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第一話 3

  3


 若草雪乃は、これ以上ないくらい深々と、今日何度目かしれないため息をついた。


「では、おさらいします」


 第一校舎二階の、とある教室。

 音楽学校というのは一日中楽器を鳴らしていると思われがちだが、案外座学が多い。

 そこで音楽理論を学び、実践させ、頭と身体で覚えさせるわけだ。

 どれだけ楽器がうまく弾きこなせても楽譜が読めないようでは、一流の音楽家とは呼べない。

 雪乃は黒板に五線譜を引き、そこにおたまじゃくしを一匹、書き込んだ。そしてくるりと振り返る。


「この音はなにかしら?」


 たったひとりの生徒、箕形晴己はむむと眉根を寄せ、雪乃の反応をちらちら伺いながら、


「……シ?」

「はい不正解。なんでこれがシなの? ファでしょ。さっき教えたこと、聞いてなかったの?」

「聞いてました、半分くらい」

「全部聞きなさい。ばかなんだから」

「せ、先生がばかって言っちゃいけないんだー!」

「うるさい。文句はできるようになってから言いなさい。いい? もう何回教えたかわからないけど、ドはここ、五線譜の下に加線したところよ。高いドはこの下から数えて三本目と四本目のあいだ。そこから考えれば、そこから考えればすぐにほかの音もすぐにわかるでしょう?」

「でも先生」


 晴己はぴっと手を上げる。


「おかしいじゃないですか。ドって、基本でしょ? 基本だったらど真ん中に置くべきだと思うんです。なんで基本が、五線にすら乗ってないんですか」

「ドは真ん中だから、ここでいいの。いい、これはト音記号」


 するりと優美な曲線を書き足したその下に、もうひとつ五線譜を書いて、そこには勾玉を半分にしたような記号を描く。


「これがヘ音記号。ト音記号は高音部、ヘ音記号は低音部を意味して、同じ五線譜でも音の場所がちがうの」

「げ、ひとつでもわけわかんないのに……」

「でも、そのヘ音記号とト音記号は連続していて、その中心となるのがト音記号の下第一線、つまりドね。ここを中心に、上下に音が広がる。だから――」


 雪乃はふたつの五線譜のあいだに、大きく一本の線を書き足した。


「この線が、ド。こうやって線を考えれば、上下に五つの線があって、その中心がこの位置だってことがわかるでしょ」

「なるほど、たしかに」


 うんうんと晴己はうなずく。

 それなら、と雪乃はヘ音記号の第四線におたまじゃくしを置く。


「はい、この音は?」

「えっと、真ん中がドだから、シ、ラときて……ソ?」

「ファです。はい最初からやり直し」

「えー!」


 雪乃はもう一度深くため息をつき、黒板の五線譜を消していく。

 そのあいだに晴己は自分のノートに五線譜を書き、ひとつずつ音符を置いては音程を書き込んでいく。

 まるで小学生がやるような勉強だが、それさえもできないのだから、まずはこのあたりからはじめるしかない。

 詳しい音符の種類やテンポの取り方を教えるのはいつになることやら。雪乃は長い長い道のりを思い、またため息。

 しかし希望がないわけではない。

 雪乃は黒板消しを置いて、ぱんと手を払い、傍らのピアノに近づいた――各教室にピアノが置いてある、というのが、普通の学校とはちがうところだ。

 雪乃は鍵盤のなかの黒鍵をひとつ押す。

 晴己はノートに視線を落として、音には集中していないはずだが、


「いまのはなんの音?」

「ファのシャープ」


 ふむ、とうなずく。

 箕形晴己は、まだ五線譜と音の対応すらわかっていないが、耳はいい。

 いわゆる絶対音感というものを持っている。

 しかしこの学校では絶対音感の保持者など珍しくもなんともなく、むしろこれくらいできて当たり前の世界ではあるが、楽譜もまったく読めない人間が簡単に当てられるというのはすこし能力に偏りがある。

 雪乃は三つの鍵盤を同時に押し込んだ。


「いまのは全体としてなんの和音で、構成音はなんだと思う?」

「……はい?」


 晴己は顔を上げ、首をかしげた。


「質問の意味がちょっとわかんないんですけど。構成音って、なんですか」

「構成音っていうのは、和音に含まれる音のこと。つまりいまの和音はなんの和音で、個別にいえばなんの音が含まれるかってこと」

「ああ、なるほど。はじめからそう言ってくれればわかりやすいのに……」


 ぶつぶつ言いながら、晴己は「あー」とちいさく発声した。


「全体としてはレですか」

「構成音は?」

「えっと……んー」


 自分の声で発音して確かめながら、すこし時間はかかりながら、


「レ、ファのシャープ、ラ」


 合ってます? というように晴己は雪乃を見た。

 雪乃がうなずくと、子犬のようにぱっと笑う。

 もし晴己が犬だとすればずいぶんアホな犬になるんだろうなと雪乃は思いながら、もう一度鍵盤を鳴らす。


「今度は?」

「えっと、全体としてはさっきと同じで、構成音も――でも、なんかちがう音が混じってたなあ――レよりも低い音がド?」

「そういうこと」


 やはり耳はたしかだ。

 ただ、その和音が音楽理論ではどう呼ばれているのか、音同士がどういう関係性なのかはまったくわからないのだろうが。

 素材として、やはり指導しにくい相手だ。

 まだ相手がピアノやヴァイオリン、ギターでもトランペットでもいいが、楽器の経験者なら話は早い。

 楽器が弾けるなら、理論がわからなくてもその本質には触れられるし、自分なりの理解もしやすい。

 しかし晴己は声楽、つまり自分の声という楽器しか扱ったことはなく、その楽器には調律も必要なければ和音の理屈も必要ないから、いくら耳がよくても理屈を教え込むのはむずかしかった。

 こんなことならやはり本業の教師に任せるんだった、と雪乃は授業初日から後悔したが、一度引き受けた以上、すぐに投げ出すわけにはいかない。

 そんなことは雪乃のプライドが許さない。

 プライドのためにも、晴己には立派な音楽家になってもらなわければ困るのだ。

 当然、指導にも熱が入る。


「五線譜上の音はもう理解できたわね。じゃあ、次はピアノを弾いてみましょう」

「え、ピアノ弾くんですか? おれ、歌でこの学校に呼ばれたもんだと。まさかピアノの隠された才能があったとは……」

「隠された才能があるかどうかは知らないけど、ピアノはとても優れた楽器だから、どんな楽器をやるにしても音楽の基本はピアノで学んだほうが楽なのよ。ほら、早く座って」

「はいはい」


 がたがたと椅子を引き、ピアノの前までやってくる。

 晴己は鍵盤に向かうと、まるで新しいおもちゃを与えられた子どものようににっこりと笑った。


「わあ、すげえ。こんな立派なピアノ、はじめて弾きます」

「ピアノ経験はあるの?」

「孤児院にあったオルガン――あの鍵盤が軽いやつくらいです」


 安価な電子オルガンだろう。雪乃はこくりとうなずき、晴己の後ろに立つ。


「じゃあ、鍵盤のどこを押せばどの音が鳴るのかはわかるわね」

「はい、もうばっちりです」

「それじゃあわたしが言う音を弾いていって。弾きながら、五線譜のどこにその音があるか考えること。ちゃんと頭のなかで音を置いてから鳴らすように」

「う、了解っす」


 ド、レ、と雪乃が言うたび、晴己の指がぎこちなく鍵盤を押していく。

 近い場所の鍵盤は難なく指も動くが、低いレから高いソに飛んだりすると指がしばらく迷ってさまよった。

 その度、雪乃はなんだかいらいらして、後ろから晴己の指を掴んで正しい鍵盤を押してやった。


「ここでしょ、ソは。五線譜上の位置は?」

「え、えっと、高いソだから、えっと」

「上第一間でしょ」

「あ、そっか、そこです、そこ」

「じゃあ次は下のド」

「ドは――ここか」

「五線譜上の位置は」

「え、えっと、ド……こう、五本の線の、真ん中らへんですか」

「らへん、じゃないでしょ」

「あの、先生、いまちょっと冷静に考えられる状況じゃないです」

「なにが?」


 ふと見てみれば。

 なにやら、晴己の耳が赤い。

 よくできた性能のいい耳をまっ赤にしてどうしたのかといえば、晴己は鍵盤に指を置いたまま、困ったように言った。


「さっきからですね、わたくしめの後頭部にですね、先生さまのやわらかなお胸がですね、触れたり離れたりでございまして」


 そんなこと、と雪乃はため息をつく。


「いい、優れた音楽家っていうのは、いかなる状況でも完璧な演奏を披露できる人間のことを言うのよ。そんな些細なことはどうでもいいから、早く五線譜上の位置を答えなさい」

「え、えっと――ま、真ん中の一個下、ですか?」

「具体的には? 呼び方も教えたでしょう」

「だ、第二間です」

「正解。じゃあ、これは」

「ああっ、またふにっと、ふにっと!」

「後頭部じゃなくて指先と楽譜に集中しなさい」


 ――意外な熱血教師、若草雪乃の授業はまだしばらく続くらしい。



  *



 噴水に腰を下ろし、ふうと息をついた。

 青い空を見ていると、ようやく解放されたという気がする。

 身も心も軽くなって、そのまま空の彼方へフライアウェイ、といきたいところだが、実際のところはまだ昼休み。

 午後からも授業はまだ続いて、すでに午前の授業だけで頭はパンク寸前なのに、これからどうなるのか――考えるだけでも恐ろしい。

 クールそうに見える若草先生なのに、授業となると意外に熱血で驚く。

 しかしそれは若草先生に限った話ではないらしい。

 ここの人間はみんな、音楽に対して真剣なのだ。

 いい加減に音楽をやっている人間なんてひとりもいないから、どんな性格の人間でも、こと音楽のことになればどうしても熱くなってしまう。

 それは、おかしなことでもいけないことでもないとおれは思う。

 むしろそうやって熱くなれるのはうらやましい――おれはまだ、熱くなれるほど音楽のことをよく知らないし、好きだという自信もないから。


「……ってことは、まじめに授業を受けたほうがいいんだろうなあ」


 若草先生の授業はきびしい。

 でも、理不尽ではない。

 教え方がうまいのか下手なのかはわからないけど、なにも知らないおれによくついてきてくれるなあとこっちが感心してしまう。

 きっと若草先生からしたらいらいらするような初歩ばかりだろうに、まあ実際いらいらしていたけれど、投げ出さずに何度でもちゃんと教えてくれた。

 あれは、いいひとだ。

 いい先生である以上に、いいひとであってくれたほうが、おれとしてはうれしい。


「――そういや、昼飯、アルと食う約束してたっけ」


 本来、この学校の昼休みは十二時半から二時までの一時間半だった。

 しかしいまはもう一時すぎ。

 おれがあまりにもできないせいで授業が押してしまって、この時間になっている。

 あんまり待たせちゃまずい、と寮一階の売店で昼飯のサンドイッチを買い、待ち合わせ場所にしていた食堂へ行くと、アルはひとり、机に突っ伏して昼寝をしていた。

 まわりにはいろんな生徒がいる。

 食堂や売店は男女共用だから、男子も女子も、日本人も外国人もたくさんいて、いろんな言葉が入り乱れていた。

 おれはアルが寝ている席に近づき、ぽんぽんと肩を叩く。

 アルはむにゃむにゃとなにかを言って起きようとしなかった。

 仕方ないので、


「あっ、いかにも日本人らしい黒髪美少女が!」

「えっ、どこどこ?」


 ばっと飛び起きたアルはあたりを見回し、おれを見つけ、ため息をついた。


「なんだ、ハルキかあ……美少女じゃないじゃん」

「悪い悪い。待たせたな。授業が長引いちゃってさ」

「珍しいね。だいたい授業はぴったりに終わるのに」

「いや、おれだけ初心者すぎて別メニューだから、声楽科の授業にはまだ出られてないんだよ。いつになったら出られるのかなあ……」

「ああ、そうなんだ――じゃ、今日は外で食べよっか。天気もいいしね」


 アルもすでに昼食を買い込んでいたらしい。

 膝の上に置いていたビニール袋を持ち、揃って寮を出る。

 広い庭の片隅にはベンチやちょっとした芝生もあり、生徒たちはみんな思い思いの場所で昼食をとったり、雑談したりして、この天気のいい昼下がりを楽しんでいた。

 でも、彼ら、彼女たちのそばには楽器が転がっている。

 フルートだったり、ヴァイオリンだったり。

 さすがにアルの持っているコントラバスのような大きな楽器を持っている生徒はいないけれど、持ち運びができるものは大抵どこへ行くにも持っているらしい。


「そういえば」


 芝生の一角に腰を下ろしながら、おれは言った。


「あの楽器って、みんな自前なの?」

「うーん、いろいろだよ。自前って生徒のほうが多いかな。でも、安いものじゃないからね。そういう生徒には学校から無料で貸し出してくれるよ」

「へえ、そうなのか――じゃあみんな、借りればいいのに」

「自分の楽器っていうのは、それだけでやっぱり感覚がちがうからねえ。楽器に愛着が湧けば、その分触れていたくなるし、学校から借りてる分に関しては卒業したら返さなきゃいけないし。学校から借りてるのは、家庭の事情とかもあって楽器を買えない生徒だけだよ。ぼくのも借りてるやつ」

「そうなのか。たしかにあのでっかいのを持ってイタリアからくるのは大変そうだな」

「そういうこと。まあ、コントラバスにしてもいろいろあって、二メートルあるやつから、一七〇センチくらいのやつまで結構サイズも多いし――でもまあ、基本的に背は大きいほうがいいけどね」

「はあ、楽器ひとつやるだけでも大変だなあ」


 温かく、むしろ暑いくらいの気温のなかでサンドイッチをもさもさやりながら、のんびりした気分になる。


「ところで、高いのか?」

「値段? 高いよー」

「いくらぐらい?」

「知りたい?」


 アルはにやりと笑い、わざとささやき声で言った。


「買おうと思ったら、マンションがひとつ買えるくらいかな」

「た、高ぇ! そそ、そんな高ぇやつ持ち歩いて大丈夫なのか? 強盗に狙われたりとか」

「強盗に楽器の価値がわかるとは思えないけど、でもまあ、大きさ的にも持ち歩くのは大変だしね。外国に行くときは気をつけなきゃいけないけど、それ以外は大丈夫だよ。それに高いでいうなら、きみの喉なんか、世界にひとつしかないんだよ。マンションどころか、何億円出したってその喉は買えないんだ。そう考えたら声楽家の喉のほうが高いと思うけどね」

「ううむ、たしかに」

「そういえば――ハルキってさ、パートはどこなの?」

「パート? アルバイトはもうしてないけど」

「あーうんえっと、言い方が悪かったね」

「……なんかその諦めたような顔が引っかかるけど」

「つまりどのポジションなのかってこと。バスとかってわけじゃなさそうだけど」

「……ポジション?」


 サンドイッチを咥えたまま、首をかしげる。

 アルは今度こそ露骨にため息をついた。


「えっとね、ハルキにわかるように説明するとね」

「その前置きいらねえ」

「楽器には担当する音域があるでしょ。たとえば弦楽器だと、一般的にはヴァイオリンがいちばん高い音域が出せて、ぼくのコントラバスがいちばん低い音域を担当する。ああ、えっと、音域っていうのはその楽器が出せるいちばん高い音と低い音の範囲のことをいって――」

「さすがにそれはわかるって。アル、おまえ、ばかにしてるだろ?」

「ばれた?」


 そばかすが目立つ顔でアルはにっこりと笑い、舌を出す。


「この学校でハルキほど音楽を知らないひとも珍しいから、ついさ」

「まあ、それはおれも感じるところだけどさ。で、解説の続きは」

「ああうん、だからね、それぞれの楽器には出せる音の限界があるわけでしょ。当然、ひとつの音楽をひとつの楽器で演奏するのはむずかしいから、楽器が出せる音域に従って演奏するパートを分けるわけ。声楽もそれと同じで、出せる音域によってパートがちがうんだよ。女のひとなら、上からソプラノ、メゾ、アルトってなってて、男ならカウンターテナー、テノール、バリトン、バスになる」

「要は、合唱とかのときにどの高さを歌うかってこと?」

「そういうこと。思った以上に伝わってうれしいよ」

「それなら、高いやつだよ。聖歌隊ではいつもそうだったから。名前とかはわかんないけどさ」

「じゃあテノールよりも高いところなんだね。声質でいうとリリコとか、レッジェーロの雰囲気だけど」

「うん、わかんないけど、サンドイッチうめえ」


 とくに天気のいい野外で食べるサンドイッチは格別だった。

 昼休みなのに、どこからともなく音楽が聞こえてくるのもいい。

 スピーカー越しではなく、その場で楽器があたりをふるわせる生演奏の音は無条件にわくわくする。


「今度さ、あのでっかいやつ、弾いてくれよ」


 おれが言うと、アルはうんとうなずいた。


「なにが聞きたい? 別にクラシックじゃなくてもいいよ」

「んー、なんでもいいや。音が出てれば」

「なんだ、それ」


 けらけらと笑ったあと、アルはふと視線を上げた。

 となりでおれも同じ仕草をしてしまう。

 すこし離れた場所から聞こえていたヴァイオリンかなにかの音が、不意に不協和音を立てて止んだせいだ。

 そのとき、おれとアルはすっかりサンドイッチを食べ終わって芝生に寝そべっていた。

 だから、その女の子たちはおれたちの存在に気づかなかったのかもしれない。


「ちょっと、待ちなさいよ! まだ練習は終わってないでしょ」

「もういやなの! 無理よ、そんなの。そこまでやりたいんだったらひとりでやればいいじゃない。あなたのわがままには付き合ってられないわ」


 ずんずんと大股で歩いていくのは黒髪の日本人で、それを追いかけるのは信じられないくらいきれいな金髪の女の子だった。

 どちらも手にヴァイオリンを持っている。

 なんとなくふたりとも気が強そうな、ちょっと近寄りがたい雰囲気の女の子だった。


「わがままってなによ――」


 金髪の女の子は噴水の近くで立ち止まり、歩き去っていく女の子の背中に向かって叫んだ。


「もとはといえば、あんたが下手なんでしょ。あたしの演奏についてこられないだけじゃないの。間違うのはいつもあんたたちで、あたしは一回だって間違ったことないわ!」


 黒髪の女の子はぱっと振り返り、金髪の女の子をにらみつける。


「それがわがままだって言ってんのよ! そりゃあ、あなたはうまいでしょう――天才さまはわたしたちみたいな凡人の演奏は聞くに堪えないんでしょう。だったらひとりで自分の演奏だけ聞いてればいいわ。自分の演奏でしか満足できないっていうんならね」


 きいきいと、ヴァイオリンを折り曲げようとしているような不快で不安になる声。


「――それじゃあ、そうするわ。そのほうがいいかもね。あんたたちとやってたら、あたしまで下手だと思われるし。下手なやつは下手なやつ同士で組んで、くだらない褒め合いでもしてればいいわ」


 金髪の女の子がぷいと背中を向ける。

 黒髪の女の子はあたりになにか投げつけるものはないかというように見回して、その視線がおれとアルを捉えた。

 おれたちがそろってびくりと身体をふるわせると、女の子はばつが悪そうに校舎の向こうに歩いていった。

 あたりに静寂が戻る。

 しかしひりひりと焼けつくようなけんかの余韻はまだ漂っていて、声を出すのをはばかられるような、高い雰囲気だった。


「……女の子のけんかって怖ぇなあ」

「だねえ」


 起き上がるタイミングをなくして、芝生に寝そべったまま呟く。


「でも、ここじゃけんかの内容も音楽なんだな」


 下手だの、なんだの。

 そんな話をしているからには、きっと演奏のことでけんかになったにちがいない。


「まあ、ここにいる人間はみんな、音楽以外のことをほとんど全部捨てて集まってるからねえ」


 のんきそうに、アルはすごいことを言う。


「だってさ、そうでしょ――普通ならこの年ごろっていろいろある時期じゃない? 普通の学校に通ってたら」

「まあ、たしかにな。おれはこのあいだまで普通の学校だったけど」

「勉強のこと、部活のこと、友だちのこと、恋人のこと――そういういろんなことがある時期だと思うんだよね。とくに小学校を卒業してすぐ、十二歳でこの学校に入った人間は、二十二歳までの十年間を音楽とだけ過ごすことになるからね」

「部活も勉強もないもんな、ここは。でも友だち関係で悩んだりはするんじゃないのか?」

「それはあると思うけど、それも結局、突き詰めれば音楽なんだよ。そう――ハルキはちょっと特殊な事情でここにいるから、わからないかもしれないけど」


 アルは独り言を呟くような口調で言った。

 それが、なんだか寂しい言い方だったから。


「教えてくれよ、アル。おれがわからないんなら、おまえが教えてくれよ。おれももうここの一員なんだし、なんか仲間はずれみたいでヤだろ」


 アルはおれの顔をじっと見て、陽気に笑った。


「ハルキは不思議な性格だね。思ったことを全部言葉にできるんだね――うらやましいよ」


 仲間はずれにするつもりはなかったんだけど、とアルは視線を青空に流した。


「昨日も言ったと思うけど、ほんとはこの学校に入学するだけでもすごく大変なんだよ。世界中からこの学校に集まってくるからね。競争率はとんでもない。だからこの学校に入学できたっていうだけでもすごいことで――言ってみれば、ここにいるのはみんな、子どものころから地元で神童なんて呼ばれてたような人間ばっかりなんだ」

「神童?」

「天才とかね。ひとよりも音楽的な才能に優れた人間だけがここにいる――だから、大抵みんな、ここにきてはじめて挫折を味わう。地元じゃ常に自分がいちばんだったのに、ここじゃみんながそのレベルで、下手をすれば自分がいちばん下かもしれないんだからね。上には上がいる――そんな当たり前の、でもすごくきびしい現実を、十二歳やそこらで思い知らされる」


 なるほど、とおれはちいさくうなずいた。

 たしかにそれは、おれにはわからないことだった。

 おれは神童と呼ばれたこともないし、天才だとほめられたこともない。

 そんなふうにほめられたことだけを自分の支えにして生きてきたわけではないから。

 だから、本当は自分は天才じゃなかったのかもしれないなんて不安は、感じたことがない。


「普通の学校ならね、まだいいと思うんだ」


 アルは腕を枕にし、昼寝でもするようにうすく目を閉じた。


「普通の学校は子どもの可能性を限定したりしないでしょ。勉強ができる子だけがほめられるわけじゃない。勉強はできなくても、いろんなことにまじめに取り組んでいたり、運動ができたり、明るくみんなを盛り上げられたり――だれでも持ってる性格を肯定してあげることで子どもはがんばれると思うんだ。勉強はできないけど、じゃあだれよりもサッカーがうまくできるようになろう、とかね。でもここは、音楽にしか価値を見出さない。どんなにまじめで、どんなに陽気で、どんなに運動神経がよくても、音楽ができなければここじゃなんの価値も認められない」

「なんだよ、それ」


 つい、口を出してしまう。


「ひどい学校だな」

「別に学校がそう言ってるわけじゃないんだけどね」


 アルは苦笑いして、


「どうしてもそうなっていくんだよ、この学校では。みんなそれを承知で入学試験を受けて、ここに入る。音楽っていうのは、それ以外の全部を捨てても極められないようなものだってみんな知ってるんだね。ごく普通に友だちと遊ぶこと、音楽以外の楽しみを見つけること、ときにはどうでもいいことに夢中になったりすること――そういうことを捨ててでも音楽のために生きなきゃって思う人間ばっかりだから」


 そう呟くアルも、音楽以外にはなにもないと信じているひとりにちがいない。

 そしておれはちがって――それがほんのすこし、寂しかった。


「とくにこれからはカルテットの練習も増えるだろうから、ああいうけんかはたぶん珍しいことじゃなくなるよ。やっぱり神童とか天才とか呼ばれて育った人間はみんなプライドが高いから」

「かるてっと?」


 頭上にはてなが浮かぶ。

 アルはすっかり慣れた様子で、もうため息もつかない。


「四人組のこと。いわゆる四重奏だね。ソロ、デュオ、トリオ、カルテット。四人でひとつの音楽を奏でるんだ」

「へえ、楽しそうだなあ。でも、なんでその練習が増えるんだ?」

「クラフト・リペア科や指揮科を除く全科共通の試験が近いからね。その試験内容が、カルテットを組んで演奏することだから」

「なるほどー。同じ科のなかで組むのか?」

「組む相手は自由だよ。余った人間は、余った人間同士で組む。だからまあ、基本的に偏った編成になりがちなんだ。やっぱり弦楽四重奏がメジャーだから、管楽器は余りがちになっちゃうし」

「でも、だれとだれが組んでもいいんだろ? ヴァイオリンだけの四人でも、ハープだけの四人でも」

「うん、それでも平気だよ」

「いいなあ、おもしろそうだ。おれもやりたいな」

「あれ、まだ聞いてない?」


 アルは不思議そうな顔で、言った。


「声楽科ももちろん試験を受けるから、ハルキもだれか見つけてカルテットを組まなくちゃいけないんだよ」

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