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第一話 4

  4


 ユリア・ベルドフはいらいらした気持ちのままヴァイオリンを片づけ、校舎に向かって歩き出した。

 決して弱みを見せないような、胸を張った毅然とした姿勢で校舎に入り、教室への階段を上がる。

 その途中、仲たがいしたカルテットのメンバーを見かけたが、ユリアは目も向けなかった。

 向こうが臆病そうに、なにか窺うようにユリアを見ていることにも気づいていたが、あえて冷めた表情で無視を決め込む。

 ユリアとしては、仲直りするつもりなど毛頭なかった。

 けんかした直後ということもあったが、それ以上に仲直りする理由がない。

 怒りに任せて言いたいことを言い合って――それで、わかった。

 カルテットのメンバーは四人とも、まったく別の方向を見ていた。

 ――より正確にえいば、ユリアひとりだけが。

 ユリアはそれを申し訳ないとは思わない。

 むしろ、ほかの三人と見ている場所がちがうのは当然のことだと思う。

 ユリア・ベルドフは特別でなければならない。

 昔からそうだった。

 特別であること――ただそれだけが、ユリア・ベルドフがわがままを許される唯一の理由だった。

 ただ音楽が好きという連中とははじめから覚悟がちがう。

 それも、日本人とは。

 ユリアはすべてを断ち切り、ロシアから単身日本へ、この音楽学校へやってきていた。

 なにもかも捨て去って、ただ音楽のために、優れた音楽を奏でるためだけにユリア・ベルドフという存在を維持すること――それだけがユリアの目的で、目標だった。

 そもそもユリアは他人と合わせることがきらいだった。

 合奏というものを毛嫌いしているといってもいい。

 美というのは、完全であるべきだ。

 音楽は美であり、完全である必要がある。

 この宇宙の法則が完全であるように、音楽もそれに匹敵する完全さを有していなければならない――なのに、合奏は、その完全さを乱す。

 人数が多くなればなるだけ、互いに技術の差ができるし、呼吸も合わなくなっていく。

 ひとりなら難なくできることが百人ではまったくできなくなってしまう。

 オーケストラなど、ユリアにとっては雑音以外の何者でもない。

 ウィーンフィルだろうとどこの管弦楽団だろうと、ふたり以上の人間が奏でる音楽は必ず不快な和音を作る。

 音楽の真髄はたったひとりで、伴奏を従えないソリストだけが美といえる。

 ヴァイオリン、ピアノ――それから一部のオペラ。

 合唱は無論耳障りでしかないし、アカペラでないオペラにはなんの興味もないが、広い舞台上でたったひとりの音楽だけが満ちていく美しさは、大人数では絶対に得られない。

 だから、ユリアは。

 いつの間にか、美しさは孤独のなかにしか存在しないと思い込んでいた。

 ユリアは自分の行動を振り返り、すこし反省する。

 怒って言い放った言葉ではない。

 はじめからカルテットなど組むべきではなかった。

 試験だからと仕方なく組んだカルテットだったが、それは唯一無二の美をねじ曲げてしまうことに等しかった。

 試験には受からないかもしれない。しかし信じる美しさを貫くほうがユリアには重要だった。

 だれとも慣れ合わない。

 絶対の孤独のなかにしか美は存在しない。

 優れた音楽を奏でる人間は、いつも孤独だ。

 だからユリア・ベルドフは孤独に存在すべきだった。

 優れた音楽――聞く人間をひたすらに圧倒する音楽のために、ユリアは持っていたものをすべて投げ打ち、ここにきたのだから。



  *



「やあ、また会ったね」


 窓辺からそんな声が聞こえて、小嶋乙音は昨日と同じようにびくりとして、その拍子に椅子からすべり落ち、これ幸いと椅子の陰に隠れた。

 声をかけてきた男の子はけらけらと明るく笑う。

 まるでイタリア人みたいだ、と乙音は考える。

 陽気で、まるで心に壁など存在していないかのようにするすると寄ってくる感じがよく似ている。男の子の見た目は、まるっきり日本人だったが。


「今日もピアノ弾いてるの?」


 乙音は椅子の上から顔を半分だけ出し、ほとんど小刻みにふるえるような仕草でうなずいた。

 男の子はぱっと明るい顔をして、


「おれも昨日、ピアノ弾いたんだ。おもしろいよな、ピアノって。こうさ、押したらちゃんと音が出るんだよ。ドのところを押したら、絶対にドが出る。どういう構造になってるんだろう?」


 ――この男の子はいったい何者なんだろう。

 ピアノを弾いたとはいうものの、ピアノ科の生徒とは思えない。

 ピアノ科の生徒ならピアノの構造くらい知っているし、そもそもドの鍵盤を押してドの音が出ることに感動したりはしない――そんなことは物心つく前に済ませてしまっている。


「そのでっかい箱のなかにだれか入ってて、歌ってるのかな? そういや知ってる? コントラバスのケースって、棺桶くらいでっかいんだよ。寮のおんなじ部屋のやつが持っててさ、あ、アルっていうんだけど、こいつがいいやつで――」


 ぺらぺらと、男の子は一方的にまくし立てる。

 乙音が口をはさむひまも与えず、たとえたっぷりひまを与えられたとしても乙音はなにも言わなかっただろうが、ともかくひとしきり「アル」という友だちについてしゃべったところで、男の子は口を閉ざした。


「ピアノ、弾かないの?」


 乙音ははっと気づき、椅子をよじ登って、鍵盤に指先を置いた。

 ぐっと半分ほど押しこむ。

 ハンマーがゆるやかに持ち上がり、やわらかく弦を叩いて、聞こえるか聞こえないかというくらいのちいさな音が響く。

 ピアノはひとつの弦がひとつの音を奏でるのではない。

 音域によっては三つの弦を同時にふるわせてひとつの音を作っている。

 乙音はさらに半音ペダルを踏み込み、ほとんど音が鳴らないまま鍵盤をいくつか押し込んだ。

 その重たい白鍵の感触は、丸い指先にすっかり馴染んでいる。

 中音から高音にかけて、ぽろぽろと音が駆け上がり、駆け下りて、そのままいちばん低いAまで落下する。

 乙音はラを押さえたままでちょっと顔を上げ、窓の向こうの男の子を見た。

 男の子は窓枠に頬杖をつき、目を閉じて聞き入っている。


「ピアノの音はきれいだなあ。オルガンは、ちょっと怖い音がするだろ」


 どうしてオルガンと比較するのかはよくわからないが、乙音はなにも答えないまま、指が赴くままに鍵盤を叩いた。

 子どものような丸っこい指先から音楽があふれ出す。

 まるで魔法のように、音の粒が光となって見えるように一音一音がはっきり響き、倍音も完璧に調和して狭い部屋を満たした。

 いつものようにピアノの調律も完璧だった。

 乙音は心が澄んだような気分になって、軽やかに鍵盤を叩く。

 舌がもつれてろくに出てこない言葉より。

 乙音にとっては、ピアノが奏でる音のほうが自分の心情にずっと近かった。


「カルテットって知ってる?」


 男の子はまた唐突に言った。

 基本的に彼の言葉は唐突で脈絡がない。

 乙音は音でほんのすこしの戸惑いを表しながら、指先を止めない。

 その音符に、男の子の声が波乗りでもするように跳ねていく。


「カルテットっていうのは、弦楽四重奏のことなんだ。ひとりだとソロ、ふたりだとデュオ、三人だとトリオ、四人だとカルテットで、五人だと……ん、五人だとなんていうんだ? えっと、ひとりだとソロで、ふたりだとダブルで、三人だとターキー……いやちがう、それはボーリングだ。んん? パー、バーディ、イーグル、アルバトロス……ちがう、それはまったく関係ない」


 音が笑う。

 ともかく、と男の子は仕切り直す。


「カルテットだ。四人組のことなんだけどさ。近々カルテットの試験があるって知ってた? なんか全員、適当な相手とカルテット組んで演奏しなきゃいけないんだって。おれ一昨日転校してきたばっかりだから、よくわかんなかったんだけどさ――でも楽しそうだよな、カルテット。四人でパート分けてやるなんて、おれはじめてでさ」


 男の子の声には、楽しそう、という言葉の意味がたっぷりと乗っている。

 ああそっか、と乙音は気づいた。

 この男の子は、声楽科だ。

 乙音がピアノに感情を込めるように、彼は自分の声に感情を込められる。

 だからきっと声楽にちがいない。

 ――そういえば。

 信じられないくらいきれいな声をしていたことも思い出す。

 一方で、そんな男の子とカルテットを組む相手は大変だろうな、とも他人事のように考えた。

 あんな声と釣り合う楽器なんてどこにも存在しない。

 同じ声楽科の生徒でも、彼といっしょに歌いたいと思う生徒はほとんどいないだろう――そんなことをしても自分が惨めになるだけだから。

 ――もう相手は見つかったの?

 乙音はそう尋ねたかったが、さすがにそんな言葉まで音で運べるはずはない。


「きみさ、カルテットってやったことある?」


 ふるふる、と首を振る。

 音も同じように揺れた。


「そっか。おれと同じだな」


 男の子は笑った。

 なんだか、乙音もうれしくなった。

 ――チャイムが鳴る。

 男の子はわっと慌てて、


「やばい、このあとも授業なんだ。遅れたら若草先生になに言われるか――じゃあ、またな」


 男の子は手を振り、庭に面した窓から離れていった。


「あ、あ――」


 乙音のか細い声は、ピアノの音のようにはちゃんと届かず、空気中に溶けて消えてしまう。

 乙音はうつむき、鍵盤に視線を落とした。

 指が動く。

 音楽があふれる。

 ほんのすこし、寂しい旋律の音楽が。



  *



 かつかつ、と軽快でちょっと怖い音が響く。

 黒板に五線譜が描かれ、白いチョークがさらに優美な曲線で描かれた記号を描いていく。

 Gを図案化したらしいそれを書き終え、若草先生はくるりと振り返った。


「じゃあ、ト音記号の第四線は?」

「レです」

「第二間は?」

「ラです」

「下第二線は?」

「えっと……」

「遅い!」

「ら、ラですっ」


 よろしい、というように若草先生はうなずいた。

 おれもふうと息をつき、額を拭う。

 まるで西部劇のガンマンになった気分だ。早撃ち勝負で、すこしでも遅れたら死んでしまうという。


「とりあえず、ト音記号はマスターできたいみたいね」

「はいっ。先生の熱血指導のおかげです」

「べ、別に熱血じゃないけど……」


 先生は珍しく恥ずかしそうな顔でいそいそと黒板を消した。年上だけど、こういうところはかわいい。


「ちなみに、このト音記号には二種類あって、一般的なのは文字どおりトの場所、つまり五線譜の第二線に置かれるものだけど、これを第一線に置き、すべての音を二音ずらす音部記号もあるわ。いまではほとんど使われない記号ではあるけれど、もし使われていたときに間違えるとすべて二音ずつずれるから、楽譜を見たときに一度は確かめるように」

「う、わ、わかりづらい……先生、なんで音楽の用語ってこんなにわかりづらいんですか? そもそもAがドじゃないってことからしておかしいですよ」

「ドはただの呼び方よ。その調の基本をドと呼ぶだけ。まあ、日本ではいくつもの呼び方が混在してて、それがわかりにくくなってるのはたしかだけど――いっそ、ハ長調なんかじゃなく、Cのメジャーというほうがわかりやすいのかもしれないけどね。Cのメジャーの場合、音はCを基本とするから、それをドと呼ぶ。もしGを基本とするなら、固定のドレミではソになるけど、Gの基本、つまりソの音をドと考えてもいいのよ。ソをドと考えて、そこからレミファ、と考えていけば――ねえ、聞いてる?」

「はっ――き、聞いてました」

「うそおっしゃい」

「すんませんうそでした」


 はあ、と若草先生はため息をつく。

 おれのせいで二酸化炭素の排出量が増えてしまったらどうしよう。なんだかここへきてから、いろんなひとにため息をつかせまくっている気がする。


「まあ、いろんな疑問を持つのはいいことよ」


 先生は腰に手を当て、なんとなく色っぽく首を傾ける。


「それにピアノをやっていれば大抵の疑問は解消できるわ。ピアノは音楽教育のためにも、実際に音楽を奏でるためにも優秀な楽器だから」

「はあ、ピアノですか」

「たとえば、普通のピアノの鍵盤は全部で八十八個あるけど、普通のピアノが出せる最低音はAなのよ。音域を言うとき、それを基準する――ピアノが出せるいちばん低い音をA0といって、中央ハの音、つまりピアノの真ん中のドをC4、ピアノが出せるいちばん高い音をC8と呼ぶの。だからヴァイオリンやほかの楽器の音域を説明するとき、G2からE6まで、というように言うわけ。まあ、同じ楽器でも弦によって音域に差が出たりするし、ピアノも七オクターブと短三度に決まってるわけじゃなくて、八オクターブ出せる特別仕様のピアノもあるわ」

「三分の二くらいわかりませんでしたけど――つまり、ピアノが基準ってことですね?」


 ため息をつきかけた先生は、途中でそれを堪えて、代わりに呟いた。


「まあ、あなたにしては理解できたほうかもしれないわね」

「褒めてくれてもいいですよ?」

「一発殴らせてくれるなら褒めてあげてもいいわ」

「どんな飴と鞭ですか――いやでも、それじゃあピアノじゃ出せないところはどうするんですか? 高いところは、まあどんどん数字を足していけばいいですけど、低いところなんかゼロ以上は言いようがないし――マイナスの世界に突入するんですか?」


 マイナスの音域。

 なんとなく響きは格好いいが。


「そういうときは、さっき言った中央Cを基準にして、そこからマイナスしていくの。一オクターブ低いなら中央Cからマイナス一、っていうふうにね。実際、A0よりも低い音が弾けるピアノもあるわ。ただ、あんまり意味はないように思うけど」

「意味はない?」

「A0の音、つまりいちばん低いラの音は27ヘルツなのよ。で、人間が聞き取れる周波数の下限がだいたい20ヘルツ。あんまり下げすぎても人間には聞き取れない音になるってこと」


 今度こそ、納得した気分でうなずく。

 気分、だから、理解できたかどうかはまた別の話。

 こういうのは理解できたような気がすることが大事なのだとおれは思う。


「ピアノは本当に広い音域を出せる楽器だから、オーケストラに出てくる楽器は全部ピアノで弾けるようになってるの。だからピアノはすべての楽器に共通した、いってみれば音楽的な基礎を学ぶにはちょうどいいものってことね。その分、もちろん奥は深いわ。どんな楽器もそうだけど、人間が一生かかったってそのいちばん底の部分には到達できないかもしれない」


 若草先生は教室の片隅にあるグランドピアノの表面を撫でた。

 おれはつい、


「先生、ほんとに音楽が好きなんですね」


 なんて、いらないことを言ってしまう。

 先生はぱっと顔を上げ、みるみるうちに顔をまっ赤にして、黒板を向いた。


「じゅ、授業の続きよ!」

「照れなくてもいいのに」

「照れてないわよっ。いい、ト音記号ができたら次は音符の読み方だけど――」

「あ、先生、もうひとつ質問があるんですけど」

「なに?」


 と振り返った先生は、ちょっとおれのことをにらんでいた。

 音楽が好きだということがどうしてそんなに恥ずかしいのか、よくわからない。

 それに恥ずかしいなら隠そうとすればいいのに。いまは音楽が好きだというオーラが丸出しになっていて、だれでもわかる。


「昨日聞こうと思って忘れてたんですけど、なんか近々試験があるとかって」

「ああ、カルテットの試験ね」

「そう、それです。それっておれも出るんですか?」

「さあ――あなたは転入して間もないし、まだ楽譜も読めないような素人だから、別に参加しなくてもいいと思うけど。それよりも基礎をしっかり学んで、ちゃんとできるようになってから受けたほうがいいんじゃない?」

「でも――同じ部屋のやつと話してたんです。ここって入学試験がめちゃくちゃむずかしいって。それでみんな死ぬほど苦労して入学するのに、おれだけ中途半端な時期に転入してきたから、なんとなく申し訳なくて」


 おれが申し訳なく思うようなことではないのかもしれないけれど。

 でも、気になってしまうものは仕方ない。

 自分が特別扱いされているとは思わないし、その資格があるとも思えないけど、できることならこの特別講習も早く終わらせて、ほかの生徒といっしょに普通の授業を受けたかった。

 まあ、いまのまま授業を受けても悪い意味で目立つのは間違いないけれど。

 若草先生は目を細め、意外そうにおれをじっと見つめる。


「……あなたも、そういうこと考えるのね」

「そりゃそうですよ。いったいおれのことをなんだと」

「変な子」

「はっきり言うなあ……」

「でもまあ、あなたが出たいと思うなら、出てもかまわないわ。その代わりカルテットだから、ほかに三人いっしょに演奏してくれる人間を見つけなきゃいけないけど」

「大丈夫です、そのへんは。なんとかします」

「まあ、知識はなくても、演奏そのものはできるでしょうから、自分がいいと思うようにやってみればいいわ。これは音楽だけに言えることじゃないけど――自分で試行錯誤した分は、絶対に無駄にはならないから。そのときは遠回りしたと思っても、その遠回りを忘れないかぎり、きっとどこかで役に立つわ」

「先生……らしくないいい台詞ですけど、恥ずかしくないですか?」

「う、うるさいうるさいっ」


 またまっ赤になって、先生は乱暴に五線譜を描いていく。

 その子どもじみた態度につい笑ってしまう。

 先生は、やっぱりいいひとだった。

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