01
肌を刺す冷気に身を震わせ、彼女はぼんやりと目を開いた。
窓を隠す分厚いヴェルヴェットのカーテンは、外からの光を遮断している。今がまだ夜なのか朝なのかも判然としない。
ただ、その寒さと暗さから、暖炉の火が小さくなっていることが知れた。無闇に寝室へ入らぬように、と周知させていることを棚に上げ、彼女は腹立たしく思いながら枕元のベルに手を伸ばす。
小さな音が響いて、すぐに寝室の扉が開いた。
「お目覚めですか、王女様」
見慣れた金髪の青年は、全く予測しなかった相手だ。
「イフテカール? 貴方、いつから小間使いになったの?」
ステラの嫌味を全く気にした様でもなく、僅かに首を傾げて青年は口を開く。
「お目覚め次第お知らせを、と外に控えておりました。昨夜より、国王陛下が臥されておいでです」
僅かにステラの表情が暗くなる。
「そう。……容態は?」
「特に危険はないとのことです。が、全快の見こみはまだ」
「お会いできるかしら」
「ステラ様でしたら、いつでも、と」
「判ったわ。着替えます。貴方が手伝ってくれるのでなければ、誰かを呼んで頂戴」
王宮の廊下を歩く。
窓から見える風景には、重く雪が積もっている。濃い灰色の空は、酷く低く彼女にのしかかってくるようだ。
先導する侍女の手にした蝋燭の灯りに目を戻す。
世界は、未来は明るいだけではないと、思い知ったのはいつの頃だろうか。
今、彼女の世界は、そして未来は、この冬の空のように重苦しい。
しかし、ステラは毅然として真っ直ぐ前を見詰めていた。
彼女は、王女であるのだから。
王の寝室は、ここもまた暗かった。
「お父様? ステラです」
「おお、お前か。入りなさい」
くぐもった声が返ってきて、室内へと足を踏み入れる。柔らかな毛足の長い絨毯は、足音の一つも漏らさなかった。
「ご機嫌いかが?」
枕元に立って、努めて明るく、そう問いかける。
王は特に大病だ、という訳ではない。
ただ、半年ほど前から、時折寝こむようになってしまったのだ。これと言った症状もなく、数日すればある程度回復するものではあるが。だが、徐々にその頻度は多くなり、また身体はずっと衰弱し続けている。
このままでは、緩やかに死へと向かうのではないだろうか。
そのような不安を、漠然と王宮の者たちは抱いていた。
ステラが、いかにも父王思いの娘、という風に話しかけている。
部屋の片隅には、目立つことなくイフテカールが立っていた。彼がこうして寝室内にいることを、もう誰も疑問にすら思っていない。
夕方近くになって、イフテカールは王宮の無人の廊下を歩いていた。ある扉を開き、一歩中に入る。
その瞬間、彼は下町にある彼自身の隠れ家へ足を踏み入れていた。暖かな空気が彼を歓迎している。
吐息を漏らしながら首周りを寛がせていると、背後で小さく扉が開いた。
「お帰りなさいませ、偉大なる龍神の使徒よ」
深々と頭を下げているのは、痩せた初老の男だった。忠実な家令である彼とは、長いつきあいだ。
「ただいま帰った。何かあったか?」
「カタラクタのモノマキアより伝言が参っています。戻り次第ご連絡いただきたいと」
モノマキア、という言葉に眉を寄せた。そこにいる相手は、そんな穏やかな伝言を残すタイプではない。
「いつからだ?」
「ほぼ十時間ほど前より」
おそらく、限度一杯の一時間に一度の頻度で連絡を入れてきたに違いない。イフテカールは手を伸ばし、軽く家令の苦労を労った。
そして、傍らの卓の上にある本を手に取る。開いたページには、ただ一人の名前のみが書かれていた。インクの発色はやけに濁り、ところどころ塊となって羊皮紙に貼りついている。
「エスタ? 私ですが」
『遅い! 何をしていた、イフテカール!』
虚空に声をかけた瞬間、どこからか怒声が彼に浴びせられた。
「そう喧嘩腰にならないでください。私は色々と仕事があるのですから。貴方と違って、最後まできちんと面倒をみる性分なのでね」
当て擦りを言うと、向こうの気配がややむっとした。
『王女を誑かすことが、それほど大切な仕事なのか?』
「昨夜は王女じゃありません。陛下です」
『陛……っ!?』
さらりと告げると、絶句した。
尤も、国王を誑かすことなど、もう三十年も前に完了している。今更手を加えることもない。
そこのところは特に説明せず、くるりと向きを変えてソファに身体を沈めた。
「ところで、何の用事だったのですか? まさか王女の件で私に文句を言いたかった訳ではないでしょう。可哀相に、私の家令は夜明け前から休めていない有様じゃないですか」
静かにワイングラスを差し出した家令が、小さく会釈する。苛立たしげな口調とは裏腹に、穏やかに笑むとイフテカールはグラスを手に取った。
『お前がさっさと連絡を寄越せば、一度で済んだんだ。まあいい。事態が動いたぞ、イフテカール。今朝方、カタラクタ南部の藩が、竜王の巫子と連名でイグニシア王国軍へ向けて宣戦を布告した』
「……なんですって?」
流石に、イフテカールの顔が強張る。
「宣戦布告? 巫子が?」
『そう言っている』
相手は、いつも慇懃無礼なイフテカールが動揺したことに、こんな時にも関わらず僅かに満足したようだ。
が、青年はそんなことを気にもしない。
「竜王の巫子が、ですか? 宣戦布告して、戦を起して、民を死なせるつもりだと?」
ある意味、侮っていたと言えるのかもしれない。
巫子は、決してその手段だけはとることはない、と高を括っていたのだ。だからこそ、彼は二度に渡って他国に軍を侵攻させていた。
エスタが鼻を鳴らす。
『お前は変なところで常識的だな。あのグラナティスが、その程度のことをやらかさない訳がないだろう』
「……妙な説得力を出さないでください」
うっかり納得しそうになりながら呟く。
「今朝、と言いましたね。今までに兆候はなかったのですか?」
『前にも言ったが、領主の屋敷に藩内の郷司と周囲の領主が集まってはいた。だが、会議の中身までは把握できていない。軍事行動を起すなら、宣戦布告前に物資を集めなければならないが、モノマキアで大きく資材が動いた形跡もない。貴族の集まりは目立つからな。おそらく、目を惹かないように、他の藩でそちらを融通したのではないかと思う』
確かに、その程度のごまかしはするだろう。宣戦布告をするまで気づかれなければいいだけだ。
『あと、兆候といえば、妙なことが起きていた』
「何ですか?」
ふと思い出したようなエスタの言葉に促す。
『関係あるかどうかは判らないが、街で、ロマが妙な歌を歌っているんだ。大昔に、竜王と龍神が戦ったとか何とか』
「ロマが?」
イフテカールが生きてきたのは、決して短くない年月だが、今までにそのような歌を聴いた覚えはない。しかも、それは決して快い内容ではなかった。
「お話中失礼致します、偉大なる使徒よ」
背後から、ひっそりと家令が声をかけてきた。
「何だ?」
「その歌とおそらく同一だと思われるものが、ここ三日、城下でも歌われております。後ほどご報告しようと思っておりました」
眉を寄せて、イフテカールは黙りこんだ。向こうにも家令の声は聞こえているせいか、エスタも沈黙を続けている。
「詳細を調べろ。いつまでかかる?」
「明朝には」
家令への命令に、即座に返答が返ってくる。
「よし。……エスタ。他の街にも調査の手配をしておきます。一時間ほどかかりますが、それが終わったら一旦そちらへ参りましょう。少し様子を見ておきたいですし、どうやら貴方との関係を直結に変えた方がいいようだ」
『直結?』
「貴方が連絡を取りたければ、直接私に繋がるようになります。場合によってはしばらく待って頂きますが、今までのように屋敷に戻るまでは連絡できない、ということにはなりません。ただ、少々苦痛が伴いますよ」
『判った。早く来い』
脅すように言った言葉に、あっさりと了承が返ってくる。
「最近は気にもしないのですね。お好みが変わりましたか?」
僅かにつまらなそうに、金髪の青年はぼやいた。
『お前のように複雑な趣味は持っていない。ただ、覚悟はある。それだけだ』
だが、イフテカールの不満を感じ取ったか、その声にはやや満足げな響きが混じっている。
貴方も充分複雑だ、と言い返したいのを堪え、では一時間後に、と告げて青年は本を閉じた。
エスタは、その羊皮紙に目を通したイフテカールの顔色が見る間に青褪め、次いで一転して紅潮する様を、感心して眺めていた。
約束よりも少し遅れてこの部屋に現れて以来、やれ狭いの汚いの客をもてなすつもりがないのかだの、更にはエスタの無精髭を延々と非難し、見苦しいから剃り落とすか整えるかどちらかにしろと命令してきたのだ。
かなり鬱陶しかったので、昼間に手に入れてきた布告を顔の前に突きつけてやったら、押し黙ったが。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
「……なんっですか、これは!」
今までに見たことがないほど激怒して、イフテカールは羊皮紙をひったくった。
「宣戦布告の内容だ。ほら、領主と一緒に竜王の巫子の名前が」
「それは聞いていたから判ります! ですが、この、謗言だらけの宣告は一体何ですか!」
反乱軍は、カタラクタへ侵攻してきたイグニシア王国軍が龍神の支配下にあると断じ、龍神がどれほど非人道的であるかを口を極めて描写している。
まあ、その辺りについては、エスタはさほど詳しくもないし、興味もない。
「根も葉もないことなのか?」
「当たり前です! 世の中には、絶対的に神聖不可侵の存在というものがあるんですよ。それをこんな、公的な媒体で口汚く罵るなど、到底許されることではありません!」
十数秒間、言葉の内容を吟味する。
「それ、根も葉もないとは言ってないんじゃないのか」
ぐしゃり、とイフテカールの華奢な手の中で、羊皮紙が握り潰された。
「何を人事のように言っているんですか、エスタ。世が世なら、我が主の配下だった〈魔王〉の裔など、地べたに這い蹲って主に仕えるべきですのに」
「実際這い蹲ってるお前に言われてもな……」
見たことはなかったが、まあ間違いあるまい。
が、イフテカールはふっと小さく笑う。
「我が主に直接お目通りしたこともない卑小な人間如きが、私と同列だなどと比べないで頂けますか?」
「悪いが、私は首輪の色の自慢をし合う趣味はないんだ」
冷静に拒否したつもりだったのだが、金髪の青年は、はっと息を飲んでエスタを見上げてきた。
「そう……ですね。申し訳ない。私としたことが、首輪も下賜されていない取るに足らない虫けらに自慢がましいことを言うなどと、卑俗なことを」
「いや、羨ましいとか思ってる訳じゃ全くないんだが、それ、お前は本気で私を哀れんでいる訳でもないよな?」
流石にそこはきちんと問い質したい。
しかし、イフテカールは小さく肩を竦めると、視線を羊皮紙に向けた。皺の入ったそれを丁寧に再び広げ始める。あまり上等な羊皮紙でもなかったか、皺に沿ってひびが入った場所もあり、破砕されたインクが細かい粉末になって零れ落ちた。
「しかし、こうして我が主の存在を公言したことと並行して、ロマが歌を広めているとは。ニネミアの巫子の仕業ですかね」
小さく独りごちる。ともあれ、冷静になったのならそれでいい。
再び傍観者の立場で待っていると、金髪の青年はもの思わしげに視線を向けてきた。
「そのロマの歌は、どこへ行けば聴けるのですか、エスタ?」




