第三話 10
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閉館パーティーはペンションの食堂で行われることになっていた。
晴己は、自身の練習が終わると食堂の飾り付けも率先して手伝い、閑散としていた食堂はあっという間にパーティー仕様に切り替わる。
この場では客やオーナーという立場はあまり関係ないらしく、例の四人組も料理や飾り付けを手伝い、全員でパーティーの準備を終わらせた。
パーティーの主役は、いってみればこのペンションそのものだった。
約二十年、この場所でいろいろな客を迎えてきたここも、今日でその役目を終える――オーナー曰く、取り壊しはせず、次の買取先を探すらしい。
もしそれが見つからなければ空き家ということになってしまうが、それでも取り壊して跡形もなくしてしまうよりはいいという考えだった。
パーティーは午後五時からはじまった。
テーブルには豪華な食事が並べられ、シャンパンも開けられて、二十年来の客四人とオーナー夫妻、計六人の親しい思い出話が交わされる。
出会ったころは、全員が二十代だった。
それから約二十年、全員が四十代になり、それぞれに結婚もして、あのころとはちがう人生を歩んでいたが、こうして今年も顔を合わせることができたのだ。
「――まさか、あのころは二十年後にこうしているなんて思いもしなかったけど」
「そうそう。最初だって、別にここへ泊まるつもりできたんじゃなかったもんね。川遊びにきたら、突然雨に降られて」
「そうだったなあ。慌てて逃げ出して、オーナーに助けられたんだ」
「それから毎年欠かさずここへきて、二十年だもんな。早いような――それでも、長かったのかな」
「ずっとここにいる私からしてみれば、二十年前もさほど変わりませんよ。世間は変わっても、この場所はなにも変わりませんからね」
「ああ、たしかにそうかもしれない――ここへくると、二十代のころに戻った気もするし、なんだか自分だけ妙に老けこんでしまった気もする。なんだか、全部夢だったんじゃないかって」
「夢?」
「おれたちはまだ二十年前のあの場所にいて――二十年後、こうやってくだらない話をしてる夢を見てるんじゃないかってさ。で、夢から覚めてみたら、この場所も変わらないしみんな若いままなのに、おれだけ二十年分の年を取ってる」
「大丈夫、みんなおんなじように老けてるよ。もう中年もいいところだからな」
話は尽きない。
二十年のあいだに起こったことを話し尽くすには、同じだけの時間が必要にちがいない。
オーナーもこの二十年で起こった様々な出来事を懐かしげに話し、食事よりもシャンパンの減りのほうが早いくらいだった。
――やがて、ひと通り思い出話が済んだところで、
「そろそろ彼らに出てもらおうか。せっかくきてもらったんだし、あまり待たせてはかわいそうだ」
とオーナーが食堂の外へ呼びにいくと、ちゃんとした舞台衣装を着た四人の若者が食堂に入ってきた。
全員が拍手で迎えるなか、彼らは楽器を運び、定位置につく。
調律し直したピアノの前には乙音が、その左側にコントラバスのアル、右側にはヴァイオリンのユリア、正面には声楽の晴己が立った。
さらにオーナーはおまけとしてやってきたリサを食堂のなかに招き入れ、いっしょに客として楽しむように、笑顔で拍手をした。
晴己は指揮者のように七人の観客にお辞儀をして、ごほんと咳払いする。
「えー、本日はこのようなイベントに呼んでいただき、誠にありがとうごじゃいあす」
「噛んでんじゃないのよ」
後ろからユリアが小突くと、わっと笑い声が上がった。晴己は頭を掻き、また咳払いをひとつ。
「えー、ぼくらは皐月町音楽学校というところの生徒でして、かなり変な編成ではあるのですが、カルテットをやっています。今日はそのカルテットとして演奏させていただきますが――ちなみに昨日丸一日かけてピアノの調律をしてくれたのはそこにいるリサで、彼女なしでは今日の演奏はできませんでした。というわけでどうか盛大な拍手を」
「そ、そんなこと言わなくていいったら!」
恥ずかしがるリサにも拍手が送られ、アルはコントラバスを抱えたままけらけらと笑った。
「えー、このペンションができて二十年、ということですが、二十年前といえばぼくたちはまだ生まれていないころ。振り返ってみればいろんなことがありました。まず総理大臣がいっぱい変わって――」
「あんたの話はいいから、早くはじめるわよ」
「う、わかったよ――こういう口上も必要かと思ってさ」
「演歌じゃないんだから」
ぶつぶつ言いながら、ユリアはヴァイオリンをきゅっとあごに挟んだ。
軽やかに弓を振り上げ、後ろの乙音をちらと振り返る。
目線が合い、うなずきを合図にして、ユリアは弓を引いた。
ヴァイオリンの深く鳴くような声が響く。
それに合わせてピアノもすべるように流れ、コントラバスがいちばん後ろでしっかりと音を支えた。
ボロディンの四重奏曲第二番。
ユリアが個人的な好みで決めたものだが、穏やかな旋律はちょうどこの状況にも合っている。
とくにユリアが好きなのはヴァイオリンが情熱的に高音へ駆け上がっていく主題の後半で、そこまではあえて弦のふるえを押さえるように奏でた。
反対に高音へ駆け上がるときにはたっぷりとためを作り、軽やかに、力強く高音を放つ。
主題の提示が終わると、ようやく晴己の出番だった。
そこからはじまるわずかに音色が暗くなった反復がはじまるが、第一ヴァイオリンの旋律を奏でるのはユリアから晴己へと交代する。
先ほどヴァイオリンが奏でた音を、今度は人間の声が追っていく――それは音色のちがうふたつの楽器の競演で、ヴァイオリンは激しくうなり、晴己の声も負けじと高らかに鳴る。
乙音はできるだけ音を弦楽器に近づけるように実際の譜面の指示よりも音符を長く取り、中音を支え、その最低音を規則的にコントラバスが取り持った。
高音の反復が終わると、今度は低音で同じ旋律が繰り返される。
そこはアルの出番ではあったが、アルは譜面どおりに反復を終え、またすぐに低音へ帰った。
再び主旋律はヴァイオリンへ移動する。
晴己とユリアがそれを奪い合うように交互に奏で、五、六分ほどで第一楽章の終わりが見えてきた。
七人の客は、すでにその場を嵐のように動きまわる生の音楽に圧倒されていた。
とくに日頃、間近で楽器の演奏を聞く機会もすくないリサ以外の六人は目を見開き、会話どころかグラスを口へ運ぶことすら忘れているようだった。
――事前の練習から、第一楽章の終わりまでは比較的譜面のとおりに演奏し、そこから第一楽章の主題を使いながら即興へと流れこむ予定になっている。
事実、四人は譜面にある第一楽章の和声的な終焉を無視し、譜面にはないまっ白な平原へと足を踏み入れていた。
同じ調のなかでつなぎのような演奏を続けながら、だれが最初に飛び出すかと様子を見ている。
とくにアルは、だれが飛び出してもついていけるように、耳でも視線でもほかの三人を窺っていた。
自分の旋律を奏でながらも、もし晴己が飛び出すなら、もしユリアが飛び出すなら、と頭のなかで幻の音符を連ね、じっと待つ――アルは、自分には乙音やユリアのように、状況の変化にとっさに対応できるだけの能力があるとは思わなかった。
舞台があればだれよりも多く練習していなければ不安だし、舞台上での即興は、いつも自分が調和を壊さないか心配で仕方ない。
だから、シミュレートだけは欠かさなかった。
だれが飛び出してもしっかりついていけるように――このカルテットを壊さないように。
ただそれだけを考えていたから、アルは一分経っても二分経っても音が変わらないのに、内心首をかしげた。
普段ならユリアあたりが率先して飛び出し、ほかの三人がそれに引きずられて譜面の旋律から逸脱していくのに、今日のユリアはぴったりと決められた旋律を引いていて、まったく飛び出す気配がなかった。
晴己も、乙音も、まるで眠っているようにおとなしい。
――外で聞いている分にはそれまでと同じように奏でているようにしか見えないだろうし、聞こえないだろう。
ちいさな舞台上に立っている四人だけが感覚を共有し、その異様に平坦な音を響かせている。
アルは思わずユリアを見た――飛び出さないのか、と聞くように。
ユリアもアルに視線を向けたが、旋律は変わらない。
気づけば、晴己と乙音もじっとアルを見つめていた。
アルは自分が間違えているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい――三人とも、アルが飛び出すのを待っているのだ。
――それを最後に演奏をやめようとしているアルが、自由に音を奏でるのを待っている。
アルはぎゅっと唇を噛み、正しい旋律から外れていく。
自分に即興の才能があるとは思えなかったし、それですべての調和が乱れてしまうかもしれなかったが、それでも音楽を楽しむためにアルは自分が思うまま、指が動くままに奏でた。
コントラバスの低音に従って、すべての楽器の旋律が移り変わっていく。
それまでよく手入れされた庭園のように完成された旋律だったのが、より野性的な、草木が生い茂る生々しい旋律になる。
コントラバスの、身体の芯に響くような低音がそうさせていた。
ほかの楽器はそれに追随しながら、ときには高音へ跳ね上がり、ときには落ち着いてバスの音色を前に立たせる。
それは、一本の大樹だった。
コントラバスの太い音色が大樹となり、その周囲をピアノの蔦やヴァイオリンの小鳥が飛び回っている。
晴己は、もちろん曲に歌詞はないから、あくまでひとつの楽器として声を使い、その澄んだ音色でコントラバスの根本をしっかりと支えていた。
普段はしっかりとついていくことしか考えていないアルのコントラバスは、解き放たれたようにうねっていく。
アルは自分が奏でる音楽に呑まれながら、信じられない気持ちだった。
ただ楽器を奏でているだけでも楽しかったはずなのに、それがまるで抑圧されていたと感じるくらい、心が軽くなる――コントラバスの旋律に導かれ、ほかの楽器が動いていくことの心地よさは、胸が詰まるくらいだ。
音楽がこんなに楽しいなんて、アルはこの瞬間まで知らなかった。
仲間と音楽を奏でること、自分の旋律がだれかの手を引いて先へ進むこと――それが、こんなに心地いいことだったなんて。
アルは弓を動かしながら、涙が滲んでくるのを感じた。
こんなに楽しいのに、これはもう、最後の演奏になる。
あと何分か――そんなわずかな時間で、自分の音楽家としての一生は終わるのだ。
演奏家になる夢は諦めると決めたはずだった。
夢を見るのはもうやめにすると決めたはずだった。
でも――夢はこんなに輝いていて、まだやれる、こんなに楽しいんだから、とアルの目の前で叫んでいる。
才能なんて、なくてもいい。
夢は叶わなくてもいい。
ただ、もうすこし――いけるところまで、この仲間たちと進んでみたかった。
それが自分の人生にとってどれだけ遠回りになってもいい。
いま目を閉じてまっとうな人生を送り、死ぬ間際になって後悔するくらいなら、失敗して後悔したい。
この音が途切れてしまうまで――永遠に、夢は続いていくのだから。
*
カルテットの演奏は、七人分の精いっぱいの拍手で終わりを迎えた。
晴己が代表してお辞儀をして、顔を上げる。
それは晴れやかな笑みで――彼ら自身、この演奏を充分に楽しんだのだということが一目でわかった。
本来であればカルテットの出番はそれで終わりのはずだったが、客のひとりが晴己に目配せして、晴己は打ち合わせどおりにこくんとうなずいた。
四人は同時に譜面をめくり、ピアノの出だしを待つ。
ピアノが二曲目を奏ではじめたとたん、オーナーは驚いた顔でカルテットを見た。
流れてきたのは、耳慣れないクラシックではない――オーナーが若いころからずっと聞いてきた、ビートルズの有名なイントロ。
ギターとベースをヴァイオリンとコントラバスが担当し――ただメロディをなぞるだけにしては、ヴァイオリンの旋律は大胆に暴れがちではあったが――晴己がボーカルを取った。
「きみたち――こんな曲まで練習してたのか?」
オーナーは驚くやらなんやら、しかし最後にはうれしそうな顔になって、晴己といっしょになって歌いはじめる。
四人の客たちは、そのあいだにこっそりと食堂を出て、となりの部屋に用意しておいたプレゼントを持って戻ってきた。
「オーナー、二十年間お疲れさまでした」
「やあ、申し訳ない――なんだか自分で祝われる場所を用意したみたいで、ちょっと恥ずかしいですね」
「いやいや、この場所があったからこそ、ぼくたちもこうやって二十年も友人でいられたんですよ。どうか受け取ってください」
それはパーティーのハイライトで、最後にはなぜか全員でビートルズを合唱し、拍手と笑い声のなかでカルテットの出番は終わった。
晴己たちにとってははじめての「仕事」だったが、そのときのただ楽しいだけという音楽は、彼らにとっても貴重な財産と経験になっていた。




