輝いて見えたのは、きっと 4
残酷な描写や辛いシーンがありますので、苦手な方はご遠慮ください。
それが視界に入った瞬間、思わず悲鳴が漏れそうになったわたしの口を、シャノンさんが片手で素早く塞いだ。
「……あまり、刺激をしないで。あれはね、人間が怯えたり苦しんだりしている姿を見るのが好きなの。だから、わざわざ異空間なんかに引き摺り込んで、追いかけ回して追い詰めて、じわじわと痛めつけて殺す」
「…………っ」
なんとか小さく頷けば、彼女はそっと手を離してくれた。
言葉の意味は分かっていても、理解したくはなかった。そんな恐ろしく残虐なSクラスの魔物を前にして、生き長らえる自信なんて、正直ひとかけらも無かった。
黒いモヤのような、人の形をしたそれはフードのような布を被っていて、遠くからこちらを見ている。目というものは目視できないけれど、見られている、という確信があった。
「とにかく、時間を稼ぐしかない。そのうち、私達が居なくなったことに気がついて、クソメガネ辺りが助けに来てくれることを信じるしかないわ」
「……異空間まで、助けに来れるものなんですか?」
「一応ね」
シャノンさんは、自嘲するような笑みを口元に浮かべた。
「クソメガネくらいの魔法使いでも、魔力はかなり使うでしょうし、身体はズッタズタになるでしょうね。無理矢理入ってくるには負担がかかるから」
「…………」
「私は身体を治せても、魔力の回復までは出来ないもの。そんな状態であいつを倒せる確率、どれくらいなのかしらね。頭の悪い私にはもう、分からないわ」
でも、こんな所で死にたくない。彼女ははっきりと、そう言った。わたしだって、もちろんそれは同じだ。
「エルヴィスのあの身体じゃ多分持たないから、彼が来るのは期待はしない方がいいわよ」
まるでわたしの心の中を読んだかのように、シャノンさんはそう言った。それでもきっと、エルが助けに来てくれると心のどこかで期待してしまっている自分がいる。
だんだんと、それはこちらへと近づいてきていた。怖くて足が震えだすわたしの手を、シャノンさんが握りしめた。
「とにかく、逃げるしかない。私が何でも治すから、お前は足がもげてもなんでも走り続けなさい」
「分かりました」
そしてわたし達は、あてもなく走り出したのだった。
◇◇◇
けれどそんな命懸けの追いかけっこも、やがて終わりを告げた。わたし達を追いかけるのに飽きたらしいそれは、行き止まりを作り出したのだ。
途中、背後から右手を切り落とされたけれど、叫ぶ間も無くシャノンさんが直してくれた。彼女の治癒能力に驚きつつも、すぐ目の前まで「死」が迫っていることを実感し、必死に走りながらも涙が止まらなかった。
見えない壁のようなものに背を預け、対面する形になる。
「ほんっと悪趣味ね……最初からこうすることも出来たはずなのに、ただ私達を走らせて、はあ、」
「っはあ……はあ、」
「こちとら、ダイエットなんていらない体型だっつの!」
全速力で走り続けていたせいで、息が苦しい。喉が、焼けるように痛い。足が、ひどく重い。
こんな絶体絶命の状況でも、強気なシャノンさんのお陰でほんの少しだけ心が軽くなる。
けれどだんだんと近づいてくるそれは、黒いもやのようなものを鎌のような形にしていく。彼女の話の通り、それでわたし達を少しずつ切り裂き、楽しむつもりなのだろう。
「っわたしが、少しでも時間を、稼ぎます……!」
相手がSクラスの魔物と言えど、魔力量が多いらしいわたしの全力の火力なら、少しくらい時間は稼げるはず。
先程走りながらシャノンさんに話を聞いたところ、あの魔物は異空間を作り出す能力により、Sクラスに分類されているのだという。強さで言えば、Aクラス以下らしい。それでも、わたしなんかがまともに戦えるような相手ではない。
わたしは彼女の前に立つと両手をかざし、できる限り最大の火力の炎を魔物に向かって放出した。
それでも、黒いもやのようなもので身を守ったそれは、少しずつ、少しずつ押し返してくる。いくら全力を出したところで、長くは持たないとすぐに分かった。
「……っ、う、」
一体、どれくらいの時間が経ったのだろう。時間の感覚なんてまるでなかった。
魔力が勢いよく減っていくのと同時に、燃えるような熱さがじわじわと指先から広がっていく。限界まで魔力を放出しているせいで、魔力暴走を起こし始めているのだろう。
それでもこの手を止めてしまえば、間違いなく二人とも殺される。だからこそ、絶対に止める訳にはいかなかった。
「バカ! お前、手が……!」
「っう……あ、……!」
指先から、腕全体まで痛みが広がっていく。
痛い。痛い。痛い熱い痛い熱い。あまりの痛みに叫び声すらもう出なかった。肉の焦げるような匂いが、鼻をついた。
呻き声なようなものが時折口から溢れていくだけで、息が出来ているのかも不安になる。
シャノンさんが同時に治してくれているお陰で、腕はなんとか形を保ち続けているけれど、燃えていることに変わりはない。常に頭がおかしくなりそうな痛みに襲われる。
「もういい! やめて、もういいから……!」
背中越しに、シャノンさんの啜り泣くような声が聞こえて来ていた。それでも。
──きっと、エルが助けに来てくれる。だから一分でも一秒でも、生きていないと。
そんな想いが、途切れそうな意識をなんとか繋いでいた。
「…………っ」
けれど限界が来たのは、わたしの身体や精神ではなく、魔力の方だった。もうすぐ空になると、分かってしまう。
もう駄目だと、意識が遠のく瞬間だった。
「──よく、頑張ったな」
そんな言葉が耳に届いたと同時に、身体が軽くなった。
痛みも何もかもが消え、ふわりと温かい何かに包まれる。この温もりや匂いを、わたしが間違えるはずなんてない。
「……エ、ル?」
「ああ」
彼はわたしを抱きしめる腕に力を込めると「遅くなって悪かった」「生きていてくれて、良かった」と呟いた。まるで子供をあやすような、ひどく優しい声だった。
エルが、助けに来てくれた。
それを理解した途端、色々な感情が込み上げてきて涙が止まらなくなっていた。ごめんなと何度も謝られる度に、涙が止めどなく溢れていく。
エルはわたしの後ろにいるシャノンさんにも、頑張ったなと優しく声をかけて。「そんなの、エルヴィスらしくない」なんて言ってわたしと同じくらい大泣きする彼女に「ジゼルを頼む」と言うと、彼はわたしからそっと離れた。
そして、頬をそっと撫でてくれたエルと目が合った瞬間、わたしは息を呑んだ。
「すぐに、片付けてくる」
言葉を失うわたしを見て、エルは困ったように笑って。いつの間にか大きな氷が突き刺さり、地面に倒れ込んでいた魔物の元へと向かっていく。
そんなエルの姿は、わたしの知る彼のものとはまるで違っていた。首元までの長さだった髪は、腰辺りまで伸びている。声だって少し低くなっていたことに、今更気が付いた。
そして何より、先程間近で見たその顔立ちは、ひどく大人びていて。身長だって、記憶の中よりもずっとずっと高い。
誰がどう見たって、今の彼は大人の男の人だった。




