第一話 7
7
カルテットなんて、ばからしい。
ユリアは周囲のあちこちから聞こえてくる四重奏に辟易して、どこか音のない場所はないかと、校内のあちこちをさまよっていた。
庭からも、第一校舎からも、第二校舎からも、新旧の寮からだって四重奏が聞こえてくる。
揃ってもいない四重奏なら、まだ電車の音を聞いているほうが心地いいくらいだった。
そもそも楽器は、一個でも完璧な調和を作る必要がある。
ヴァイオリンなら四本の弦を寸分の狂いもなく調律しなければならないし、内部の響きにも合わせていかなければならない。
使われている木の振動、内部の反響、弓の摩擦、指板に添えた指の位置――なにもかもが完璧でなければ、本当に美しい音にはなり得ない。
たったヴァイオリン一挺でも美しい音を出すのはそれほどむずかしいことだ。
なのに、複数人で完璧に調和する音を出すなんて。
そんなことは、絶対に不可能だ。
「――強いていうなら、自分が四人いて、まったく同じヴァイオリンが四挺あれば、できるかもしれないけれど」
現実にそんなことはあり得ないのだから、四重奏が完全な響きを帯びることは絶対にない。
ただただ不愉快なだけの雑音。
でも、だれも気づかない。
みんなそれはまともな音だと感じて、知らず知らずのうちに雑音を奏でている。
――他人と調和することが、そもそも不可能なのだ。
楽器という以上に、人間として。
ある個性を持った人間が、別の個性を持った人間とまったく同じ暮らしをすることは絶対にできない。
個性というのはいわばトゲだ。
トゲ同士で傷つけ合った挙句、もうすこし距離を取ったほうがお互いのためだ、と気づくのが関の山。
それならはじめから、近づかなければいい。
どうせ他人と完全に一体化することはできない。
それができたとすれば、そのときはもう、自分というものがなくなってしまっている。
自分が自分であるかぎり、ユリア・ベルドフというものであるかぎり、それ以外のものとは関係できない。
音楽も、生活も。
孤独だってかまわない。
ただ美しくさえあれば、すべてが許される。
どんなにわがままでも、どんなに嫌われていても。
奏でる音が美しければ、それで。
「――でも」
ユリアは鳴り止まない四重奏に頭痛さえ覚えながらため息をついた。
「やっぱり……ちゃんと、言っておかなくちゃいけないんだろうなあ」
昨日のこと。
階段でぶつかり、あわや大切な楽器を壊しそうになって、なんとかそれを助けられたこと。
思い出してみれば、苛立ちに任せて前を見ていなかったのはユリアのほうだった。
ユリアからぶつかっていって、ユリアの楽器を守るために階段を転がり落ちて――まあ、結果的にその男子生徒にも怪我はなかったからよかったようなものの。
その場で礼は言ったが、もう一度ちゃんと謝っておくべきことなんだろうと、ユリアは今朝からそればかり考えていた。
――ユリアがわがままやら遠慮がないやら言われるのは、あくまで音楽のなかの話だ。
音楽と関係ないところでは、ユリアはできるだけ公正に生きていきたかった。
あいつは自分の音楽をばかにしたから仲間はずれにしてやる、なんて仕打ちをたっぷり受けながら幼少期を過ごした分、ユリア自身はそんなくだらない人間にはなりたくない。
音楽は、あくまで音楽として――だめなところは認められないし、だれかが間違えばそれを指摘するのは当然だが、そんな感情を音楽の外まで持っていきたくはないのだ。
もっとも。
ここには、音楽と自分自身を重ね合わせている人間がほとんどだから、音楽を否定されると人格を否定されたような気になってユリアに反感を持つ人間は多いのだが。
「ああでも」
謝りたくないなあ、とユリアは呟く。
謝るという行為は、なんとなく弱みを見せる行為のような気がして。
完璧でありたい自分の価値を落とす行為のような気もするし、でも自分が悪いと思っていながら謝ることさえできないような子どもっぽい人間でもいたくないし。
なかなか複雑な、むずかしい葛藤だった。
ユリアは静かな場所を探し、ヴァイオリンケースを片手に敷地内をうろつきながら、ぶつぶつと独り言を呟く。
「謝ろうにも、あれがだれだったのかもよくわからないし。何科のだれなのかもわからなかったら探しようもないんだから、謝ろうと思っても無理よね。先生に聞くったってどんな男子生徒だったのか説明できないし――なんか特徴のない、普通の感じの顔だったし。探せないんじゃ、謝りたくても謝れないわ。うん、そう、そういうことにしよう」
謝りたい、という気持ちがあることはたしかだが、謝れないんじゃどうしようもない、と思うことにして、顔を上げた矢先。
「あ」
「う」
まさにばったりと、真正面から歩いてくる男子生徒と目が合った。
第二校舎のすぐ前だ。
――いったい、こんなことが起こりうるのだろうか。
普段ならだれかと視線が合っても無視して歩き去るところだが、タイミングがタイミングだっただけに、ユリアは立ち止まってしまった。
立ち止まってしまうと、なにもなかったふりをして立ち去ることもできなくなる。
向こうも、まるで金縛りに遭ったように動けず、じっとユリアを見ていた。
――なんの特徴もないような、日本人の男子生徒。
背も普通、顔も普通、楽器も持っていない。
あとでこの人物について説明せよ、といわれてもなにひとつ表現できないような、せいぜい髪の毛と瞳が黒く、髪はちょっと短め、といえるくらいの男子生徒だった。
しかし、間違いはない。
他人には説明できないが、目の前に現れるとさすがにわかる。
昨日階段でぶつかった、あの男子生徒だ。
ユリアはとっさに昨日のことを謝ろうとしたが、一度謝ることをやめる決心をしたせいで、言葉が出てこない。
「え、えっと、あの――」
いつも毅然と胸を張っているユリアらしくもない、もじもじとした態度。
相手の男子生徒は怒鳴られると思ったのか、やけにびくついていたが、そうではないらしいとわかって不思議そうな顔をする。
その、のんきそうな顔にユリアはすこし苛立つ。こっちは意を決して謝ろうとしているというのに。
「その、だから――き、昨日のことなんだけど」
「きみさ」
やっと言い出したユリアの声を遮り、男子生徒は言った。
「それ――ヴァイオリン、だよね?」
ユリアが右手に持った黒いケースを指さしているが、それがヴァイオリンケース以外のなにに見えるのか、そのほうがユリアには不思議だった。
「そうだけど――」
「じゃ、きみ、ヴァイオリン科?」
「そりゃあ、ヴァイオリンを持ってるんだから、ヴァイオリン科でしょ」
「ちょうどよかった!」
男子生徒はぱちんと手を叩き、顔をほころばせる。
――笑うと、なんだか音楽と無縁そうな、それでいてだれよりも音楽を愛していそうな、素朴な顔をしていた。
「ヴァイオリン科の生徒を探してたんだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「別に、いいけど――なによ?」
けんか腰なわけではないが。
なんとなく、ユリアは男子生徒をにらむ。
さっきは怯えていたくせに、男子生徒はもうユリアがにらんでも怯えず、
「ヴァイオリン科に有名な生徒がいるって聞いたんだけど、知ってる?」
「有名な生徒? どういう意味で有名なのか、わからないけど」
「めちゃめちゃヴァイオリンがうまくて、めちゃめちゃ美人で、めちゃめちゃわがままだっていう――えっと、名前はなんだったかな、ゆ、ゆ……」
「ユリア・ベルドフ?」
「そう、それ! その子、知ってる?」
知っているもなにもないわけだが、ユリアはふうんと適当に相槌を打ち、うなずいた。
「同じ科だし、見かけたことはあるけど。それがどうかしたの?」
どうせろくでもない話にちがいない。
いままでも何度かあったことだ――男子生徒に呼び出されて、好きだのなんだの。
もちろんユリアはすべて断ってきた。
それがどこの国の男であろうと、どこの科の生徒であろうと、音楽をする上で異性は、突き詰めてしまえば同性すら必要はない。
自分自身と楽器があれば事足りる。
音楽学校に通うくらいだからそれくらい理解している生徒ばかりだと思っていたのに、入学してから立て続けにいくつかあって、うんざりしたことをいまでも覚えている。
いまではさすがにユリアの態度も相まってそんなことはなくなったが――もしこの男子生徒がそのつもりなら、この場は適当にごまかして、謝るのもやめようと思う。
思ったのだが。
「実は、いまカルテットのメンバーを探してるんだ。できればその子にメンバーになってほしいんだけど、うまくいかないもんかな」
「――カルテットのメンバー?」
「そう。まだ、ふたり――いや」
男子生徒は笑顔で首を振って、
「さっき、三人になった。あとひとり足りないから、ぜひその子に入ってほしくてさ。めちゃくちゃヴァイオリンがうまいっていうし、あと美少女だっていうし、美少女だっていうし、美少女だっていうし」
「何回美少女言うの? 悪いけど――じゃなくて、よくわかんないけど、誘っても無駄なんじゃない? たぶんあの子、そういうのは興味ないと思うわよ」
「え、美少女に?」
「カルテットに! なんで美少女に興味持たなくちゃいけないのよ」
「えー、なんでだよ、カルテット、楽しそうだろ? きみもそう思うよな?」
「別に。面倒なだけじゃないの、カルテットなんて。ひとりでやったほうが楽だし、音楽的に優れてるわ――って、ユリアなら言うと思うけど」
「いや、そんなことないね」
「なんであんたが断言すんのよ」
「そのユリアって子のことは知らないけど――」
――男子生徒は、本当にうれしそうな、朗らかな顔で言った。
「カルテットが楽しそうだってことは知ってるよ。ほら、いまも――いろんなところから音が聞こえてる。四つの楽器でひとつの曲を演奏するなんて、それだけでもすごいことだろ。きっとユリアって子は、音楽が好きな子だと思うんだ。好きでもないのにめちゃくちゃうまくなるはずない。きっとだれよりも好きだから、だれよりも練習して、うまくなったんだと思う――そういう子なら、何人かで音を出す楽しさって、わかってくれると思うんだけど」
本当に心からそう信じているというような顔だった。
無邪気で、なにも知らないくせに、本質をついていて――ユリアは苛立ちを隠せなくなる。
「音を出して楽しいなんて、子どもじゃないんだから、もうそんなこと思ってないにちがいないでしょ。楽しい、うれしいだけでできることじゃないわ。もっといろんなものを捨てて、楽しいとかうれしいとか、そんな感情だって捨てなきゃ到達できないところに音楽はあるの。余計なものは全部捨てなきゃ歩いていけないくらい遠いところにあるんだから――楽しいなんて、もう思わない」
「そりゃあ、楽しいだけじゃうまくはならないかもしれないよ。でも、うまくなりたいのは、もっと楽しく音楽ができるようになりたいってことじゃないの? もっといろんなことが自由にできるようになりたいから――それに、そんな遠いところに本当の音楽があるんだとしたら」
――そんな場所で鳴ってる音楽は、きっとだれにも聞こえない。
「自分が鳴らした音をだれかが聞いて、だれかが鳴らした音を自分が聞いて――それが音楽なんだって、おれは思うけど」
ユリアはくるりと踵を返した。
これ以上、名前も知らない男子生徒と会話する意味はなかった。
言葉は無意味だ。
背景を持たない言葉は、とくに。
たしかにその男子生徒のなかでは、音楽とは楽しむものなのかもしれない。
この学校へ入学できるレベルなのに、未だにそんな小学生のようなことを考えていられる時点で変わり者に間違いない。
もし男子生徒にとっての音楽が文字どおり音を楽しむものだったとしても、ユリアにとっての音楽はそうではない。
根本的にそれがちがうから、彼の声は、ユリアには届かなかった。
カルテットの誘いも、交際の誘いも似たようなものだ――もう謝ることもやめて、ユリアはその場を離れ、校内でいちばん静かに思われる校舎の裏へ出た。
そこでヴァイオリンケースを開く。
ちいさなヴァイオリンは、ただ美しい音を出すためだけに改良を繰り返し、現代の形にたどり着いた。
そこには、こんな形なら楽しいだろう、というような、くだらない考えはない。
ただひたすらに音のため。
美しい音が出せないヴァイオリンにはなんの価値もない。
そしてユリア・ベルドフも同じ――美しい音楽を奏でる以外のことをすべて捨てたのだから、無理にでもそこにすがりつくしかなかった。
「――音楽が楽しいだなんて」
あの男子生徒は、いったい何科の生徒だったのか。
ユリアはヴァイオリンをあごではさみ、弓を構えた。
「きっと小学生みたいな音楽しか奏でられないんでしょうね――ばかみたい」
*
「ハルキ、それ、間違いなくユリア・ベルドフだよ」
「な、なんだってー!」
「……なに、そのうそくさいリアクション?」
「いや、ちょっとやっとこうかと思って――やっぱり、そうか。そうじゃないかと思ったんだよ。だって、超かわいかったもん。超美少女だったもん。あんな美少女、そう何人もいるはずないって思ったんだ。やっぱり、あの子がユリアだったのか」
金髪碧眼の、きゅっと細いあごをした可憐で美しい女の子。
ただ、ほんのちょっと、怖い女の子。
「そういえば、ぼくたち、前にも会ってたよね。すっかり忘れてたけど――そう、あの噴水のところでけんかしてたのがユリア・ベルドフだよ」
アルはシュバルツを抱き、猫かわいがりしながら言った。
はじめは女の子にモテるためとか言っていたのに、飼いはじめるとすっかりシュバルツに夢中のアルだ。
おれとしては、もうすこしかわいげがある猫ならよかったのだが。
シュバルツはいまもアルに抱かれ、いやそうな顔をしながら――たぶんいやそうな顔なのだと思う――抵抗を諦めたようにぐったりと足と尻尾を投げ出していた。
「道理で昼休みに探してもいないはずだよ――一応ぼくも勇気を振り絞って彼女を探してたんだけど」
「おれも偶然だよ――ああそうそう、ピアノはすげえいい子が見つかったんだ」
「え、美少女?」
「美少女、美少女。しかもすでに参加の承諾をもらったぜ」
「ほんとか。よくやった、ハルキ!」
「もっとほめてくれ。しかもな、ピアノが超絶すごいんだ。いや、うまいとか下手とかっていうか、すごくいい音なんだよ。アルにも一回聞いてほしいなあ」
「へえ、そんなに惚れ込んでるのか。名前は?」
「名前は?」
はて。
「……そういや、名前知らねえや」
「ええっ。カルテットに誘っておいて名前も知らないの?」
「いや、実はまだ一回も会話が成立したことはなくてさ。でもまあ、いい子だと思う。とにかくすごくいいピアノを弾く子だから。あと美少女だし――ちょっと幼いけど」
「じゃあ、残すはヴァイオリンだけだね。いっそシュバルツがヴァイオリンを弾ければいいのにねー」
ねー、と言いながらシュバルツの前足を弄ぶアルだが、シュバルツはされるがままで暴れもしない。
「でもヴァイオリンは、ユリアは諦めたほうがいいのかもしれないね。聞いた様子じゃ、カルテットには参加してくれそうにないし」
「うーん、おれの聞き方が悪かったのかもしれないけど――でも、希望がないわけじゃないと思うんだよな」
うんうんとおれはうなずく。
あの金髪の超絶美少女、ユリアは、最後にはどこかに行ってしまったけれど、でも、この学校にいるということは音楽が好きにちがいない。
それだけは、確信できる。
この学校には音楽があふれていて、音楽のためだけの生活を送るから――音楽がきらいな人間は、この場所には二日といられないと思う。
ここで学んでいるからには音楽が好きで、音楽が好きだということは通じ合える余地があるということ。
「まあ、無理にユリアを誘うことはないよ。ユリア以外にもヴァイオリン科でまだカルテットを組んでいない子はいると思うし」
「でも、ユリアのヴァイオリンはすごいんだろ?」
「うん、すごい」
アルは力強く断言した。
「本当に、すごいよ。あんなふうに弾けるひとは、プロにもいないと思う。技術的な問題じゃなくて――なんていうのかな、雰囲気っていうか、音のひとつひとつがちがうんだ」
「――うん、なんとなくわかるよ。今日カルテットに誘った子も、そうなんだ。技術の良し悪しはおれにはわからないけど、音自体が生きてるみたいだった。だったら余計にさ、カルテットの四人目はあの子がいいだろ? 四人で音を出したときに、絶対そのほうが楽しいはずだし!」
「それはそうだけどさー。向こうは、やってくれなさそうなんでしょ?」
「そのへんをなんとかしよう。なんでカルテットをやりたくないのか――そうだ、前にけんかしてたのって、たぶんカルテットの練習をしててけんかになったんだよな」
「たぶんね」
「じゃあ、そのときの仲間に話を聞いてみるとか。うんうん、それがいい、そうしよう」
「前向きだなあ、ハルキは」
「そりゃそうさ。後ろ向いてもしょうがないだろ――後ろにはもう見たことあるもんしかないんだぜ?」
「いや、そんな『おれいいこと言っただろ』的な顔で見られても」
でもまあ、とアルは笑う。
「たしかに、後ろを向くより、前を向いたほうが気分もいいね。ぼくも協力できることがあったら協力するよ。なんとか、ユリアに参加してもらおう」
「そうこなくっちゃ。よーし、明日も忙しくなりそうだぞ」
やることが決まれば、自然と気分も高まってくる。
おれはユリアが奏でる音を想像し、そこにピアノやバスや自分の声が混ざり合う風景を思い浮かべる。
はじめは、なんだかちょっと不協和音で。
でも練習をしていくうちに四人の音が混ざり合い、ひとつの曲になっていく。
それはきっと、ひとりで淡々と音を奏でるより楽しいことだ。
「うー、早く四人でやりたいなあ」
未知なる四重奏に思いを馳せながら、おれはベッドに寝転がった。




