07
がたん、と馬車が揺れて、目が覚めた。鎧戸まで締め切られた馬車の中は、真っ暗だ。
「父さん? 何……」
ぼんやりと声を上げて、次の瞬間には覚醒する。
がたごとと、舗装されていない地面の上を進む感覚に。
「父さん? 母さん!」
慌てて仕切りの布を掻き分けるが、二人ともが寝床にはいない。
暗がりの中、扉へと向かう。途中、造りつけの棚にしたたか腰を打ちつけた。
手探りでノブを回すが、外から閂がかけられているのか、扉は開こうとしない。
「父さん! 停めて、お願い!」
「駄目だ」
くぐもった声が聞こえてきて、彼女は手近な窓に駆け寄った。もどかしげに押し開く。
馬に乗った兄が、見慣れた仏頂面で馬車の隣を進んでいる。
「兄さん! 何があったの?」
「移動しているだけだ。俺たちは、これから北東の街に向かう」
告げられた言葉に、愕然とする。
「そんな……、聞いてない、そんなの」
「お前に相談する必要はないだろう」
冷たい言葉に、ぞくりと背筋が震える。
「あたし、ここに残る。下ろして!」
「駄目だ」
兄は、再びそれを拒否した。
「だって、兄さん……!」
「俺たちはノウマードの要請で移動する。あの歌を広めることが、あいつの頼みだ。お前も歌を習っただろう。ここに残るよりも、移動する方があいつの役に立つ」
ぐっ、と言葉に詰まる。彼の傍にいたかったから、歌を習ったようなものなのに。
「でも……、でも、あたし、あの人にさよならも言ってない!」
その悲痛な叫びに、アレクオの胸が僅かに痛む。
だが、別れの言葉だけで済むと思えるのなら、こんな強硬手段には出ていない。
「諦めろ、フラウラ。あいつは、お前には無理だ」
「兄さんの莫迦! 大っ嫌い!」
灯り取りの小さな窓から、懸命に手を伸ばすが、兄には届かない。
「あまり馬車の中のものを壊すんじゃないわよ」
御者台から、母親が呑気に声をかけた。
こうして、フラウラの恋は終わりを告げた。
一旦要領を掴んだオーリの行動は、速やかに進んだ。
東地区のロマの指導を五日で終わらせて、次は南地区へ行く。
既に新しい戦唄の評判は届いており、協力を持ちかけても拒絶されることはなかった。
そこを終わらせて、西地区へ向かえるのもそう遠くはなさそうだった。
が、もう二十日ほどもトルミロスの屋敷から出ていないアルマは、時間を持て余していた。
何より、自分が全く役に立っていない、ということがもどかしい。
まあ、成長した角を隠せない以上は、そう簡単に外出もできないことは理解している。
グランには、今後充分以上に役に立て、と突き放されたりもしたが。
薄い灰色に濁った空の下、中庭に人影を見つけて扉を開く。
「寒くはないですか、ペルル」
ぼんやりと四阿のベンチに座り、庭を眺めていたペルルに尋ねる。
「少し、寒いですね」
こちらを見上げ、ペルルが答えた。
マントを脱ぎながら近づき、ペルルの肩へとかける。
「アルマ、これでは貴方が寒いのでは」
困ったように返す少女に笑いかけた。
「俺は結構寒さに強いんですよ」
実は暑さにも強い。〈魔王〉の血のせいか、適温の幅が大きいのだ。とはいえ、程度によるが。
それでも考えこんでいたペルルは、ぱっと笑みを浮かべるとベンチの端へ寄り、場所が開いた方の腕を持ち上げた。マントがそれにつれて広がる。
「いえ、ペルル、それは」
彼女が示唆することを察して、尻込みする。
「ほら、冷えてしまいますよ」
悪戯っぽく重ねて告げられて、観念した。隣に座ると、ペルルがアルマの肩にマントの半分をかけてくる。
そのまま腕は自分の方へと戻したので、半ばほっとした。
「随分と寒くなってきましたね」
カタラクタに上陸してからずっと、天候は寒さを増すばかりだ。今朝などは霜が下りていた。
「この時期が、一番寒いものですから。南部ですからまだましですが、場所によってはこの辺りでも雪が降りますね」
この地が南であることは知っているが、冬に雪が降ることがある、という程度の認識であることに軽く驚く。
イグニシアの王都は、もう深い雪に悩んでいるだろう。
「……私がフリーギドゥムを出たのは、まだ秋の終わりぐらいでしたのに。こんな形で帰ってくることになるなんて、思いませんでした」
ぽつり、とペルルが零す。
「街に出てみたいですか?」
ペルルは、まだ帰還していることを公にできないため、アルマと同様に屋敷に軟禁されている。故国の街を歩いてみたいのではないか。そう思って尋ねたのだが、姫巫女は小さく首を振った。
「むしろ、表に出なくてはならない時が、恐ろしいのです。アルマ」
確かに、その時のことを考えると、アルマでさえも不安に思う。
「……ペルル。止めても、いいのですよ」
自分の無力さを再認識しつつ、言葉を紡ぐ。だが、予想した通り、ペルルは静かに口を開いた。
「自分で決めたことです。覚悟もできています。ですが……」
ペルルは真っ正面を見つめたままだ。
その視線の先にあるカスケードは、冬場のためか水が止められている。最下層に溜まった、黒々とした水に幾つも落葉が浮いていた。
「護って頂けますね、アルマ。私たちを」
身につけた純白の聖服、膝の辺りをぎゅっと握っていた小さな手の上に、アルマは自らの掌を置いた。冷え切っていたのか、じんわりと冷たさが滲んでくる。
「当たり前ですよ、ペルル。グランに言わせれば、俺は世界中の民を護るために産まれてきたそうですからね」
おどけたように告げる。
ペルルは吐息を白く染めながら、小さく微笑んだ。
オーリたちが館に帰還したのは、結局彼らが上陸してから一ヶ月近く経った頃だった。
「ご苦労だったな」
いつものように人目を避けて戻ってきた三人を、グランがねぎらう。
最初の頃は館に戻っていたが、ロマに歌を教えている間は街で宿を取ったり、野営地に泊まりこんだりしていたのだ。
流石に全員、疲労の色が濃い。
「お帰りなさい、プリムラ」
「ただいま帰りましたっ!」
若いせいか、ペルルの言葉に元気に答えて、プリムラが満面の笑みを浮かべる。一方、二人の男たちは長く溜め息をつきながら椅子に沈みこんだ。
「あー……。ええと、報告は行ってる?」
間延びしたオーリの言葉に、頷く。
「昨夜届いた分までは」
「じゃあ全部だ」
背もたれにもたれ、目を閉じてクセロが呟いた。
少なくともオーリたちが休めない間は、彼も休めない。直接報告に来る時間も取れず、トルミロスの部下に伝言を託したりしていた。
「顔色が悪いな。ちゃんと寝てないんだろ」
アルマの非難に、オーリが力なく手を振る。
「時間がなかったんだよ。ロマだって、全員が何日も興行を休めない。時間をずらして習いにやってくるんだ。それに対応するとなると、削れるのは睡眠時間しかない」
「それにつき合わされるこっちの身にもなってくれ」
クセロが大欠伸をしながら呟く。
「でもな、結局、寝てないとまず身体が保たないだろ。俺はクレプスクルム山脈越えで、少なくとも食事は日に一回削っても何とかなったが、その分の時間眠ってたぞ」
「……君が言うと説得力があるな……」
あの雪山を思い出したか、僅かに真顔になってオーリは返した。
「まあ、次の機会があったら気をつけるよ。それで、状況はどうなってる?」
さらりと話題を変える。グランに視線を向けられて、トルミロスが小さく咳払いした。
「北地区及び東地区から移動したロマは、着実に周辺の村落や街へ移動しています。報告によると、規模の小さい村などでは、反応は熱狂的だそうですよ」
男の言葉に、実働部隊はそれぞれ満足げな笑みを浮かべた。
「南地区と西地区についてはこれからですし、更に遠くへ行くことにもなるでしょうから、すぐに結果はでませんね。それに、旅立っていったロマたちが、他の地域のロマへあの歌を教えている、ということは少ないようです」
続いた報告に、オーリは眉を寄せた。
「予測はしてたけど、やっぱりか」
「まずいのか?」
アルマの問いに、小首を傾げた。
「私も今回のことがあるまで、よく判ってなかったけどね。ロマたちは、一つの組織じゃない。お互いに仲間だという感情はあるけれど、同時に商売敵でもある。人を呼べる楽曲を手に入れて、それを惜しみなく周囲に教えていくというのは、まずあり得ないことだ。大陸の反対側から彼らをしっかり統率できるほど、イェティスの腕は長くない」
「……まずいな」
さり気なく部下に責任を押しつけたところには触れず、グランが呟く。
「でも、まあ、さほど心配することはないよ。彼らは、他人から盗むことで技量を磨いてきた。殊に、知らない楽曲は貪欲に手に入れようとする。まして、それが人を呼べるものなら尚更だ。その場所にいたロマたちは、今頃必死にあれを覚えようとしているよ」
苦笑しつつ、オーリは続けた。
「何だ。大丈夫なのか」
「いや、でも、きちんと教えていくよりは盗み見る方が時間がかかる。どうしよう、他の街へ私が出向いて、また教えてこようか?」
グランへ視線を向けて、問いかける。腕を組み、幼い巫子はしばらく考えこんだ。
「……正直、今の時点でお前をあまり人目に晒したくはない。お前も、僕たちにとって充分隠し玉なんだ。最初の街は仕方がなかったが。それに、クセロも幾つもの街で動いては不審を招く。クセロの相手は、ロマよりも容赦ないからな。
広まるのが遅くなると言っても、歌うことができる絶対数は増えているんだ。一人で教え続けるよりはよほど早いだろう。できれば、三つの藩ぐらいに広がった辺りで動き出したい。僕らが準備をしている間に、更に広がって行く筈だ」
全員の顔を見渡す。特に反対意見もないと見て、グランは頷いた。
「では、しばらくは待機だ。とりあえず、お前たちは充分に休め」
再び、雌伏の日々が続いた。
トルミロスのように、カタラクタに溶けこんでいる火竜王の巫子の拠点は、さほど多くない。一つの藩に、二箇所もあればいい方だ。
しかし、トルミロスは商売人でもある。部下に命じ、同業者との雑談の中で、巧みにロマの動向を探らせていた。その情報は、日々、彼の元に集まってくる。
居間の壁にはカタラクタ南部の地図が貼られ、ロマが例の歌を披露した場所には鮮やかなピンが刺された。
基本的に退屈な日々の中、彼らは一日に一度はそれを見に集まった。
場所が離れているほど、情報を手に入れるには時差が生じる。それでもぞくぞくと目撃情報は集まり、加速度的にロマが奏でる新しい歌が広まっていくのが目に見えた。
そして、そのピンが北と東の領土の境界線を越えた夜に、グランは宣言した。
「では、行くぞ。取り戻すために」
明け方に、トルミロスの館を辞する。一ヶ月以上も滞在していたせいか、流石に名残惜しい。
「世話になったな」
「お役に立てて何よりです、グラナティス様。竜王のご加護を」
グランの言葉に、深々とトルミロスが頭を下げた。
これより先、彼とは全くの無関係を装うことになる。どこかで行き会っても、何かまずいことに巻きこまれても、表向きにはただの他人だ。
今回は馬車を二台仕立てた。全員が乗っていくためだ。出来る限り、人目につきたくはない。
松明の燃える街路を、がたがたと進む。港に着き、トルミロスの桟橋に係留されていた船に、再び乗りこんだ。
「昼には着くかな」
頭上で竜王兵たちが出航準備に追われている音を聞きながら、アルマが呟く。
今日は、皆が口数が少ない。彼でさえ、喋ったのはこれで数語といったところだろう。
「おそらく。準備を済ませて、戻ってこられるのは明日の朝だな」
独り、グランのみが泰然として答えた。
その朝、モノマキアの港は騒然となった。
一艘の帆船が近づいて来たのだ。メインマストに揚げられた主帆には、真紅の竜王の紋章が染め抜かれている。
「……火竜王宮……?」
呆然として、人々が呟く。
彼らを今後支配する国の竜王宮が、このような威圧的な形で姿を見せたことで、現実が一気に肩にのしかかる。
ざわざわと騒ぐ人々の中、港の執政所から慌てて数人の執政官が飛び出した。小舟に乗りこみ、竜王宮の船へと進んでいく。
「こちら、モノマキア港の執政所! 貴船の目的をお知らせ願いたい!」
呼びかけると、船縁に一人の男が近づいた。真紅の制服を着ていて、見下ろす視線は酷く威圧的だ。
「こちらは火竜王宮竜王兵、本宮所属、第一隊隊長のドゥクスだ。モノマキアの水竜王宮へ来訪するために参った。まずは書状をお届けしたい。入港の許可を求める」
堅苦しく告げられた言葉に、汗が滲む。
「入港、は、少々お待ち頂きたい。相応の場所を空けさせます。ご使者の方は、先導致しますので宜しければ舟でおいで頂ければ」
「竜王宮まで先導いただけるか。ありがたい。なにせ、この街は右も左も判らぬでな」
にやり、とドゥクスと名乗った男が笑う。
噂に聞く、イグニシアの戦士の蛮勇を思い出して、執政官は気を失いそうになった。




