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第四話 9

  9


 皐月祭当日。

 折よく天気も晴れである。

 町は、朝からお祭りムードに包まれている。

 駅前にはいくつもの幟が立って、町のあちこちに屋台が出たり、案内役の係員が立ったり、あちこちから楽器の演奏が聞こえていたり――。

 まさにその日は、町全体がひとつの舞台となっていた。

 夏休み最終日、そして一般的には日曜日という日取りもあって、ひとの数も普段より何倍も増えている。

 そうした音楽祭の客は、駅前でプログラムとマップを受け取り、自由に町中を移動しながら音楽を楽しむことになっていた。

 料金制度としては、メインステージ、つまり市民ホールでのステージ以外はすべて無料である。

 つまりただ音楽を楽しみたいという客は野外ステージをまわり、本格的に音楽を聞きたいクラシックファンはさほど高くはない料金を払って市民ホールに向かうことになる。

 国内外から集められた演奏家やオーケストラのライナップはファンから見ても納得のもので、とくに今年は日本人として注目を浴びている指揮者の大宮亜莉子と、世界的なブームを起こしているヴァイオリニストのブノワ・パニスが来日しているとあって、開場の前から市民ホールには人だかりができていた。

 雰囲気は華やかな祭りそのもの、人々の表情にも笑顔が目立つ。

 しかし、その裏側では大勢のスタッフが早朝から作業を続けていた。

 とくに市民ホールでは、直前のリハーサルやらなんやらで、スタッフやオーケストラのメンバーは午前六時に会場入りだった。

 開場は昼の一時、開演は一時半となっているから、午前のうちにやるべきことを済ませてしまわなければならない。

 そう考えれば六時入りというのも決して遅くはなく、むしろスタッフは立ち止まるひまもないくらいホールのあちこちを走り回っていた。

 そんななか――。


「試験のときも同じ会場だったけど、やっぱり出演者が変わると雰囲気も変わるもんだなあ」


 晴己はカルテットの控え室からひょっこり顔を出し、ぴりぴりとした裏舞台の風景を眺めながら呟いた――どうやら、声は無事に復調したらしい。

 控え室に視線を戻せば、ユリアはいつかのように平然とした顔で化粧をしていて、乙音はそのとなりで鏡に向かってぼんやり中、アルはといえば、


「うう、やばいぞ、緊張してきた……ああ大丈夫かなあ、失敗したりしないかなあ。なんたって大トリだもんなあ。しかも、ぼくたちの前には錚々たる面子だもんなあ」


 椅子に座り、かたかたとふるえながら念仏のようになにかを呟いている。

 晴己は笑いながらアルの背中をぽんと叩いた。


「大丈夫だって、心配すんな。心配しても失敗するときは失敗するって!」

「や、やっぱり失敗するんだー!」

「わ、しまった。えっと……」

「ほんっとばかなんだから」


 ユリアは深々とため息をつく。


「精神統一にはそれぞれのやり方があるのよ。アルはそうやって集中してるんでしょ。しばらく放っておいたら?」

「むう、そうかな? じゃ、放っておこう――なあユリア、なんか話そうぜ。最近筆談だったから、やっぱり物足りなくてさー、話したくて仕方ないんだよなー」

「黙ってなさい。しばらく喉を使ってなかったんだから、急に使うと本番までにまた出なくなるとか、かすれるとかして大変なことになるから」

「う……じゃあ、小声で話すとか」

「だめ。黙ってなさい」

「うう、なんて非道な……」


 晴己はしゅんとして椅子に腰掛けた。

 三人とも、出番はまだ六時間近く先で、衣装にも着替えていない。

 ユリアも先に化粧だけしておいて、髪は着替えてから整えるつもりだった。

 なんといっても晴れ舞台だ。

 試験のときとはちがい、集まっているのは純粋に音楽を聞きにきた、音楽ファンなのだから、しくじるわけにはいかない――とユリアがとなりを見ると、ぼんやりしている乙音の横顔は、どうも普段と変わらない。


「ねえ、乙音、あんた化粧は?」

「へ?」


 乙音は自分のほっぺたにぺちりと手を当てて、


「べ、別にしてないけど……」

「いまのうちにしといたほうがいいんじゃない? まだ時間はあるけど、リハーサルとかなんかで忙しくてやるひまがなくなると困るし」

「う、うん……ねえ、お化粧って、やっぱりするものなのかなあ?」

「はあ? 当たり前でしょ」

「で、でも、わたしね、あんまりしたことなくって、その」

「はあ、やり方がわからないって? しょうがないわね、ちょっとじっとして」

「わっ――」


 ユリアは乙音が座っている椅子をくるりと回し、正面で向かい合って、化粧を施しはじめる。


「う、く、くすぐったいよう」

「じっとして。変な顔になるわよ」

「うー、乙音の正面にまわって笑わせたい」


 ぱふぱふとファンデーションを塗りながら、ユリアはちらと晴己に目を向ける。


「あんたは緊張してないみたいね」

「おれ、あんまり緊張とかしたことないんだ。なるようにしかならんと思ってれば緊張する理由もないし」

「あたしもおんなじ。ちょっと嫌だけど」

「嫌って言うなよ」

「いいなあ、ふたりとも」


 椅子にちょこんと座り、ちょっと首を伸ばしてされるがままになっている乙音はぽつりと呟く。


「わたし、すぐ緊張しちゃうもん」

「まあ、こればっかりは性格でしょうからね。プロのなかでも、毎回舞台に上がる前は緊張するってひともいるし。そうかと思えばどこかのだれかみたいに素人でもまったく緊張しないってやつもいるしね」

「おや、どこのだれだろう?」

「要は緊張とうまく付き合うことじゃない? 緊張してても、それを前向きに捉えるとか」

「前向きに……ど、どうやって緊張を前向きに捉えるの?」

「さあ? あたし、緊張したことないし」

「ゆ、ユリアちゃーん!」


 ――そんなこんなのうちに、舞台リハーサルの声がかかる。

 流れそのものは六月の試験とあまり変わらなかったが、その裏で動いているスタッフの数が桁違いに多い。

 晴己たちが楽屋から舞台袖へ移動するあいだにも数えきれないスタッフが走り回っていて、廊下にはケータリングがずらりと並んでいるし、舞台袖にも椅子や指揮台が準備されている。

 それらのあいだを縫ってなんとか舞台上へ上がると、客席のほうには二十人ほどの関係者がずらりと並んでいた。

 晴己は照明にすこし目を細め、すごいなあ、と客席を見回して、その関係者のなかに知った顔を見つける。


「あ、若草先生。なんでそっち側に? 先生はこっちでしょ」

「教師としての仕事がまだあるの。あとで合流するから、とりあえず立ち位置だけ確認しておいて」

「へーい」

「えっと、それじゃあカルテットのみなさんの位置を確かめますんで」


 と若いスタッフがやってきて、手際よく立ち位置を決めていく。


「ピアノがここにきます。音を考えたときに、ほかの演奏者はすこし距離を取っていたほうがいいので、それぞれの位置はこのような形で――なにか質問はありますか?」

「あ、あの、この位置だと演奏するときに視線が合わせられないと思うんですけど」

「その代わりに若草先生が指揮に立つんでしょ? だったら大丈夫じゃないの」

「あ、そっか。なんか大丈夫みたいです」

「それじゃあ一度、それぞれの場所に立ってみてください。照明の位置を変えますので、まぶしすぎたら言ってください」


 ホールの奥にある照明器具がゆっくりと動き、舞台上を光が這う。

 オーケストラや四重奏では、楽譜を読まなければならないためにあまり強い光は使わないようになっている。

 ホール全体を照らすように明かりを移動させたが、そもそもこのカルテットでは楽譜を使わないために、照明の影響はほとんどなかった。

 そうして立ち位置と照明などを決め、ユリアやアルが楽器の音を出してみて響きを確かめると舞台上のリハーサルは終わりになる。

 ――その時点で本番まではまだ五時間ほどあり、ずっと緊張しているわけにもいかないらしく、昼食をとるころにはアルや乙音もリラックスできていた。

 しかし、昼食後はすぐに本番がはじまる。

 カルテットは大トリで、自分たちの出番まではまだ二時間近くあったが、さすがに開場がはじまると舞台裏の緊張感も高まった。

 その状態で二時間待つ、というのが、思いのほかつらい。

 それならいっそ一番手で出ていって、あとは気楽な気持ちでほかの演奏を聞いているほうがいいくらいだった。

 とくにアルは、漏れ聞こえてくるプロの演奏にがちがちに緊張して、


「こ、こんな演奏のあとにぼくたちが出ていくんだよね? しかも大トリで――ああだめだ息ができなくなってきた」

「落ち着け、アル! どうせおれたちなんかおまけみたいなもんで、みんな大して期待してないって」

「そ、そっか、そうだよね、だってぼくたち学生だもんね? プロのあとに学生が出てきても、だれも期待なんかしてないよね」

「そうそう。だから失敗しても大丈夫だ」

「やっぱり失敗するんだー!」

「しまったあ!」

「何回やんのよ、それ」


 ユリアは男子ふたりを白い目で見つつ、淡々とヴァイオリンの手入れをしている――実はそれが、ユリアにとって緊張をほぐすひとつのルーチンワークだった。

 楽屋の外をばたばたと走り回るスタッフが本番の開始を告げる。

 晴己たちのカルテットは、指揮者の雪乃を加え、別室のリハーサル室で最終的な確認と調整を行った。

 そこから控え室へ戻ったところで、男子と女子は二手に分かれて衣装へ着替える。

 男子ふたりは衣装といっても簡単なタキシードだ。

 ズボンとシャツ、ジャケットとネクタイを装着し終わるまでに十分程度しかかからないが、女子のほうはそうもいかないらしく、ふたりはしばらく廊下で待ちぼうけを食らう。

 そのあいだも舞台上ではプロの演奏が進んでいた。

 裏手にいても、その音は聞こえてくる。

 晴己とアルは無意識のうちにその音を探り、耳を澄ませた。


「うーん、やっぱりプロはうまいよね」

「だなあ。そういえばおれ、プロの演奏って聞くのはじめてかも」

「えっ、そうなの?」

「いや、CDとかでは聞いたことあるけどさ。クラシックのコンサートなんか行ったことないから――やっぱり生徒たちがやるのとではちがうよな」

「うんうん、同じ曲でも完成度がちがうよね」


 いま舞台上のオーケストラが弾いているのはモーツァルトの四十一番、「ジュピター」だった。

 第三楽章までを終え、有名なジュピター音型がゆっくりと聞こえてくる。

 演奏しているのは国内のオーケストラだが、指揮を振っているのは大宮亜莉子だ。

 ソリストのブノワ・パニスの出番はまだもうすこし先になる。


「この第四楽章は、バランスがすごくむずかしいんだよ」


 アルは緊張も忘れたように漏れ聞こえてくる音楽に目を閉じる。


「ポリフォニーとモノフォニーが忙しく入れ替わって、演奏するのもむずかしいんだけど、指揮者がどんなふうに見せるかっていうところもすごく重要になってくる」

「なるほどな。ぽりふぉにーとものふぉにーな。わかるわかる」

「その場面はもうちょっと先だけどね」

「……そういえば、ジュピターってほかにもあったよな?」

「ホルストでしょ? あっちは惑星のジュピター、つまり木星だけど、こっちのジュピターはローマ神話の神さまの名前だよ。別の読み方ではユピテルっていうけど」

「なるほど、ユピテルな。知ってる知ってる」

「ま、語源をたどればどっちも同じだけどね――あ、そろそろだよ、この曲でいちばん盛り上がる場所」


 第四楽章の後半。

 様々な楽器によってくだんのジュピター音型が繰り返され、一種のフーガのようになっていく。

 同じ旋律にまた別の音が混ざり、まるですべての楽器が別々の曲を奏で出したのかと思うような音の洪水のなかに、ジュピター音型がきらきらと輝く。

 指揮者はまたたく間に楽器をまとめあげる。

 音がひとつの太い旋律となり、ティンパニが鳴らされ、ヴァイオリンの高音とチェロやコントラバスの低音が興奮を最高潮にまで高めて――最後の一音は余韻も残さずぴたりと止まった。

 曲が終わり、ほんの一瞬、静寂が流れる。

 次の瞬間、爆発したような拍手の音が舞台裏まで聞こえてきた。

 その拍手は、客が自分の興奮を表現するためにできる唯一の手段だ。

 晴己は鳴り止まない拍手の雨を受けながらオーケストラを仕切る亜莉子を想像し、あのひとにはよく似合うだろうなとひとりで笑った。

 オーケストラの出番はまだ続く。

 次はソリストであるブノワ・パニスを迎えての演奏となる。

 そのころには女子ふたりの着替えも終わり、晴己とアルは無事に楽屋へ戻った。

 雪乃も教師としての仕事を終え、きっちり服を着替えて楽屋に入ってきたが、パンツスタイルのスーツを着ている雪乃はまるで男装しているようだった。


「ブノワ・パニスの出番がはじまったみたいね」


 雪乃は楽屋に入ってくるなりその部屋に備え付けられたモニターを覗き込んだ。

 モニターには、遠い位置からだが、舞台上の様子が映っている。

 満員になった会場、その舞台上にずらりと並ぶオーケストラの面々は壮大な眺めで、その正面に立つ大宮亜莉子も堂々とした振る舞いだった。

 オーケストラは全員起立して、下手から出てくるパニスを出迎える。

 拍手がまた高らかに鳴り響き、パニスはヴァイオリンを持ってゆっくりと一礼した。


「のんきそうな顔だなあ。ほんとに一流のヴァイオリニストなのか?」

「それを言うならハルキものんきそうな顔ではあるけどね」

「うそつけ。おれはもっときりっとしてるよ、きりっと」

「ほら、はじまるわよ」


 拍手が収まり、亜莉子がすっと両手を上げた。

 どうやらタクトは使わないらしく、両手を上げてオーケストラをゆっくり見回したあと、指揮をはじめた。

 まずはヴァイオリンのゆっくりとした旋律。

 ソリストの出番はまだ先で、パニスは指揮者の横、コンマスの近くに置かれた椅子に座ってじっと目を閉じている。


「――やっぱり、指揮はうまいわね」


 ユリアがぽつりと呟くと、雪乃はちいさくうなずいた。


「本人は、いまはただ人気があるだけって言ってたけど」

「あれ、先生、知り合いなんですか?」

「同級生よ――まあ、親友みたいなもの」

「へえ、そうなんですか。じゃあ、おんなじ指揮科で?」

「そういうこと。それからたどった道は、ずいぶんちがったけどね」


 晴己はじっと亜莉子の後ろ姿をモニター越しに見つめたが、その指揮が優れているのかどうかはわからなかった。

 指揮の善し悪しは、相当多くの音楽を聞いていなければわからない。

 いちばん指揮者の能力を実感するのは、その指揮に従って演奏する人間だ。

 演奏者には自分たちの平均や限界がおのずとわかっているから、それ以上のものを引き出す指揮者の能力をだれよりも深く理解できる。

 オーケストラは、そうした演奏家と指揮者の信頼関係で成り立っているといってもよかった。

 しかし晴己にも、亜莉子が人気のある指揮者だということは理解できる。

 なにしろ、


「――美人だなあ、アリスさん」

「あんたはそこしか見てないの?」


 呆れたようにユリアは言ったが、雪乃がくすくすと笑って、


「本人もそう言ってたわよ。いま人気があるのは、自分が美人だからだって」

「ううむ、わかってるな、アリスさん」

「でもそれって、指揮者の能力とはまったく関係ないでしょ。美人っていうだけで指揮者になれるなら、あたしだってなれるわ」

「……そういえば、ユリアとアリスさんってなんとなく似てるなあ」

「なにがよ?」

「いや、自信満々なところとか……」

「そういう人気先行の批判があることはあの子もわかってるみたいよ。それもいいチャンスだと思ってるんでしょうね――なんにせよ多くのひとにアピールするチャンスをもらったんだから、それを存分に活かそうって。あの子、昔からすごく前向きだったから」

「なるほど、たしかにそのほうがいいのかもなあ」

「あ、そろそろソリストの出番よ」


 モニターのなかでもパニスがすっと立ち上がり、ヴァイオリンをあごに挟んでいる。

 ただそれだけの仕草だが――まるで空気が変わったように、全員の視線がパニスに集中していた。

 パニスはまたたく間にこの舞台の主役となり、主役らしく胸を張って指揮者の合図とタイミングを待つ。

 亜莉子はちらとパニスを見た。

 それが合図で、パニスは高く掲げた弓を弦に当てる。

 ――瞬間、たった一挺のヴァイオリンが二十人近くのオーケストラを飲み込んだ。

 技巧的ではない、ゆったりとした出だしだったが、オーケストラのヴァイオリンとは音の質がちがう。

 オーケストラのヴァイオリンが空気をふるわせることで音を伝えているのなら、パニスのヴァイオリンはまるで心を直接ふるわせて音を響かせているようだった。

 決して強い音ではない。

 それなのにホールの奥まで届き、怒涛のようなオーケストラの音量にも負けず、ソリストとして独立した旋律を奏でても頼りない雰囲気はまったくない。

 指揮の善し悪しはまだよくわからない晴己でさえ、ぐっと言葉を飲み込むような圧倒的な存在感だった。


「――なるほど、これが一流なのか」


 思わず、晴己はユリアを見た。

 同じヴァイオリニストとして、ユリアはもっと感じるところがあるだろうと思ったのだ。

 しかしユリアはだれよりも平然としていて、晴己の視線にも笑ってみせる。


「なんでそんな心配そうな顔してるのよ」

「い、いや、別に心配ってわけじゃないけど――」

「この音を聞いて挫折してほしかった?」

「だからそういうわけじゃなくて」

「残念だけど、その挫折はもう何日か前にやったから、もういまさらなにも思わないわよ。それに、自分があのフランス人に負けてるとは思わないし。ソリストとしてなら、負けてるかもしれないけど――広い意味のヴァイオリニストとしてなら、絶対に負けないわ」


 自信と覚悟に満ちあふれたユリアの横顔だった。

 それを見るかぎり、たしかに不安はないように思える。

 ユリア自身に不安がないというのだから、周囲がそれを不安に思うわけにはいかない。

 パニスのヴァイオリンはまたたく間に会場全体を飲み込み、聞いている人間を音の世界へと連れていっている。

 若き天才ヴァイオリニストはオーケストラに乗せて自分の旋律を奏でながら、楽しそうに笑っていた。

 第一楽章、第二楽章と進み、三十分ほどかけて最後の第四楽章までたどり着く。

 客のほうはすこしずつ終わりが近づいていることを感じて、すでにそれを惜しむ気持ちになっていた。

 カルテットはしかし、それほど音に浸っている時間はなく、出番に備えて楽屋から舞台袖へと移動している。

 舞台袖へくると聞こえてくる音はよりはっきりとして、オーケストラの背中も見えた。


「――さあ、次がおれたちの出番だ」


 晴己がちいさく呟くと、ユリアはこくんとうなずいたが、乙音とアルは緊張もそのままに細かくふるえていた。


「アル、大丈夫か?」

「い、いや、あんまり大丈夫ではないよ、ハルキ――やっぱり緊張しちゃってさ」

「大丈夫だって。おれたちは四人、先生も入れて五人いるんだから、ほかの仲間を信じてたらいい。そしたらうまくいくよ」

「うん――そう、だね。たしかに、ぼくは失敗するかもしれないけど、ユリアとか乙音が失敗するとは思えないし」

「おい、おれは?」

「ハルキは、うーん」

「くそう、やっぱり緊張してろ、アルめ」


 アルはちいさく笑い、それでようやく緊張がほぐれたようだった。

 乙音のほうはドレスの裾をきゅっと握り、何度も深く深呼吸している。

 ユリアはあえてなにも言わず、乙音が自分なりの方法で緊張を鎮めるのを待った――乙音はコンクールの経験もあるのだから、ちゃんと緊張と付き合う方法を知っているのだ。


「大丈夫、いつもどおりにやればいいんだから――大丈夫、大丈夫」


 乙音は呟き、こくんとうなずいて顔を上げた。

 ちょうどそのとき、客席から大きな拍手が上がる――どうやら演奏が終わったらしい。

 晴己はその長い拍手を聞きながら、数十分後には自分たちがその拍手を浴びているはずだと考える。

 もし演奏が失敗すれば拍手はないかもしれないが、なんの問題もなく終われば、その何百という拍手はたった五人のために鳴らされるわけだ。

 ふう、と短く息をはく。

 そこに、演奏を終えたブノワ・パニスが戻ってきた。

 パニスは袖に控える四人を見てにっと笑い、先頭にいた晴己の肩をぽんと叩いた。

 それからフランス語でなにか言われたが、もちろん意味はわからない。

 やがて亜莉子も引き上げてきて、四人のほうをちらと見たが、声はかけなかった。

 オーケストラがそれぞれの方向から掃けていけば、スタッフが舞台上へ上がって椅子や指揮台の片付けをはじめる。

 客席もまるで演奏会が終わったというような明るいざわめきに満ちていた。

 しかしまだ最後のひとつ、演目が残っている。

 その演目のために壇上にはピアノが運ばれた。

 ぽつんとピアノが置かれた舞台を袖から眺めて、四人は顔を見合わせてうなずく。


「じゃ、先生、お願いします」


 雪乃もうなずいて、四人は暗い舞台袖から、明るい舞台上へと出ていった。

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