第四話 11
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アルカンジェロ・クレメンティは、なにも変わっていない庭の様子を見てひとりでくすくすと笑った。
長方形の広々とした庭にはいまも芝が茂り、噴水からはちいさな虹が生まれ、花壇の花も色とりどりに輝いている。
季節も、ちょうど夏だ。
アルはうーんと伸びをして久しぶりの空気を肺いっぱいに吸い込み、大きな荷物を引きずりながらとことこと歩いていく。
まずは正面にある第一校舎に向かい、学長に挨拶するつもりだったのだが、噴水まで歩いたところで右側にある第二校舎からピアノの音が聞こえてきた。
立ち止まり、耳を傾ける。
なにか特定の曲というわけではない。
鍵盤の感覚を確かめるような、ぽろぽろとこぼれ落ちるような音。
しかしアルにはそれだけでもだれが弾いているのかわかった。
「――変わってないなあ、本当に」
噴水から右手へ折れ、第二校舎に近づいて、あえて外側からその部屋に近づいた。
――いつも四人で練習をしていた、あのちいさな部屋。
そこはなにも変わらず、ピアノも同じ位置にあって、そのピアノに向かっているちいさな背中もアルの記憶にあるとおりだった。
「オトネ」
「ひゃうっ――」
ばん、と鍵盤を叩いてピアニストは飛び上がったが、恐る恐る振り返ると、ぱっと表情が輝いた。
「あ、アルくん? わあ、久しぶりー」
「びっくりさせてごめんね。つい懐かしくなってさ――」
アルは窓枠に肘をついて部屋のなかを覗き込んだ。
本当になにも変わらない、六畳程度の部屋だ。
眺めていれば――まだ十代だった自分たちの姿を昨日のことのように思い出せる。
ただ音楽に対してがむしゃらだったころ――仲間と練習しているのがなによりも楽しかったころ。
アルの瞳には、その日の景色が映っている。
窓の外のアルは楽しそうに演奏している赤毛の少年を見ていて、十代のアルは窓の外から自分を眺める赤毛の男を不思議そうに眺めていた。
あのとき乙音が座っていたピアノの前には、いまはずいぶん大人っぽくなった――というわけでもない小嶋乙音がちょこんと座っている。
アルは乙音をしげしげと眺め、つい呟いた。
「予想の範囲内だな、うん」
「え、なにが?」
「いや、こっちの話――ほんと久しぶりだね、オトネ」
「うん、久しぶり」
乙音はにこにこと笑う。
あのときに比べると髪も伸び、さすがに大人びた雰囲気にはなっていたが、背もほとんど変わっていないし、雰囲気はあのころの乙音そのままだった。
「アルくん、あんまり変わってないね。すぐわかったもん」
「そうかなあ? あのころよりちょっと筋肉がついたよ。最近は毎日重たい楽器を運んだり、力を込めて組み立てたりしてるからね」
「へえ、そうなんだ――がんばってるんだね」
「ぼくなりにね。オトネの活躍はいろんなところから聞いてるよ。CD、新しいのもちゃんと聞いたし。やっぱりすごくいいピアニストだね」
「そ、そうかなあ……」
照れたように乙音は頭を掻く。
「ね、アルくんもこっちに回ってきたら?」
「うん、そうする。ちょっと待って」
アルは荷物を持ったまま校舎に入り、そのちいさな部屋のなかに立った。
昔立っていた場所を思い出し、いまもその場所に立つ。
「ほんと――懐かしいなあ」
「アルくんは、卒業してから日本にはきてなかったの?」
「うん、はじめてだよ。だから、五年ぶりかな? オトネは、ずっとこっちに?」
「基本的には……録音は、こっちでもできるから。でもたまにアメリカとかヨーロッパに行って、演奏したりしてるの。飛行機が怖いから、あんまり行けないんだけど」
「あー、やっぱりそういう理由か。いや、オトネがなかなか演奏会を開かないって話は聞いてたんだよ。ギャラの問題があるとか、うわさではそんな感じだったけど――飛行機が怖いって理由のほうがよっぽど信憑性があるね」
「ど、どういうこと、それ?」
「そのままの意味――じゃあ、オトネもユリアたちにはあんまり会ってないの?」
「うん、ユリアちゃんとは二年くらい前に会ったんだけど――ちょうどユリアちゃんが日本でコンサートするってときに、招待してもらって」
「わあ、いいなあ。ユリア、イタリアにもきてくれないかなあ。まあ、招待してくれないと人気すぎてなかなかチケット取れないけど」
「でもアルくんは、ユリアちゃんとはたまに会ってるんでしょ?」
「うん――まだまだ見習いなんだけど、一応自分のヴァイオリンを作らせてもらえるようになったから、ユリアにいろいろ試してもらってるんだよ」
話しながらも乙音はぽろぽろと鍵盤を叩いている。
そういうところも相変わらずで、アルはくすくすと笑った。
「――あの皐月祭から、もう十年くらい、経つんだよね」
乙音はぽつりと言った。
「なんだか信じられないね――ついこのあいだのことみたいなのに」
「うんうん、たしかに十年っていうのはびっくりだよ。道理で年をとるわけだ」
「年をとったようには見えないけどね」
三つ目の声が窓の外から聞こえた。
ふたりが目を向けると、そこには輝く金髪が美しい、いまが美人の盛りというような美しい女性が立っている。
「ユリアちゃん! ひさしぶりー」
「久しぶり、乙音。相変わらずちっちゃいわねえ」
「ち、ちっちゃくないったら。もう、会うたびにそれ言うんだもん」
「だって会うたびにちっちゃいから――アルは、変わらないわね」
「そりゃ変わらないよ。半年くらい前にあったばっかりなんだから」
とアルは笑って、
「きみは昔よりも美人になったね。昔は美少女だったけど、文字どおりの美女になった感じ」
「……あんた、ほんとにアル? あのえせイタリア人の?」
「ふふん、ぼくにもイタリア人の血は流れているのさ。言うべきときには言えるようになったんだよ。かなり無理してるけど」
「それも成長かしらねえ」
ユリア・ベルドフは楽しげに笑い、金髪を風になびかせながら校舎をぐるりと回ってきた。
しかし部屋の入り口で立ち止まり、しみじみと呟く。
「なんかいま、急に懐かしく感じたわ。昔もこうやって部屋に入ってたなって思ったら――」
「そうだね。もう身体に染み付いてるんだろうなあ。まあまあ、入りなよ、超人気ヴァイオリニストさん。椅子はないけど」
「あら、それは問題ね。契約書にちゃんと椅子は用意しておくようにって書いてあったはずだけど」
気取った仕草でユリアは部屋に入り、ヴァイオリンケースを壁際に置いた。
「――ここにくるのも、七、八年ぶりね」
「ぼくは五年ぶりくらいかな。乙音は?」
「えっと、実はね、昨日、がまんできなくて覗いちゃった。若草先生に挨拶しにきたんだけど、だれもいないみたいだったし、つい」
「若草先生、懐かしいなあ。いまも独身?」
「それ、本人の前で言っちゃだめだよ。最近は気にしてるみたいだから」
「そっか、美人なのになあ……」
「――で、残りひとりは?」
ユリアが言うと、アルと乙音は揃って顔を見合わせ、首を振った。
「それが、いまいち連絡もとれなくて。いろんなところで話は聞くんだけど、ほんっと世界中飛び回ってるから」
「一応、今日のことは若草先生を通して知らせてあると思うんだけど」
と乙音は眉をひそめる。
「返事がなくって、ちゃんと届いたかどうかは……」
「そう。あたしも、あいつのうわさはよく聞くんだけどね。まあ、世界的な指揮者といっしょに世界中回ってるんだから、うわさを聞かないほうがおかしいけど――会う機会まではなかったから」
「ってことは、みんなあのときから会ってないってこと?」
「みたいね」
「はあ、それじゃあきてくれてもわからないかもしれないね。十六から二十六なんて、いちばん変わる時期だろうし」
「それ以前にここにくるかどうかって問題だけど――」
ユリアがどことなく心配そうにそう言った瞬間だった。
「やばいなあ、もうみんなきてるかな。飛行機が遅れなきゃ一時間早く着いてたのに」
ぶつぶつと呟くような声が風に乗って聞こえ、部屋にいる三人は顔を見合わせてちいさく笑う。
ほどなくして――窓の外に、ひとりの青年が現れた。
あのころの面影はそのままで、ただきっちりとしたスーツを着ているせいかどこか大人びた雰囲気もあって――箕形晴己は窓から部屋のなかを覗き、驚いたように立ち止まった。
「――も、もしかして、ユリアか? ってことはアルと乙音?」
「久しぶりだね、ハルキ」
アルがにこにこと笑うと、ようやく納得できたように晴己もぱっと明るい表情になった。
「おー、久しぶり! 十年ぶりくらいか――アル、また背が伸びたなあ。ユリアもまあずいぶん美人になって……唯一乙音はそんなに変わってないな」
「か、変わったよっ」
「いやあしかし懐かしい。十年――そうか、もう十年か」
「あんたはあんまり変わってないみたいね」
ユリアが言って、晴己は頭を掻く。
「そうかな、でももうおれも二十六だからな。多少老けたと思うけど――いやしかし、懐かしいな」
「早くこっちに回ってきなよ」
「おお、そうか。いま行く」
晴己が校舎のなかに入るために駆けていくと、三人はくすくすと笑って、
「ハルキがいちばん変わってないかもしれないね」
「ほんとに。あののんきそうなところとか、そのままね」
「でも背は大きくなったかなあ?」
晴己はすぐに部屋の入り口までやってきて、懐かしそうにその狭い部屋を見回した。
「昔はよくここで練習したなあ――学校自体も十年ぶりだけど、ここはとくに懐かしいよ」
「ハルキは、卒業までいなかったもんね。さあ、こっちへどうぞ、売れっ子声楽家さん」
「いやいや、苦しゅうない。実際はまだ見習いだけど」
「そういえば、大宮亜莉子はどう?」
「スパルタだよ。美人なのに、もったいないよな――まあでも、おかげでなんとか歌えるようにはなってきた気がする。みんなの評判も聞いてるぜ。それぞれ、音楽を続けてるんだもんな」
感慨深そうに晴己は言って、ちょっと涙をこらえるような仕草を見せた。
十年――決して短い年月ではない。
途中、それぞれに挫折することもあったはずだ。
音楽がいやになることも、いっそ別の生き方を選ぼうとしたこともあるだろう。
しかしそれでも音楽をやり続けたからこそ、十年後のこの日、こうして集まることができたにちがいない。
だれかひとりでも音楽に背を向けていれば――四人全員が集まることはなかっただろう。
でも、いまこの場に必要なのは涙ではなかった。
晴己はにっと笑い、四人を見る。
「じゃあ――さっそく、はじめるか」
「カルテットをやるのは、それこそ十年ぶりだよ」
「おれもそうだ――いま思えば変な編成だよな」
「いまさら気づいたの?」
「だってあのころは音楽のことなんかなにも知らなかったから――でも、いまカルテットを組むとしても、この四人でやりたいよ」
アルは大きなコントラバスを後ろから抱きかかえ、ユリアはヴァイオリンをあごに挟んで、乙音は白い鍵盤に指を置く。
晴己も大きく息を吸い込む。
四人の視線が交差し、うなずき合った。
十年ぶりでも感覚は変わっていない。
四つの楽器は以前よりも華やかに、そして高らかに再会を歌った。
それは、永遠に響き続ける四人だけの音楽だった。
終わり




