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第三話 11

  11


 パーティーの日の夜。

 昼間の遊び疲れもあったのか、時計の針が十時を回るころには晴己たちはそれぞれの部屋に退散し、すでに照明も落としてベッドに入っていた。

 アルも身体は疲れていたが、心はまだふわふわと浮いているような、なんともいえない興奮のなかにいた。

 音が、まだ頭のなかで鳴っている。

 自分自身の旋律と、その背中を押すようなほかの音色――まるで魔法にかかったようなひとときだった。

 自分の意識とは関係なく音楽的なアイデアが浮かんできて、それがそのまま旋律として反映されるような、いままで経験したことのない感覚だった。

 それはただひとりで無我夢中になって弾いていても経験できないものだろうとアルは思う。

 ほかに音色があり、その旋律から着想を得て、また新しい旋律ができる。

 それを繰り返すことで即興の音が積み上がっていくのだ。

 そしていつしか譜面とは遠く離れた場所にいる――自分がそこまでほかの楽器を引っ張ってきたのだと気づいたのは、演奏が終わってずいぶん経ったあとだった。


「――ねえ、ハルキ、起きてる?」

「んー?」


 眠たげな声が暗闇から帰ってくる。


「今日の演奏、楽しかったね」

「あー、楽しかったなあ。最後はなんでか知らないけど合唱になったしな」

「うん――きっと、みんな楽しかったんだね。だから歌いたくなったんだよ。その気持ち、よくわかるな」

「たしかにな。なんか音が鳴ってると、いっしょに歌いたくなるよな」

「――ねえ、ハルキ」

「ん?」

「ぼくさ――やっぱり、イタリアに帰ろうと思うんだ」

「――ん、そうか」

「で、夏休み中にまたこっちに帰ってくる。ちゃんと親にもぼくのことを話して、楽器職人としてじゃなくて、演奏家になりたいって伝えて――ちゃんと許してもらってから、もう一回学校に戻ってくるよ。今度はなにかから逃げるために演奏するんじゃなくて、ちゃんと自分の人生をかけてやろうと思う。そしたらさ――また、カルテット組んでくれる?」

「なに言ってんだよ。カルテットは、一時的に休止するだけだろ? また帰ってきて再開すりゃいいんだ――それに夏休み開けは皐月祭もあるしな。その練習もぼちぼちはじめないと間に合わなくなる」

「うん――そうだね。楽しみだね、どんな舞台なのか」

「そうだなあ。まあ学生の出し物だから、このあいだの試験とおんなじような感じかもな」

「もしかしたらめちゃくちゃでっかい舞台かもしれないよ」

「あー、プロとかもいっぱいいちゃうような?」

「そうそう。学生はぼくたちだけでさ」

「いやー、ないない。さすがにそれはないって」

「だね。もしそんなことあったら、プレッシャーで大変だ」

「ほんとにな。ユリアなんかは逆に燃えそうだけど」


 ふたりはくすくすと笑って、それからもしばらく他愛ない話を続けた。

 それがどちらからともなく途切れ、やがて眠って――夜は更けていった。



  *



 皐月町音楽学校の第一校舎、その一階にある学長室で、学長はぱらぱらと書類をめくっていた。

 学校はいま、夏休み期間中である。

 だからといって教員まですべて休みというわけにはいかず、夏休み中でも仕事は山積みになっている。

 とくにこの学校では生徒の派遣を積極的に行なっているから、その報告も夏休みには関係なく毎日飛び込んでいた。

 ――今日も、学長室の扉がノックされ、若草雪乃が入ってくる。


「学長――先ほど箕形晴己以下四名が無事に戻りました」

「そうですか、事故もなく済んでよかったですね。先方からは?」

「すでに連絡があって、非常に満足できたということです」


 ふむと学長はうなずき、書類をめくる。


「彼らにはすこし早いかとも思いましたが、行かせてよかったですね。皐月祭へ向けて外の人間と触れ合うことも大事ですし」

「はい――それから、皐月祭の大まかなスケジュールと出演者に関してですが、やはり卒業生の多くは多少無理をしてでも戻ってきてくれるようです。いま、ウィーンで活動している指揮者の大宮亜莉子、ヴァイオリニストのブノワ・パニスなどもメインの会場での出演を了承しました。外部からもいくつかの交響楽団と合唱団から返答をいただいて、出演には問題ないそうです。それから、毎年と同じように各楽器メーカーからの提供も受けられるようですし、屋台などの申請もすでにたくさんきました」

「ふむ、今年の皐月祭も問題なく進行できそうですね」

「はい。それから――例のカルテットの出演順ですが、例年通り、メイン会場の大トリということでよろしいですか」

「かまいません」


 にこにこと笑いながら学長は言った。


「毎年、現役の生徒から一組だけ、錚々たるメンツが揃うメイン会場の大トリをさせていますからね。今年もそれに従って、彼らに――箕形くんたちにやってもらいましょう。経験の浅い彼らには多少荷が勝ちすぎるかもしれませんが」

「多少、でしょうか」


 雪乃は呆れたようにため息をつく。


「世界最高の音楽家たちのなかに放り込まれた学生の気持ちは、一度経験しなければわかりませんよ」

「みんな、毎年緊張しますからねえ。でも、だからこそおもしろい。音楽というのは心の奏でる音ですから、心が揺れれば、自然と音楽も揺れる――プロになれば絶対に失敗できない舞台ばかりを踏まなければなりません。今回失敗すれば、次回はない――そんな重圧のなかで音楽を奏で続けるのですから、学生のうちから重圧慣れしておいたほうがよいでしょう」

「まあ、それはそうかもしれませんが――重圧に慣れるか、それとも潰されるか」

「大丈夫ですよ、きっと」


 気楽とも言えるくらいに明るく学長は言って、書類にぽんと判子を押した。

 ――なにも知らない四人を後目に、状況はどんどんと進行しているのである。


   続く

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