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第四話 5

  5


 音楽とはなんだろう?

 それは武器だとユリアは信じてきた。

 だれかと戦うための武器。

 だれかを圧倒するための武器。

 生きていくには、だれかと戦うしかない。

 自分の場所を確保するには、他人からそれを奪い取るしかない。

 意識的に行うにしても、無意識のうちに行うにしても、生きるにはそうやって他人と戦い、勝たなければならない。

 そのためにはいろいろな武器があり、たとえばそれは勉強で得た知識であったり、運動能力であったりするなかで、ユリアが選んだ武器は音楽だった。

 ――それなら。

 どうしてほかのものではなく、音楽を選んだんだろう。

 戦う武器になるなら、なんでもよかったはずだ。

 勉強でも、運動でも。

 音楽は戦う武器としてさほど一般的ではない。

 なのにユリアは音楽を選び取り、いままで音楽だけで戦ってきた。

 それは――どうして音楽だったんだろう。

 ユリアが音楽をはじめたのは、幼いころの話。

 幼かったユリア・ベルドフはたくさんあったおもちゃのなかから楽器を選んだ。

 ユリアはそのころを思い出そうとしたが、なにか気づいてはいけないことに気づいてしまう気がして、途中でやめる。

 ――とにかく、戦うしかない。

 負ける、という選択肢はないのだから、戦って、勝つしかない。

 そのために必要なことは練習だ。

 ユリアはひとり、見えない相手と戦うように、ヴァイオリンを鳴らしていた。



  *



 小嶋乙音は音楽が好きだった。

 しかしそれ以上に、いっしょに音楽を奏でる仲間が好きだった。

 だれかと音楽を奏でることの楽しさは、音楽の根本的な楽しさに通じるものがある。

 音が出るだけで楽しい。

 だれかと音が重なるだけで楽しい。

 音楽に慣れていけば感じられなくなってしまうその楽しさを、だれかといっしょに演奏することでまた感じられるようになるのだ。

 なのに、晴己とユリアはけんかをして――それに、四人目のメンバーのアルはまだイタリアから戻ってこない。

 なんだか、すべてがばらばらになってしまう気がした。

 せっかくうまくいきそうだったのに、この四人ならどんな音楽でも奏でられるし、どんな舞台にも出られそうだったのに。

 ここへきて、なにもかもがばらばらになって、二度ともとには戻らないくらい粉々に壊れてしまう気がした。

 そんなことは絶対にいやだと乙音は思う。

 仲間と離れたくない。

 いつまでも四人で音楽を奏でていたい。

 でも、そうやって願うだけではだめなのだと気づいた。

 守りたいなら、自分から動かなければならない。

 もう守られるだけは、受け身でいるだけはいやだった。

 乙音は意を決し、行動をはじめた――このカルテットを守るために。



  *



「ふう、なんとか取れた……」


 噴水から拾い上げた小銭を手のひらに乗せ、ブノワ・パニスは息をついた。

 案内役の若草雪乃からもらった、この国のお金だ。

 なにかを買うには少額だが、記念として持って帰ろうと思い、しっかりポケットに入れていたのはよかったが、噴水の端に座って眺めようとしたところでまさか噴水のなかに落とすとは思わなかった。

 しかもそれが意外と深い噴水で、腕まくりをして取り出しても袖がびしょ濡れになる。


「うー……まあ、暑いし、いっか。そのうち乾くだろうし」


 根が楽天的なパニスは腕まくりをしたまま噴水の端に座り直して、はあ、と息をつきながら空を見上げた。

 日本の空。

 青空というより、ちょっと白っぽく霞んだ、都会的な空の色だった。

 パニスはフランスでも南部の田舎町出身で、都会にはあまり慣れていなかったから、その風景にも興ざめだとは思わなかった。

 国には、その国独自の風景というものがある。

 同じようなビルが立ち並ぶ都会でさえ国によってちがうということをパニスはいままでの経験から知っている。

 ただ、フランスなら南部と北部では町も大きくちがうが、この国はそういうところはあまりないらしい。

 国としてひとつの文化を共有している、ということだ。

 ヨーロッパの場合、国内でも地域によって大きく文化が異なることも多いから、同じ国というより同じ都市という範囲での一体感が強くなる。

 でもこの島国は、島国全体がひとつの文化で統一された国になっていて、パニスは、それはすばらしいことだと感じた。

 多様性はないかもしれないが、全員が同じ感覚を共有することほど、楽しいことはない。

 たとえば音楽は、それを人工的に作り出そうとする作業だ。

 文化を越え、人類として感情を共有しようとする作業――音によって楽しませたり悲しませたりする技術は、文化や環境に依存しない、いってみれば人類共通の言語だ。

 モーツァルトやベートーヴェンはその言語をとくにうまく扱えたのだろう。

 パニスも、そんな大音楽家たちと同じように、音楽という言語をもっと極めたかった。

 そのために様々な国をめぐり、いろいろな文化やひとに触れることは決して無駄にはならない。


「ふう――しかしこの国は暑いなあ。熱帯とはちがうはずなのになあ」


 涼しいはずの噴水のまわりにいてさえ、じりじりと太陽の光で焼かれて汗が出てくる。

 やっぱり屋内に戻ろうかと立ち上がったとき、パニスの耳にヴァイオリンの音色が聞こえてきた。


「お――だれか弾いてるのかな?」


 その音を聞いたとたん、パニスの表情がぱっと明るくなる。

 パニスはすべての楽器のなかでもヴァイオリンの音色がいちばん好きだった。

 どんな楽器よりも軽やかで、まるでふわふわと浮かんだり、自由に大空を飛び回ったりする明るさがあるためだ。

 音は、どうやら建物の裏のほうから聞こえているらしい。

 餌に導かれる犬のように、パニスは耳だけを頼りに校舎の裏に回った。

 そこは薄暗く、わずかに空気もひんやりとしていて、じめじめしていることを除けば居心地がよさそうな場所だった。

 そんな場所で、ひとりの少女がヴァイオリンを弾いていた。

 長い金髪を揺らし、細い指を指板で踊らせ、弓を前後させて――美しいというよりはどこか神々しい雰囲気で、少女は弦をふるわせている。

 パニスは基本的にひとの顔を覚えるのが苦手だったが、さすがに昨日の今日で、その少女のことは覚えていた。

 昨日、迷子になったパニスに学校の方向を教えてくれた少女だ。

 学校の生徒かもしれないとは思っていたが、ヴァイオリニストだったのか、とパニスはうれしくなって、しばらくそのまま音を聞いていた。

 しかし集中して聞いているうち、パニスの表情が曇り、眉根がきゅっと寄って、困ったような顔になっていく。

 その少女が優れたヴァイオリニストであることはすぐにわかった。

 技術的にはプロと比べても遜色なく、たった一挺のヴァイオリンで奏でる音楽には言いようのない迫力があって、聞いている人間がどきりとするような力強さがある。

 しかし――言ってみれば、それだけだ。

 ただ強い音をどんと放ち、ひとを驚かせているだけ。

 ただ騒音を立てて人目を惹くことが音楽ではない。

 むしろひとと寄り添い、自然とコミュニケーションをとるからこそ、音楽はすばらしいのだとパニスは信じていた。

 その少女ほどの技術があれば、それくらいは簡単にできるはずだった。

 なのに、いまの演奏からは少女の心は伝わってこず、ヴァイオリンの弦がきいきいと鳴いているようにしか聞こえない。

 同じヴァイオリニストとして、それほど残念なことはない。

 パニスはそれでも辛抱強く音を聞いていたが、変化のない音色にがまんできず、校舎の陰から出て少女に近づいた。

 少女はパニスに気づき、どきりとしたように手を止める。


「きみ、どうしてそんなふうに演奏しているの? もっと楽しく、音と心を合わせるようにして演奏すればいいのに」


 フランス語でパニスが言うと、少女もなにか言い返したようだった――どうもそれはロシア語のようで、パニスには一言も理解できない。


「えっと、つまり、もっと楽しく――うーん」


 言葉で音楽を説明するのには限界がある。

 パニスはふと気づき、自分のヴァイオリンケースを開け、少女のとなりでヴァイオリンを構えた。


「いい? いまのきみは、こんな感じ――」


 弓を立て、力任せに、ただ大きく迫力がある音を立てようとするようにパニスは弦をこすった。

 少女はヴァイオリンを手にぶら下げ、じっとその音を聞いている。

 音は校舎裏の狭い空間に反響し、やがて唯一空いている頭上、白くかすんだ空に流れていった。


「これじゃあ、たしかに迫力はあるけど、魅力的じゃないよ。楽器を無理やり叩いて音を出してるのと変わらない。きみはそういうぎこちないところを技術でカバーしてるんだ。普通のひとがこんなふうに弾くと、すぐに楽器が悲鳴を上げるものだけど――でも、技術に頼るんじゃなくて、もっと自分の心と弦を合わせれば、これほど強く弾かなくたって聞いているひとにちゃんと届く」


 もちろん、その言葉を少女が理解しているとはパニスも思わなかったが、言いながらもう一度弓をかまえた。

 先ほどよりもやさしく、音響的な強さよりも音色と心を一致させるように、弦に触れさせた。

 先ほどは強く大きく響き、それがそのまま全身をぴりぴりとふるわせたが、今度はよりなめらかに音があふれ出す。

 音の威力は先ほどよりはるかに劣る。

 それなのに、音の一粒一粒がはっきりとわかり、先ほどよりもしっかりと耳の奥、心にまで音が伝わってきた。

 パニスは自分のヴァイオリンから流れる音に心を寄せ、旋律に身を任せるようにして指を滑らせる。

 少女はその美しい顔をしかめ、しばらくがまんして聞いていたようだが、ぷいとそっぽを向いてヴァイオリンを抱えたまま校舎裏を出ていった。

 パニスは悲しげにその後ろ姿を見送り、頭を掻く。


「余計なお世話ってことかな――でも、あれだけ弾けるのに、もったいないなあ」



  *



 晴己が自分の部屋に戻ってくると、シュヴァルツはまだ二段ベッドの上、晴己の布団で丸くなっていた。

 晴己がそれをちょんとつつくと、シュヴァルツは鬱陶しそうに尻尾を振り、見向きもしない。


「むう、こいつ、ほんとよく寝るなあ……運動しなきゃ太るぜ」


 余計なお世話だ、というようなシュヴァルツの仕草だった。

 仕方なくシュヴァルツを避けるように寝転がって、晴己は天井を見上げる。


「なあ、シュヴァルツ――おまえ、世界ってどう思う?」


 もちろんシュヴァルツはなにも言わない。

 関心すらなさそうに尻尾をゆっくりと揺らしている。


「じゃあさ、プロの音楽家って、どう思う?」


 にゃあ、とシュヴァルツは眠たげに鳴いた。

 うるさい、と言ったようにも聞こえるし、なにかを晴己に伝えたようにも聞こえる。

 晴己は会話が成立したのだということにして、


「そうか、おまえもよくわかんないか。おれもまったくわからん。なんだろうな、プロって。なんかいまの生活と変わるのかな?」


 世界へ出ていく、と言っていたから、おそらくは、この学校にはいられなくなるということだろう。

 つまり、せっかくできた仲間たちとも別れるということ。

 そんなつらい思いをしてまでプロを目指すべきかどうか、晴己にはわからなかった。


「――でもさ、考えてみれば、ここにいる生徒はみんなプロの音楽家を目指してるんだよな。演奏だったり、職人だったり、指揮者だったりさ、種類はいろいろだけど――機会があればプロになって活躍したいってやつばっかりが集まってる学校だもんな。プロになるつもりもなくここにいるおれがおかしいんだ、たぶん」


 プロになる、というふうに考えれば――昨日ユリアが言っていたことを思い出す。

 この世界では、楽しいというだけではやっていられない。

 もっと強い意志を持って進まなければ、一歩も進めない世界だ。

 遊びでやっているわけではないのだから――ただひたすら楽しいだけの音楽では、通用しない。

 それに、と晴己は思う――プロになるということは、たぶん、自分がいなければプロになれたはずのだれかの席を奪い取るということだ。

 自分よりもずっと幼いときから音楽をやってきて、自分よりもずっとプロになりたいと願っているだれかの居場所を奪うこと。


「なんで、おれなんだろう?」


 素朴な疑問として晴己は思う。


「おれの、この声って、そんな大した声なのか? なあ、シュヴァルツ、どう思う?」


 よく眠る黒猫は答えない。


「才能か――もしおれがこの声じゃなかったら、それでも音楽が大好きで仕方なかったら、おれはおれのことをどう思うんだろうな」


 突然やってきて、努力もとくにせず、生まれ持ったものだけで他人に認められるいけ好かないやつ。


「もしおれだったらそう思うだろうなー」


 晴己はひとりで笑って、それからふとまじめな顔になり、布団をかぶった。

 皐月祭のこと、カルテットのこと、自分のこと――考えるべきことは山のようにあって、そのどれも、簡単には答えが出ないものばかりだった。

 しかし四日後、皐月祭が終わるまでには、その問題はすべてなんらかの解決を見ているはずだ。

 どの問題がどうなるか、まだ晴己自身にも、解決の緒は見えていなかったが――。

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