第一話 5
5
ヴァイオリン科の授業は、ユリアにとっては退屈でしかない。
もうわかっていることを繰り返すだけの単調な作業。
それに、なんだかひとつの決まり事のなかに意識を押し込めようとしているようで不愉快だった。
音楽に決まりはない。
ただ美しいかどうかだけが絶対の判断基準で、美しければどんな形でもいい。
音の発展、転回、弾き方、曲のイメージ。
それがまったく無意味だとは、ユリアもいわない。
ただ、そんなことはこの学校へくる前に何万回と繰り返してきたのだ。
いまさら学校で同じことをする必要はなく、自然とユリアの授業態度は悪くなって、それがよくないうわさに拍車をかける。
曰く。
ユリア・ベルドフは生意気だ。
ユリア・ベルドフは傲慢で鼻持ちならない。
そんな、どうでもいいうわさ。
ユリアは決して周囲の視線に鈍感な少女ではなかった。
むしろそうしたものを察知する能力には長けていて、入学してすぐ、妬みやそねみめいた視線を感じるようになった。
ただ、ユリアはそれを徹底して無視した。
そんなことはどうでもいいことだったし、妬むならどこまででも妬めばいいと思った。
妬まれるくらい自分ができているなら、妬むくらいの人間を相手にする必要もない。
ただ妬まれるくらい美しい自分でありさえすればいい。
はじめは数人分だった視線が増え、そのうち教室中になって、教師からもそうした目で見られるようになって――ようやくユリアは清々したような気になって、この学校を愉快に思った。
さすがは皐月町音楽学校。
音楽に関して、世界一プライドの高い連中が集まる場所だけはある。
教師さえ、自分の娘ほどの年のユリアに嫉妬しているのだ。
不快を通り越して、それは痛快な気がした。
――そうして。
ユリアは孤立を深め、ただヴァイオリンだけがそばにいた。
授業が終わるとすぐにユリアは立ち上がる。
同じ科の生徒たちとは話すこともない。
だれも伴わず出ていくユリアを呼び止める生徒もいない。
ただ――ほんのわずかな期間だけカルテットを組んだひとりが、ユリアの背中を視線で追っていた。
ユリアの組んでいたカルテットは標準的な弦楽四重奏で、ヴァイオリン二挺、ヴィオラ一挺、チェロ一挺という組み合わせだった。
つまり同じカルテットにヴァイオリン科の生徒はもうひとりいて、ユリアと意見の衝突があったのはその生徒だった。
――それは楽器の関係上、仕方ないことではある。
弦楽四重奏は調和の音楽で、一挺のヴァイオリンが表に出ているときは、もう一挺のヴァイオリンが後ろからそれを支える。
もちろん、表に出るのはユリアだった。
しかしユリアの音を、もうひとりでは――もっといえば残りの三人では支えきれなかった。
当然、調和は乱れ、単に音が暴れているだけの雑音に成り下がって、関係性もよじれていく。
でもそれは。
もうユリアには、関係のないこと。
ユリアはちいさなヴァイオリンケースを片手にぶら下げ、急いで階段を降りていた。
早くひとりになり、自由に、そして美しく音を奏でたかった。
退屈な授業を聞いたあとはいつもそう思う――こちらをちいさな箱のなかに押し込めようとする力に抵抗し、自由に羽ばたきたくなるのだ。
ユリアはとんとんと階段を駆け下りる。
踊り場を最短距離で曲がり、また階段を降りて――さらに下へ行こうとして勢いよく曲がったあとで、そこに人影があることに気づいた。
「あっ――」
ぶつかる寸前、向こうもユリアに気づいたが、かわすには遅すぎた。
「きゃあっ――」
悲鳴が上がり、どんと身体が弾き返される。
その拍子に手からヴァイオリンケースが抜け落ちた。
ユリアは後ろに倒れながら、ヴァイオリンケースが宙を舞うのを見た。
まるでスローモーション。
激しい楽章が終わり、次の楽章へ移るまでの無音状態のような。
本当はいちばん美しいとすら感じる浮遊感のなかでの無音――それが破られるとすれば。
子どものときからいっしょに歩んできた大切な楽器の悲鳴以外には考えられなかった。
でも。
「おっ、わっ、とっ――」
なぞのかけ声を上げ、だれかの腕が空中のヴァイオリンケースをきゅっと掴んだ。
そのまま、
「わっ、やばっ、ぎゃあああ――」
階段の下へ消えていく。
やけに美しい悲鳴の余韻が消えるまで、ユリアは尻餅をついたまま動けなかった。
ようやくはっとわれに返り、階段の下を覗き込む。
「だ、大丈夫――」
落ちた人間というより、ヴァイオリンにかけた声だったが、十五段ほど下の踊り場で、よろよろと男子生徒が手を上げた。
「な、なんとか大丈夫。おれ、キャッチャーとか向いてるかもしれない」
男子生徒の腕には、黒いヴァイオリンケースがしっかりと抱かれていた。
ユリアは階段を駆け下り、男子生徒を助け起こすよりも先にケースを受け取る。
恐る恐る、なかを覗き込んだ。
ヴァイオリン本体も弓もしっかりと定位置に収まり、揺れた様子も見えなかった。
ほっと息をつく。
ユリア自身驚くほど、心の底からの安堵だった。
それからようやく倒れた生徒に目を向け、手をとって起こしてやる。
「あの――あ、ありがと」
つんとした態度で言うと、男子生徒はびっくりした顔でユリアをまじまじと見た。
「な、なによ? なんか怪我でもしてる?」
「い、いや、怪我なんかはしておりませんが」
「なんで敬語?」
「いやその、あの、あんなところにぼんやり立っておった拙者が悪うござんした。まことに申し訳ないっ。そ、そういうわけで、勘弁してくれ!」
「だからなにが――あ、ちょっと!」
男子生徒は怯えたような顔のまま、あっという間に階段を駆け下りていった。
その様子を見るかぎり、男子生徒のほうも怪我はないらしい。階段を転がり落ちたのに丈夫なことだ。
「……なんなのよ、いったい」
ユリアが知るかぎり初対面の相手だったはずだが――なんだか妙にユリアを怖がっているような雰囲気だった。
怖がられることをした覚えはないのだが。
「め、珍しくお礼なんか言ったから、怖がられたのかしら」
だとしたらそれこそ失礼千万で、本格的に怒ってもいいと思ったが、初対面の相手がユリアの性格を知っているはずはない。
いったいなんだったのか。
まあ、でも。
「……ヴァイオリンが無事だったし、いっか」
ユリアはしっかりと黒いケースを抱き直し、階段をとんとんと降りていった。
*
校舎を出たところで晴己はようやく息をついた。
「あ、危ないところだったぜ……よりによって、あの怖い子とぶつかるとはな」
昨日、別の女子生徒とけんかしているのを見かけた金髪の女の子。
明らかに日本人ではない顔立ちで、髪の明るい金髪も地毛のようだったし、瞳は澄んだ青色をしていた。
見た目だけなら、まさに西洋人形のような美少女だ。
ぶつかったとき、正直いい匂いがしたし、近くで見てもいっぺんの隙もない、完璧すぎるくらい完璧な美貌だった。
だからかもしれないが。
怒った顔はとにかく怖くて、晴己はぶつかってしまって怒られるのではないかと思い、慌てて逃げてきたのだ。
「美人はやっぱり怒った顔もさまになるけど、それが自分に向くと怖いよなあ」
しかし。
どうやらヴァイオリンも無事だったようだし、双方にも怪我はなく、無事に済んでよかったというところだった。
晴己はようやく梅雨らしく曇りはじめた空を見上げ、余計な寄り道はせずに寮へ帰る。
部屋に戻るとアルはまだ戻ってきておらず、代わりに部屋で飼うことになった黒猫のシュバルツがちいさく鳴いて出迎えた。
「おお、悪いなシュバルツ、餌は持ってないぞ」
人間の言葉が通じるわけではないだろうが、シュバルツは晴己に近寄ろうとしたのをぴたりと止め、すぐ興味を失ったようにベッドで丸くなった。
晴己もベッドの上段によじ登り、服を着替えて、授業用のノートを開く。
「うう、覚えることばっかりでつらいなあ……」
五線譜の読み方すら苦労して、二日がかりでようやく即答できるようになったと思いきや、今日からはもっとややこしく覚えることが多い音符の勉強だった。
黒い点に、一本棒を伸ばす。
「これが四分音符、と」
その棒に旗を一本書き足すと、
「八分音符、と」
さらにもうひとつ旗を書き足して。
「十六分音符、と――ううむ、なんか数字が増えた分強くなった気がするけど、そうじゃないんだよな」
分数と同じだ、といわれてもきょとんとした晴己だけに、未だになぜ分断されていくたびに旗やら棒やらが増えるのかはよくわからなかった。
まだ、棒が書き足された分音符の長さが増えた、というならわかりやすい。
しかし現実は逆で、書き足せば書き足すだけ、より細かな音符になっていく。
「ん、旗が増えるだけ細かくなっていくってことは、もう一個旗を書き足して、三十二分音符、もう一個書き足すと六十四分音符、またまたもう一個書き足して……えっと、百二十八分音符になるのか。おお、なんだこの気持ち悪い音符。わけわかんねえ」
もはやおたまじゃくしとは呼べなくなった音符を眺め、晴己はけらけらと笑った。
しかしふと、音符が細かいということは一音が短いということだと気づき、ぞっとする。
「百二十八分音符って、どんだけ短いんだよ――歌で出てきたら歌えるかなあ」
「流れのなかで出てくるものだから、歌えるんじゃない?」
ベッドから顔を出してみれば、自分の背丈以上あるケースを背負ったアルが帰ってきたところだった。
「おー、おかえりー」
「ただいま。ぼくはいま驚きを隠せないよ。まさかハルキがまじめに復習をしているとは」
「おれもちゃんとフクシュウぐらいするっての。なんていうか、音符ってむずかしいよな。わけわかんないよ、こんなの」
「まあ、昨日言ってた五線譜の位置もそうだけど、そういうのは慣れだよ。はじめのうちはみんなわからないんだ。五線譜にしても、どの線がどの音なのか、最初はみんなひとつひとつ数えて音を探す。でもそれを何回も繰り返してるうち、ここならこの音だろうなっていうのがわかってくるんだよ。音符も同じだね。いろんな曲で同じ音符を見つけると、だいたいの長さとか流れがわかるようになるんだ」
「はあ、慣れねえ……」
「それに百二十八分音符なんてそうそう出てこないからご心配なく」
「それはよかった」
「ただいま、シュバルツ。餌買ってきたよ」
黒猫はちいさく鳴き、甘えるようにアルへ擦り寄っていった。
アルはビニール袋から猫缶を取り出し、それを皿に開ける。晴己はその様子をベッドの上から眺めて、
「ここの売店、猫缶まで売ってるの?」
「まさか。ペット禁止だから、さすがに猫缶はないよ。でもね」
アルはにやりと笑う。
「平日は外に出られないことにはなってるけど、いろいろ裏ワザもあるのさ。そのうち教えてあげるよ」
「ほほう、興味深いな」
「――で、今日音符の授業までいったってことは、もう五線譜は完璧?」
「おう、ばっちりだぜ。すごいだろ、わずか二日でマスターしたんだ。おれはもしかしたら音楽の才能があるかもしれん」
「うーん、たしかに才能はあるかもしれないけど、そのエピソードからは感じないなあ――じゃあ、この曲、読んでみなよ」
アルは鞄をごそごそと漁り、数枚の楽譜を取り出した。
晴己はベッドの上から手を伸ばして受け取り、びっしりと書かれた黒い玉にすこし眩暈を覚える。
「……楽譜、だね。ふむふむ、なるほどなあ、こういう曲か」
「わかる?」
「わかる、わかる」
「じゃ、軽くでいいから歌ってみて」
「……ド、ソ、ミ」
「わあ、すごいやハルキ! きみは天才だよ!」
「うるせいっ」
アルはけらけらと笑い、立ち上がって棺桶のようなコントラバスのケースを開いた。
エンドピンをしっかり伸ばし、床に立ててその後ろ側に回る。
「改めて見るとでかいよなあ、やっぱり」
さらに剣のような長い弓を構え、その弓が弦に触れた瞬間、低く深い音色が部屋全体に広がった。
晴己は思わず部屋を見回す。
本当に部屋全体から音が聞こえているような気がした。
アルはゆっくりと、その低く海の底で広がるような音色の楽器を奏でる。
大きなコントラバスが左右に揺れ、それに合わせてアルもリズムを作るように揺れながら、縦に伸びた指板で指先をすべらせた。
弦楽器特有の、身体が共鳴してふるえるような感覚。
あふれ出す音におぼれて呼吸もできなくなるような。
とくに狭い部屋で聞くと、部屋全体がひとつの楽器になり、そのなかに入って前方向から響く音を浴びているような気分だった。
アルが弓を動かしていた時間はほんの二、三分だった。
しかし音が止んだあとも晴己の耳のなかではまだ余韻を保っていて、それが完全に静寂となるまで、晴己は二段ベッドの上から顔を出したまま動けなかった。
「――すごいな」
晴己は思い出したように呟き、ぱちぱちと手を叩いた。アルは照れた顔で弓を直し、楽器を片づけていく。
「ピアノ以外で、これだけ間近で演奏してるの聞くのははじめてだったけど――やっぱり楽器ってすごいんだな。こんなによく響くなんて」
「コントラバスはとくに低音だし、それにこの寮、木造だからね。楽器と同じ木だから、反響の具合もよかったんだと思う」
「そうそう、なんか部屋のあちこちから聞こえてくるような気がしたよ」
「それはエンドピンのせいかもね」
「エンドピン?」
「楽器のいちばん底に棒がついてたでしょ? あれのこと。あれは、楽器を支えるためにあるっていうより、あれを床に触れさせることで床を反響させるためにあるんだよ」
「へえ、そうなのか」
「楽器っていうのは、現代に至るまで何千年って改良を加え続けたものだからね。ヴァイオリンにしてもコントラバスにしても、単純そうに見えて本当はすごく洗練されたものなんだよ――まあその代わり、現代の楽器と昔の楽器はいろんなところがちがっちゃってるから、奏でられる音も変わってきてるんだけどね。基本的にいまの楽器は大きな音が出る方向になってるし」
バスケースを壁に立てかけ、アルはその表面を愛おしそうに撫でた。
そしてくるりと晴己を振り返る。
「で、どうだった?」
「演奏? いや、めっちゃよかった。コントラバスの音ってはじめて聞いたし、演奏もうまかったよ」
いやあそれほどでも、とアルはひとしきり照れたあと、
「曲のほうは?」
「うん?」
晴己はすこし考える。
正直、音に気を取られて曲までは意識がいかなかったが――メロディを思い出し、口ずさみながら改めて確かめていると、アルが目を丸くする。
「もしかして、さっきの演奏でもう覚えちゃったの?」
「ん、まあ、そんなに長い曲でもなかったし」
「いやいや――すごいなあ、ハルキ。ほんと、きみは天才だよ」
「テンドンか?」
「ちがうったら。ほんとに――普通、そんなに完璧には覚えられないよ。それもたった一回聞いただけでは」
「そうかなあ。まあ、たしかに、記憶力にはいささか自信はあるけども」
「記憶力っていうか、やっぱり音感がとってもいいんだろうね。メロディを覚えることと普通の記憶とはまた別だろうから」
それほどすごいことか、と晴己は首をかしげながら、メロディを反芻する。
なだらかに、なめらかに駆け上がっていく出だし、そこから軽やかに跳ねて、まるで――そう。
「春みたいな曲だったなあ」
「そのとおり!」
アルはびしと指をさした。
「なに、なんか正解した?」
「まさに春だよ。モーツァルトの弦楽四重奏曲、いわゆるハイドン・セットの一番、通称『春』。その出だし部分――いまハルキが持ってる楽譜の部分だよ。弾いたのはヴァイオリンの部分だけどね」
「……この楽譜が、あの曲になるの?」
じっと楽譜を見下ろす。
五線譜に慌ただしく配置され、意味不明な記号がいくつも書き込まれた楽譜と、あの優雅で流れるような旋律は、晴己の頭のなかではまったく一致しなかった。
「ははあ、音楽って、ふしぎ」
「その音楽知識であれだけ完璧に覚えられるほうが一般的には不思議だけどね。まあでも、知識と才能は、とくに演奏のほうの才能はあんまり関係ないものらしいし――ところで、『春』はどう思う?」
「うん、いい曲だと思うよ。明るい感じがするし、軽やかで、楽しそうだ」
アルはにっこりと笑ってうなずく。
「だよね、ぼくもそう思うんだー。さっきのはヴァイオリン部分をバスで弾いたからオクターブもずいぶん下げたけど、本当にヴァイオリンで弾くともっと軽く跳ねるような感じで、聞いてても弾いてても気持ちいいんだよ。だからさ、これにしない?」
「ん、なにが?」
「カルテットで演奏する曲」
アルはきらきらと光る目で晴己を見上げた。
どうやら最初からそのつもりで楽譜を調達してきたらしい。
晴己はうれしくなって、もちろん、うなずいた。
「いいな、これにしよう。おれも聞いてみたい」
「聞くだけじゃなくて、ハルキも参加するんだよ。ただ、この曲はもちろん声楽パートなんてないから、ヴィオラかヴァイオリンパートを歌いやすく編集してやる必要があるけど、それもきっとできると思う」
「じゃあ、これでふたりだよな。カルテット完成まであとふたりかー」
晴己は腕を組み、カルテット完成の場面を想像する。
場所はどこかの舞台上。
たった四人きりの奏者で、そのうちのふたりは自分自身とアルだ。
残りのふたりはまだ影になっていて、どんな人物なのか、どんな楽器を担当しているのかもわからない。
ただ――。
堂々たるグランドピアノの足元と。
たなびく美しい金髪が、見えたような気がした。
晴己はそれをしっかりと意識することはできず、現実に戻ってきて、手元の楽譜を見下ろす。
はじめてだれかと演奏する、大切な曲。
複雑な音符の流れに目眩を起こしそうになるのは相変わらずだが、それはもう、ただの目眩ではなかった。
どきどきとわくわくが重なり合う、魅力的な目眩だ。
「カルテット、ほかのふたりはどんなひとがいいだろう?」
「そうだなあ」
アルは食事を終えたシュバルツの背中を撫でながら、夢見るように言った。
「理想でいうなら、とりあえず、残りふたりは美少女がいいよねえ」
「あー、そりゃいいよなあ、うん」
「同じカルテットってなると自然と結束も強まるだろうし、それを期にいい感じになっちゃったりしてさー」
「いやあ、まったく、すばらしいね」
「でも現実は……」
はあ、とアルはため息をつく。
「なかなかむずかしいよ」
「なんで? いいじゃん、美少女誘おうぜ」
「誘うのはいいけど、もう試験が近いからね。ぼくはまあ意外と余りものだったからよかったけど、だいたいみんな、もうカルテットを決めて練習をはじめてるよ。だからいまから声をかけても、参加してくれるひとがいるかどうか……」
「ううむ、そっか。たしかにそうだよなあ」
「それに音楽的な要請でいうと、バスと声楽を含む四重奏って時点でかなり変わり種だからね。四重奏に声楽を入れるっていうのは結構な冒険になるよ」
「そうなのか? じゃあ、声楽科のみんなはどうやってカルテット組んでるんだろ」
「カルテットっていうか、四人組ならいいから、声楽科同士で組んでるんじゃないかな。それならパートもきっちり分けられるから、いいハーモニーになると思うよ。器楽と声楽の混合は、もしかしたらうちだけかも――そうなったら、やっぱり、ほかのふたつの楽器は幅広いものがいいよ。とくにこのハイドン・セットの春をやるなら、ヴァイオリンは必須だと思う」
「なるほど、なるほど」
「で、チェロパートはオクターブ落としてぼくが担当するから、ハルキはさっきも言ったようにヴィオラかヴァイオリンパートを担当してもらうことになると思うけど――もう一挺ヴァイオリンがあったとしたら、それがメインを担当して、ハルキはそれを補佐する役回りになるかな。そうなると……うーん、そうだなあ、やっぱり最後の楽器はピアノがいいかな」
「ピアノ、いいよな!」
おれも好きだ、と晴己が言うと、アルもうんとうなずく。
「ピアノは本当にいい楽器だよね。音もすばらしいし、出せる音域も、奥深さも、親しみやすさも――現代最高の楽器じゃないかなあ。その分、場所も取るし、値段も高かったりするけどね。とにかく、ヴァイオリン、声楽、ピアノ、バス――うーん、見るからに変な四重奏だけど、でも悪くないと思う」
「うんうん、おれもいいと思うよ。いやあ、なんか動き出したって感じがするよな。じゃあピアノ科とかヴァイオリン科のやつを見つけて、声かけてみるか」
「この際美少女じゃなくても、だれか応えてくれるといいけど――ヴァイオリンとピアノといえば、すごくいいひとがいるんだけどな」
「すごくいいひと?」
「うん、美少女だし、間違いなくその分野の天才って女の子たちがいるんだ。前にも言ったけど、この学校は基本的に地元では神童とか天才とかって呼ばれる人間ばっかりが集まってる。でもそういう集団のなかでも天才とか神童って呼ばれるひとたちもいる。学校の二大有名人といってもいいくらいだ。しかも美少女」
「大事だよな、そこは」
黒猫のシュバルツは呆れたように鳴いて、のそのそとベッドに戻って丸くなる。
「どんな子なの、それ?」
「ヴァイオリン科の天才といえば、ユリア・ベルドフ。ロシア人なんだけど、ほんとに彼女は天才的なものがある。ただまあ、わがままだとか、まわりに合わせられない性格だとかって話は聞くけどね。でも彼女の音楽は――昔、一度だけ弦楽の科が集まって合同練習みたいなことをしたんだけど、そこにいた全員で束になってかかっても彼女の演奏には勝てない気がしたなあ」
「そんなにすごいのか。しかも美少女だし。うーん、カルテット、入ってくれないかなあ」
「入ってくれそうにはない印象だけどね――入ってくれたら入ってくれたで、いろいろ大変そうではあるし。でも一度はいっしょに演奏してみたいって、たぶん音楽をやってる人間ならみんな思うんじゃないかな。――それからピアノ科では、ハルキと同じ日本人のコジマ・オトネが有名だね」
「コジマ・オトネ?」
「ユリア・ベルドフは情熱的な天才で、コジマ・オトネはどっちかっていうと静かな――でもこの学校はじまって以来っていわれるくらいの、とんでもない女の子だよ。子どものころ、神童って呼ばれる子は多いけど、彼女は成長していってもやっぱりとんでもない天才、神童って呼ばれ続けてる。いまは、たしか、十五歳だったかな」
「へえ、そんなすげえやつがこの学校にいるのか」
「ぼくも科がちがうから、遠くから見かけたことくらいしかないけどね。もしそのふたりがカルテットに入ってくれたらすごいことだよ。学校でいちばん豪華なカルテットになるね」
「俄然やる気が出てきたな――でもそういうすごいやつは、みんなから結構誘われてるんだろうなあ」
「うーん、どうかな」
アルは腕組みをして、首をかしげる。
「たしかに音楽的な才能は文句のつけようもないけど――ふたりとも、ちょっと変わった子だって聞くよ。みんなとわいわいできるような子じゃないって。本物の天才は、やっぱりちょっと変わってるものなのかもしれないね」
「……つまり、まだどのカルテットにも誘われてない可能性がある、と」
「そういうこと」
「よし、明日、なんとかふたりを探し出して誘ってみよう。おれは同じ日本人としてコジマさんってほうを誘うから、アル、おまえ、ユリアさんな」
「ええっ、ぼぼぼくも誘うの? やだよ、どうすればいいんだよ、そんなの。突然ヴァイオリン科まで行って、いっしょにカルテットやりませんかって?」
「そうそう」
「だめだめ、できないよ、そんなの!」
「なに言ってんだよイタリア人。イタリア人の本気を見せてみろ。絶対できるって」
「うう、イタリア人にだって内気な人間はいるよう」
「大丈夫だ、おまえには陽気なラテンの血が流れているのだ! リズムに乗りながら言えば言えるって」
「ハルキがラテンにどんなイメージを持ってるのかわからないけど」
「とにかく、だ――もうあんまり時間はないんだし、やろうぜ。だめだったとしても、やってみるだけやってみよう」
「うー……」
しばらく悩んだあと、アルはこくりとうなずいた。
「わかった、やってみよう」
よしよしと晴己はうなずいたあと、はっと気づいた顔をして、ベッドを下りた。
なにをするのかといえば、アルの前に座り、三つ指をつく。
「ふつつかものですが、いっしょにカルテットをやっていただけませんでしょうか」
「おお、日本人だ――」
アルはくすくすと笑ったあと、言った。
「よろこんで、ごいっしょいたしましょう」




