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第四話 6

  6


 夜がきて、闇が去り、また朝になる。

 皐月祭まであと三日。

 町では各ステージの設営も終わり、あとは当日を待つだけという体勢になっている。

 出演する生徒はもちろん、外部のオーケストラや演奏家はホールを借りて着々と練習を進め、今回オーケストラでタクトを振ることとなる大宮亜莉子も、はじめて会うオーケストラを相手に演奏曲の色付けに入っていた。

 指揮者は、単に舞台上でリズムや拍を指示したり、各楽器の出だしを指示する仕事ではない。

 指揮者の活躍の場はどちらかといえば舞台裏、練習中のことで、本番はそこまでに作り上げたものを提出する作業に近かった。

 まず指揮者は演奏する曲について徹底的に勉強し、楽譜を隅から隅まで読み尽くす。

 それから演奏の方向を決め、オーケストラとともに完璧な一曲を作り上げていくのだ。

 同じ楽団でも指揮者が変われば音が変わる。

 指揮者は、その演奏会においていちばんに責任を背負う楽団の代表者だった。

 亜莉子もしっかりとその自覚を持ち、さらに自身が若いということもあって、だれよりも熱心に勉強していたし、オーケストラとのコミュニケーションも蜜に取っていた。

 それに比べて演奏家であるブノワ・パニスは気楽なもので、ホールでの総合練習に参加したあとは、ホールのあちこちを探検している姿がスタッフに目撃されたりしていた。

 そして最後には迷子になり、警備員に連れられて戻ってくる、というのがひとつのお決まりになっていて、それはそれでスタッフたちを和ませているらしい。

 一方、皐月町音楽学校では、生徒たちの練習も最終段階を迎え、ピアノがある練習部屋を取れなかった生徒たちが庭にまであふれて楽器を奏でていた。

 ――そんななか。

 乙音は珍しく、校舎の廊下をぱたぱたと走っていた。

 第一校舎の一階、学長室がある廊下を走っているが、その学長室も過ぎて、その奥にある部屋――医務室の前でようやく立ち止まった。

 切れた息をすこし整え、扉をノックする。


「あ、あの――」


 がらりと引き戸を開けると、正面に診察のために机や椅子があり、向かって右側にベッドがふたつ並んでいた。

 ベッドは空で、正面の椅子に保健医と男子生徒がひとり座っている。


「あ、晴己くん――ど、どうだったの?」


 振り返った晴己は、乙音を安心させるようににっこりと笑い、首を振った。

 保健医が補足するように、


「いろいろ見てみたけど、異常はないみたい。風邪とか、ばい菌が入って喉が腫れてるとか、そういうこともないみたいだし――強いていうなら、精神的なものかしらね」

「精神的な……大丈夫、晴己くん?」


 大丈夫、というように晴己はうなずく。

 それから、どうやら保健医からもらったらしいちいさなノートになにやら書き込んで、乙音に向かって掲げた。


『声が出ないだけであとはモンダイなし』

「そ、そっか――」


 よかった、と言いかけた乙音は、とてもそうはいえない状況なのを思い出し、ぐっと言葉を飲み込んだ。

 声楽科の晴己の、声が出ないのだ。

 晴己にとっては商売道具を奪われたという以上につらい出来事にちがいない。


「まあ、安静にして、しばらく声を出そうとはしないことね。早く声を出さなきゃって思ってると余計に回復が遅れたりするから、自然と声が出るのを待つこと。わかった?」


 晴己はこくりとうなずく。

 保健医はなんとなくそれを疑うような顔で、


「小嶋さんも、箕形くんが無理にしゃべったり歌ったりしないか、ちゃんと監視しといてね」

「は、はい、わかりました」

「じゃ、もう帰っていいわよ。普段どおり過ごしてもいいけど、声だけは出さないように」


 ありがとうございました、というように晴己は頭を下げ、ノートを持ったまま医務室を出た。

 乙音もいっしょに廊下へ出るが、別に身体を支える必要はないし、道を先導する必要もないから、どこに立つべきか悩んでもじもじとうつむく。

 晴己はちょっと首をかしげ、ノートになにか書きつけて、


『どうかしたの?』

「う、ううん、なんでもない――あの、ちょっと、お散歩する?」


 晴己がうなずくのを待って、乙音は歩き出した。


「びっくりしたよ、さっき――若草先生から、晴己くんの声が出なくなったって聞いて」

『おれもびっくりした。あさ起きたら出なかった』


 若干時間差はあったが、筆談でも会話には問題ないらしい。

 ふたりは庭に出る。

 今日は薄曇りだ。

 日差しがない分、爽やかさがなくて蒸し暑い。


「寮の食堂行く?」


 乙音が提案し、晴己がうなずく。

 寮へ移動しながら、乙音はだれかをこうやって導くことははじめてかもしれないと考えた。

 いつもだれかの後ろについて歩いたり、だれかの意見に従ったりして生きてきた乙音なのだ。

 声が出ないという病人にせよ、こうして導いていると、しっかりしなければという気がしてくる。

 寮の食堂は、朝食と昼食のあいだだからか、みんな皐月祭へ向けて練習をしているのか、ほとんど無人でがらんとしていた。

 ふたりはその端のほうに向かい合って座る。

 よいしょ、と腰を下ろしたところで、会話が途切れた。

 なにか話さなければ、と乙音が慌てていると、晴己がノートになにか書きはじめた。

 書き終えるのを待って、覗きこむ。


『ユリアとはなんか話した?』

「――ううん、なにも」


 そっか、というように晴己はうなずく。


「ねえ、晴己くん――わたしね、ユリアさんの言うことも、間違いじゃないと思うの」


 おれもそう思う、と晴己はノートに書き込む。


「うん、やっぱり、そうだよね。遊びで、楽しくやってるだけなら、楽しいことが第一だと思うけど……お金をもらって演奏するなら、わたしたちだけが楽しくても、やっぱりだめなのかなって。わざわざお金を払って聞いてくれたひとに、その、お金分のなにかを返さなきゃいけないって思うけど――でも、ね。やっぱり、それだけじゃないかもって思ったりもして。楽しいだけじゃだめなのかもしれないけど、楽しくないのも、きっとよくないんじゃないかって――う、な、なにが言いたいのか、わかんなくなっちゃった」


 あの日から、乙音も音楽についてあれこれ考えてきたのだ。

 音楽の本質とはなんなのか。

 楽しむ、ということは音楽の本質ではないのか。

 ――かつての作曲家たちは、すべての曲をただ楽しいというだけで書いたわけではないだろう。

 なかには苦しくて、悲しくて、どうしようもない気持ちを抱えながら書いた作品もあるにちがいない。

 なにかの契約があって、書きたくないのにどうしても書かなければならなかった曲もある。

 なにを思ってその曲が書かれたのか、ということは、だれにもわからない。

 自信作が評価されないことはよくあるし、それほど心血を注いで作ったわけではない作品が評価を得ることもある。

 だから、すくなくとも他人に関しては、作品に乗せる気持ちの種類はわからない。

 ただ、自分の気持ちなら――自分がどんな気持ちで演奏しているかということなら、自分でわかる。

 乙音はそこに、やはり楽しい気持ちを乗せたいと思った。

 悲しかったり、ほかになにか主張があったり、それはそれでひとつの作品ではあると思うが、自分でやるのなら楽しく、明るい気持ちを乗せたいと思うのだ。

 それは、芸術としては誤った考え方なのかもしれない。

 芸術はひとのあらゆる感情を作品として昇華させることを言うのだから、よろこびや楽しさしか詰まっていないものは、芸術たり得ないのかもしれない。

 それでもいいと乙音は思う――芸術でなくても、楽しい音楽であればそれでいいのではないか、と。


「――ユリアさんは、きっと、音楽しかないんだと思う」


 ぽつりと乙音は言った。


「わたしもね、そうだったの――晴己くんがカルテットに誘ってくれるまで、ずっとそうだった。わたしには音楽しかないって思ってた。悲しくて、悔しくても、それを言葉とか表情で表現してもだれにも伝わらないから、音楽として伝えるしかないって」


 晴己はじっと黙ってそれを聞いていた。


「それってね、たぶん芸術的なことで――わたしも、もしかしたらそのころのほうがうまくピアノが弾けたかもしれなくて。でも、わたしはその状況がつらかった。だれとも話せなかったし、視線だって合わせられなくて、こんなふうに言葉で自分の気持ちを表現したりできるなんて、夢にも思ってなくて……わたしはね、晴己くん、ピアノをうまく弾く能力がちょっと減っちゃった代わりに友だちができたなら、そのほうがよかったって思う」


 いまもピアノを通じてしか自分を表現できなかったとしたら――それはやはり孤独で、薄暗い世界だっただろう。

 ピアノの音だけしかない、ほかにはだれもいない世界だ。

 そんな世界のほうが芸術のためにはよかったのかもしれない。

 はじめからピアノしかないから、ほかのものに気を取られたりもしないし、だれかと話したり笑ったりして感情を浪費させることもない。

 ピアノのために生きて、自分のすべてを音に変化し、消化する。

 そうやって生きることが芸術なのだとしても、乙音はいまの明るくて誘惑が多い世界のほうが好きだった。

 せっかくできた友だちを失うくらいなら――音楽なんて、捨ててしまってもいいとさえ思える。

 しかしユリアは、そうではない。

 いまでも音楽しかない世界、ヴァイオリンしかない世界にいて、自分を音として表現する以外、他人とコミュニケーションをとる手段をなくしている。

 言い換えれば――ユリアは音楽で戦うことでしか、本当の意味で他人と触れ合うことができないのだ。


「わたし、ユリアさんと仲良くなりたい」


 乙音が言うと、晴己はこくりとうなずいた。


「大きなお世話かもしれないけど、ユリアさんには怒られるかもしれないけど――いっしょに笑ったり泣いたりしたい。音楽がなくたって、この世界はこんなに楽しいんだよって伝えてあげたいの。そしたら本当に音楽を楽しめる気がする――悲しいときもうれしいときも、音楽に全部預けるんじゃなくて、音楽といっしょにそういう感情を大切にできる気がするから」


 言葉は、相変わらずうまく出てこなかった。

 しかし乙音はそれでも言葉を使って伝えなければと思う――自分の気持ちをちゃんと伝えるために、言葉はあるのだから。


「今日か、明日にでもユリアさんと話してみる。カルテットをもう一回やろうって」

『おれはその場にいないほうがいいかも』


 晴己が書いた文字を見て、乙音は首を振る。


「いっしょに話し合おうよ。だって、皐月祭のためだけにカルテットを組むんじゃないんだもん……これからもずっと、友だちでいられるように話し合うんだから」


 うん、と晴己はうなずいた。

 乙音もどこかうれしそうにうなずいて、ふたりは立ち上がった。

 ふたりはもう、悩んでいる顔ではない。

 やること、できることを確認して、前に進もうという明るい表情だった。

 つまり乙音がやることはユリアを探すことで、晴己がやることは、すこしでも早く声が回復するために安静に過ごすことだった。

 乙音は寮のユリアの部屋に行ったり、校内をあちこち探しまわったが、ユリアの姿はなかなか見つからない。

 ユリアのルームメイトいわく、朝と夜以外はだいたいどこかに出かけていて、部屋には帰ってこないということだった。


「夜は門限ぎりぎりに帰ってくるから、待つなら朝のほうがいいと思うけどね」

「あ、ありがとうございます、そうしてみますっ」

「どういたしまして」


 ユリアのルームメイトは相変わらず下着姿で、目もろくに合わせられなかったが、ともかくその情報を入手してからも乙音は校内を歩きまわった。

 ユリアのことだ――出かけるといっても、必ずヴァイオリンを弾いているにちがいない。

 だとすれば校内のどこかにいるはずだと考えたのだが、どうしてもその姿は見つけられなかった。

 それもそのはずで、ユリアはその時間校内にはおらず、電車で三駅ほど行ったところ――海にほど近い河口の付近でひとりヴァイオリンを弾いていたのだから。



  *



 ユリアがその場所を選んだ理由は、単にひとがすくなく、ヴァイオリンを弾いてもだれにも文句を言われないというだけだった。

 海が好きなわけでもないし、川の流れを眺めていたいわけでもない。

 ましてや海水と淡水が交じるあたりを船が往復する様子を見たかったわけでもなかったが、練習の合間には、必然的にそんな風景を眺めることになってしまう。

 その場所はどうやら散歩道のようになっていて、川に沿ってベンチが並び、よくランニングをしているらしい人間が前を通り過ぎていった。

 黒いヴァイオリンケースを傍らに置いてぼんやりと川を眺めているユリアはすこし目立っていたが、もちろんそんなことを気にするユリアではない。

 ユリアは、いまは音楽のことしか考えていなかった。

 耳にはまだ昨日聞いた、あのいけ好かないヴァイオリニスト――ブノワ・パニスの弾いた音が残っている。

 別に教えてくれとも言っていないし、自分とあいつの差を説明してくれとも言っていないのに、突然校舎裏に乱入してきた挙句、わけのわからないフランス語でなにか言って自慢げにヴァイオリンを弾いてきたあいつ――。

 たしかに、パニスの弾いた音は魅力的だった。

 一方、ユリアの真似をして弾いたと思われる弾き方では、音はただ大きいだけ、響きは雑で味気なく、全体としてうるさいだけでとくに印象にも残らない音だった。


「――わかってるわよ、そんなことは」


 自分の音が魅力的ではないということ。

 つまり――自分は天才ではないということ。

 上には上がいる、というのはよく言われることだが、もちろん頂点というものは存在して、自分はそこにたどり着かなければならないし、たどり着けると思っていた。

 だから、だれが相手でも負けるわけにはいかなかった。


「……あーあ、あたしもここまでか」


 ベンチに座って全身の力を抜き、揺れる川面を眺めていると、この場所でもずいぶん遠くまできたほうだと感じた。

 モスクワの、あのちいさな自分の部屋から、ヴァイオリンひとつでこんなところまでやってきたのだ。

 いままでは、こんなところは通過点で、もっともっと先へ行くのだとばかり思っていたが――ふと振り返れば、後ろには長い道ができていて、どこから歩きはじめたのかはもうわからない。

 もっと先へ行けたのか。

 それとも、急いで遠くまで行きすぎたのか。

 なんにせよ――どうやらこの場所が、ユリア・ベルドフの限界らしい。

 ため息をつくユリアは、その後ろからぬっと迫る大きな影に、まだ気づいていなかった。

 しかしさすがに自分の身体に影が差すと、後ろにだれか立っているらしいことに気づいて、ぱっと振り返る。


「――え?」


 そこに立っていたのは、こんな場所にいるはずのない人間だった。


「やっ、ユリア、久しぶり――」

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