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第四話 7

  7


 アルカンジェロ・クレメンティはどっこいしょと呟きながらベンチに腰を下ろした。

 反対にユリアは立ち上がって、


「な、なんであんた、こんなところにいんの?」

「さっき――っていうかいま帰ってきたんだよ。久しぶりの日本の空気はいいねー、この蒸し暑い感じも帰ってきたって気がするよ。なにしろアルプスの麓は年中涼しいからさ」


 アルはたしかにキャリアーを引いていて、いかにも旅行帰りという雰囲気だった――もっとも正確には、イタリアから日本にやってきたのだが。


「で、でも、それなら学校でしょ。なんで荷物持ったままこんなところうろついてんのよ」

「いや、電車で学校に戻ってたんだけどさ、その窓から偶然、こんな川のそばでヴァイオリンを弾いてる金髪の女の子を見かけたもんだから。あれは間違いないと思って、途中下車したんだ」


 なんでもないようにアルは言って、うんと伸びをする。

 ユリアはしばらくその天然パーマの頭やのんきそうな横顔を見ていたが、やがてちいさく息をつき、アルのとなりに座った。

 ふたりは、かれこれ約一ヶ月ぶりの再会になる。

 しかし別段会話があるわけでもなく、アルはぼんやりと海を眺め、ユリアはヴァイオリンを見下ろしていた。


「ユリア、だいたいの話は、オトネから聞いたよ」


 ぽつりとアルは言った。


「それにしてもオトネ、ずいぶん変わったよね。最初に会ったころからは想像できないくらいよくしゃべってくれるし。今回もさ、イタリア語なんて話せないのに、先生からうちの電話番号を聞いて国際電話をかけてくれたんだよ。ぼくが出れば話は早かったんだけど、偶然親父が出ちゃってさ、親父は日本語なんてまったくわかんないし、英語もできないひとだから、そりゃあもうお互いに相手がなに言ってんのかまったくわかんない状況でさー。でもオトネは諦めないでずっとぼくの名前を呼んでくれたみたいで――それでまあ、親父もぼくの友だちだって気づいたみたい。ちょっと前のオトネなら、考えられないことだよね」

「――そうね。昔の乙音をそんなに知ってるわけじゃないけど」

「そう? ぼくは結構知ってたよ。天才ピアニストのコジマ・オトネ、天才ヴァイオリニストのユリア・ベルドフってね」


 天才。

 いまほど、その言葉が空虚に響くときもない。


「ぼくが知っているオトネは授業を免除されるくらいのすごい生徒で、でも普段は他人とまともに話せないくらい臆病な女の子だった。ユリアの印象はそのころからあんまり変わらないけどね」

「なによ、あたしの印象って」

「すごいヴァイオリニストだけど、ちょっと怖い」

「……別に怖がらせようと思って生きてるつもりはなかったけど」

「うん、ユリア自身が怖いっていうよりは、ユリアの考え方が――音楽に対する真剣さがみんな怖かったんだと思うよ」


 海風に近い強い風が吹き、ユリアの髪が舞い上がる。

 それを押さえようともせずにユリアは視線をじっと手元に落としていた。


「あの学校の生徒は、みんな普通のひとよりは音楽に対して真剣だ。みんな真剣にプロを目指して、それ以外のいろんなことを犠牲にしてがんばってる。でもそのなかでユリアだけは別格だったからね。ただプロを目指してるわけじゃなかった。本当に心から世界でいちばんのヴァイオリニストになろうとしていたし、音楽に対してはとにかく厳しくて妥協がなかった。そういうものを見せつけられて、みんな怖かったんだよ――本当に一流の音楽家になるにはここまで真剣にやらなきゃいけないのかって。実はぼくもそのひとりでさ」


 アルは明るく笑う。


「ぼくはまあ、才能もなかったし、コントラバスをはじめたのも遅かったから、ユリアと比べるのはおこがましいけど――これでも本気でプロを目指してるつもりだった。でもやっぱりどこかで逃げ道も探してた。もし演奏家になれなくても、ぼくの場合は実家が楽器工房だから、そこを継げばいい――そんなふうに逃げ道を作っておいてプロを目指してるなんて言ってたんだから、ぼくも相当臆病だけどね。そのへん、ユリアはすごいと思うよ。逃げ道も作らないで、だれに対しても正面から挑んでいく。才能がないとか、楽器をはじめたのが遅かったとか、年下だからとか、環境が悪かったとか――そんな言い訳も一切しないで前へ進んでいくユリアは、たぶん生徒全員から見て眩しすぎたんじゃないかな」


 いいように言えば、どうやらそういうことになるらしい。

 しかしユリア自身は別の考えを抱いていた。

 言い訳をしなかったのは、言い訳すらできなかったからだ。

 前へ進んでいったのは、それ以外にはどこも行けなかったから。

 そっか、とユリアは気づいた。

 はじめからいろいろな選択肢を持っていて、そこから音楽家を選びとったのではなく、ユリア・ベルドフには最初から音楽家の道しかなかったのだ。

 それ以外に、人並みにできることはなにもなかったから――勉強も運動も苦手で、ただ音楽でしか輝けなかったから、好き嫌いも超えて、そこへ進むしかなかった。

 唯一自分が生きていける選択肢にすがりついてここまでやってきたにすぎないのだと思えば――それはきっと、アルが言うように眩しく輝く太陽のような存在ではなく、燃え尽きるまで自分を溶かし続ける蝋燭のようなものだ。

 太陽は永遠に輝いていられる。

 蝋燭は一瞬だけきらめいて、すぐに消えてしまう。

 いまはもう――蝋燭は、燃え尽きてしまったのだろう。


「ユリアはさ、なんでヴァイオリンをはじめたの?」


 アルは横目でユリアを窺った。

 ユリアはしばらく黙ったまま、指先でヴァイオリンの弦を弾いていたが、やがてぽつりと言った。


「子どものころに、親からおもちゃみたいなちいさなヴァイオリンをもらったのよ」

「へえ、子ども用のヴァイオリンか。ただ子どもにおもちゃとして与えるには、ちょっと高価なような気もするけど」

「それまでもいろんなおもちゃを買ってもらったわ。電子ピアノもあったし、絵本もあったし、ぬいぐるみもあった。お人形も、お人形の家もあった。でもそういうものはすぐに飽きちゃって、長持ちしなかったの。でもヴァイオリンは――ずっと弾いていてもぜんぜんうまくならないし、それが気に入らなくて一日中弾いてたわ。ほかのことを一切しなくなるくらい、ずっと――学校もろくに行かなくなったし、勉強だってぜんぜんしなかった。親はもうそのころからヴァイオリンを与えたことを後悔してたんでしょうけど」

「そうかもしれないね。まさかこんなことになるとは、と思ったかも」


 アルが明るく笑うと、ユリアも自然と笑っていた。


「それで、まあ、ある程度自分で納得できるくらいまで弾けるようになったときには、もうあたしのまわりにはヴァイオリンしかなかったわけ。知らないうちに同級生たちは進学してるし、勉強もわからなくなってるし。あたし、負けるの大っ嫌いだから、最初から負けるってわかってる勉強とか運動はいやで、唯一同級生たちに勝ってる音楽でだけ勝負してた。そしたら、だれにも――世界中のだれにも負けるわけにはいかなくなって、気づけばここにいたってことね」

「なるほど。やっぱりひとそれぞれ生き方ってちがうんだね。――なのに、いまはこうやって同じ場所にいたりする」

「奇跡的ってこと?」

「ただの偶然かもね。まあ、呼び方はどうだっていいんだ。どんな理由があったにせよ、ぼくはみんなが皐月町音楽学校に入学してくれてよかったと思う。そうじゃなきゃ出会えなかったんだからね。ぼくも、親にうそをついてでも入学してよかった」

「そういえば、そっちはどうなったのよ」

「んー、まあ」


 アルは頭を掻いて苦笑いした。


「それなりに説明したけど、納得まではしてないんじゃないかな。皐月祭までもう時間もなかったし、オトネから連絡がきてすぐに出たから、ちゃんと説得はできなかった。そのうちまた帰って説得するよ。皐月祭でちゃんとカルテットとしての舞台を終えてから、ね」


 カルテット――それもまたいまのユリアには刺々しい響きを帯びた言葉だった。

 晴己との意見のちがいは、音楽に対する根本的な意見のちがいだ。

 それは単なるすれちがいではない。

 いっしょに音楽をやっていく上で、致命的な誤差で――もしあのとき、乙音が泣いて止めなければ、その致命的な差をお互いにこれ以上ない形で認識し合っていただろう。

 晴己は、音楽は楽しくなければという。

 ユリアは、楽しいだけではどうしようもないと思う。

 楽しいだけでもよいのだ、ということを認めたくない。

 だってそれは、いままでぐっと唇を噛み締めてヴァイオリンを弾いてきた自分自身を否定することになるから――。


「ハルキの言うことは、たぶん、ごく一部の天才にしか理解できないことなんだよ」


 静かに、感情をこらえるようにアルは言った。


「ハルキは間違いなく天才だ。だから、ハルキは楽しみながらすぐれた音楽を生み出せる。それにハルキは自分以外の音楽家っていうものをまだあんまり知らないから、みんなそれくらいできるだろうと思ってるんだ。ハルキは自分がどれくらいすごいのかってことがわかってないからね、自分ができるんなら他人にもできるはずだって信じてる。でもほんとは、ハルキみたいにはなかなかできない。ぼくは天才じゃないから、わかるんだ――ハルキが楽しそうに、本当に楽しそうに笑いながらやることでも、ぼくみたいな人間は歯を食いしばって必死になってやらなきゃできない。ハルキが気軽にできることが、ぼくには何日もかかる」

「――なんだか、晴己のことがきらいみたいね」


 まさか、とアルは笑った。


「ハルキのことは好きだよ。性格はすごくいいやつだから。でも――そうだなあ、その才能を羨ましいとは思う。ぼくにもそれだけの才能があればって。そしたらきっと、ハルキみたいに音楽を心から楽しめるんだろうな。ぼくはどうしても、演奏していても音を間違えないかとか、リズムが狂わないかとか、そんなことを気にしちゃうから――そういう部分に不安も抱かずに楽しめたら、音楽ってなんて楽しいんだろうって思える。ぼくもそう感じたことがあるんだ。このあいだ、演奏旅行で演奏したとき――あのときはハルキの気持ちがよくわかった。こんな気持ちいいところで演奏してたんだってわかって、やっぱり羨ましくなった。でも言い訳するのはやめようって思ったんだ」


 もしいま、音楽を楽しめないのなら、楽しめるようになるまで努力し続けようと――いつか心の底から音楽を楽しめるようになるまで練習を続けようとアルは思ったのだ。


「だからぼくはね、ハルキだけじゃなくて、オトネのことも羨ましいし、ユリアのことも羨ましい。きみたちは音楽を楽しめる。それだけの才能と技術がある。ぼくもいつかそうなれるように、本気で努力しようと思って、その第一歩として親父に認めてもらわなくちゃって考えたんだよ」

「――音楽を楽しめる才能と技術、か」


 ユリアはようやく顔を上げ、吹き抜ける風に白い頬を晒した。


「あんたと晴己は、やっぱり似てるわ」

「そうかな?」

「音楽の本質は自分のなかにあると思ってるところとか、そっくりでしょ。あたしはね、音楽の本質は外側にあると思ってた。だれかに評価されることが第一だって。その評価が勝ち負けの基準なんだって思ってた。だってね、テストとちがって、音楽には明確な答えなんかないでしょ。あるひとは評価するけど、あるひとは評価しなかったりする――そのなかで勝ち負けを決めるには、どっちがより多く評価を得たかで考えるしかない」

「たしかにね。そのあたりが音楽や芸術のつらいところではあるけど――自分ひとりが傑作だって言ってても、まわりがそう認めてくれなかったら、それはもしかしたら傑作じゃないのかもしれないし」


 だから、ユリアは評価基準を外側に置くことを決めたのだ。

 自分が傑作と思わなくても、まわりの人間がそう思うなら、それは傑作なのだと思うことにして――ああ、そうか、とユリアは不意に、ブノワ・パニスが言いたかったことを理解できた気がした。

 パニスは、ユリアの演奏には心がないと言っていたのだ。

 それは当たり前のことで――ユリア自身が、自分の心を見ていなかった。

 まわりの評価ばかりを見て、自分の心がどう思っているかなんて、いつの間にか見向きもしなくなっていた。

 だから演奏に心が、自分が存在しなかったのだ。

 世界一のヴァイオリニストになるには、唯一無二のヴァイオリニストになればいい。

 そのためになによりも必要だったのは、他人の評価ではなく、自分自身だったのに――そのことに気づくまで、こんなに時間がかかってしまった。


「――晴己は、そんなところまで気づいてたのかしら」


 自分で呟いて、まさかね、とユリアは笑った。

 それほど細かいところに気がつく男ではない。

 たぶん感覚的に、そのよくできた耳で聞き取ったにちがいないが――なんにせよ、この場合は、晴己のほうが正しかったということだ。


「――ねえ、アル。ちょっと相談があるんだけど」

「わ、ユリアが他人に相談だなんて、明日は雪が降るんじゃ――ぎゃあっ、あ、足踏まないでっ」

「次ちゃかしたら、その天然パーマをもっとくるくるにしてやるから」

「う、わ、わかったよ、ちゃんと聞く。で、相談ってなに?」

「それは――まあ、その、あれよ」

「どれ?」

「相談っていったら、あれに決まってるでしょ――つまり、あれが、それで」

「これがどれで?」

「だ、だからつまり!」


 ユリアは顔を赤くし、そっぽを向いて、呟いた。


「あ、謝るって、どうやったらいいの?」



  *



 アルが部屋に戻ってきたとき、晴己はちょうどシュヴァルツに餌をやっていたところだった。

 シュヴァルツは遠くから聞こえてきた足音を敏感に察知し、ぴくりと耳を動かしたが、それ以上は気にせず食事を続行する。

 だいたい客がくるときは、この性格なのに人見知りらしいシュヴァルツは二段ベッドに逃げるのだが、今回はそれをしなかったから、晴己も足音はただ部屋の前を通り過ぎるだけだろうと思っていた。

 なのに足音が部屋の前で立ち止まり、扉が開いたものだからびくりと飛び上がるくらい驚いて、なおかつ入ってきたのがアルだったものだから、晴己は飛び上がったそのまま扉へ駆け寄った。


「おー、ハルキ、久しぶりー」


 久しぶり、というように晴己は笑顔でアルの肩を叩く。

 アルはしばらくそのオーバーリアクションに笑っていたが、ふと不思議そうな顔をして、


「ハルキ、なんでしゃべらないの?」


 晴己はベッドに戻り、投げ出していたノートを取ってきて、そこに走り書きをした。


『ちょっとじじょうがあって声が出ない』


 話したり聞いたりはできるが、読み書きはさほどでもないらしいアルはひらがなを一文字ずつ拾っていって、ずいぶん時間をかけてから驚きの声を上げた。


「こ、声が出ないって、大丈夫なの?」


 問題ない、というように晴己はうなずく。


『あしたにはなおるよてい』

「そ、そっか、それならいいけど――皐月祭って三日後でしょ? それまでに間に合うといいね」

『せっとくはどうだった?』

「いやー、まだ完全には終わってないよ。皐月祭が終わったら、ちょっと学校を休んでまた向こうに帰ろうかと思ってる。ああそうそう、リサがみんなによろしくって。試験結果はまだ出てないんだけど、本人は来年の四月からここに通う気みたいだから」


 そんなふうに久闊を叙していると、アルの後ろからわざとらしい咳払いが聞こえた。

 晴己がひょいと覗きこむと、男子部屋の前にいてはいけない金髪の美少女が手持ちぶさたに立っている。

 晴己はまたもオーバーリアクションに驚き、ユリアから不思議な顔をされ、アルにした説明文を再利用して声が出ないことを伝えた。


「声が出ないって――あ、あんた、よくそんなのんきな顔してられるわね。かなり重大な問題じゃないの」

『ほけんのせんせいが、だらけてすごせって言ってた』

「ほんとに? 安静にしろとかそういうことじゃないの」

『だらけろって。たぶん。言ってたとおもう』

「ふうん、まあいいけど」


 晴己はまたノートに書いて、


『なんでユリアがここに?』

「そ、それは、まあ、その、なんていうか――」


 急にもじもじとするユリアに、アルは笑いを隠すために部屋のなかに入ってシュヴァルツの背中を撫でた。


「まあ、あれよ、その」


 ユリアは腰に手を当て、視線をあらぬほうへ向けてぶつぶつと言う。


「つまり、まあ、そういうこと」

『どういうこと?』

「だから、その――か、カルテットの練習、また明日から再開するわよ。アルも帰ってきたし、あんたはまあ声が出ないから見学だけど、皐月祭まであと三日しかないんだから」


 急にカルテットの練習と言われ、晴己はぽかんと口を開けた。

 その奥で、堪えきれなかったらしくアルが笑い声を上げる。

 せっかく謝り方を教えてやったのに、まったくそれが生かされていないのもおかしかったが、その言い方がいかにもユリアらしかった。

 遅まきながら、晴己もユリアが言いたいことを理解したらしい、清々しい笑顔で、こくんとうなずいた。

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