第四話 10
10
演奏を終えたオーケストラは緊張から解放され、ほっとしたように笑い合いながら控え室へと移動していく。
その表情を見れば、今日の演奏が彼らにとっても会心の出来だったことは明らかだった。
「――しかし、本当に大宮さんの指揮はすごかったな。はじめはあんなに若くて大丈夫かと思ったけど」
「本当に――練習もまじめだったし、本番でもとてつもなく集中してたし。なんだか彼女に見られると普段よりもはっきりと音が出る気がするもの」
「さすがは超一流の指揮者だよ。ソリストもすばらしかったし」
演奏中は静まり返っていた舞台裏はそうした話し声であふれ、スタッフたちも口々にねぎらいの言葉をかけている。
――しかしそのなかには、肝心の大宮亜莉子とブノワ・パニスがいなかった。
彼らがどこにいるのかといえば、下手の舞台袖でカルテットの様子を見ていたのだ。
まだ汗も拭わず、演奏の興奮も冷めきらないふたりだが、カルテットを見つめる目は冷静さを取り戻している。
「それにしても、変なカルテットだよね」
パニスは笑いながら言った。
「ピアノにヴァイオリン、コントラバスに声楽なんて。これで管楽器がひとつでも入れば、たった四人や五人でオーケストラができちゃうよ」
「まあ、そんな意図があってこのカルテットを組んだわけじゃないんでしょうけど」
「しかも、カルテットなのに指揮つきだ」
耐えきれないというようにパニスが笑い声を上げる。
「こんなにおもしろいカルテットは世界中探しても見られないよ」
「そうね――どんな演奏をするのか楽しみだわ」
亜莉子の視線はカルテットと相対するようにして立つ指揮者、若草雪乃に向けられていた。
まさか、舞台で指揮する雪乃を見られるとは思わなかったが――観客を背にして立つ雪乃の表情は、五年前とすこしも変わっていなかった。
このカルテットのメンバー、編成で、雪乃が指揮し、いったいどんな演奏になるのか。
それはまだ亜莉子にも想像できなかった。
*
観客の多くは、舞台上に出てきたカルテットを改めて見て不思議そうな顔をしていた。
弦楽四重奏といえば、ヴァイオリン二挺、ヴィオラ、チェロが一般的だ。
そのうち舞台上にあるのはヴァイオリンが一挺だけで、あとの三つは本来四重奏としては使わないものばかり、しかもそのうちのひとつは声楽なのだから、どんな音楽をやるつもりなのか、どんな音色を奏でるのか、まったく想像もつかない。
しかも、四重奏なのに指揮がつくという。
生徒、つまり技術的に劣っているから指揮がついているのか、それとも別の理由があるのか。
しかし生徒たちの顔を見ると、ことさら緊張している様子でもない。
大トリとしてふさわしいような、堂々たる態度だ。
四人はゆっくりと定位置につき、指揮者が観客に向かって一礼する。
思い出したように観客は拍手をして、指揮者はくるりと演奏者のほうを向いた。
そして――演奏がはじまる。
*
そこはまるで、夢の世界みたいだった。
何百人という観客が目の前にいる。
そのみんながおれたちの音楽を聞くためにじっと押し黙って、演奏がはじまるのを待っている。
照明はまぶしく、空気は熱い。
なのに不思議なくらい清々しい。
おれはゆっくり深呼吸をして、ホールの奥を見つめた。
そこに音を当てて、跳ね返らせるようなイメージで。
叫ぶのではなく、波紋のようにゆっくりと伝えていく声で。
若草先生はゆっくりと両腕を上げ、おれを見た。
おれが歌い出した時点で演奏がはじまり、一度はじまれば、途中で止めることはできない。
ちょっと後ろを振り返ると、ユリアも、アルも、乙音もおれを見ていた。
責任重大だ、最初の一声から間違えるわけにはいかない。
でもそれは緊張というより、やる気を出すための燃料のようなものだ。
おれはうなずき、先生にも合図をして、口を開いた。
*
四重奏というからには古典的な四重奏曲を演奏するのだろうとだれもが思っていたが、晴己の歌声からはじまった瞬間、客席は不思議な雰囲気に包まれた。
晴己の声は深いバリトンでもテノールでもなく――テノールよりもわずかに高い音域を歌っていたが、ソプラノというほどでもない不思議な声質だった。
それは透明に透き通り、一声のインパクトはなくとも、じっくりと染み渡るように客席全体へ広がっていく。
声の波紋はホールの奥まで到達し、それが舞台上まで返ってくるのを待って、晴己はゆっくりと歌い出した。
音楽に詳しい何人かは、それが四重奏曲ではなく、賛美歌だということに気づく。
しかしほとんどの客は純粋に晴己の声に聴き惚れていた。
圧倒されるというよりは、すぐ近くに寄り添うような、やさしい歌声だった。
透き通り、細かくビブラートを含んで、賛美歌というにはすこし人間味がすぎる。
しかしその人間味こそがやさしさで、天上から天使たちに囲まれた神がそっと地上を見下ろすような、ほとんど宗教的な美しさを持つ声なのだ。
そんな声が賛美歌を独唱している。
たったひとりの、十六歳の少年の声がホールに響き渡り、何百人という人間の心を掴んでいく。
そうして全員の意識が舞台上に取り込まれたところで、ヴァイオリンの音が響いた。
――清廉な歌声に、活き活きとしたヴァイオリンの音が絡みついていく。
ヴァイオリンは爽やかな風に吹かれるちいさな花のように揺れ、軽やかに動く。
いつしか賛美歌は歌詞のない明るいメロディに移り変わっていた。
晴己はファルセットを使い、ヴァイオリンの高音と戯れて、巧みに音を移動していく。
跳ねまわるふたつの音を押さえるように、ピアノとバスが同時に入ってきた。
雪乃はその四つの音を完璧に聞き分け、どこを立たせるか、どこを落ち着かせるか、まるではじめから予言していたように指示を出していく。
四つの楽器がすべて出揃うまでは、練習のうちから決めていた展開だ。
そこから先はほとんど完全に即興演奏になる。
つまり指揮が入る余地のない空間にも思われるが、実際は別で、雪乃は音に全神経を集中させ、発展の取っ掛かりを見つけるとすかさずそれをつかみとった。
まずはピアノが単独で移調していく。
アルプスの麓に広がる草原のような、爽やかで牧歌的な風景から、憂いを帯びたどこかモダンなリズムに変わった。
それに合わせてほかの楽器も移調し、現代音楽さながらの不協和音を効果的に使った緊張感のある音楽になる。
――立ち並ぶのは摩天楼。
月もない真夜中だが、車の往来は絶えず、クラクションとガソリンの匂いが立ち込める町中で、ふと天を穿つビルを見上げたような――不安定でいまにも崩れ落ちそうな旋律が危ういところで続いていく。
しかし、ついに晴己の声がずるりと落ちた。
それに合わせてまた世界が変わっていく。
高音をぐっと抑え、低音のバスとピアノをよく響かせて、静けさのなかに晴己の孤独な声が嫋々と鳴る。
ヴァイオリンはたったひとりで歌声を励ますように明るく鳴って、それに勇気づけられたように同じフレーズを繰り返しながらすこしずつほかの楽器も高音を立てていく。
雪乃の合図で、四つの楽器が同時に華やかな響きを取り戻した。
ヴァイオリンが上空を舞う鳥のように、自由自在に飛び回り、晴己の声がひとつの柱となって天へ伸びる。
ピアノとバスはそれをしっかりと支え、ときおりピアノの高音がじゃれついて、ひとつの大団円を迎えようとしていた。
客席のあちこちで音が跳ねる。
聞いている人間を巻き込むような、愉快で華やかな響きに酔いしれる。
晴己の声はどこまでも伸びやかに、それも長く響いた。
ほかの楽器の音が減退し、余韻となって消えても、まだ晴己の声は朗々としていて、抜けるような青空が頭上に見えてくるほど朗らかな響きだった。
――やがて、晴己の声も余韻となる。
完全に音が止んでも、ホールの至るところから彼らの音楽が聞こえてくるようだった。
それは空気をふるわせて響く音ではない。
聞いている人間の心のなかで響く音楽だ。
四人の音楽が心を響かせ、その心が共鳴し合って、ホール全体に鳴るはずのない音楽が伝わっていく。
余韻というには長すぎるその不思議な音響を、ホールにいる全員が聞いていた。
そのせいで演奏が終わってもなかなか拍手が起こらず、困ったように雪乃が客席を振り返って頭を下げると、ようやく思い出したようにぽろぽろと拍手がこぼれた。
やがて、拍手の雨が舞台上の五人を包み込む。
何百という拍手がホールのなかに反響し、まるで後ろや真上からも拍手の音が響いてくるような独特の感覚のなかで、カルテットの四人はそれぞれに楽器を置いた。
ピアノの乙音が前に出てきて、四人が一列に並び、もう一度頭を下げる。
拍手は、いつまでも――いつまでも鳴り止まなかった。
*
カルテットの面子が舞台袖へ戻ってくる。
スタッフも、そこでずっと演奏を聞いていた亜莉子たちも拍手で出迎える。
乙音はあれほど堂々とピアノを弾いていたのがうそのように恐縮し、照れながら拍手のアーチをくぐって、アルはうれしそうに、ユリアは当然だという顔でうなずいた。
ユリアの後ろからは晴己が続いている。
亜莉子がぽんと肩を叩くと、晴己は驚いたように立ち止まったが、亜莉子を見てほっと息をついた。
「びっくりした、幽霊的ななにかかと思いました」
「どうして舞台終わりの演奏家を幽霊が祝福するの――いい演奏だったじゃない」
「――はい」
しっかりと晴己はうなずく。
しかし浮かれているような雰囲気はなかった。
きっと演奏している本人にしかわからないような、細かな問題が気になっているにちがいない――それでいい、と亜莉子はうなずく。
晴己は、演奏家にとってなにが必要なのかしっかりと理解している。
反省はとにかく後回しにして、演奏家はまず、拍手に応えるべきなのだから。
晴己が歩いていくと、最後に雪乃が舞台袖へとやってきた。
雪乃は亜莉子を見て、ちょっと恥ずかしそうに笑う。
「まさか指揮をするなんて思わなかったわ」
亜莉子が言うと、雪乃はこくんとうなずく。
「わたしもそんなつもりはなかったんだけど――生徒に頼まれたら、教師として断るわけにはいかないでしょ?」
「あくまで教師としてってこと? そのわりには、昔みたいにぎらぎらした目をしてたけど」
「やるからにはちゃんとやるわ。わたしの失敗で生徒たちの晴れ舞台を壊すわけにはいかないもの」
「そう――でも、相変わらずいい指揮だった」
「ありがとう。裏で見てたけど、あなたもすごかったわ」
亜莉子はもちろんお世辞のつもりで言ったわけではなかったから、向こうの言葉も素直に受け取った。
――本当に、この演奏の立役者は、指揮者の雪乃だ。
指揮者は一般的に独特の耳が必要だといわれている。
音感も大事だが、それ以上に、複数の音を聞き分ける耳が必要なのだ。
雪乃は、その意味ですぐれた耳を持っていた。
亜莉子も同じようにいくつもの音を聞き分ける指揮者として、カルテットの演奏に何度かちいさなほころびが生まれかけたのを聞き取っていた。
客はもちろん、楽屋で聞いている演奏家も気づいてはいないだろう――指揮者の視点から見なければ、それはわからない。
しかしそれが本当のほころびにまで成長してしまうと、だれが聞いてもわかる「失敗」になってしまう。
晴己たちのカルテットは音色が独特で、そのせいでほんのすこしのずれが大きな違和感となって聞こえがちだった。
ほんのすこしのリズムのずれ、ほんのすこしの音量のちがいで統一感が失われてしまう。
今回の演奏でそれが目立たなかったのは、雪乃が巧みに修正させていたからにほかならない。
音量を整え、ほころびを隠すように別の楽器を立たせたり、抑えこんだり――指揮者として決してやりやすい舞台ではなかっただろうに、雪乃は見事にそれをやってのけた。
「――まあ、もちろん、その指揮についていけるあの子たちも大したものだけど」
結論として――。
この演奏を聞いて、亜莉子は自分の判断が間違っていないことを確信した。
晴己はやはりすぐれた声楽家になれるし――雪乃は、いまでも世界でただひとりのライバルなのだ。
*
控え室に戻るまで、晴己たちは互いに会話を交わさなかった。
別段黙り込んでいるわけではなく、拍手に応えるのに忙しくて、そんなひまもなかったのだ。
控え室に入り、雪乃がその扉を閉めたところで、ようやく四人は顔を見合わせる。
爛々と輝く四人分の目は、それだけで言葉以上のものを交換し合った。
「――楽しかった!」
晴己が言うと、アルはこくりとうなずいた。
「本当に、楽しかったね。舞台に出ちゃうと緊張もしなかったし」
「うん――なんか、いままでの演奏で、いちばん自由にできた気がする」
乙音はにっこりと笑い、ユリアはそのとなりで腕組みする。
「まあ、これくらいできて当然よ。なにしろこの天才ヴァイオリニストがいるんだからね」
「おお、いつにも増してユリアが自信満々だぞ――ああでも本当に、このカルテットでよかったよ。このカルテットじゃなきゃ、こんなふうにはできなかった」
「そうだね――いろいろあったけど、最終的にこのカルテットで舞台に立ててよかったよね」
時間にしてみれば、それほど長いあいだいっしょにいたわけではない。
六月に晴己が転入してから、八月の終わりまでわずか二ヶ月――しかしその二ヶ月は、何年分にも感じるくらい、内容の濃い二ヶ月だった。
こんなふうに時間を過ごすことがこの先あるだろうか――こんなにがむしゃらに音楽や他人と向かい合った時間は、きっとあとにも先にも存在しない。
でも、もしかしたら。
ここは、全員にとっての終点ではないのだ。
ここはみんなの通過点に過ぎず、全員が全員、この先も音楽を続けるなら、またいつか、こんなふうに過ごせるときがくるのかもしれない。
ずっとずっと、音楽を続けていけたなら。
晴己はこれ以上ないくらい美しい表情をしている三人の仲間を見て決心する。
それは、この先もずっと音楽を続けていくという決心でもあり、この先もずっと音楽を楽しんでいく決心でもあった。
――でも、その前に。
四人は示し合わせたようにくるりと雪乃を振り返った。
それまで四人の教え子をほほえましく眺めていた雪乃はびくりとしたが、四人はきっちり声を合わせて言った。
「ありがとうございました、若草先生!」
ユリアでさえ、ちゃんと頭を下げている。
雪乃は生徒たちを見て、なにかもごもごと言ったあと、照れたように顔を背けた。
「教師だから、これくらい当然よ」
「あれ、先生、照れてるんですか?」
「照れてないっ」
「あ、照れてるんだ。なんだよかわいいなあ」
「せ、先生をばかにしていいと思ってるの? 成績、覚悟しときなさいよ」
「え、い、いや、それは卑怯でしょ!」
「卑怯もなにもありません」
「せんせー、言ったのはハルキくんだけでーす」
「あっ、おまえら、非道か? いやいっそ外道だな!」
控え室に笑い声が広がる。
――楽しい音楽は、そんなところにも存在しているのだ。




