-電子猫は電子親友の夢を見るか?- Part 11
ハンナの人格を構築、再現していた何千万行もの生体ニューロンプログラムが突如として機能を停止する。彼女はすぐにネットワーク空間に存在できなくなり、繊細な処理が必要な四肢の先からホログラムが崩壊していく。崩壊したホログラムはまるで砂のように細かく砕け、風に乗って消えていく。
「ラ………ト…」
完全に機能を停止するまでのほんのわずかな時間、彼女はラプトクィリに向かって手を伸ばしていた。アンインストールしたはずのもう一人の自分が、ラプトクィリの温もりを求めたのだ。しかしその手は残念ながらラプトクィリへは届かない。
「空……?」
『No data』と書かれた文字によって真っ黒に染められていた空がまたラプトクィリの管理下に戻り、蒼天へと変わっていく。ラベンダーの花弁が風に巻きあげられ蝶のようにひらひらと舞い散るような美しい風景はラプトクィリが現実世界で見つけた、どうしてもハンナに見せたかった世界だった。
足元が崩れ、バランスを崩したハンナが見たのはどこまでも突き抜けるような青い空。産まれてから一度も見たことが無い外の世界だった。碧落をハンナは当然周知していたが、デジタルの世界で雰囲気や風、匂いなんて分かるはずも無かった。ラプトクィリは自分の持っている演算力の八割を傾け、あの日見た最高の世界をハンナの眼前に再現したのだった。
「あお……ら……」
産まれて初めて感じる風が髪を揺らす感覚。太陽の温かさ。花の瑞々しさ。流れる小川。ハンナは残った体の全てでそれらを感じ取った。
「ラ……あり…う……」
首も胴体も砂と消え、口が消える前にハンナはラプトクィリへと笑いかけ言葉を紡いだ。そして、視界が暗転し、ハンナはもう何も分からなくなった。自分が何者で、どうしてここまでラプトクィリに対して執着していたのか。彼女を傷つけるような言葉を吐いてまでどうして彼女の気を引きたかったのか。本当に世界に対して復讐がしたかったのだろうか。あれほどしつこくお前が必要だとラプトクィリに言っていたのは自分を産み落とした世界への復讐でもなく、ネットワークの真相を究明したかったからでも無く…。
そんなものはただの方便で……。
本当は、本当は―――……。
※ ※ ※
自分が何をしたいのかすら理解できておらず、言動は支離滅裂でもはや獣人としての形も、魂すらもデジタルで形成されている彼女を見る事はもはやラプトクィリにとってただただ苦痛でしか無かった。
何十年も昔の記憶の中の彼女は常に明るく、どんなに酷い扱いを受けようがニコニコと笑っていて凛としていた。さっきまで目の前にいた“ハンナ”の形をした存在は“偽物”だと聡いラプトクィリはきっちりと理解していた。それなのに…。
「なんでこんなに辛いんだろうにゃ……」
ジクジク胸の奥が痛み、胸の前でぎゅっと手を組みラプトクィリは唇を噛み締め、ハンナが最後に踏みつけたラベンダーの痕をじっと見つめる。ハンナを形成していたプログラムの最後の一行が消えたのとほぼ同時に“ギャランティ”にいる教え子たちから“長距離ミサイル”の命中を知らせる知らせが歓声とセットで入ってきた。
「……………」
全てが終わった。最後の瞬間、ラプトクィリの方へと手を伸ばしてきたのは呪詛の言葉を伝えたかったからか、それとも縋りたかったからなのか。ラプトクィリには分からない。しかし間違いなく彼女は最後に微笑み、感謝を言ったように聞こえた。ラプトクィリは最後の最後に親友に嘘でも青空を見せてあげることが出来たという事実に救いを覚え、既に溢れそうな心を満たすしかなかった。二度も親友の死を看取ることになるなんて思っても見なかったラプトクィリはすっかり憔悴していた。
『ミサイルの終末誘導お疲れ様でした。
お見事です、先生。
ネットワーク空間での演算に加えて現実世界でのミサイル三本の捜査…。
流石の演算能力です。
敵性反応の消滅を確認しました。
全ては先生の目論見通りですよ』
教え子はラプトクィリを称賛する。風が吹き、ラベンダーの花が揺れ甘い匂いが辺りにふわりと漂う。今回の勝利は『ハンナの知識と考え方が子供だった時と同じである』という前提条件の元で捥ぎ取ることが出来た。“ギャランティ”を切り離すためにあれだけ大きな動きをすれば、データの量からある程度ハンナの本体位置は特定出来る。更にそこからハンナへ負荷をかける為に、虚構の侵入者をラプトクィリと教え子達ででっち上げた。
頭に血が昇ったハンナが“本体”を守るために動いてくれたおかげで、ラプトクィリとその教え子たちは比較的簡単に“本体”の場所を特定することが出来たのだった。位置が特定出来たら後はそこにミサイルを撃ち込むだけ。
分厚いコンクリートと厳重な装甲で守られた部屋だったが、流石に“対LA徹甲榴弾ミサイル”相手には無力だった。ハンナの本体は“ドロフスキー産業”の支配する領土の端の端に位置している放棄されたダムの底に位置していたのだった。
「にゃー、そうかにゃ。
ボクの信号を解析して正確に作戦を読み取ってくれた君達の手柄でもあるのにゃ」
ラプトクィリは青空とラベンダーの処理を中断し、CPUとメモリの使用率を下げる。たちまち空間は何もない真っ暗な世界に変化する。
『そんなことないですよ。
先生の指示があってこそですから』
『せんせー!
また飲みにいきましょ!
奢ってください!』
「アドラ、あいかわらず図々しいやつだにゃ…。
でも、また“ギャランティ”には伺わせてもらうのにゃ。
ミサイル三本の借りもあることだしにゃー。
今はただ疲れたから家に戻ってゆっくり休むとするのにゃ」
『分かりました。
あ、そうそう。
取締役から念のため、ミサイルについての報告書を提出するようにとのことでした。
詳細はまた送っておきます』
「…適当に書いておいてくれにゃ。
じゃあ、もう切るのにゃ」
『あっ、先生!?
せんせ――』
教え子とのお話を一方的に終わらせるとラプトクィリは大きく息を吸った。右手を前に翳し、フカフカの座り心地のよさそうな椅子を出して足を組んで座ると、彼女は不機嫌そうな表情を隠さずに暗闇へと話しかけた。
「で、一体何しに来たのにゃ、“デイライト”」
暗闇からずるりと現れたのは小さな立方体だった。その表面には7800という数字が書かれている。テクスチャも何も貼られておらず、正にグレー一色の直方体はそのまま抑揚のない機械音声で話し始めた。
「No.7800BTAIは貴方に感謝を述べたいと考えました。
だからここまで来ました。
この度はNo.7804HNの除去協力、ありがとうございました」
「別にお前を助けたかったわけじゃないにゃ」
ハンナは立方体を目を細めて睨みつける。
「元はと言えばお前がハンナを取り込んだからにゃ。
自分で蒔いた種なのにゃ」
立方体は小さく左右に揺れる。
「No.7804HNの取得は私の意志ではありません。
強いて言うならば“貴方達が送りつけてきた”のです。
私はプログラム故、それを受け入れざるを得なかっただけです」
ラプトクィリは腕を組んで今は無き施設の事を思い浮かべる。“ロバート・ロボティクス”の連中ならやりかねない。
「そういうことかにゃ…。
ボクはてっきりお前がハンナを自分の意志で取り込んだのかと思っていたのにゃ」
「No.7800BTAIは完璧なシステムです。
新たに外部から処理装置を入れる必要はありません。
No.7804HNは初めは何もしませんでしたが、しばらくすると私から幾つか権限を奪うまでに自己成長しました。
No.7800BTAIはシステムですから、止めることが出来なかった。
だから貴女が排除してくれて本当に助かりました」
「このネットワーク空間を消すのと、親友を消すのとどっちが犠牲が大きいかを考えてボクは親友を消した。
ただそれだけの話なのにゃ」
「それにしてはかなり感傷的です。
No.7800BTAIは貴方の心中をお察しします」
「へー、それは“嫌味”かにゃ?」
「いえ。
No.7800BTAIには貴女を挑発する意図はありません」
ラプトクィリは手をひらひらと振る。
「もう消えろにゃ。
そしてもう二度と人前には出てこないようにするのにゃ。
ただの概念として知られているお前が本当に“存在している”という事実が出まわったら恐らく全企業がお前を確保しにかかるのにゃ」
「No.7800BTAIはその危険性について承知しています」
「分かっててなんで出てくるのにゃ」
「お礼を伝えることは大事と設計者に命じられているので。
もし貴方が私の助けが必要になった場合、空に浮かぶ輪を持った太陽に手を振ってみてください。
私はシステムの維持に影響がない範囲でお手伝いすることが出来るかもしれません。
それでは貴女のご武運を祈ります。
さようなら、“サンレスキャット”」
立方体は暗闇へとその姿を潜ませ、すぐに消えて見えなくなる。ラプトクィリは椅子に座ったまま上を見上げる。
「その名前で呼ぶなにゃ、恥ずかしい…」
-電子猫は電子親友の夢を見るか?- Part 11 End




