第四話 3
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ユリア・ベルドフは、天才という言葉がきらいだ。
もちろん、自分が天才と呼ばれるのは好きで、自分自身の能力はそれに値すると思っていたが、他人がそう呼ばれているのには反発を覚える。
この国に、皐月町音楽学校にくるまでは、とくにそうだった。
どんな町にも、どんな地域にも天才と呼ばれる人間はいる。
ユリアが知るかぎり、モスクワには天才が二百人ほどいて、音楽の分野でも二、三十人はいたが、それはすべて偽物だった。
天才とは名ばかりの、努力の結晶。
もちろん、それもすばらしいことにはちがいない。
同年代の他人に比べて技術が優れていることもたしかだろうし、優れているということを天才と呼ぶなら、彼らはたしかに天才だった。
しかしそれは、ひとよりも多く、そして効率的に訓練した成果にすぎない。
同年代の他人に比べると技術は優れているが、かといってだれよりもうまいというわけではなく、さらに長い訓練をした人間には敵わない。
――天才というのは、要するに、努力とは切り離された生まれ持っての素質のことだ。
相手が同年代だろうが自分の祖父ほどの年だろうが、ある部分では決して負けないという強い武器。
それを天才と呼ぶのであって、世間でいわれている天才のほとんどは、血が滲むような努力をしたまじめな人間にすぎない。
もしかしたら、世の中の天才はすべてそうではないか、とユリアは思っていた。
しかし――皐月町音楽学校には、本物の天才がいた。
なにしろその学校には世界中の天才が集まり、天才のなかでの天才を見つけ出すような世界だったから、平均的なレベルが高いことは当然で――ユリアはしかし、入学してしばらくのあいだは、まわりにいるのは凡人ばかりだと感じていた。
所詮、町のスクールと大差はない。
ほんのすこし平均が上というだけで、飛び抜けた、次元がちがう天才はここにも存在しないと思っていたのだ。
そうでないことに気づいたのは、入学して一年ほど経ったころ。
十二歳でピアノ科に入学してきた、子どものようにちいさな女の子がいた。
彼女はいつもおどおどしていて、ピアノがなければろくにひとと話すこともできない。
他人と目線を合わせるのは身を切られるような苦痛らしく、下手をすれば会話したくないという理由でその場から逃げ出したりするくらいだった。
でも、ピアノを弾かせれば、世界が変わる。
その女の子は、ユリアがはじめて出会った本物の天才だった。
ピアノがうまいというわけではなく、その女の子が奏でるピアノは、信じられないくらい表情豊かなのだ。
同じピアノでほかの人間が完璧に一曲を弾いても、まるで能面のように思えるくらい、その女の子が作り出す音には色があり、表情がある。
そんなふうにピアノを弾けるのは古今東西でもその女の子だけだろうとユリアは思った――それこそが、天才だ。
どんな時代の、いかなるピアニストと比べても遜色がない能力。
はじめからその人間が持っていた特殊能力のようなものが才能なら、その女の子はピアノを弾く才能を生まれつき持っていたにちがいない。
――世の中には、本物の天才がいる。
ユリアはそれを知り、わずかにショックを受け、しかし相手はピアニストで、ヴァイオリンを弾く自分には関係ないとも思っていた。
楽器がちがうというのは、戦う場所がちがうようなもので、どちらが優れた音楽家か、などと比べても仕方がない。
比べるなら、せめて同じ場所でなければ、同じヴァイオリニストでなければ比べられない。
――ユリアが出会ったふたり目の天才も、ヴァイオリニストではなかった。
そいつは声楽家で、普段はなんということもない普通の少年だが、歌うとその少年が世界の中心に立っているような気がしてくる。
その声こそ、努力とは関係なく少年が生まれ持った、暴力的なくらいに魅力的な才能だろう。
でも、やはり声楽家とヴァイオリニストでは立っている場所がちがうから、争いにはならない。
争いにならないからこそ、表面上は仲間のようにも振る舞っていられる。
――でも。
ユリアは、三人目の天才、それもヴァイオリニストとしての天才に、出会ってしまった。
身構える時間もないような一瞬だった。
皐月祭で演奏する音楽の手がかりがないものかと、本屋やCDショップをめぐろうとして駅前を歩いていたときだ。
後ろから肩を叩かれた時点では、また鬱陶しいナンパかと思ったのだが、そうではなかったらしい。
それはくすんだ金髪の、背の高い青年で、フランス語らしい言葉でなにかを言っていた。
ロシア語と英語、それに日本語は話せるユリアだが、さすがにフランス語まではわからず、首をかしげていると――その青年は、ヴァイオリンを取り出した。
そして。
弓が弦に触れた瞬間。
同じ楽器とは思えないような、聞いたこともない美しい音色があふれ出した。
最初の一音、たった一音でも、その青年が天才だとわかる。
音楽を知らない人間が聞いてもつい惹きこまれてしまう、音そのものの魅力。
音楽以前の、もっと根本的な、音色としての魅力だ。
それは小嶋乙音に近い才能で、しかし乙音よりももっと自覚的で、努力によってより洗練された天才だった。
――このあたりで音楽といえば、皐月町音楽学校にちがいない。
ユリアはその方向を指さしして教え、逃げるようにその場を立ち去った。
事実、それ以上、その青年が奏でるヴァイオリンの音を聞いていられなかった。
身体中がふるえている。
心まで、ぶるぶると恐れをなしたようにふるえて止まらなかった。
ユリアはそれを武者震いだと思い込む。
あれは、敵だ。
いままで生きていて、はじめて出会った、正面から戦って倒さなければならない敵。
乙音や箕形晴己はたしかに天才だったが、ユリアとは楽器がちがうから、戦う必要はなかった。
しかしあの青年は同じヴァイオリンで、しかも疑いなく天才だ。
ヴァイオリニストとして、あの青年に勝たなければならない。
そうしなければ未来はないとユリアは思う。
あのヴァイオリニストを認めるということは、いままで自分を支えてきた、自分はいちばんの天才だという考えを否定することになる。
もし自分が天才でなかったとしたら。
ユリアはそう考えて、ぞっとした。
ユリア・ベルドフは天才でなければならない。
天才というただその一点だけで、存在を許されているようなものなのだ。
世界のだれよりも優れたヴァイオリニストだからこそ、ユリアはユリアとして存在できた。
どんな相手でも、ヴァイオリニストとして負けることは絶対に許されなかった。
だから――ユリアは、ほかのなにをなげうってでも、その青年に勝つことを決めた。
*
メインの会場に、それも大トリとして出演することを知らされてから一日。
晴己、ユリア、乙音の三人は、まだどんな曲を演奏するのか決まってはいなかったが、ともかく練習のためにピアノがあるちいさな部屋に集まっていた。
「とにかく、音を出してみよう。アルの件もあるし、たぶん即興に近い演奏になると思うから、そのシミュレーションもしておきたいし」
晴己がそう言うと、ピアノの前に座った乙音はこくりとうなずき、鍵盤に指を添えた。
ユリアは無言のままヴァイオリンを構え、乙音が最初の音を出すのを待つ。
「どんな曲調がいいかな?」
「激しくて情熱的なのがいいわ」
ユリアの要望は単純で、それだけ乙音はうーんとすこし考えてから、鍵盤を強く押し込んだ。
どん、となにかを強く叩いたような低音が響き、そこからガラスが砕け散るように高音が細かく繰り返される。
やがてそれがリズムとなり、ひとつの曲としての姿を表すと、すかさずユリアは自分の弦をそこに乗せた。
最初の一音から、金切り声のような高音を長く響かせる。
まるで幼い少女の悲鳴だ。
その少女の悲鳴に合わせるようにピアノの旋律が変化して――揺らめいて燃えさかる炎が幻視される。
ヴァイオリンの耳をつんざくような高音は続き、一気に低音へ降りて、執拗に低音から高音へと心がざわつくような旋律を繰り返した。
――それはもはや、情熱的というより暴力的だった。
旋律自体が狂気をはらみ、喉も裂けよとばかりにところかまわず叫び続けているような、恐ろしい音楽なのだ。
「ちょ、ちょっとたんま! ストップ!」
慌てて晴己が言うと、乙音ははっとわれに返ったようにピアノを止めたが、ユリアはしばらく独奏したあと、渋々というように指を離した。
それから、じろりと晴己をにらむ。
「なんで止めたのよ」
「いや、その曲は、いくらなんでも怖すぎるだろ。子どもだったら泣くぞ、それ。情熱的にやるにしても、もうちょっと明るくしようぜ」
「別に、泣いたっていいでしょ。要はそれだけ圧倒できたってことなんだから――乙音、もう一回やるわよ」
「え、あ、うん――」
乙音はちらと晴己のほうも見たが、ぴりぴりと焼きつくようなユリアの雰囲気に押され、鍵盤に指を置いた。
もう一度、今度はユリアの旋律を基にして音楽がはじまる。
ヴァイオリンの甲高い悲鳴。
ユリアを中心にして、世界の色が変わっていく。
校舎の片隅にあるちいさな部屋は、またたく間に炎に囲まれた地獄じみた場所になる。
そこには骸骨になった人間たちが無限の苦しみに喘ぎ、地獄の看守たちは低く笑いながら人間の成れの果てを火あぶりにし、鋭く尖った槍で突く。
あたりではぐつぐつとマグマが燃えたぎっている。
風は無数の鎌であり、吹き抜けるたびに人間を痛めつける。
それでも終わらない地獄の風景を、不意にひとりの少女が覗き込んで、声にならない絶叫を上げていた。
――晴己はあたりにうずまくどす黒い音の波に、なにも言わずじっと押し黙っていた。
乙音はユリアが強引に進んでいくままピアノであとを追っていたが、弾いているのも苦しげに、眉をひそめていつもよりぐっと猫背になっている。
ユリアは金髪を振り乱しながら地獄の音楽を奏で、克明にその風景を描写していったが、ふと晴己を見て、演奏の手を止めた。
ほっと解放されたように乙音もピアノを止め、狭い部屋には余韻がうなりとなって残り、それがすこしずつ部屋に吸収されていく。
ユリアはじっと晴己をにらんだ。
「どうして入ってこないの?」
――即興はいつも、だれかひとりが音を作りはじめ、そこにひとりずつ加わっていくことで成立していた。
基礎となるのは音響的にはっきりとしたピアノがほとんどだが、すでにそうした演奏の仕方や互いの音色には慣れていたから、いまではだれからはじまるとか、だれがしっかりとした根音をとるとか、そうしたことは相談もなく流れのなかで決められている。
晴己ももちろんそれを理解していたし、いつもの即興ならわれ先にと音のなかに飛び込み、楽しそうに歌っていたが――今日ばかりは、むずかしい顔で押し黙ったまま、いつまで経っても歌い出しそうになかった。
「なあ、やっぱりさ、もっと明るい曲にしようぜ。そんなの、演奏しても楽しくないだろ」
「――楽しいかどうかなんて、どうでもいいことでしょ」
ユリアはヴァイオリンを下ろし、じっと晴己を見た。
「あたしたちは、遊びでやってるんじゃない。皐月祭のステージではお金も取ってやるんだから、あたしたちが楽しいかどうかはもう関係ないわ」
「じゃあ、なんのために演奏するんだよ。金のためってわけじゃないだろ。きてくれるお客さんをよろこばせるためか?」
「聞いている人間を圧倒するため」
きっぱりとユリアは言いきった。
「ただ聞かせるだけじゃない、聞かせて、圧倒する。あたしたちの音楽が、あたしたちの音がどれだけすごいのかを理解させるためよ」
「なんだよ、すごいって。それこそ、おれたちには関係ないことだろ」
晴己が言うと、ユリアの目がぐっとつり上がった。
「なんで――」
「おれたちの音楽がすごいと思われようが、子どもの遊びだと思われようがどうだっていいだろ。別に、だれかに認めてもらいたくてやってるわけじゃないんだから」
「それこそ、なんのために音楽をやってるのよ。だれになんて言われようとかまわないって? あいつらは下手だ、あいつらには才能がないって言われてもいいっていうの?」
「そういうふうに言うひともいるだろうし、そうは言わないひともいる。おれたちのことを認めてくれるひとたちもいるさ」
「それじゃだめなのよ。全員に――世界中の人間にあたしの音楽を認めさなきゃ、だめなの!」
まるで駄々をこねる子どものようにユリアは言った。
晴己は眉をひそめて、首をかしげる。
「どうしたんだよ、ユリア。なんかあったのか?」
「別に――」
ユリアはぷいとそっぽを向き、呟いた。
「忘れてたことを思い出しただけ」
「忘れてたこと?」
「音楽は戦いだってこと。ただここに立ってるだけじゃ、だれもなにも認めてくれない。こっちから認めさせなきゃだめなのよ。あたしは、あたしの音楽でそれをやる。他人を圧倒させて、あいつはすごいって言わせてやるの。あたしはずっとそうやって生きてきた。親に音楽なんかやめろって言われても、無理やりあたしの音でねじ伏せて進んできたの。一流のヴァイオリニストになんかなれっこないって言われてもあたしは絶対に認めなかった。自分の力で相手に認めさせるまで諦めなかった。これまでもそうしてきたんだから――これからだって、そうしていくしかないでしょ。あたしにとって音楽は武器なの。戦うための道具よ。楽しむためのものじゃない」
「楽しくない音楽なんて――やる意味も、聞く意味もないだろ」
「あんたにとってはそうなんでしょうね」
その口調は、まるで晴己を突き放すようだった。
「演奏を楽しめるかどうかなんてどうでもいい。聞いている人間を圧倒させる、聞いている人間に自分を認めさせる、それしかないの」
「そんなはずない。おれは――いままでユリアといっしょに演奏してきて、ずっと楽しかったんだ。六月の試験も、このあいだ長野に行ったときも――おれは歌いながらいつも楽しかった」
「それはあんただけよ。あたしは楽しくなんてなかったわ」
「――他人を圧倒する音楽を奏でたいだけ、か。そんなの、自分の音楽を押し付けてるだけだ」
「そうよ、それがいけないこと? あんただって同じじゃない」
「おれはちがう!」
「同じよ。楽しくなきゃ音楽じゃない、なんて、ふざけたこと言って――そうやって自分の考えを押しつけてるだけ。あたしと変わらないわ。むしろ、あたしは無理やり押しつけてることを自覚してる分、あんたよりマシよ」
――音が、崩れていく。
優美を誇った音の塔が、がらがらと恐ろしい轟音を立てて崩れていく。
「楽しいだけじゃ、どこにも行けないわ。他人を圧倒して、他人を倒して先に進まなきゃ、どこにも行けないのよ――あんたは、なんにもわかってない」
「わかってないのはきみのほうだろ。ただ他人を打ち負かしたいだけの音楽にはなんの意味もない」
「じゃあ楽しいだけの音楽には意味があるっていうの?」
「あるさ、きっと――だれかを救えるかもしれないだろ」
「音楽がだれかを救うですって?」
ユリアはちいさく笑った。
「じゃあ、好きなだけ救うといいわ。それでどこまで行けるのか知らないけど――そもそも、考え方がちがうのよ、あんたとは」
「――かもしれないな」
それは、ほとんど決定的な亀裂だった。
もう一歩でも踏み込めば二度と戻れないような場所まで進んでしまうことがわかっていながら、ふたりともそのまま立ち止まることができない。
「――ねえ、もう、やめようよ」
かすかなふるえる声がふたりの熱くなった意識を急激に冷ました。
乙音は椅子にちょこんと座り、こぼれる涙を拭おうともせずにうつむいている。
「ね、もうやめよ――やだよ、こんなの。けんかなんか、やめようよ」
「けんかってわけじゃ――」
ユリアはわざと音を立ててヴァイオリンをケースにしまい、それを持って足早に部屋を出ていった。
晴己は頭をかいて、壁際に腰を下ろす。
「ごめん、乙音――ごめんな」
乙音はぷるぷると首を振った。
しかし晴己は、自分が悪かったとは言わなかった。
心の片隅に残ったものが、自分は間違っていないと主張していたのだ。
晴己はため息をつき、天井を見上げる。
「困ったなあ、あと四日だってのに――」
*
その日の練習は自然と中止になった。
おれと乙音はしばらくその部屋でぼんやりしていたが、ユリアが戻ってくることはなかったし、寮の部屋まで行って呼び戻したところでもう一度練習しようという空気にならないことは明らかだった。
泣いていた乙音を寮の入り口まで送って、それから自分の部屋に戻るころにはいくらか頭も冷静になっている。
二段ベッドの下には今日も黒猫のシュヴァルツが寝ていて、おれが部屋に入るとちょっと顔を上げたが、すぐ興味を失ったように目を閉じた。
「――いいよなあ、おまえは。なんか、苦労もなさそうでさ」
シュヴァルツは、そんな言葉は心外だというように細い尻尾を左右に振った。
おれは二段ベッドの上段に上り、ごろんと横になる。
――ユリアの言うことは、きっと正しいことだ。
的外れでもないし、極論というわけでもない。
音楽の世界は厳しくて、ただ楽しければいい、なんて軽い気持ちの人間が生きていけるような場所ではないのだろう。
そのあたりは、音楽の世界に入ってほんの数ヶ月しか経っていないおれと、子どものころからずっとその世界で生きてきたユリアとでは認識がちがっていて当たり前だ。
楽しいだけではどうしようもない。
音楽家は、他人に認められ、求められなければ仕事にはならない。
ただ――認められればいい、という考え方に納得できないのは、冷静になっても変わらない。
音楽はやっぱり、楽しくあってほしい。
だって、おれが音楽をはじめたきっかけは、それがとても楽しそうに見えたからで――いまこうして音楽をやっている理由は、やってみると予想よりずっと楽しかったからだ。
それがおれの音楽の原点だから、音楽はいつでも楽しいものであってほしい。
ユリアにとっての音楽はどうなんだろう。
ユリアはどうして音楽をはじめて、どうして音楽を続けているんだろう。
楽しそうだからはじめて、楽しかったから続けているわけではないのか――ユリアは、親に音楽家になることを反対されたと言っていた。
それはユリアにとって、どれだけつらいことだったんだろう。
おれには、親はいない。
でも、なんとなくそのときのユリアの気持ちはわかる気がした。
いちばん認めてほしいひとに、自分がいちばん好きなものを否定される気持ち。
それはもしかしたら――いまのおれの気持ちと似ているのかもしれない。
おれは、ユリアが弾くヴァイオリンの音が好きだ。
ユリアは天才だと思う。
おれが十年、みっちりヴァイオリンの練習をしたとしても、ユリアみたいには弾きこなせない。
だから、そのユリアが音楽を楽しんでいないなんて、信じたくもない。
ユリアやほかの本当にすごい音楽家はみんな、音楽の楽しみ方を知っているひとなんだと無意識のうちに信じ込んでいた。
おれなんかよりよっぽど音楽を楽しんで、だからそんなにうまく、魅力的に音楽を奏でられるんだと――。
「――ほんとに、ユリアが音楽を楽しんでないんだとしたら」
それは、同じカルテットとしてやっていく上で、致命的なちがいなのかもしれない。
ユリアは自分の意見を曲げてまでカルテットを続けようとは思わないだろう。
おれもそうだ――そんなふうに本当の自分を出せないままカルテットを続けても意味はないと思う。
だれかが無理をして寄り添うのではなく、自然と集まった四人でいたいのだ。
――それこそ、ユリアに言わせれば子どもの遊びのようなものなのかもしれないけれど。
おれはそこに音楽の本質があると信じていた。
音楽を楽しむ、音を楽しむ――そうやって優れた音楽は作られてきたんだと信じたいのだ。
――皐月祭まで、あと四日しかない。
ユリアと話し合わなければと思ったが、話し合ったら最後、本当にけんか別れしてしまうような気がして怖かった。
でも、こんな状態で四日後の本番を迎えるわけにはいかない。
「アルもまだ戻ってないしなあ――そうだ、アルがいてくれれば、なんか変わったかな」
アルは、あまり口には出さなかったが、音楽についていろいろ考えているようだった。
たぶん、楽しければいい、なんてことしか考えていないおれより、ずっといい意見が出るだろう。
もしかしたらユリアの相談にもアルなら乗ってあげられたかもしれない。
ユリアがなにかで悩んでいるのだとしたら、同じカルテットとして放ってはおけない問題だった。
「ああ、くそ――本番がすぐそこなのに、なんでこう、問題ばっかり起こるんだ。おれはただ、楽しく音楽がやりたいだけなのに」
下のベッドで、シュバルツがちいさく鳴いた。
見ると、ぴょんとベッドから飛び降り、人間用のはしごを器用に登って、おれが寝ている上段のベッドに飛び込んでくる。
シュヴァルツがこうやって上のベッドに逃げ込んでくるときは、大抵、だれかの足音を聞いたときだ。
案の定、
「おーい、箕形ー。いるかー」
ノックとともにそんな声が聞こえてくる。
おれは身体に乗りかかってくるシュヴァルツを退けて、はしごを下りる。
「いるけど、なんか用事か?」
扉を開けると、となりの部屋の、たしかフルートかなにかを担当している男子生徒が立っていた。
「いや、なんか学長が呼んでるらしいぜ」
「学長が?」
「さっき校舎行ったら、寮まで行って呼んできてくれってさ。なんか悪いことでもしたのか?」
「う、記憶にはないけどなあ……ありがと、行ってみるよ」
シュヴァルツが逃げ出さないようにしっかりと部屋に鍵をかけ、校舎に向かう。
学校は夏休み中だが、皐月祭が近いこともあって、校内にはほとんどの生徒が残っていた。
庭を歩いているとあちこちから音楽が聞こえてくる。
普段ならそれは楽しそうな、希望にあふれた音のように聞こえたのに、今日はなんだかぴりぴりと緊張したような雰囲気に思えた。
第一校舎一階、学長室の扉をノックすると、すぐに返事がある。
「どうぞ、入ってください」
「失礼しまーす――あ」
思わず、声を上げた。
学長はいつものように奥の席に座っていて、その手前にはソファがあったが、そのソファに見たことある顔、具体的にいえばきれいなおねーさんが座っていた。
昨日、歌っていたところに話しかけてくれた、たしかアリスさんとかいうひと。
そのひとはソファでたおやかな笑みを浮かべていた。
「昨日ぶりね、箕形くん」
「はあ、どうも――あれ、なんで、こんなところに?」
「おや、知り合いですか?」
学長が珍しく笑みを引っ込めて意外そうな顔をする。
アリスさんはなんだか意味深に笑って、
「先生の手の速さには敵いませんけど、わたしも結構手は速いほうですから」
「はっはっは、それはそれは――どうぞ、箕形くん、座ってください」
「はあ、失礼します――あの、このきれいなおねーさんは?」
「大宮亜莉子くんといって、わが校の卒業生なんですよ」
「卒業生ですか。なるほど、それで昨日も学校に。おれもその時代に在学したかったなあ」
「あら、本当に?」
アリスさんはくすくすと笑う。
それから、ちょっとかしこまったように立ち上がり、鞄から名刺を取り出しておれに渡した。
「あ、どうも、こっちは名刺もなくて――」
「学生だものね。それに音楽家で名刺を作ってるひとはあんまりいないわ。わたしは個人的な趣味で作ってるけど」
それはなかなか凝った名刺で、音符やら指揮棒やらが描かれているなかに、しっかりと漢字で大宮亜莉子と書いてあった。
きっと読み方を先に教わっていなければ読めなかったにちがいないが――。
「あれ――なんか、見覚えがあるような」
「ああ、それはこれではありませんか?」
学長は皐月祭のプログラムをひらひらと振った。
それで、はっと思い出す。
たしかにそうだ――おれはプログラムで、その変な名前を見ていた。
たしかおれが出る会場、つまりメインステージのところに、指揮者として載っていたような。
名刺には、指揮者という文字はなかったが、代わりに、
「なんですか、これ……こ、こん、こんでく……」
「コンダクター」
「そう、それです、こんだくたー」
「指揮者ってこと」
「ああ、やっぱり――じゃあ、大宮さんも皐月祭に?」
「ちがうでしょ、箕形くん。大宮さんじゃなくて、アリスさん、でしょ?」
「うっ……」
アリスさんはきれいなおねーさんというだけではなく、色っぽいおねーさんでもあった。
「大宮くんは、いまや世界でもっとも人気がある指揮者ですからね」
と学長はいつもの笑顔で注釈を入れる。
「卒業生として、ぜひ出演していただこうと思って無理にきてもらったんですよ。本当なら忙しくて、これだけ長い期間はなかなか日本にはいないのですが」
「はあ、そんなすごいひとなんですか」
とはいえ、すごい指揮者だ、といわれても、いまいちぴんとこないおれではあった。
なにしろ、おれはほとんど指揮者つきの演奏をした経験がない。
昔――聖歌隊をはじめたときは教えてくれる先生が指揮者の役割をしていたが、本番では先生はオルガンで伴奏を弾いていたし。
カルテットではもちろん、指揮者なんていない。
それにおれたちの場合ほとんど即興というか、その場の流れで演奏する内容を決めていたから、指揮者がいてもなんの役割もできないにちがいない。
一応、若草先生から指揮者の役割については聞いていたが、印象にあるのはオーケストラの前に立って腕を振っているおじさんで、アリスさんのような若くてきれいなおねーさんがやっているというイメージはまったくなかった。
「指揮者って、結構おじさんっていうかおじいさんっていうか、そういう印象があったんですけど、アリスさんみたいなひともいるんですね」
「指揮者の世界は音楽のなかでも独特だからね。言ってみれば、映画監督みたいなものよ。映画監督でもよく宣伝されるのはベテランのおじさんとかおじいさんでしょ?」
「おー、なるほど。なんとわかりやすいたとえ」
おもしろい子ね、とアリスさんはくすくす笑う。別におもしろいことを言ったつもりはなかったのだが。
「それで――あの」
とおれは本題に入る。
「もしかして、おれ、なんか悪いことでもしました?」
「悪いこと?」
アリスさんは首をかしげたが、すぐ明るく笑った。
「ちがうちがう、お説教のために呼び出されたわけじゃないのよ。それともなにか心当たりがあるの?」
「い、いやいや、ぜんぜんないです、ほんとに」
「弁解するならこっちを見たら?」
「アリスさんが美しすぎて、見たら石になっちゃうんで」
「あら、そんなに怖くはないと思うけど」
たしかに、アリスさんはどちらかといえばやさしげな雰囲気のお姉さんだった。
長い黒髪で、目元も優しそうな、ロングのワンピースや和服が似合いそうな、休日の昼下がりはおしゃれなテラスで紅茶でも飲んでいそうな雰囲気のひとだから、そんなひとがタクトを振っているというのはいまいち想像できなかった。
「悪事がばれたんじゃ――いや、ちがう、そういうことじゃないなら、なんで呼ばれたんでしょう?」
「それはね――」
アリスさんはちらと学長を振り返った。
学長はうなずき、いつもの笑顔で言う。
「箕形くん――外国に興味はありますか?」




