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第一話 2

  2



 若草さんが学長と話しているあいだ、なんにもない廊下でぼんやり立っているのもなんだし、庭へ出ることにする。

 梅雨時にしては珍しく今日は天気がよくて、太陽はきらきらと輝き、そのきらきらが広い庭のいろんなところに散らばって、噴水や花壇を照らし出していた。

 ざあざあと流れる噴水を背に腰を下ろす。

 水が流れているせいか、ちょっと涼しくて、気分がいい。

 荷物を足元に下ろしてあくびをすると、ちょうど目の前を通りすぎようとしていたふたり組の女子と目が合った。

 女子ふたりはくすくす笑いながら去っていく。うう、油断してあくびするんじゃなかった。

 それにしても。

 あたりを見回していて思うこと。

 この学校には、外国人の生徒が多い。

 見かけたなかでは、日本人はだいたい半分くらいで、あとはいろんな人種の外国人だった。

 金髪碧眼もいれば赤毛の女の子もいたし、中国人らしい雰囲気の子や肌の黒い子まで。

 ありとあらゆる人種の人間が集まっていて、きっと彼らの共通点は音楽以外になにもないにちがいない。


「……なんか、すごいところにきちゃった気がするな」


 でも、まあ。

 庭を横切っている生徒たちはみんな楽しそうだから、きっとここでの生活も悪くないにちがいない。

 ――と、思った矢先。

 目の前をとぼとぼとうつむいて歩く女の子を見かけた。

 その子は小学生かと思うくらい小柄で、黒髪おかっぱの日本人、ほっぺたなんか大福みたいに白くてもちもちしていそうなのに、なんとなく悲しそうな顔でゆっくりと庭を横切っていく。

 女の子は左から右へ――寮のほうから校舎のほうへと歩いていって、そのまま悲しそうな足取りで校舎のなかに消えてしまった。

 なにか、悲しいことがあったんだろうか。

 そう考えてみればここの生活も大変そうだ――楽しいときに歌うのは気分がよくても、歌いたくないときにだって歌わなくちゃいけないんだろうから。

 おれはちょっと、その女の子の様子が気になった。

 でも校舎に入ってしまったから、それ以上追いかけることもできないし、と思っていると、校舎一階の部屋にくだんの女の子が現れた。

 たったひとりで、一台だけピアノが置かれた部屋に入ってくる。

 女の子は大きなピアノにちょっと視線を送って、まず部屋の窓を開け放った。

 それから、ピアノの前に座る。

 小柄なその子が座ると、なんだかピアノがやけに大きく見えて、とてつもない怪物に対峙しようとしているみたいだった。


「あの子、ピアノを弾くのか」


 磨きぬかれたグランドピアノ。

 まっ白の鍵盤に、女の子の丸っこい指が乗る。

 ぽん、と女の子は人差し指でミを鳴らした。

 そのまま、人差し指をすっと移動させて、ド。

 最後に下のソへいって、また上のミに戻る。

 それを何度か繰り返したあと、女の子ははあと息をついた。

 やっぱり、悲しそうな顔。

 鍵盤にしっかりとすべての指を乗せて、なめらかな指使いで音楽が流れ出す。

 グランドピアノの深い音は、ともすれば重たくなってしまいがちだけれど、女の子はそれを軽やかに弾きこなしていた。

 跳ねるような高音。それに従って足跡を辿る低音が高音に追いつこうとするけど、追いつけないまま高音が逃げていく。

 野原をぴょんぴょんと跳ねまわるうさぎのような音楽だった。

 なのに、物悲しい。

 メロディは明るくて楽しげなのに、なぜか悲しく聞こえてくる。

 それはきっと――ほんのちょっとずつ、テンポが落ちていくせいだ。

 はじめはすごく楽しげに跳ね回っているのに、すこしずつ元気をなくし、日は暮れ、草は枯れ、うさぎ自身も弱っていくような――ずるずるとテンポに引きずられてイメージが落下していく。

 落下が行き着くところまで行き着いてしまって、最後に連なりのない無意味なファが鳴って音楽は止んだ。

 それがあまりにも悲しく、かわいそうな音だったから――おれはつい、話しかけていた。



  *



「なんか悲しいことでもあったの?」


 まったく突然。

 開け放たれた窓の向こうからそんなふうに話しかけられ、小嶋乙音は背もたれのない椅子の上で文字どおり飛び上がった

 驚いて振り返ろうとすると、その拍子に椅子からずるりとすべり落ちてしまう。


「ふぎゃっ――」


 と声を上げて椅子の向こうへ落ち、乙音はそのまま椅子を盾にして窓のほうを見た。

 一階の部屋だから、窓の向こうにだれか立っていること自体は不思議でもなんでもない。

 開け放たれた窓からピアノの音が流れて、だれかがそれを聞いていても。

 ただ――なにか悲しいことでもあったの、なんて話しかけてくるのは、普通ではない。


「大丈夫? そんなにびっくりしなくてもいいのに」


 けらけらと笑っているのは男の子だった。

 同い年か、すこしだけ年上かもしれない男の子。

 日本人で、黒髪で、きらきらと光る目をしていた。

 そんな男の子が窓枠に腕を置いて、部屋のなかを見回している。


「なんか、昔の音楽室って感じだなあ」


 ――そんなありきたりな感想。

 乙音は怯えたまま、椅子の陰に隠れ、顔だけ出している。

 男の子の視線が乙音に戻ってきた。乙音は慌てて顔も隠し、ちいさな椅子の後ろに、見事に全身を隠してしまった。


「なんか、悲しいことでもあったの?」


 もう一度、男の子は言った。

 それで――ああ、このひとも音楽が好きなんだな、と乙音は理解する。


「あれ、なんて曲? もともとああいう曲なの?」


 乙音は小動物が水を払うようにぷるぷると頭を振った。

 もちろん、椅子の後ろに隠れているから、男の子には見えていないが。


「楽しそうな曲だったのに、ちょっとずつテンポが遅れて――最後には消えちゃったけど」


 ――それは。

 ただ気分に任せて指を動かしていたら、そうなってしまっただけのことで。

 意図したことではなかったし、曲に名前もない。

 その瞬間、乙音の気持ちを表現するためにだけ生まれ、次の瞬間には死んでしまった曲。

 もう役目を終えて、二度とだれにも弾かれなくなってしまった曲。

 ――だったはずなのに。


「こんな歌だったよな」


 男の子はそう言って。

 信じられないような美しい声で、乙音自身もう思い出せない曲を口ずさみはじめた。

 ピアノの鍵盤をぐっと押し込むときの、あの指先の感触まで再現するような、完璧な音の強弱とテンポ。

 まるで男の子の唇からピアノの音が紡がれているように感じられて、乙音は思わず椅子の上からひょっこりと顔を出し、男の子を見た。

 ぴょんぴょんと飛び回る音の粒は、はじめは調子よく跳ねているが、次第にゆっくりとテンポを落としていって、最後には墜落してしまう――男の子はそのテンポが落ちはじめる直前で歌うのをやめた。

 顔を覗かせた乙音を見て、男の子はにっと笑う。


「はじめまして」

「あっ――は、はじ、はじ――」


 舌がもつれる。

 頭がかっと熱くなる。

 なにも考えられなくなる。

 乙音はだれにも聞こえない声でもじもじとなにか言って、すぐまた椅子の陰に隠れた。

 男の子は明るく、惜しかったな、と呟いて、ひとりで笑った。

 その笑う声までなんだか軽やかで美しかった。


「きみ、名前は?」


 乙音は答えない。

 答えられない。

 その代わり。

 勇気を振り絞り、椅子に上って、男の子のほうを見ないようにしながら鍵盤に指を置いた。

 ぽろろん、とこぼれるようなアルペジオ。

 そこから連結されるか細くふるえるような高音のみのメロディ。

 緊張にふるえてはいるが、決して不快ではないメロディは、そのまま乙音の気持ちを表していた。

 ――結局、そんなメロディで肝心の名前が伝わるはずはなかったが、名前や挨拶よりもずっと顕著に乙音の気持ちは音として表現されていた。

 男の子はうすくほほえみ、瞼を閉じて、頭を左右に揺らしながら乙音のピアノを聞いている。

 メロディは高音から中音へ下り、すこしずつ力強さを取り戻して、親しみやすいいくつかの音形を作った。

 乙音は窓のほうを見ない。

 ずっと鍵盤に目を落としたまま、指先以外は動かない。

 触れ合うということのない、音での会話はしばらく続いて、唐突にひとの声で遮られた。


「ここにいたの、箕形くん」


 新しく聞こえてきた女性の声に、乙音は指を止めてすぐにピアノの蓋を閉じた。

 呼び止める男の子の声にも耳を貸さず、部屋を飛び出して、しばらく廊下を走ったところでようやく息をつく。


「――箕形、くん」


 あの男の子の名前。

 乙音は呟いて、すぐぶんぶんと首を振り、あたりを見回した。

 あの部屋に戻るわけにはいかないし、校舎から出たら出会ってしまうかもしれないし、かといって校舎のなかでほかに行く場所もないし――どうしよう、とため息をついて、開け放たれた窓から校舎の裏、すぐ近くに迫ったレンガ積みの壁を見つめた。

 もうしばらく、こうやっておもしろくもない壁を見つめているほかないようだった。

 乙音の耳は、校舎のあちこちから聞こえてくる音楽を聞き取っている。

 しかし意識に上るほどのものはなく、代わりに、あの男の子が口ずさんでいた、ほかならぬ乙音が作ったあの曲を思い浮かべていた。

 ぴょんぴょんと跳ねまわるような明るいメロディ。

 それはすこしずつ降下し、夏から秋へ、秋から冬へと落ちていくために用意された明るさだったが、改めてその部分だけ切り取って考えてみると、本当に底抜けに明るくて陽気なメロディだった。

 乙音はそのメロディが気に入った。

 自分で作ったメロディで気に入ったのは、生まれてはじめてのことだった。



  *



 怒られるのかな、と思ったけど、若草さんはなにも言わず、ただまたため息をついて、寮のほうへ歩き出した。

 もちろんおれもあとをついていく。

 噴水のところに置きっぱなしだった荷物も拾って、寮の入り口へ。


「あなた、意外に――ってわけでもないけど、ほんと、手が早いのね」


 古びた洋館のような寮に入りながら、若草さんはぽつりと言った。


「手が早いって?」

「さっそくピアニストをナンパ?」

「ち、ちがいますよう。ちょっと気になったから話しかけてみただけで」

「それをひとはナンパっていうんじゃないかしら。ま、別にどうでもいいけど、そういうことは常識の範囲内でね」


 なんだか誤解を生んでしまったような。

 でもまあ、ナンパといえばナンパだったのかもしれない。

 もしナンパだったとしたら、間違いなく失敗だ。

 なにしろ相手の名前さえ聞けず、逃げられてしまったのだし。

 ただ、失敗ばかりではなかった。

 あの子のピアノが聞けただけでも、声をかけた価値はあった。


「寮のなかは、また別のだれかに案内してもらえばいいけど、とりあえず簡単な説明だけしておくわ」


 若草さんは寮の玄関を入ったところで立ち止まった。

 洋館――というには大きすぎるような気もするが、そうとしか言えないような、これもまた古い建物だった。

 おそらく三階建て。

 左右にずらりと長くて、奥にもぬっと厚い。


「この寮には、全部で三百人くらいが住んでるわ。それでも生徒の半分もいないくらいで、奥にもうひとつこれよりもまだ一回り大きな寮があって、残りはそっちに住んでる。あなたの部屋はこの手前の寮だから、間違えないように」

「了解っす」

「それで、寮は基本的に二人か三人部屋。あなたの部屋はこの寮の二階、二一二号室よ。先に住んでいる生徒がいるから、仲良くね」

「二一二号室っと――覚えておかないとな」

「寮母にあたる住み込みの先生は、この寮の一階の角部屋よ。なにか寮のなかで問題があったときは、そこへ行くように。寮の一階にはほかにも食堂や売店があって、生活に必要なものは大抵手に入るようになってるわ。もし体調が悪くなったら、寮母さんに言って病院まで連れて行ってもらうか、お薬をもらうかすること。あとは――ああ、そう、あなたにはちゃんと注意しておかないと。この寮は右翼と左翼で男子女子に分かれてるの。男子は左翼側、つまり入り口から向かって左側ね。右側に入ったら怒られるくらいじゃ済まないから、そのつもりで」

「う、わかりました」


 じゃあそういうことで、と若草さんはくるりと踵を返した。


「あ、そうそう――忘れてたわ」

「はい?」

「これ、部屋の鍵」


 洋館の鍵だから、さぞかし骨董品めいたものなんだろうと思っていたけれど、受け取ってみれば普通の民家の鍵と変わらない。

 なんだかがっかりしつつ、ちゃんとポケットに入れておく。


「それから――」


 若草さんは寮を出たところで振り返り、何気ないふうに言った。


「わたし、あなたの専属教師になったから。とりあえずびしばし鍛えていくから、そのつもりでね」

「び、びしばし?」


 本来ならいやな響きだけれど。

 若草さんに言われると、なんだかぞくっとしてしまう。


「よ、よろしくお願いします、教官っ」


 おれが敬礼すると、若草さんはめんどくさそうに手をひらひらと振って歩いていった。

 本当にクールなひとだ。でもそこがいい。

 おれは寮の玄関に立って、左右を見回す。

 一階部分はどうやら右も左も共用になっているらしいが、二階以上で右翼側に入るととんでもないことになってしまうらしいから、注意しなければ。

 二階へ上がるための階段は玄関の奥にあった。

 校舎同様に木造の階段で、登るとぎしぎしと軋む。

 途中に踊り場があって、方向を変えて二階の廊下へ。

 二階の廊下は縦と横に伸びていた。

 寮の表側の部屋と裏側の部屋があるらしく、おれの二一二号室はどうやら裏側で、縦の廊下を通り、窓のない廊下を通った。

 部屋番号は、各部屋の扉に金色のプレートで記されている。

 二〇九号室、二一〇号室――二一二号室。


「ここか」


 ふう、と一息。

 なにしろこれからいっしょに暮らしていく同居人との初対面だ。

 人間、はじめが肝心というし、しっかりいい印象を与えなければ。

 深呼吸を終え、扉をノックする。

 木の扉に、こんこんと心地いい音。まるで楽器のようによく音が響く。


「……あれ?」


 しばらく待ってみても。

 部屋のなかからは反応が返ってこない。

 もう一度ノックしてもやっぱり返事はない。

 試しにノブをひねってみると、鍵はかかっていなかった。


「失礼しまーす」


 ぎい、と蝶番が軋んで、部屋のなかが見えてくる。

 あまり広くはない部屋で、窓もなかった。

 部屋の奥にはちいさな机がふたつ、壁際には二段ベッドが置かれ、なにより目についたのは、壁に立てかけられた大きな黒いケースだった。


「へえ――ここが、おれの部屋になるわけか」


 なるほど、なるほど。

 まったくもって。


「悪くないねえ」


 にやりと笑った――ときだった。

 にゃん、と後ろで甲高く鳴く声が聞こえた。

 かと思うと、


「つ、捕まえてくれ!」


 男の叫ぶ声。

 なにごとかと振り返った瞬間、黒いものが目の前にばっと広がる。


「わわっ――」


 生暖かいものが顔面を包み込み、視界がなくなる。

 それはがさごそとおれの顔にへばりついたまま暴れ、頭のほうへずるずると上がっていった。

 そこをぎゅっと掴んでみれば。


「……猫?」


 まっ黒な猫が、おれの手のなかにいた。

 その猫はにゃあとふてぶてしく鳴いて、おれの顔をにらみつけている。


「なにゆえ猫が?」

「おお、捕まえてくれたか」


 開け放ったままになっていた部屋の扉から、なんだかぐったりと疲れた様子の男がひとり、のそのそと入ってくる。

 背の高い男だった。

 赤茶けた髪の毛で、それがくるくるとカールし、額や耳元や後頭部で跳ねまわっている。

 見るからに日本人ではなかった。

 おれはどきりとして、猫を持ったまま、


「お、おー、さんきゅーさんきゅー。あいむべりーはんぐりー」

「いや、ぼくイタリア人だし、日本語話せるし。お腹空いてるの?」

「い、イタリアだと? い、イタリア語か――ぼんじょるの!」

「あー、ボンジョルノボンジョルノ」


 適当に言って、男はおれから猫を受け取る。

 猫はしばらくじたばたと暴れたが、逃げられないと悟ったのか、尻尾もだらりと下げて人形のように動かなくなった。


「ふう、ようやく捕まえられた。いやあ、長い戦いだったなあ」

「に、日本語を話してる!?」

「遅っ。さっきから日本語しか話してないけど――っていうか、きみ、だれ?」


 男は首をかしげる。

 くすんだ茶色い瞳が、じろじろとおれを覗き込んだ。

 その遠慮のない視線がなんとなく気に入る。このイタリア人、なかなかいいやつみたいだ。


「おれ、今日からこの学校の生徒になった箕形晴己。よろしく」

「あー、きみが箕形くんか。話は聞いてるよ。えっとぼくはイタリアからの留学生、アルカンジェロ・クレメンティ。アルって呼んでくれればいいから」

「アルだな、了解」

「ってことは、ぼくたち、今日からルームメイトになるんだね。よろしく」


 アルは手に黒猫を持っていたから、おれは黒猫の前足と握手して、アルと親交を深めた。

 猫のほうは心底からやる気を失ったようにぷらんとアルの手に抱かれて、半ば目も閉じている。なかなか野生では生きていけそうにない、だらけた猫だった。


「で、だ」


 二段ベッドの下段に座ったアルを見下ろし、おれは言った。


「その猫、なんなの?」

「ああ、これ? ペット」

「へえ、ペットか」

「今日からだけどね。っていうかさっき野良を拾ってきたんだけど、全然なつかなくてさ。さっきも寮中を走り回って大変だったんだよ。ばれたら寮母さんに怒られちゃうしさー」

「ははあ……またなんで、野良猫を?」

「ふふん、知りたいかい? これさ」


 アルは自慢げに笑い、一冊の雑誌を突き出した。

 受け取り、読んでみる。


『いま、動物好き男子がはやり! 女子は基本的にかわいい動物が好きなものである。だからこそ、同じ動物好きをアピールすることで女子の警戒を解き、「うちの犬、見にこない?」などと家への誘いも簡単になるのだ!』


 おれは雑誌を返し、アルの手を熱く握った。


「いい友だちになれそうだな、アル」

「理解が早くて助かるよ、ハルキ」


 おれたちはにやりと笑い合い、猫が呆れたように低くにゃあと鳴いた。



  *



 話を聞いていると。

 アルは今年十七歳、おれよりもひとつ年上で、十二歳でこの学校へ留学しにきたらしい。

 つまり日本滞在歴五年で、日本語もすっかり習得し、いまや漢字を見ても「ふうん」としか思わなくなったのだとか。

 留学の目的は、無論音楽。


「担当は、コントラバスだよ」

「コントラ、バス?」


 運転手か、という質問が喉元まで出てきたけれど、なんとか我慢する。さすがにアルがバスの運転手でないことはおれにもわかる。

 アルはベッドから立ち上がり、壁にかけられていた大きなケースを床に寝かせた。

 それをぱかりと開くと。


「おおっ、すげえ」


 深い茶色の、使い込まれた大きな弦楽器が現れる。

 それは人間の身長よりも背が高く、長身のアルでさえまっすぐ立たせれば後ろに隠れてしまえるほどだった。

 そんな大きさの楽器をしまうケースだから、当然ケースのほうも大きくて、空のまま置いてあると棺桶のようにも見える。


「でっけえなあ、それ」

「二メートルくらいあるからね。コントラバスを見るのははじめて?」

「うん、はじめて。ヴァイオリンとはちがうのか?」


 言ってから、ばかな質問だったかな、と思ったが、アルは強いくせっ毛の下で明るく笑った。


「実は、ヴァイオリンとはぜんぜんちがうんだよ。チェロって知ってるでしょ。これとよく似てるんだけど、大きさはコントラバスの三分の二くらいで、座って演奏する。チェロっていうのは基本的にヴァイオリンと同じ成り立ちで、ヴァイオリンやヴィオラより低い音を出せるように、ヴァイオリンを大きくしたようなものなんだ。でもコントラバスっていうのはヴァイオリンとはちがう道から発展した楽器でね――ヴァイオリンはこの胴体の上、肩みたいなところが張ってるんだけど、こいつはなで肩でしょ? それ以外にもちがいはいくつかあるんだけど」

「へ、へえ、すごいなあ、それは」


 本当は半分ほど理解できなかったが。

 とりあえず、なで肩、ということだけ覚える。

 アルは気にした様子もなく、明るい目でおれを見る。


「それで、きみは?」

「ん?」

「担当だよ。なんの楽器? なんにも持ってないところを見ると、ピアノかな?」

「ああ――いや、歌だよ、たぶん」

「声楽?」

「そうそう、それ」

「へえ、声楽かあ。前のルームメイトはヴァイオリンだったから、声楽のルームメイトははじめてだなあ。どんな練習するの?」

「え、えーっと、どんな練習するんだろう? おれもまだ、わかんないんだよなあ。正直、なんで自分がここにいるのかもわかんなくてさ。美人のおねーさんにのこのこついてきたら、こうなった」

「美人のおねーさん?」


 この学校へ通うことになった事情を説明すると、アルは深く納得したようにうなずいた。


「たしかに、美人のおねーさんに誘われたら、ついてくるよ」

「だろ。んで、気づけばいまここに立ってる」

「はあ、なるほどね。じゃあ、ハルキはすごく期待されてるんだね」

「そんなことないと思うけど」

「そんなことあるよ」


 思いのほか力強くアルが言ったことに、すこし驚く。

 アル自身も自分の声の強さに驚いたように目を見開き、ごまかすように笑った。


「ごめん――でもほんとに、きみは期待されてここにきたんだよ」

「うーん、そうとは思えないけどな。期待されるほどのことはできないし」

「でもここ、入学するためにはすごい競争率の試験を受けなきゃいけないからね。それも年に一回、十一歳から二十一歳までの人間が同じ条件で試験を受けるんだ。こんな時期に編入してくるなんて、前代未聞じゃないかな」


 そう言われると、なんだか自分が特別に選ばれてやってきたような気になる。

 本当はそんな大した話ではないのだろうけれど。


「試験、受けた?」

「いや――うちの学校にこないかっていわれたから、うんって言っただけだけど」

「それならいよいよすごいよ――よっぽど先生たちはきみの才能なりなんなりに惚れ込んでるんだね」


 アルはまるで自分のことのように朗らかに笑った。そうやって笑ってくれると、おれも救われた気分になる。

 音楽は楽しくやるのがいちばんだ、ということくらい、おれでも知っている。

 反対にいえば――楽しくないのに音楽をやる理由なんて、おれにはない。

 だから。

 おれがここにいられるかどうかは、おれがこの環境を楽しめるかどうかにかかっている。

 そういう意味でもアルがルームメイトでよかった。


「今度また、聞かせてよ。ぼくのバスもそのうち聞かせるからさ」

「りょーかい。でさ、さっそくで悪いんだけど、寮のこととか、案内してくれない? 一応簡単な説明は聞いたんだけど」

「いいよ、じゃ、行こうか。どうせシュヴァルツの餌なんかも買いにいかなきゃいけないし」

「おまえ、シュヴァルツって名前なのか」


 格好いいなあ、と言っても、その黒猫はベッドの上で丸くなり、尻尾をゆるやかに振っているだけだった。

 さっそくもうそのベッドを自分のもののように占領している。

 ――シュヴァルツというのが、ドイツ語で「黒」という意味で、あまりにも安易なネーミングだということを知るのはもうすこし先のことだった。


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