-電子猫は電子親友の夢を見るか?- Part 5
何枚もの薄く、弾性のある布を破るような感覚が頭から始まり足先へと順番に伝わっていく。どぶん、という効果音が似合うどろりとした真っ黒な液体の中に、ラプトクィリはいつの間にかその全身を浸していた。
「この場所も見飽きたにゃ~…」
真っ暗な液体の最後の一枚を抜けると、そこには何千万本の色とりどりの線がただただ真っすぐにどこまでもどこまでも夢幻な眺望を広げていた。不規則に赤や青色に光る蛍のような数多の塊が時折その線の上をすごいスピードで駆け抜けていく。初めてその光景を目にする人はきっとその美しさに声を上げることだろう。しかし彼女は自分で口に出した通り既に飽きており、すぐに仕事に取り掛かる。
「メモによると…確かこの辺って話だったにゃ」
ラプトクィリはツカツカと歩くと、一本に見えるが実際は何万本も包括されているオレンジ色の線に近寄って、右手に情報で形成されたナイフを出し線に対して水平に刃を差し込んだ。光り輝く大量のデータが開かれた線の隙間から溢れ、何テラバイトもの容量が真っ白に視界を染めていくが、そんな中でも彼女は冷静に指先の感覚だけで目当てのものをすぐに探し出して引っ張り出す。
彼女が探していたのは灰色の線で、その線は他のカラフルな線と比べても目立たないように秘匿されているのが窺える。その線にラプトクィリが左手をかざすとネットワークにログインするためのID情報とパスワードを提示するように命じられた。
「えーっと…。
確かこの辺にメモったはずだにゃ…」
ラプトクィリは予めアイリサから貰っていた一時的なアカウントにアクセスするために二つの情報を入れ、表示されているログインボタンを指先で押す。
周囲の黒い液体といくつもの線が消え、代わりに“ギャランティ”のネットワークを示す紋章とアドレスが表示され、まるで現実と見間違える程正確に再現された空間が現れた。綺麗な部屋には机が一つ出現し、天井からは豪華な宝石が数えきれないほど散りばめられたシャンデリアが釣られている。そして壁には“ギャランティ”のマークが四方に張り付けられており、部屋の四隅には気を紛らわせるためか、植物が置いてあった。机の後ろ側には成人男性が二人余裕で並んで通り抜けることが出来るぐらい大きな木製の扉があり、その取っ手には金色で豪華な飾りが付いている。まるで超高級ホテルのロビーのような部屋だったが、ラプトクィリは特段探索することもなく尻尾を振りながら面倒そうに受付に近寄っていく。
「いらっしゃいま…え?
せ、先生!?
先生じゃないですか!
お久しぶりです~!」
「にゃー。
久しぶりにゃ、マスーラ。
平素通り元気そうで何よりにゃ」
机を挟んでラプトクィリに声をかけてきたのは真っ黒なスーツに身を包んだ雄の狐獣人だった。虹彩は紅葉のような美しい黄色で、その真ん中に切り込まれた瞳孔は黒く細い。見事な紅葉の葉を細かい粉にして塗ったような髪の毛からは左右に大きな獣の耳が飛び出しており、その先端は黒くグラデーション状に変化している。そして両耳には金色のピアスが一つずつ付いていた。彼はラプトクィリの優秀な教え子だ。
「“ギャランティ”のアカデミーを卒業して以来ですよね。
本当にお久しぶりです。
先生全然老けないですよね?」
「にゃはは。
ボクが今の姿を偽ってるだけかもしれないにゃよ?
ちゃんと精進してるかにゃ?」
「はい!
先生に言われた通り日々技術を磨いています。
でも先生にはまだまだ及ばないですよ」
「当たり前なのにゃ。
ボクの技術は筋金入りのチートみたいなところがあるからにゃ。
追いつこうとしても絶対に無理なのにゃ」
太くてふさふさの触りたくなるようなもこもこ尻尾を犬のように左右に揺らしながら喋るマスーラの相手をしながら、ラプトクィリは周囲に目を光らせる。今の所不審な箇所は無い。
「毎日同僚と訓練を続けています。
だんだん現実と仮想空間の区別がつかなくなってきました」
マスーラはそういって頬を掻く。
「そりゃ素晴らしい事にゃ。
引き続き精進していくといいのにゃ」
ラプトクィリはそういって机の上を指でなぞる。
「…所で先生が来た事ってやっぱりあの死んだ男性の件ですか?」
マスーラは声を潜め、ラプトクィリに顔を近づけてくる。机の上を指でなぞり、観葉植物に近づこうとしていたラプトクィリはふう、とため息をついて教え子に口を酸っぱくして伝えた言葉を繰り返す。
「マスーラ。
あまり人の事を詮索しないほうがいいのにゃ。
要らないことに首は――」
「突っ込まない、ですよね。
分かっています。
ですがあの日この部屋を管理していた同僚も死んだので仇が打ちたいんです。
それに先生の助けが出来るのかなと思って…」
ラプトクィリはまるで母親のような優しい顔をすると可愛い教え子の頭を撫で、机から少し離れて周囲を見渡した。ハンナの侵入を許したこの部屋の何処かに彼女が侵入した形跡がワザとらしく残されているはずだ。彼女がラプトクィリにメッセージがあるのだとしたら、恐らく何形として残しているに決まっている。
「マスーラ。
ボクはこの部屋を少し見て回るのにゃ。
だから…マスーラ!?」
マスーラから少しでも目を離していた事をラプトクィリはすぐに後悔することになった。“痕跡”は、最悪な形となってマスーラに現れたのだ。
「あれ?
先生?
なんで部屋の照明を落としたんですか?」
整ったスタイル、顔立ちだったマスーラの見た目がどんどん変わっていく。顔は頬を基点として醜悪なまでに膨れ上がり、眼は脂肪で潰れ、頭から凛と生えていた綺麗な髪の毛は滝のようにパラパラと抜け落ちていく。膨張する体に耐え切れなくなったスーツのボタンは物理演算によって弾け、飛んで行ったボタンが壁のデータを破損させる。
「マスーラ!」
ガスを次々と入れられて風船のように膨らんでいくマスーラの状況を見たラプトクィリは一瞬で理解する。とても耐えきることのできない程膨大な情報がマスーラの脳に流し込まれており、処理能力が低下した結果彼は自分自身の形をネット空間に固定できなくなっているのだ。
「せん…せ…!
た、助け……!」
すぐに彼から情報を吸い上げ、破棄するために助けるために手を伸ばしたラプトクィリだったが彼女は間に合わなかった。指先と指先が触れる直前にマスーラは耐え切れずに弾けた。現実世界のように肉や血が飛び散るわけではないので、グロテスクな様相にはならない。しかし現実世界のマスーラは“肉が焼けたような匂い”を出して死んでいる事だろう。
「マスーラ……!」
かわいい教え子の死にナイーブになっている暇はない。これだけ派手な殺し方をすれば必ず痕跡は残る。
「誰に喧嘩売ってるのか教えてやるにゃ!」
一匹の獣人の脳を焼くほどの情報量を扱うならば、常識的に仕掛け人は必ず近くにいて情報の流入を制御を逐次制御するはずだ。それだけ繊細な作業を遠隔から捜査するのは不可能だからだ。マスーラが弾けていく過程をラプトクィリは分析にかける。可愛い教え子が膨れ、弾けていく様子を何度も見なければならないのは精神的に辛い事ではあったが、泣き言を言っている場合ではない。教え子を殺された怒りに駆られたラプトクィリは、持前の処理能力を生かしすぐに痕跡を見つけ出す。マスーラの頭の後ろに見えない程細く繋がれた一本の糸がある。ラプトクィリと言えど気が付かない訳だ。
「見つけたのにゃ!!」
細い一本の糸をラプトクィリは再生成すると、空間の中から見つけ出し強く引っ張る。ピン、と張り詰めた糸の先はそのまま壁の中へと繋がっていた。ラプトクィリはすぐに壁に近寄り左手を掲げて壁の仕組みを変更するよう指示を送った。霧のように壁が消えるとそこには応急処置で作られたのであろう通路が“ギャランティ”のネットワークから抜けるように、奥へと深く延びていた。
「絶対に逃がさないのにゃ」
ラプトクィリは特に何かを考えることなくすぐにその通路へと飛び込み、たった今逃げたであろう敵を追いかけた。“ギャランティ”の部屋を抜けるとその先は滅多なことでは入らない程に深いネットの深部へと繋がっている。
「ひぃいい……」
かわいい教え子を殺した犯人が隠れようとして通路に隠し部屋を生成していた所をラプトクィリは見逃さない。隠れ蓑をはぎ取ると犯人の恐怖に歪んだ顔がそこに現れた。犯人は人形ぐらいの小さなアバターを使っていた。ラプトクィリは逃げないよう彼の動きを阻害するプログラムを瞬時に組み立てると彼のアバターに適用する。
「てめえ、誰にやれって言われたのにゃ?
言え。
言わないと今ここで殺してやるのにゃ」
左手をかざし、彼女は犯人の頭を掴むと自分の持っている常人の何十倍にもなる情報を見せつけ、脅しをかける。
「し、し、知らねえよォ!
俺はただハンナっていう奴から指令を受けていて…」
「そいつは今どこにいるのにゃ!!」
-電子猫は電子親友の夢を見るか?- Part 5 End




