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第四話 1

  1


 八月も残すところあと数日ということになった。

 もちろんまだ夏の盛り、空は遠く青く、吹き抜ける風まで熱い。

 蝉しぐれも止む気配はないし、毎夜熱帯夜で寝不足気味ではあるものの、若者たちは今日も元気だ。

 ――皐月町音楽学校では、数日後に控えた皐月祭に向け、着々と準備が進んでいる。

 準備が進みはじめてようやくわかったことだが、これは単なる学園祭という規模ではなく、町を上げた一大音楽イベントになるらしい。

 町にはさっそく無数の幟が立ち、大々的に宣伝が打たれ、県内はもちろん、他県からの集客も多く見込んでいる。

 音楽はもちろんクラシックを中心としたものになるが、クラシックのイベントとしては国内最大規模で、日本中からクラシックファンが集まり、外国でさえコアなファンなら「メイ・フェスティバル」で通じるほどの大掛かりなイベントなのだ。

 町へ出れば、もういくつかのステージが設営されはじめている。

 メインとなる会場は市のホールだが、それ以外にも野外の会場がいくつかあり、プロアマ問わず古今東西から音楽家が集まってくることになっていた。

 ――まさか、皐月祭がそれほど大規模なイベントだとはつゆ知らず、八月の二十日をすぎてものんびりとした日々を送っていた箕形晴己は、にわかに騒がしくなりはじめた町の様子を見て驚いていた。


「おれはてっきり、学園祭規模なんだと思ってたよ。生徒で屋台とかやってさ。お化け屋敷とかあって」


 校内の庭で、あっという間に溶けていくソーダアイスを慌てて食べながら晴己が言うと、そのとなりで練乳アイスを食べているユリアはふふんと笑って、


「あたしは知ってたけどね。去年も見たし」

「ぐっ……だったら教えてくれよ。おれ、昨日商店街のおっちゃんに聞いたんだぞ」

「まさか知らないとは思わなかったから。まあでも、考えてみれば六月に入ってきたばっかりだったら、そりゃあ知らないわよね」

「そりゃあ知らないさ。乙音は知ってたのか?」

「え、うん、わたしも去年と一昨年、見てたから」


 乙音は芝生の上でも足を横に流して座り、なんとなく品があるような仕草で抹茶アイスを食べていた。

 ごろんと寝そべっている晴己は高い空を見上げて、その日差しの強さに顔をしかめる。


「なんだよ、ふたりとも知ってたのか。学園祭だと思ったのにな。お化け屋敷とかさー」

「お化け屋敷にこだわるのね。屋台なら皐月祭にも出るわよ。生徒がやるんじゃなくて、本職のひとたちがやるやつだけど」

「いや、屋台なんかどーでもいいんだよ。問題はお化け屋敷さ」

「そ、そんなにお化けが好きなの?」


 乙音が理解できないというように顔を引きつらせる。

 晴己はもちろんさと言って、


「お化け屋敷っていうのはめくるめくファンタジーなんだよ」

「お、おば、お化けでしょ? 怖いよ、そういうの」

「ばかだなあ、乙音。お化けが怖いのは当たり前だ。おれもひとりじゃ絶対入らねえ。でもな、女子といっしょに入ることを考えてみろ。お化けにびびった女子が抱きついてきたりなんかしちゃって、入ったときは普通なのに、出ていくときは手なんかつないじゃったりなんかして!」

「ばかはあんたでしょ」


 ユリアは冷たく言い放ち、食べ終わったアイスの棒を歯に咥えた。


「そんなばかなことばっかり言ってるひま、ないわよ。皐月祭まで一週間切ってるんだから、本格的に練習しないと」

「だよなー、おれもそう思う」


 晴己も寝そべったまま、木の棒を上下にひょこひょこと動かしていた。

 皐月祭まで、正確にはあと四日しかない。

 ここまで迫れば準備も本格化するというもので、近ごろでは学生たちもどこか浮き足立っているようだった。


「まあ、学生のなかで演奏するんだったら、前にやった感じでもいいと思うんだけどなー。お得意の即興でさ」

「お得意っていうか、それしかできないとも言うけどね。どこかのだれかさんが楽譜を読めないせいで」

「うっ……よ、読めるよ、一応。すらすらは読めないだけだ」

「それを読めないっていうのよ」

「それに一曲くらいならなんとか覚えられるよ」

「丸々二、三十分、覚えられる?」

「……たぶん。がんばれば。おれ、昔からやればできる子って言われてたし」


 ユリアはいつものようにため息をつく。

 ――たしかに、時間はもうほとんど残されていない。

 しかし一方で、まだ練習をはじめられない理由もあった。

 晴己たちはカルテットとして皐月祭に出ることが決まっている。

 しかしいま学校にいるのは晴己、ユリア、乙音の三人だけで――要するに、ひとり足りないのだ。


「アル、いつ帰ってくるんだろうな」


 晴己はぽつりと呟いた。ユリアは空に視線をやりながら、


「皐月祭までには帰ってくるって言ってたけどね。あんた、連絡取ってないの?」

「いや、それがさあ、国際電話ってなんか怖いじゃん? 突然英語で話しかけられたりしたらびびるじゃん?」

「まあ、ねえ――」

「そもそもアルんちの電話番号わかんないし。アルにかけて、親父さんが出たらどうする? 日本語通じないぜ、たぶん。それに、アルのことだからちゃんと皐月祭までに帰ってくると思う。待ってりゃ、明日か明後日には帰ってくるよ」


 だといいけど、とユリアは言って、傍らに置いたヴァイオリンケースを持ち上げた。

 蓋を開け、ヴァイオリンを取り出し、きゅっとあごに挟む。

 弓をわずかに傾けて、はじめから容赦のない高音だった。

 弦が切れるのではないかと思うほど激しく高音が鳴り、そこから階段を転がり落ちるように低音へ移動する。


「ユリア、なんかいい感じの曲、弾いてくれよ」

「いい感じってなによ?」

「なんかこう、穏やかな雰囲気のやつ。おれ、昼寝するから」

「なんであんたの子守唄を弾かなきゃいけないの――」


 ユリアの言葉を無視して晴己が目を閉じると、ユリアはにやりとして、わざと穏やかな旋律をやさしく奏でた。

 そうして晴己を油断させた瞬間、悲鳴のような不協和音を鳴らす。

 晴己はびくりとして身体を起こし、ユリアをむっとにらんだが、ユリアは心底楽しそうにけらけらと笑った。


「ひとの演奏を聞きながら寝ようとするほうが悪いのよ」

「ちぇ――よくクラシックのコンサートは眠れるっていうけどな」

「寝るほうも悪いし、寝られるような演奏をするほうも悪いわ。あたしのコンサートだったら絶対に観客はひとりも寝かせないけど」

「ユリアだったら、そうだろうなあ……寝てるやつを見つけたら速攻で叩き起こしそうだ。うう、怖い怖い。その点、乙音はあれだな、やさしいから、寝てるやつを見つけたら邪魔しないように静かに弾きそうだな」

「え、そ、そうかなあ」

「ねえ、それ、あたしがやさしくないみたいに聞こえるけど?」

「え? まさか自分がやさしいと思ってるんじゃ――いやあ、ないない、それはないよ、ユリア。あっはっは――いてっ、む、無言で蹴るか?」

「よかったわね、あたしの両手が楽器で塞がってて。そうじゃなかったらいまごろ無数の引っかき傷ができてるところだわ」

「猫かよ。猫なら部屋にいるからもう充分だって」

「そういえば、シュバルツちゃん、元気?」


 乙音はにっこりと笑う。反対に晴己はいやそうな顔をして、


「あー、元気元気。だいたい昼間も夜も寝てるけど、元気だよ。でもあいつ、基本おれのこときらいだからな」

「そうなの?」

「そうなんだよ。あいつさ、この暑いのに、夜中になったら絶対おれの身体の上に乗って寝るんだぜ。で、なんかに押しつぶされる夢を見て目が覚める。こいつのせいか、と思って退けるだろ。そしたら怒って引っ掻いてくるんだよ。まったくわけがわからん」

「きっとそれ、晴己くんのことが好きなんだよ。離れたくないんじゃない?」

「それなら、おれに嫌がらせしたくてたまらないんだと思うけどな。アルが帰ってるあいだはおれが餌もやってるのに、起きてるあいだはまったくなつかないし」

「まあ、猫は自由だから――でも本当にきらいなら、近づかないと思うなあ」

「いやあ、猫の考えてることはわからん」


 諦めたように晴己が言ったとき、庭の中央にある噴水を迂回してこちらに近づいてくる人影を見つけた。

 それはこの学校の教師、若草雪乃で、三人のほうへとことこと近寄ってくると、だらけきった様子なのを見てため息をついた。


「あなたたち、皐月祭が近いのにずいぶん余裕なのね」

「余裕っていうわけじゃないですけど、まあ、この人数じゃ練習のしようもないですし」


 晴己は起き上がり、この気温でもぴしりとスーツを着ている雪乃を見て暑くないのかと首をかしげた。


「カルテットはまだ揃ってないみたいだけど、三人でもできることはあるんじゃないかしら。まあ、あなたたちがそれでも大丈夫っていうなら、大丈夫なんでしょうけど」

「でも、先生」


 ユリアはヴァイオリンを持ったままじっと見つめ、挑戦的に笑った。


「学生のステージなんでしょう? だったら、練習なしでも圧倒してあげますよ。すくなくともあたしは、だれにも負けませんから」

「音楽は勝ち負けじゃないと思うけどね」


 と雪乃は大人の余裕でさらりと受け流し、改めて晴己を見る。


「あなたたちを探してたのよ。寮にいるかと思ったら、だれもいないから――そしたらヴァイオリンの音が聞こえてきてね。あんな音を立てるのはユリアだけだと思ったら、正解だったわ」

「そうだ、こいつ、ひどいんですよ、先生。おれが安らかに眠ろうとしたら、突然ひどい音出して」

「寝ようっていうほうが悪いのよ」

「これだけ天気がいいんだぜ? そりゃ昼寝するだろ」

「こんな日が当たるところで? あっという間にまっ黒になるわよ。あたしはそれを助けてあげたようなもんなんだから」

「はあ……乙音、大変ねえ、このふたりといっしょだと」


 深く実感を込めて雪乃が言うと、乙音もこくりとうなずいた。


「いやいや、そこでうなずいちゃだめだろ、乙音――で、先生、おれたちを探してたって、なんか話があったんですか?」

「そう、そのことなんだけど――八月の三十一日に皐月祭があるのは知ってるでしょう。校内はそうでもないけど、外ではもう準備も本格化してるし。それで、当日あなたたちもそこに出ることになってると思うけど、そのステージをまだ教えてなかったと思ってね」

「ステージ、ですか。そういや聞いてなかったな。おれ、野外がいい」

「いやよ、野外なんて」


 ユリアは本当に心底いやそうな顔で首を振る。


「こんな時期の野外なんて地獄よ。暑いし、うるさいし。しかも野外は音響的にもよくないわ。全部音が抜けていっちゃう」

「えー、野外のほうがいいって。なんたって開放感があるだろ。外で歌えるなんて最高だ」

「じゃあひとりで歌ってれば?」

「むう。乙音も野外がいいよな?」

「野外なんか絶対にいやよね?」

「え、あ、あの、わ、わたし」


 はあ、と雪乃はまたため息。


「安心して、ユリア。あなたたちのステージは野外じゃないわ」

「えー」

「ちゃんと音響設備があるホールよ。試験にも使ったホール、あったでしょう。あそこの舞台に出るから」

「あー、あそこか」

「ちょっとちいさいけど、たしかに音響は悪くなかったわね」

「あのホールは、うちの学校が出資して作った、クラシックのコンサートに特化したホールだからね。それを市が買い上げたの」

「へえ、そんな裏側が……」

「で、当日のプログラムもだいたい決まったから、あなたたちにも渡しておくわ」


 雪乃はごそごそとポケット探り、縦長のしっかりしたプログラムを三人に手渡した。

 三人はぱらぱらとそれをめくり、大小様々なステージがあることを確認する。

 町の簡略化された地図上に、野外ステージは全部で三つあった。

 そのうちふたつは応募があったアマチュア演奏家のためのステージで、残りのひとつは皐月町音楽学校の生徒によるステージ。

 生徒のステージのほうは注意書きがあって、曰く、


『このステージは選曲、演出、進行をすべて生徒が担当いたします。拙い部分もございますが、なにとぞご寛恕いただきますようよろしくお願いいたします』


 ということらしい。

 それはそれでおもしろそうだと晴己は思うが、これは野外ステージで、晴己たちが出るステージではなかった。

 では、市民ホールはどんなステージになるのかといえば。


「……はい?」


 市民ホールは皐月祭のハイライト、すなわちメインのステージとなるらしく、出演者一覧を見るだけではわからないが、その肩書まで読んでいくと、とてつもない面子が集まっているとわかる。

 やれ有名オーケストラの指揮者だとか、様々なオーケストラとの共演経験があり、世界中で二百万枚以上のCDを売り上げているヴァイオリニストだとか、国際コンクールで軒並み優勝を獲得しているピアニストだとか、現代最高と呼ばれるバリトンの声楽家だとか。

 その筋の人間が見れば、よくこれだけの人間が一箇所に集まったものだとうならざるを得ないラインナップなのだ。

 それがずらりと時間順に並び、最後の最後、つまり大トリの部分にぽつりと、


『皐月町音楽学校の生徒によるカルテット』


 そう書いてあった。

 それはつまり、プロ、しかも世界最高峰のプロたちのなかに学生が混ざるどころか、その大トリを、もっとも注目を浴びて満を持しての登場となる大トリを担当するということで。


「じゃ、練習がんばってね」


 雪乃は渡すものだけ渡すと、くるりと踵を返して校舎のほうへ戻っていく。

 その背中が見えなくなったあたりでようやく、


「いやいやいやいやいや!」


 と晴己が叫び出したのも、無理はないことだった。



  *



 非常にまずいことになった。

 たぶん、これ以上にまずいことは、この先の人生でも起こらない気がする。

 皐月祭まであと五日。

 しかも出演はメインのステージで、名前はよく知らないけれども、なんかすごそうなプロのなかに混じって演奏することになったらしい。

 だというのに、おれたちはといえば、まだなんの練習もできていなかった。


「やばい、これはやばいぞ。どうする?」

「どうするって言っても――」


 さすがにユリアも眉をひそめ、プログラムをじっと見下ろしている。


「あと、五日でしょ? いまさら練習しても大したものはできないわよ。こうなったら開き直って完全即興でいくとか」

「いや、でも、まわりはみんなプロだぜ? そんな演奏、笑われるくらいならいいけど、怒られたらどうする?」

「怒られてもやるしかないじゃない。それともなんかまともに演奏してみる? カルテットなのに三人しかいないし、時間は五日しかないし、そのうちひとりは楽譜が読めないけど」

「うっ……そう言われると、なんかやっても無駄なような気がしてくるけどさ」


 おれとユリアでさえこうなっているのだ、乙音もさぞ混乱しているだろうと目を向けると、乙音はじっとプラグラムを見つめたまま、動かなかった。


「おい、乙音、大丈夫か? 機能停止したのか?」

「え、あ、うん、大丈夫……なんか、聞いたことある名前ばっかり書いてあるなあって。しかもその最後に自分の名前が書いてあって――あはは、わたし、夢でも見てるのかな?」

「し、しっかりしろ乙音! それは夢じゃないぞ、正気に戻るんだ!」

「あの学長、やってくれるわね」


 ユリアはプログラムをきゅっと手のなかで潰して、学長がいるであろう校舎をにらんだ。

 もともとが美人なだけに、怒った顔は本当に怖い。


「きっと、はじめからこのつもりだったのよ」

「このつもりって?」

「プログラムはもっと前から決まってたはずでしょ。なのにこんなぎりぎりになるまであたしたちに知らせないなんて、あの腹黒い学長の差し金としか思えないわ」

「う、た、たしかに」


 学長のにこにことした笑顔が脳裏に浮かぶ。

 悪いひとには見えなかったが、かといって見た目のとおりのいいひととも思えず、たしかになんとなく怪しい雰囲気があるじいさんだった。


「とにかく、五日後に向けて急ピッチで進めるしかないわ。すぐに楽譜を漁ってなにかいい曲がないか調べてくる」

「でも、ユリア、アルはどうする?」

「五日後には間に合うでしょうから、そのあいだに徹夜でみっちり練習してもらうしかないでしょうね」


 ユリアはにやりと笑った。

 言いようもないくらいサディスティックな笑みで、ぞくりとしてしまう。

 ユリアはそのまま楽譜がある図書室へ向かって、乙音もふらりと立ち上がった。


「わ、わたしも練習しなきゃ……」

「おい、大丈夫か、乙音?」

「だ、大丈夫……いまから緊張して、ふるえちゃうけど」

「それは大丈夫とは言わないんじゃないか?」


 しかし気持ちはわかった。

 練習でもなんでも、自分の楽器に触れていなければ落ち着かない気持ち。

 乙音はふらふらとおぼつかない足取りでピアノがある校舎へ入っていく。

 おれはといえば――楽器は、自分の喉しかなかったから、別にどこへいく必要もなかった。

 芝生に座ったまま、自分の声はプロのなかにあっても通用するだろうか、とふと考える。

 夏休み前、ほんの数回だが、声楽科の授業に出たことがある。

 そのとき、おれははじめて自分以外の声楽科の生徒を見た。

 発声をちゃんとするとか、歌う技術みたいなものはおれよりも当然うまくて、とても授業にはついていけないくらいだったが、その場では――自分の声がまわりに比べて劣っているとは、思わなかった。

 たぶん、声には善し悪しなんてなくて、突き詰めれば好みの問題にちがいない。

 そういう意味でいうと、おれは自分の声がそれほど嫌いではないらしい。

 みんなも深みがあるいい声だったけど、なんとなく、だれが歌っても同じように聞こえてしまうのだ。

 授業中、教えられたことがちゃんとできているかひとりずつ歌う機会があったのだが、そのときは目をつぶっているとだれが歌っているのかわからないくらい、全員の声の響きは似ていた。

 ――若草先生曰く、それは声の完成に近づいているからだ、ということらしい。

 つまり理想とする声があり、そこへ向けてみんな進んでいくから、必然的に発声やテクニックが上達すればするだけ、声は似通っていく。

 理想の声に近づく、ということだ。

 そのへん、おれはそうした理想に向けて練習したわけではない自然の声だから、ほかのみんなとはちがうのだとか。


「どちらが正しい、という問題ではないわ。練習ももちろん大事だし、発声も絶対に必要なもの。でも――みんながみんな同じじゃおもしろくないのもたしかよ。あなたは、あなたがいいと思うふうにすればいいわ。あえて完成した声に近づける必要はない。いまのあなたの声は、なによりも強い武器なんだから」


 若草先生はそう言ってくれて、その場では納得したおれではあったが。

 いざ、本物のプロと同じステージでやるとなったら、心もとなかった。

 おれには練習やテクニックの後ろ盾がない。

 自分を信じられるだけの苦労をしていないから――本当に、ただなんの根拠もなく、自分の声を信じるしかないのだ。


「――プロ、か」


 将来、声楽家になる、という明確な目標があるわけではない。

 ただ、それを考えるひとつのきっかけにはなりそうだった。

 おれは一度深呼吸をして、抜けるような青空に向かって歌う――自分の声をもう一度信じるために。

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