第四話 8
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皐月祭前日。
さすがに明日が本番ともなると、校内の雰囲気はすでに祭りのなかにあるような、熱気と緊張が入り混じった独特の空気になっている。
生徒たちも演奏の最終確認に勤しんでいて、校内の至るところから様々な楽器や人間の声が響いていた。
若草雪乃はその校内をゆっくりと見回り、困っている生徒がいないか、なにか問題が起こっていないかと丁寧に確認して歩く。
こういう時期は、なにかと問題が起こりがちだ。
試験前と同じように生徒たちはぴりぴりしているし、音楽に真正面から向き合っているから、挫折やけんかはあちこちで起こる。
しかしそこに教師が介入することはほとんどない――どちらの問題にしても、それは生徒が自力で解決しなければならないことだ。
教師ができるのはせいぜいその手助けをしてやることくらいだったし、それに生徒たちはちゃんと自分たちの力で問題を解決しようとしていた。
自然と、雪乃はとくにやることもなく、校内を散歩することになる。
「――なんだか、青春って感じね」
生徒たちを眺めているとそう思う。
そしてかつては、雪乃もその生徒だった。
何人かの仲間とひとつの目標に向かって努力する――そのなかで起こる様々な問題は、いま振り返っても青春というより面倒なことばかりだったが、なにかに夢中だったことは間違いない。
とくに十代のころは、そうだった。
世界で通用する指揮者を目指し、音楽をひたすら勉強して――そうやって勉強していればいつか目的の場所にたどり着けると信じていたころ。
それが二十歳のあのとき――偶然受けたオーケストラの入団面接で聞かれたあの一言がきっかけで、「目的の場所」自体が揺らいでしまう。
――音楽は好きですか、と面接官は言った。
はい、と答えればそれでよかったが、聞かれた瞬間、雪乃の頭にはいままでの苦労や面倒だった問題が浮かんで、すぐには答えられなかった。
それからというもの――雪乃はいろいろな場所をまわり、自分は本当に音楽が好きなのか確かめようとして、結局わからないままこの国、この場所へと戻ってきたのだ。
いまは、わかる。
いま面接官に同じ質問をされれば、雪乃は笑顔で答えるだろう。
「――わたしは音楽が好きです」
それは過去の自分といまの自分、そして未来の自分までをひとまとめに肯定する魔法の言葉だ。
その言葉を言えるようになったきっかけは、偶然に出会ったひとりの少年だった。
すばらしい声を持つその少年は、音楽のことをなにも知らなかった――音符の意味も、楽譜の読み方も知らないその少年は、でも音楽を純粋に楽しんでいた。
――きっとその純粋さは音楽を長くやればやるだけ失われてしまうものだ。
ピアノの鍵盤を押しこみ、音がぽんと出てくるのを奇跡だと思う感性がその純粋さを支えていたのだろう。
その純粋さに触れて――そういえば自分にもこんな時期があったと思い出し、そのあとに経験したいろいろなことを考えても、やはり雪乃は音楽というものから離れられなかった。
考えてみれば、五年間も放浪していて、ちゃんとこの音楽学校に戻ってきたという時点で音楽が好きなことは明らかだ。
もし音楽がきらいなら、そもそも五年間も音楽を探してさまよいはしなかった――そんな当然のことに気づくまでに長い時間がかかってしまったが、雪乃はそれも無駄だとは思わなかった。
世界で認められるような指揮者になる、という子どものころの夢は叶えられなかったが、いまはそれと同じくらい大きな夢がある。
ここで生徒たちに音楽を教え、音楽の奇跡を伝えること――きっとそれはもとの夢と同じくらいむずかしいことだろうが、やってみる価値はあると感じていた。
雪乃は清々しい気持ちで庭を歩いていく。
と、第二校舎の一階から、一度聞いたら忘れられない不思議な構成のカルテットの音が聞こえてきた。
その部屋には庭に面した位置に窓があり、換気のためかうすく開かれていて、雪乃はそこからなかを覗く。
六畳程度のちいさな部屋だ。
壁際にはピアノが置かれて、そこから円を作るようにほかの三人が立っている。
ピアノを弾くのは小嶋乙音、大きなコントラバスを抱えているのはアルカンジェロ・クレメンティ、ヴァイオリンはユリア・ベルドフで、声楽は箕形晴己という奇妙なカルテットだ。
そのうち、晴己だけは一歩下がった位置にいて、演奏には参加していない――おそらくまだ声が戻っていないのだろう。
ほかの三人はそれぞれに演奏していて、その曲を聞くかぎり、やはりカルテットのオリジナル、即興で組み上げられていく曲らしい。
ただ――。
漏れ聞こえてくる音を聞いていても、その完成度が上昇しないのがわかる。
演奏している三人もうまくピースをはめられない違和感を覚えるらしく、ユリアはヴァイオリンを弾きながら眉をひそめ、乙音は鍵盤を叩きながら首をかしげていた。
それは、曲としての完成度が低いわけではない。
ただほんのわずかな違和感と、予想の範囲から抜け出せないもどかしさ。
もう一歩でなにか開けそうなのに、その正しい一歩がなかなか見つけ出せないらしい。
雪乃は三人が演奏の手を止めるのを待って、窓をこんこんと叩いた。
気づいた晴己が駆け寄り、窓を大きく開ける。
「おはよう、みんな――箕形くん、声の調子は?」
晴己はここ数日ですっかり慣れてしまったノートに書き込んでいく。
『もう出るんですけど、ほけんの先生が出すなって』
「まあ、本番は明日だから、今日無理をして出しても仕方ないでしょう。今日一日、ゆっくり喉を休めることね。あと保健くらい漢字で書けるようになりなさい――練習のほうはどう?」
それが、というように晴己は後ろを振り返り、三人もそろって首をかしげた。
「悪くはないけど」
とユリアは相変わらず強気に言って、
「ただ、なんとなく納得できないのよね。音にまとまりがないっていうか、和音としての響きはおかしくないのに、なんとなくずれてる感じがするっていうか。チューニングがずれてるわけでもないのに」
「ふうん、そう――演奏してない箕形くんは、その音を聞いてどこがおかしいのかわかる?」
晴己は首をかしげたあと、ノートを使って、
『おれが歌ってない』
「自信満々ね――ま、ある意味間違えてはないけど。ユリアが言ったまとまりがないっていうのも正しい判断よ。音は合ってるけど、それぞれの音量と、細かい出だしのタイミングが合っていないの」
「――でも、いままでそんなの、感じたことありませんでしたけど」
「カルテットの演奏に慣れてきたからじゃない? うまくいったときの演奏がどういうものかわかってるから、うまくいかなかったときの違和感が大きくなる。あなたたちは、普通のカルテットよりも音としてはうまく機能してるのよ。自分の演奏に夢中になるんじゃなくて、ちゃんとほかの音も聞きながら演奏できてる。それをもっと意識してやれば、いまどの音が前に出るべきなのか、どの楽器とどの楽器でそれを支えればいいのか、支えるために適切な音量はどのくらいなのかってこともわかってくるはずよ」
「できるかなあ、そんなこと」
アルはコントラバスを抱きかかえるようにして首をかしげた。
「だって、先生、こうやって弾いてると、当たり前だけど自分の楽器がいちばん大きく聞こえるわけじゃないですか。ほかの楽器の音を聞くくらいはできるけど、全体として音量を調節しようと思ったら、どうしても第三者に調節してもらうしかないような」
「それこそ、繰り返すことが大事ね。あとはイメージすることかしら」
「イメージ?」
「自分たちの音が、聞いているひとの耳にどう聞こえているのか。もちろんそれは演奏する場所や、そのひとの位置によってもちがうわ。ホールで弾くときとちいさな部屋で弾くとき、目の前のひとに聞かせたいときと、ホールのいちばん奥にいるお客さんにまで響かせたいとき――それぞれに必要な音がちがうのはわかるでしょう?」
「まあ、わかりますけど、現実的にはやっぱり無理ですよ、そんなの」
「たしかに、一日や二日でできるようになることじゃないけどね」
わざと挑発するように言うと、ユリアは案の定むっと眉をひそめたが、晴己はなにか思いついたようにぽんと手を叩いた。
『だったら先生にやってもらえば』
「はい?」
『先生に、しきをやってもらえば』
「……カルテットに、指揮をつけるの?」
乙音は不思議そうに呟いたが、アルは名案だとうなずく。
「たしかに、先生にやってもらえばちょうどいいかも。ぼくたちだけじゃ限界があるしね」
「限界はないけど、今日から練習をはじめても明日の本番には間に合わないでしょうし。そこまで言うなら、やってもらってもいいかもしれないわね」
今度はユリアのほうが勝ち誇ったように言った。
乙音も雪乃を見て、こくこくとうなずいている。
四人の生徒にじっと見つめられ、雪乃はうっとうめいて一歩後ずさったが、いまさら知らん顔するわけにもいかないのはたしかだった。
「まあ――別に指揮をつけてもいいけど、わたしでいいの? 指揮科の生徒に頼めばいいんじゃない?」
「生徒より、そりゃ先生のほうがいいですよ――あれ、そういえば先生って、専攻はなんだったんですか?」
「一応、指揮科だったけど」
「やっぱり! じゃ、お願いします。ほら、そんなところにいないで、こっちに入って」
「え、あ、ああ、そうね――」
思わぬ展開ではあったが――雪乃は久しぶりにタクトを振るため、校舎をぐるりと回って、そのちいさな部屋へと入っていった。
*
一方そのころ、駅前のホテルでは、外部からやってきたオーケストラや演奏家、それに地域の有力者を加えた百人ほどで、明日の本番を前にした歓迎会のようなものが行われていた。
普段は結婚式などに利用されているホテルの大広間を使った立食式のパーティーで、オーケストラのなかで出席を希望した演奏家から、市長や地元企業の社長、日本音楽界のお偉方までが参加する大規模なパーティーである。
そこには当然、ヴァイオリニストのブノワ・パニスや、指揮者の大宮亜莉子も招待されていて、オーケストラとちがって主賓扱いである彼らは欠席するわけにもいかず、とくに興味もないまま挨拶まわりに奔走していた。
それでも、亜莉子はさすがに大人だ。
社長やら市長やら会長やらと挨拶するときは如才なくほほえみ、年上の「おじさま方」の扱いも心得ていて、くだらない冗談にもちゃんと品よく笑ってやっている。
そんな器用な真似はできないパニスも、見た目と持ち前の無邪気さで「奥様方」への人気は上々で、ついて回る通訳も大変そうだった。
――そうした挨拶もひと段落すれば、ようやくふたりはほっとしたように息をつく。
主賓同士、なんとなくとなりに並んでいて、亜莉子はふとパニスを横目で見る。
「あなた、ヴァイオリンは持ってこなかったの?」
「わっ、びっくりした――フランス語がしゃべれるの?」
パニスは自分の両手を見下ろし、ひらひらと振る。
「持ってこようと思ったけど、使わないから部屋に置いてこいって言われちゃった」
「だから今日はおとなしいのね。前に会ったときはもっとやんちゃだったけど」
「前に? どこかで会ったっけ?」
パニスはじっと見つめ、一瞬わかったような顔をしたが、すぐ首をかしげた。
「一瞬ひらめいた顔したのはなんだったの?」
「なんか見たことあるような気もしたけど、気のせいだったような気もして――うーん、思い出せない。ごめんね、ぼく、ひとの顔とか名前って覚えるのが苦手で」
「いいわよ、別に。そういうの、慣れてるから」
「慣れてる?」
「音楽家――とくに作曲家と演奏家って変なひとが多いでしょ」
「う、ぼ、ぼくは変じゃないよう」
「充分すぎるくらい変だけど――そのへんが同じ音楽家でも指揮者だけちがうところね。指揮者は、基本的にまともな人間じゃなきゃなれないし」
「そうかなあ」
異論がありそうなパニスの目つきだった。
しかし亜莉子はそれを無視し、グラスのシャンパンを一口飲む。
「でも、意外と日本人ってフランス語がしゃべれるんだね」
「さあ、町中でもそんなに見かけないと思うけど――わたし以外にもいたの?」
「学校の先生にひとり、しゃべれるひとがいたよ。すごいよね、それって。音楽学校だから、ドイツ語ならまだわかるけど」
ああ、それなら、と亜莉子はうなずく。
「それ、若草雪乃でしょ?」
「そうそう、そんな名前のひと!」
「あれは特別よ。普通はフランス語なんてほとんどしゃべれないと思うし」
「そうなの? 知り合い?」
「まあね――一応、親友」
そう思っているのはわたしだけかもしれないけど――亜莉子は心のなかで呟いたが、聞こえるはずのないパニスはうれしそうな顔でうなずいた。
「そうなんだ、いいね、親友って」
「そりゃあね、親友だもの」
「じゃあ、ふたりでフランス語を勉強したの?」
「まさか――わたしがフランス語を覚えたのは、この仕事をはじめてからだし。一応、英語とドイツ語とラテン語の読み書きはできたけど、フランス語は音楽にはあんまり必要ないでしょ。指揮者になって、いろんな国のオーケストラとやったりするから、必要だと思って覚えたの」
「わあ、すごい。ぼくフランス語しかだめだよ」
「演奏家はそれでもいいでしょうけど、指揮者はそうはいかないからね」
雪乃がフランス語を覚えたのも同じ理由だろう。
昨日、久しぶりに雪乃と夕食をともにした亜莉子だったが、その場で雪乃は、五年間個人的な音楽の家庭教師をしたり、セミプロのような声楽科のコレペティトールをやったりしていたと言っていた――そのときは聞きながら、いったいいつの時代の音楽家だと笑ったが、考えてみれば指揮にとってそれほど勉強になることはない。
つまり、その時期には、雪乃にも指揮者になるという目標があったわけだ。
いまはその目標が教師に変わったようだが――。
「じゃあ、あのひとも指揮者だったのかー」
パニスは雪乃を思い出しながらぽつりと言った。
亜莉子は視線を下げ、すこし悲しげにうなずく。
「そう、指揮者だった――いまは、教師だけどね。まあ、どんな分野でもあの子ならなんとかなるでしょう」
どんな分野でも――つまり、いまから指揮者を目指しても、雪乃なら必ず成功できるにちがいない。
いま世界でいちばん人気がある指揮者だといわれている亜莉子が、唯一認める指揮者だ。
指揮者はいわゆる職人のような役割で、五十を超えてようやく一人前といわれるような世界だが――若い人間にしかできない指揮というのも必ずあって、亜莉子は自分の指揮がかつての名指揮者に劣っているとは思わない。
もちろん、そうした名指揮者とは目指している方向がちがうから、どちらがより優れているというものではないのだろうが――しかし唯一雪乃だけは同じ方向の指揮を目指していて、亜莉子も敵わないかもしれないと思う指揮者だった。
そんな人間が、もうタクトは振らないつもりでいるという。
唯一のライバル、唯一亜莉子が認めた相手が、まるで勝ち逃げでもするようにこの勝負から下りると――。
悔しいというよりは、やはり残念だった。
すぐれた音楽家がひとりいなくなってしまうという純粋な気持ちと、やはり友人として雪乃が決めたことを尊重したいという気持ちが入り交じっている。
「まあ、でも――いつまでも同じ道ってわけにはいかないからね」
「同じ道?」
「こっちの話。それより、明日のことは大丈夫なの? 指揮者として失敗してもらうと困るんだけど」
「大丈夫、大丈夫。失敗はしないよ」
あくまで楽天的なパニスだった。
まあ、それでもパニスは一流のヴァイオリニストだ。のんびりしていても、本番で失敗するということはないだろう。
「じゃあ――あとは、大トリがどうなるかってことね」
「あ、学生のカルテットでしょ? ぼくも気になってるんだよね。どんなカルテットなの? 学生選抜?」
「明確に選抜されたってわけじゃないけど、毎年優秀な生徒が選ばれるようにはなってるわ。ただ今年は、プログラムにも書いてあったけど普通のカルテットじゃないもの」
「えっと、声楽とヴァイオリンとバスとピアノだっけ? すごいよね、そんなカルテットなんて見たことないよ」
パニスは純粋に興味があるらしく、にこにこと笑う。
「楽しみだなー、どんな音楽なんだろ。なにを演奏するのかな?」
「さあ、そこまでは知らないけど――おもしろいカルテットなのはたしかね。毎年、生徒は緊張しちゃってあんまり実力を発揮できないことも多いけど、今年は問題ないでしょうし」
「へえ、そうなのかー。ますます楽しみだなあ」
たしかに今年のカルテットは楽しみだと亜莉子もうなずく。
とくに――声楽の箕形晴己が歌い出した瞬間を想像すると、自然と笑みがこみ上げてくる。
きっと会場に集った人間は、大トリとして出てきた生徒たちをおまけのように考えているだろう。
その前の演奏に満足し、お腹いっぱいだというように腹をさすって心は帰り支度をはじめているにちがいない。
もちろん、亜莉子はそうなるように全身全霊で指揮するつもりだった。
プロの演奏だけでも充分に満足させて、そのあとで生徒たちの演奏を聞かせる――おまけだと思い込んでいる客が、その演奏にどんな顔をするか。
想像するだけで愉快な光景だった。
ただ、問題はそのあとだ――箕形晴己は、亜莉子とともに世界へ出る覚悟を決めたかどうか。
プロの音楽家を目指す生徒なら、その誘いに乗らないはずはない。
世界中を股にかけて活躍する音楽家はすべての生徒の目標だ。
そこにいち早く王手をかけるということなのだから、普通の生徒なら間違いなく誘いに乗るだろうが、晴己がそれを選択するかどうかはわからなかった。
世界的に活躍する音楽家を目指すということは、ほかにいくつもある選択肢を捨てるということでもある。
プロを目指す生徒なら最初からそんな選択肢は捨てているから、いまさら躊躇する理由はないが――プロなど考えてもいない晴己にとっては、それは重大な選択にちがいない。
この数日のうちに覚悟を決められるかどうか。
もしその覚悟ができていないのであれば、もちろんプロとしてやっていくことはできない。
しかし断るという気持ちも理解できないわけではなかった。
なんといってもまだ十六歳なのだから、もうすこし学校の生活を楽しみたい、十六歳としての経験をしたいと思うのは当然だ。
プロになれば、何歳だろうが一人前の人間として扱われる――そのことに怯えるのは当然といえば当然だった。
「――まあ、まずは明日の様子を見ることね。カルテットがどんな演奏をするのか」
「そうだね、楽しみだ」
しかし亜莉子は知らなかった。
明日の本番に、まさか雪乃が指揮者として舞台に上がるとは――。




