな雨雲は低い位置へと降りてきて、“大野田重工本社都市”をすっぽりと覆っていた。何千棟もある超高層ビルの鳥居や五重塔を形作るネオンをくすませる霧はかなり濃く、天を照らす強烈なサーチライトや宣伝気球の光すら覆い隠してしまっていた。
窓際の席に一人で座り、ぼんやりと外を眺める獣人が一匹いた。片方が折れた角を持ち、青い制服を着た“AGS”の切り札とも言える獣人、ルフトジウムだ。翡翠と瑪瑙を混ぜたようなグラデーションの瞳に映る夜の街は昼間とは全く様子が異なっていた。違法サイバネ技術や電子ドラッグに溺れるならず者や浮浪者が夜が深まるにつれて闊歩するようになっていて、普通の人間はこの時間に出歩かない。
しかし彼女は一時間程前に仕事を終え、遅めの晩御飯をお気に入りの店で食べた終えたばかりだった。
「すいません。
お勘定お願いします」
まだ温もりの残る炒飯の入っていた器を奥へと押しやり、ぼんやりと浮浪者達を目で追いかけていると、ビルの入口にホログラムで投影されている時計が目に入る。彼女はいつの間にか閉店時間が近づいている事に気が付き、近くで食器を運ぶ男の店員に話しかけたのだった。
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「あいよー!
おーい、ツカサちゃん!
お勘定だ!!」
「はいはい、今行きますよ〜!」
ルフトジウムはグラスに残っている獣人用の酒をぐいと飲み干し、ふうと熱い息を吐く。すると厨房の奥からタオルで手を拭きながら、パタパタとツカサが出て来た。
「こんな時間までお店に居着いちゃって悪いな」
ルフトジウムは立ち上がるとポケットから端末を取り出し、軽く頭を下げた。
「いいのよ、もう残る仕事は片付けだけだから。
この時間まで“AGSの断頭台”さんに居てもらえるとお店のセキュリティとしてはもう申し分もないしね。
店長さんも居てくれると安心するって言ってるわよ」
厨房の奥にいる男性がその言葉と同時にルフトジウムに頭を下げる。
「ははは、こんな警護でいいならいくらでも居てやるぜ?」
山羊はツカサの持ってきた端末に自分自身の端末を掲げ、提示されていた金額を支払う。ピッという電子音が鳴るとルフトジウムの口座から本日の晩飯代が引かれた。
「領収書いる?」
「んー…いらない。
あ、そういえばハルサは?」
ツカサは人差し指を頬に当てて、えーとと考える仕草をする。
「奥でひたすらひったすらずーっと葱切ってるわよ。
呼んできましょうか?」
「頼むよ」
即答したルフトジウムの表情を観察したツカサはニコニコが止まらない。
「…貴女のメインディッシュはこっちだものね?」
その一言はあの“断頭台”を赤面させるには十分だった。
「……そんなことはない。
そんなことはないぞ」
「あら?
それなら呼ばなくてもいいかしら?」
ルフトジウムは勘弁してくれと言うように耳を垂れると動いた星形のピアスがキラリと光る。ルフトジウムは色々と頭の中で考えた上で、喉の奥から掠れた言葉を絞り出した。
「……あまり虐めないでくれ」
真っ赤になりながらも目を逸らしたルフトジウムにツカサは『案外初心なのかしら』と思いつつ、引き続き話しかける。
「あらあら、ごめんなさいね。
少し意地悪しすぎちゃったかしら?
私はただ山羊と狼の恋愛って面白いなって思ってるだけなのよ。
ほら、まるであの昔話みたいじゃない?
あなたは読んだことあるかしら。
えーっと作者が確か……」
指をくるくると回しながら本筋を思い出そうとするツカサにルフトジウムも相槌を打つ。
「……ヤマダ・マカヒコのやつだろ?
懐かしいなぁ、そんな話もあったあった。
確か俺の記憶によれば~…最後ろくなことにならなかった気がするけどなぁ」
ツカサはしまった、というように手を口に当てる。
「あ!
そういえばそうだったわね。
あのお話だと狼は結局本能に負けて、かけがえの無い友人の山羊を食べちゃうんだものね。
当然狼の私としてはー…まぁ複雑よねぇ。
そっかぁ……山羊と狼の年の差婚かぁ。
もし成就したら素敵なお話が書けるわね?」
ルフトジウムは楽しそうにクスクスと笑うツカサに乾いた笑いを返し、いい加減に照れるのも限界だからそろそろハルサを呼んでくれるようもう一度手を合わせてお願いをした。
「ああ、そうだったわね。
ごめんなさいね。
今呼んでくるからそこで待っててね」
ツカサは暖簾をめくり、厨房へと消えていく。ネギをひたすら切るトントンという音が止み、暖簾の奥から小さな一匹の狼が慌てて飛び出して来た。
「来てたんスか!?
もー!
来る前にメッセージ入れてくれって毎回言ってるのに何でいつもいつも入れてくれないんスか!」
ポニーテール姿で店名の入ったエプロンを巻いたハルサは、装飾の入ったモノクルをまるでペンダントのように首から下げている。
「いやー、仕事忙しかったし、店に入ったら入ったで一心不乱に葱切ってるって聞いてよ。
仕事の邪魔をしたらいけないなって思ってさ。
ちょっと帰るまで黙っておこうと思ってなー」
ハルサはルフトジウムの前で少し拗ねたように口を尖らせるとテーブルの上にある炒飯の皿を指差す。
「事前に言ってくれたら炒飯に葱入れたんスよ!?」
「いや山羊の俺は葱食えんし。
お腹壊すだろ」
「え、意外っス。
山羊は葱食べれないんスか?」
「山羊だからこそ、な。
基本的に人間以外は葱とかダメだろ」
ルフトジウムはそう言いながらハルサの頭を撫でる。初めて出会った時は撫でられることに対してあまり耐性が無かったからかぎゅっと体を固めていたハルサだったが、最近ではルフトジウムが頭の上に手を差し出すと耳を無意識で後ろに倒すようになっていた。沢山撫でられて嬉しそうなハルサの尻尾は左右にゆらゆらと揺れる。
「?
ルフトジウムさん?
どうしたんスか?」
「………」
まるで犬のような仕草をするハルサの顔を無意識で両手でふわりと挟み込んだルフトジウムはそのまま彼女の顔と頭を撫でくり回してやる。
「うえー私は犬じゃねっスよ〜」
ぷにぷにとしたまだまだ幼い彼女の頬や、姉によって整えられているふわふわとした毛並みの心地よい耳、毛先まで引っかからない程指通りのいい長い髪の毛。まるで撫でられる為だけに産まれてきたような存在は黙ったままルフトジウムが満足するまで愛でられる。
「堪能したー!
いやー、満足満足。
そろそろ帰るよ」
十分後、ルフトジウムはツヤツヤした表情でハルサをようやく解放した。
「もー…!
私をペットか何かと勘違いしてないっスか~?」
ハルサはぐちゃぐちゃになった髪の毛を撫でつけ、頭の上の獣の耳を動かす。
「んーん?
してない、してない」
「あ、そうっス!
そういえば…」
「?」
ハルサはエプロンのポケットから端末を取り出すとカレンダーをルフトジウムに見せた。
「また何処か一緒に行きたいっス!
今週の土日はお店が休みっスから、もしルフトジウムさんが良かったらまた……」
ルフトジウムはあちゃーとした顔をしてハルサに「すまん」と頭を下げる。
「あのなー…実はな。
俺、明日から出張なんだよ。
暫くこの街を離れるんだ」
「そうっスか…。
じゃあまた帰ってきたらっスね。
次はどこに行くんスか?」
しょんぼりとしたハルサの頭をもう一度撫でてやり、ルフトジウムはまた謝る。
「すまん、それも言えないんだ。
けど、海を越えた先だ。
雪が降るって言われてる寒い寒い所さ。
沢山写真撮って送るよ」
写真、と聞いて少しだけハルサの表情が明るくなる。
「…分かったっス。
写真、楽しみにしてるっス!
雪…どんなんスかねぇ。
私も見てみたかったっスー…」
-凍てつく世界- Part 1 End




