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第四話 4

  4


 がいこく、と呟き、首をかしげる晴己に、亜莉子はつい笑ってしまう。

 こうして見ると、本当に普通の、平凡といってもいいくらいの男の子だ。

 それなのに歌えばすべてを魅了してしまうような声を持っている――そのギャップもまた魅力のひとつだろう。


「がいこくって、あれですか、外の国と書く、あの」

「その外国です。どうですか、興味は?」

「いや、興味っていわれても……たしかに、外国のきれいなおねーさんもやぶさかではないですが」

「たしかに、日本男児の夢ですねえ、それは」

「――学長、なにを言ってるんですか?」

「おっと失礼、怖い目でにらまれてしまいました――外国というのはその外国ですが、きれいなおねーさんの話ではありません。もちろん、音楽のことです」

「外国の、音楽……それって、つまり、クラシックとか、そういうことですか?」


 晴己は、大して頭がよさそうな少年には見えなかったが、その見た目どおりの反応だった。

 まあ、無理はないのかもしれない――ここの学生は全体的に大人びていて、晴己もある面ではそうなのだろうが、実際はまだ十六歳の少年なのだ。

 まわりの環境が大きく変化していくなかで、それを理解できなくても仕方ないといえば仕方ない状況ではある。


「そう、クラシック――さらにいえば、国そのものです。たとえば、クラシック音楽の本場はウィーンといわれていますね」

「そうなんですか、知りませんでした」

「そうなんです、覚えておいてください。まあ、いまは、音楽の本場といえばこの学校ですが――ともかく、そういう歴史がある場所へ行って音楽に触れてみたいとか、もっといろんな環境で音楽をやってみたいとか、そういうふうに考えたことはありますか?」

「――外国で、音楽を?」


 ぽかんとした晴己の顔を見れば、答えはおのずとわかる。


「どうやら、考えたことはないようですね」


 学長は笑いながらうなずいた。


「無理もありませんね。きみはまだ、この学校へきて半年も経っていませんから」


 そう、それこそがいちばんの驚きだったと亜莉子はうなずく。

 晴己の声を聞いたとき、たしかに声楽的な訓練によって作られた声ではないということはわかったが、今日になって学長から詳しい話を聞くと、晴己はこの六月まで、音楽とはまったく関係のない暮らしをしていたというのだ。

 なんの音楽的教育も受けず、教会で聖歌隊のようなことはしていたらしいが、それも素人の域を出ず、そこに偶然通りかかった若草雪乃によってこの学校に誘われたということらしい。

 六月に入学し、いまは八月、わずか二ヶ月のあいだに、晴己の人生は大きく変わろうとしているのだ。


「ここの学生は、将来的にはみななにかしら音楽に携わる仕事に就きたいと考えています。それは演奏家であったり、楽器職人であったり、指揮者であったり、あるいは楽器の整備士であったり、音楽の教師であったり様々ですが、いちばん多いのは、やはり演奏家として海外の一流オーケストラに所属することでしょう。あるいは単独の演奏家として世界中を飛び回る生活をする、ということもありますが」

「一流オーケストラ――」

「きみは声楽が担当ですから、声楽家はオーケストラの所属というより後者、つまり単独の演奏家として世界中を飛び回ることになるでしょう。依頼を受け、様々なオーケストラと共演したり、オペラに出演したり――もちろん、すぐにそんな仕事ができるようになるわけではありません。しっかりと学校で基礎を学び、卒業したあとは師匠を探すなりなんなりしてさらに声楽家としての訓練や経験を積み、ほんのちいさな役からはじまって、何十年もかけてようやく一流の声楽家となるわけです。それは長く険しい道のりで、それも、じっと耐えていれば乗り越えられるというものではない。この世界はある意味では非道です。どれだけ努力をしても報われないこともある。どれだけ耐え忍んでも、成功できずに終わることもあります。しかし目指さないことには成功はあり得ない、それだけはたしかです。きみは――一流の音楽家を目指す覚悟はありますか?」


 まるで脅すような言い方だった。

 そのあたりに、亜莉子は学長の生徒に対する愛を感じる。

 そこはすばらしい世界だと生徒たちを連れ込み、戻るわけにはいかなくなったあとで真実を知らせるよりは、はじめから進もうとしている世界のことをしっかり教えてやるほうが生徒のためなのだ。

 ――芸術は、才能が支配している。

 音楽も同様に、才能がない人間が成功するのはむずかしい。

 人間には時間が限られていて、だれもが必死に努力し、練習しているのだ。

 そうすれば当然、同じ練習量でも出来不出来が現れてくる。

 一日十時間の練習を十日続けたとき、同じように練習したのに課題がクリアできる人間とクリアできない人間が生まれるわけだ。

 課題をクリアできなかった人間は「才能がなかった」といわれ、脱落していく。

 クリアできた人間は一定の才能を認められるが、またすぐに課題が待っていて、努力を怠ればもちろん、血が滲む努力を積み重ねても、いつかクリアできない課題が出てくれば、その時点でその人間の音楽家としての人生は終わりになってしまう。

 ――そんな世界に飛び込んで、自分の一生を賭けて大きな博打をしようとする人間が世界中に何万といるのだ。

 だからこそ、その世界が美しい。

 ひとの生のきらめきが見ている人間を魅了し、圧倒する。


「――この世界は厳しい世界よ」


 亜莉子は言った。


「でも、一生を賭けて目指す価値があるとみんなが認めてくれる世界でもある」

「――みんなが認めてくれる」

「そう。その頂点に登れず、途中で落ちていった人間たちは、決して惨めじゃないの。挑戦した分愚かかもしれない――でも挑戦しなかった人間よりは、高い景色が見られたんだから」


 言っているうちに、亜莉子は自分に言い聞かせているような気分になった。

 いまでは世界でもっとも人気がある指揮者だといわれている亜莉子も、平然とそこに立っているのではない――努力に努力を重ね、いまでも努力し続け、次の瞬間には滑落するかもしれない恐怖と戦いながら、そこに立っているのだ。

 見下ろせば、同じ道を通り、しかし亜莉子よりも早くすべり落ちてしまった人間たちが無数にいる。

 その人間たちはみんな亜莉子を見上げている。

 憎しみや、羨望を込めて。

 その視線を受けながら亜莉子はまだ登り続けなければならない――それが成功者の義務なのだから。


「わたしは、いま世界中のオーケストラや音楽家と連絡が取れるわ。すごく親身になってくれるマネージャーや事務所も知ってる。だからね、箕形くん――もしあなたにその気があるなら、わたしが責任を持ってあなたを世界に紹介してあげる」


 晴己に世界を紹介するのではなく、晴己を世界に紹介する――ここにはこんな才能がいる、と世界にアナウンスする。

 亜莉子は、箕形晴己という才能を見つけて、そうしなければならないという義務感のようなものを感じていた。

 それは――ちいさな教会で晴己を見つけ、この学校に導いた若草雪乃と同じ感情にちがいない。


「わたしはあなたを世界に連れて行きたいの。それも、一刻も早く。世界にはまだあなたを知らないひとがたくさんいて、なにも知らないあなたの歌声を待っているひとたちであふれているのよ」

「――おれが、世界に? それ、なんかの間違いじゃないですか」


 晴己は信じられないというように笑った。


「おれ、そんな大したやつじゃないですよ。おれより歌がうまいやつなんて山ほどいるし」

「歌がうまい、というなら、そうでしょうね――でもあなたと同じ声で歌える人間は、世界中にひとりも存在しない」

「で、でも――おれ、いまだに楽譜も読めないし、むずかしいことはぜんぜんわからないし」

「それもわたしが教えるわ。すこしずつ覚えていけばいいことだから」

「――おれには、才能なんてないですよ。おれなんかより、乙音とか、ユリアとか、アルのほうがよっぽど才能もあるし、音楽を愛してるはずです」

「音楽を愛しているかどうかは、この際関係ないのよ。重要なのは音楽に愛されているかどうか――あなたは間違いなく音楽に愛されてる」

「でも――あの」


 晴己は困ったように眉をひそめ、亜莉子を見た。

 それはまるで泣いているような顔にも見えた。

 世界へ出ていくというのは、音楽家にとっては望んでも得られない経験になるだろうが、ひとりの少年、十六歳の少年にとってみれば唐突で大きな転換期にちがいない。


「とにかく、考えてみてくれる? 答えはわたしが日本にいるうち――皐月祭が終わるまででいいから」

「――はい、わかりました」


 こくりとうなずいて、晴己は立ち上がる。

 出ていくときもどこか呆然とした顔で、扉がぱたんと閉まると、亜莉子はすこし笑った。


「やっぱり驚いているみたいですね、彼は。自分が世界へ飛び出す、音楽家として本格的に活動をはじめるなんて、夢にも思っていなかったみたい」

「本当にそうなんでしょう」


 学長は静かに言った。


「彼の場合、音楽家を目指してここにいるわけではありませんからね」

「では、どうして彼を入学させたんですか、先生。音楽家を目指してもいない、普通の男の子を?」

「それは――そう、彼の才能を埋もれさせるのはもったいないと思ったのです。転入を薦めた若草くんにしても同じでしょう。彼を見ていると、ついその成長の手助けをしてあげたくなる」

「それって、まるでなにかが導いているようじゃありませんか。わたしたちの手を通じて、だれかが彼を世界の中心へ引き上げようとしているような――」

「さあ、どうでしょうか」


 学長は用心深く、たしかなことは言わなかった。

 しかし亜莉子はほとんど確信的に思う。

 もし音楽の神、ミューズというものがいるなら、彼はその女神に愛されているにちがいない、と。



  *



 箕形くんに関する話を終え、学長室を出る。

 今日も天気はよく、気温も高いし、日差しも多い。

 庭には白い光が燦々と降り注ぎ、噴水が唯一、その熱い世界に涼しさを与えていた。

 その噴水のとなりに、珍しい人間を見つける。

 昔一度会ったことがあるヴァイオリニストで、フランス人の、名前はたしかブノワ・パニス。

 彼の名前が皐月祭のパンフレットに書かれていることは知っていたけれど、久しぶりに見かけるとなんだか不思議な気がする。

 なにしろ彼はここの学生だったわけではないし、ほかにこの学校とつながりがあるとは思えないから、皐月祭の純粋な招待客というわけだ。

 学長は、彼を呼ぶことに苦労しただろうと人事として考える。

 彼はいま、フランスだけではなく、様々な国で多くのファンを持つヴァイオリニストだ。

 年齢はまだ二十歳、これからどんどん伸びていくという有望株でありながら、ひとりの完成された音楽家でもある。

 そう――彼も、疑いなく天才と呼ばれる人種だ。

 ただ、天才は往々にして変わり者が多い。

 彼はなにかごそごそとポケットを漁っていて、どうやら小銭を取り出したらしいが、勢い余ってそれを噴水のなかへ落っことして困っているようだった。

 わたしは別に助けるつもりもなかったから、ばかなことやってるな、と思いながら廊下を進んでいくと、またもや珍しい――いや、この学校にいること自体は自然なのだろうけれど、こうして会うことは珍しい人物と出会った。

 わたしは学長室から校舎の入り口へ向けて歩いていて、彼女は校舎の入り口から学長室のほうへ歩いてきていた。

 お互い、相手の姿に気づいたところで立ち止まる。

 彼女と会うのは五年ぶりだった。

 あのときはお互いに二十歳で――いまはもう二十五になっている。

 五年という年月は、懐かしいと思うのに充分だったのかもしれないけれど、わたしは不思議とそんなふうには思わなかった。

 懐かしいと思うには、わたしも彼女も、すこしも変わっていなかったから。

 だから、久しぶり、とも言わず、わたしは庭で悪戦苦闘しているブノワ・パニスをちょっと見て、


「あの子の子守り?」

「そう。正確には案内役だけど」


 ああ、やっぱり。

 わたしがまったく変わっていないように、彼女――若草雪乃も、心はまったく変わっていなかった。

 昔と同じような、冷たいと感じるくらいの口調。

 ただ、昔よりはほんのすこしだけ、人間味が増しているような気がした。


「なんか噴水に小銭を落として困ってるみたいよ」


 雪乃は庭を見て、はあ、とため息をついた。わたしはくすくす笑う。


「落ち着きないでしょう、あの子」

「まあね。知り合い?」

「昔、一度会ったことがあるだけだけど。そのときはわたしが二十二で、あの子は十七だったのかな。そのときから落ち着きがなくて、マネージャーによく怒られてたわ。勝手に出歩いたり、迷子になったりして」

「昨日、まさにそうだったけど」

「でもヴァイオリンさえ持たせれば、彼はすぐれた音楽家だからね。せいぜいしっかりと子守りしてあげなさい」

「そうするわ。それが仕事だから」


 会話がすこし途切れる。

 ただ、わたしも雪乃も立ち去ろうとはしなかった。


「ウィーンフィルの常任に決まったんでしょ」


 雪乃はぽつりと言う。


「おめでとう。すごいことじゃない」

「素直にありがとうって言っておくわ。本当なら、あなたがその位置にいたんでしょうけど。あなたはいつもわたしよりも半歩前に立っていたから」

「――そんなことなかった。わたしからも、あなたはわたしよりもいつもほんのすこしだけ前に立ってるように見えていたもの」


 それは不思議と、お世辞には聞こえなかった。

 たぶん五年前なら怒っていたにちがいない――どこからどう見てもあんたほうが優れてる、と。

 まあ、それはそれでおかしな話ではあるけれど。

 でも五年経って、お互いのことがほんのすこしだけ素直に理解できるようになったのかもしれない。


「やっぱり、雪乃もそう思ってたの?」

「あなたのほうは、わたしなんかまったく相手にしてないと思ってたけど」

「お互いさまよ。わたしから見た雪乃も、名前のとおりいっつもクールで、わたしがどうやって突っかかっても乗ってこない憎たらしい女の子だったし。その余裕ぶったところ、大っ嫌いだったけど」

「余裕ぶってるつもりはなかったんだけど」


 雪乃は困った顔で首をかしげた。

 そんな表情もできるんだ、と意外に思う。

 たぶん、わたしのなかの雪乃は、ある意味美化されすぎていた――雪乃はひとつのシンボルとして、いってみれば女神のようになっていたから、笑ったり泣いたり、そういう人間的なことはしない子だと思い込んでいた。

 でも、よく見れば。

 雪乃は困った顔もするし、笑ったりもする。

 あの当時からそうだったにちがいない。わたしからはそう見えなかっただけで。


「ねえ、この五年、どうしてたの? 突然いなくなって、一時期は死んだのかと思ってたけど」

「一応、生きてはいたわ」


 と雪乃は苦笑いして、


「いろんなところを見てきたの。世界中、いろんなところ――」

「ふうん――自分探しってやつ?」

「音楽探し、かな。世界中見てまわれば、なにか見つかるかもしれないって思ったのよ。いまから考えれば変な話だけどね。あのときは、それがいちばん近道だと思った。でもわたしがそうやって回り道をしてるあいだに、あなたはどんどん有名になっていったけど。わたしはいろんなところであなたを見かけてたわ。雑誌とか、うわさで」

「どうせくだらないうわさでしょ?」

「美女音楽家特集、とかね」


 ふたり揃って笑う。

 ――五年前どころか、昨日にだってこんなこと、考えられなかったけれど。

 不思議とそういう場になってみれば、なんの意識もなく雪乃といっしょに笑えたのが自分でもおかしかった。


「――それで、音楽は見つかった?」


 雪乃はちいさく首を振る。


「なんにも見つからなかったわ。五年かけたけど、五年分のものはなにも。ただ――日本に帰ってきてから、おもしろいものは見つけたけど」

「あら、そのおもしろいものって、もしかして年下の男の子?」

「知ってるの?」

「一応ね。じゃあ、あの子は雪乃の愛弟子ってわけ?」

「まさか。指導らしい指導はできなかったわ。せいぜい基本的な楽譜の読み方くらいよ。最初はそれもできなかったから」

「でも素材としては一級品、でしょ?」


 雪乃はこくんとうなずく。

 わたしは、そのライバルに向かって勝ち誇るように言ってやった。


「箕形晴己は、わたしが世界に紹介するわ」


 ――さぞ雪乃は悔しがるだろう、と思ったのに、雪乃はちょっと驚いた顔をしたあと、笑顔でうなずいた。


「そうしてくれるとうれしいわ。わたしじゃ、あの子はどうしようもないから」

「――なに、それ。せっかくかつてのライバルを悔しがらせてやろうと思ったのに、つまんない反応ね」

「ハンカチでも噛めばよかった?」


 くすくすと笑って、


「でも、ここにいたって音楽家としてはあまり成長できないでしょう。世界で活躍しようと思うなら、早いうちから世界へ出たほうがいい。でもわたしじゃ知り合いもいないし、彼をそこまで引き上げることはできないから――あなたなら適任よ。あの子、美人のお姉さんが好きらしいし」

「だからあなたも好かれたんじゃない? まあ、本当に世界へ出ていくかどうかは、彼本人が決めることだけどね。とりあえず、誘うだけは誘ったわ。わたしが日本にいるあいだ、皐月祭が終わる前に答えを出すようにも言っておいたし」

「そうなの? それじゃあ、あの子としては大変かもね」

「大変って?」

「皐月祭の舞台にも上がらなくちゃいけないし、そんな決断もしなくちゃいけないし――まあ、それくらいはできないと、この先やっていけないけど」


 呟く横顔には、たしかに教え子を思う教師や師匠としての表情があった。

 ――お互い、なにも変わっていないと思ったのは間違いだ。

 雪乃は変わった。

 五年前の雪乃ではなくなっている。

 そしてたぶん、わたしも変わった。


「ねえ、雪乃」

「なあに?」

「もうタクトは振らないの?」

「――振る必要もないから」

「いまからでも、まだ間に合うんじゃない? たった五年でしょう。あなたの才能があれば、それくらいのブランクはすぐに埋められるはず」

「才能はどうだかわからないけど、たぶん心は、あのときほど強くないと思うわ。あのころは一日中音楽のことしか考えてなかった。いまはそれほど真正面から音楽に取り組めないし――それにひとつ、やりたいこともできたし」

「やりたいこと?」

「ここで教師をやるってこと。ここでほかの子たちに音楽を教えるの――箕形くんを教えてて、それもいいかなって思ったのよ。なんだか学長の思う壺になったみたいで、それだけは癪だけど」

「そういうところは変わってないわね、雪乃。でもわかるわ。そっか、教師か――じゃあ、将来はあなたの教え子が世界中を席巻するってわけね」

「そこまですごい子が育つかどうかはわからないけど」

「大丈夫、絶対に育つわ。予言してあげる。あなたの教え子第一号は、五年以内に世界中を虜にする」


 もちろん、冗談のつもりはまったくなかった。

 だから雪乃も笑わず、しっかりうなずいて、わたしを見た。


「たった二ヶ月だけで教え子っていうのもえらそうかもしれないけど――あなたに託すわ」

「わたしはだめでも、彼にはミューズがついてるからね」

「あら、そのミューズがあなたなんじゃないの?」

「わたしがミューズに見える? まあ、美人ではあるけどね。でもたぶん――彼にとってのミューズは、あなたでしょう」


 ものがあふれる町のなかで、最初に箕形晴己を見出したのは雪乃だ。

 そのはじまりがなければ、彼の物語は進まなかった。

 そういう意味でいえば、若草雪乃は箕形晴己にとって音楽の女神だったにちがいない。

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