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第一話 6

  6


 その子のことが、一目見たときから好きだった。

 恋愛感情とはまったく別の、本当に美しくて神々しいものを見たときの感情――息ができないような苦しさがあって、そのまま失神してしまいそうな、あの自分の内側からなにかがあふれ出すような感情。

 ――スタンダール・シンドロームというものがあるらしい。

 真偽はわからないが、スタンダールというフランス人作家がイタリアに旅行し、本場の芸術を目にしたときに目眩や失神のような症状を起こした。

 それはスタンダールだけではなく、同じようにイタリアへやってきて芸術を見たヨーロッパ人にしばしば起こる症状らしく、それをスタンダール・シンドロームと呼ぶそうだが――きっとそれと同じものなのだと思う。

 その子は、本当にきれいだった。

 奏でる音楽はもちろん、外見も、立ちふるまいも、なにもかもが洗練されていてきれいだった。

 わたしが好きなのは、ヴァイオリンを細いあごにきゅっと挟んで、弓を振り上げた瞬間の横顔。

 その細くて折れてしまいそうなシルエットが好きだった。

 なのに、音を奏でると、どんな暴風雨も敵わないくらいに荒れ狂って、まわりにあるものを全部弾き飛ばしてしまうくらい力強い。

 肌触りはすごく冷たいのに、情熱的な音。

 そんな音を出せるひとを、わたしは彼女以外知らない。

 天才というのは、技術云々ではない。

 技術は練習することでいくらでも上達する。

 天才というのは、ひとよりもたくさん練習をして上手になったひとのことを言うのではなく、生まれたときからひととはちがうものを持っているひとのことを言うのだ。

 彼女が奏でる音は、彼女にしか奏でられない。

 同じ曲を同じように弾いても、それがいくら完璧な再現であっても、絶対に彼女の音のような興奮はない。

 彼女は本物の天才だった。

 ひとはだれでも、なにかしらの天才ではある――問題は自分がなんの天才なのかわからないこと。

 好きなものは音楽だけれど、本当は絵の天才なのかもしれない。

 歴史が好きだけれど、本当は数学の天才なのかもしれない。

 世の中に天才として名前を残しているひとは、例外なく自分が生まれ持ったものを生かしたひとだ。

 彼女も、そう。

 彼女は自分が音楽の、ヴァイオリンの天才であることを充分に理解している。

 だから彼女はわがままだ。

 自分が絶対に正しいことを知っているから。

 それは勘違いではなくて、本当にそうなのだ。

 ヴァイオリンに関して、彼女の認識は絶対に正しい。

 彼女にはわがままを言うだけの権利がある。

 でもまわりがそれを認めないから、彼女は孤立し、余計にわがままになっていく。

 ――それを、なんとかして救ってあげたかった。

 でも、わたしのような凡人が彼女を救うなんて、おこがましいにもほどがある。

 彼女は当然わたしのような凡人の差し出した手は掴まなかったし、わたしも強引に彼女を救い出してあげられるだけの力も、気持ちもなかった。

 孤独でも、たったひとりでも、彼女は美しい。

 ただ――だれかといっしょに、楽しそうに音楽を奏でる彼女も、きっときれいだろうと思ったのだ。



  *



 昼休みになると、あちこちで四人組を見かける。

 みんなどうやらカルテットの練習らしく、楽器ケースを持った四人組がほとんどで、みんな真剣な顔でなにかを話し合っていた。

 窓からその様子を眺めながら、うらやましいなあ、と思う。

 おれも早く、あんなふうに音楽についてだれかと語り合いたい。

 ここはこんなふうにしたほうがいいんじゃないかな、とか。

 ここはきっとこうしたほうがおもしろいよ、とか。

 なんだか、いいじゃないか、そういうの。

 でもおれにはだれかと語り合うだけの知識はなく、その知識をつけるためには結局。


「じゃあ、いまから弾く曲を楽譜に起こしなさい」


 若草先生はすっと背筋を伸ばし、ピアノの前に腰を下ろした。

 その指先が鍵盤を押しこみ、きれいな音を立てる。

 なんという曲なんだろう。

 和音もなく、単音が一定の間隔で続く、でもすごくなめらかできれいな音の並び。

 一分にも満たない短い曲で、最後だけは音の速さが代わり、和音で終わる。

 たっぷり余韻を作って、先生はぱっと振り返った。


「はい、できた?」

「はっ――しまった、聞き惚れてた」


 はあ、とすっかり聞き慣れた先生のため息。

 おれは慌てて五線譜におたまじゃくしを乗せていく。

 四分音符なら、一小節におたまじゃくしは四匹。

 それを十小節分ほど進めるのには苦労もない。

 しかし最後の音符が変わったところで、あれはいったい何分音符なのか、そしてどうやって配置するのか、それなりに悩む。

 若草先生はおれがまじめにノートに向かっているあいだ、じっとおれの手元を見ていた。その視線に緊張して、軽く指先がふるえる。

 丸い玉を貫く棒が、ふにゃふにゃと歪んだ。

 でもなんとか書き終わる。

 最後の和音は、縦に音符を並べ、終わり。

 恐る恐る先生を見ると、先生は眉間にしわを寄せたままうなずいた。


「まあ、正解よ。汚い音符だけど」

「やったあ! おれすげえ、一週間も経たないうちに音を楽譜に起こせるようになったぜ!」

「普通、これくらい小学生のうちにできるようになることだけどね」

「うっ……せ、先生、生徒の指導はほめることも大事ですよ?」

「じゃあ、ほめてあげるから一発殴ってもいい?」

「だからなんでその飴と鞭っ」

「まあでも」


 先生はくるりと踵を返し、黒板に向かう。


「たしかに、がんばってるわね」

「……先生、それ、ほめてるんですか?」

「う、べ、別にほめてないわよ。素直な感想よ」

「なんで照れるのかなあ、そこ――普通にほめればいいのに」

「だからほめてないったら!」


 照れちゃって。

 まあ、照れている先生もかわいいから、眼福ではあるけれど。

 おれは見苦しい音符が書かれたノートを閉じ、鞄に押し込んだ。


「じゃ、先生、またあとで。今日から昼休みが忙しくなるんです」

「あら、カルテットのメンバーが見つかったの?」

「ひとりは。ああそうだ、先生――ピアノ科って、向こうの校舎ですか?」

「二階の角部屋――いちばん広い部屋がピアノ科の教室になってるはずだけど、休み時間はだれもいないんじゃない?」

「はっ、たしかに……さすが先生、冴えてますねえ」

「あなたが冴えてないんじゃない?」

「さすが先生、はっきり言いますねえ……じゃあ、適当にそのへんで探すしかないのかー」

「だれかご目当ての生徒でもいるの?」

「いや、それがね」


 ぐふふ、と笑いが洩れる。


「なんでもピアノがすげえうまくて、しかも美少女だっていう子がいるらしいんですよ。うまくカルテットに誘えれば、メンバーも集まるし美少女とお近づきになれるしで一石二鳥でしょ」

「美少女、ねえ」


 先生は深々とため息をつく。

 しかし美少女か否かというのは、おれたちにとってとても重要な問題なのだ。

 いっしょにカルテットをやる相手が美少女だと、もちろんやる気が上昇する。

 結果、練習にも熱が入るし、時間も割く。だって美少女といっしょにいたいから。

 そうなると、当然練習した分だけうまくなる。

 最終的に試験の結果もよくなる、という寸法だ。

 試験の結果がよくなれば、あなたたちとは相性がいいみたい、これからもいっしょに練習しましょう、なんて展開にならないともかぎらないわけで。

 その先に待っているのは、きゃっきゃうふふのバラ色人生だ。

 すばらしい。

 なんという完璧な人生設計だろう。

 そのためには、まずここで美少女を誘っておかなければならない。


「じゃ、先生、そういうわけで美少女探しに行ってきますっ」

「あーはいはい、ほどほどにね」


 心底どうでもよさそに手を振る先生に見送られ、おれは教室を出た。

 階段を下り、庭まで行くと、そこかしこから練習する音や声が聞こえていた。

 ただ、それだけで。

 心がわくわくしてしまって、止まらない。

 そもそもおれはどうも子どもじみたところがあるらしい。

 校舎のどこかから弦を調律するためのA音が聞こえてくるだけで、どうしようもなく楽しくなる。

 それは、もしかしたら。

 おれは音楽が好きだということなのかもしれないけれど。

 それが堂々といえるくらいまで音楽を知るには、まだまだ時間がかかりそうだった。

 噴水のそばを抜け、第二校舎に入る。

 いまのところ第二校舎で授業を受けたことはないから、どこになにがあるかわからず、しばらく一階の廊下をうろついた。

 そうすると。

 高音から低音にかけて、何度もぽろぽろと往復するピアノの音が聞こえてきた。

 その音に釣られるように廊下を進んでいくと、うすく扉が開いたままになっている部屋があって、どうやらピアノの音はそこから漏れてきているらしい。

 でもその音は、おれが扉の前にくるとぴたりと止んでしまった。

 代わりに、中音でわだかまるような、なんだかじれったい、早く高音へ伸びていけばいいのにと思うような音楽が聞こえはじめる。

 それは高音へいくと見せかけてまた中音へ戻り、今度は反対に低音へ流れていきかけて、また持ち直して――途切れなく一定のテンポで中音部を繰り返す。

 曲の名前はわからないが、弾いているだれかの心を表したものだということだけはわかった。

 ――このひとがいい、と直感的に思う。

 いっしょに演奏するなら、こんなふうにピアノが弾けるひとがいい。

 うれしいことも悲しいこともそのまま音にできるような――音そのものが旋律とは関係なく泣いたり笑ったりしているような、そんなピアノといっしょに歌ってみたかった。

 アルに相談してから決めようとは思わなかった。

 なんとなく、アルならこのひとを、この音を気に入ってくれるという確信があった。

 まだ付き合いは短いけれど、それでも同じ部屋で何日も寝起きしている仲だ、そのくらいの確信は、勘違いだったとしても、持ってもいいと思う。

 それに。

 だれが弾いているのか、予感があったから。

 おれは扉を開け、びっくりしたように椅子から落ち、それを幸いに椅子の陰に隠れてしまった小柄な女の子に言ったのだった。


「いま、カルテットのメンバーを探してるんだけど、いっしょにやらない?」

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