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第三話 9

  9


 朝になる。

 その日も晴天で、外出日和だった。

 ペンションに泊まっているのは二組、九人だけで、そのうち年長の四人組はどこにも出歩かず、ペンションのテラスや自室でのんびりとした時間を過ごしていた。

 若者のほうは、さすがにそれほどゆったりと時間を使えない。

 やることがないとなれば、彼らはすぐ川へ下りていって、川遊びをすることにしていた。

 ――表面上、彼らのだれにも、憂いはない。

 むしろ昨日よりも明るく、今日を遊び尽くすという顔でいた。

 晴己とアルはわざわざ持ってきたらしい巨大な水鉄砲を持ち、ひざ下まで川に入って戦争ごっこの続きをやっている。

 乙音やユリアはそれを眺めながら、足先だけを冷たい水につけ、ぱちゃぱちゃと水を跳ねさせていた。

 リサはといえば、なんとなく晴己たちのなかに入りたいような、しかし女子としてその輪に入るのはどうなのかと悩むような、ううとうなりながら川べりでぼんやりしていた。


「はっはっは、おれを越えられるかな、勇者アルよ!」

「くっ、魔王め、さすがに強力な武器を持っているな――しかしぼくも負けるわけにはいかないんだ! 行くぞ、魔王っ」

「はっはっは、どこからでもかかって――ぶふぁ! が、顔面はルール違反だって昨日も言っただろ! くそう、卑怯なり勇者、これでもくらえっ」

「ぎゃああっ、直に水しぶき攻撃はきついっ」


 川の真ん中あたりで水の掛け合いをはじめ、またたく間にTシャツから短パンまでずぶ濡れになる男ふたりを眺めながら、ユリアはため息をついた。


「相変わらず、あほねえ、あいつら」

「あはは……楽しそうではあるけど」

「えー、そう? 小学生じゃないんだから……まあ、乙音は見た目小学生ふうだから別に違和感ないけどね」

「しょ、小学生ふうじゃないもんっ」

「むしろリサのほうが大人っぽいくらいだし」

「そ、そんなことないったら――えいっ」

「きゃっ――」


 乙音が足を蹴り上げると、水しぶきがあたりにきらきらと飛び散った。

 ユリアにかかったのはいいが、乙音自身も被弾して、着ているTシャツに水しぶきが飛ぶ。


「やったわね――よっ」

「わあっ――」


 また水しぶきがぱっと上がって、乙音に振りかかる。

 こうしてふたりの水かけがはじまると、晴己とアルはじっと動きを止めてそれを見やり、


「ううむ、美少女同士の水かけは絵になるなあ」

「いやあ、まったく――対照的にぼくたちの水かけが醜く見えるくらいだね」

「よし、乱入しようぜ」

「え、怒られるんじゃないの?」

「こっそりだ、こっそり。遠距離から水鉄砲で攻撃しよう」

「うう、ハルキ、いま悪い顔してるよ」

「ふふ、そうか?」


 晴己は水鉄砲のタンクにたっぷりと清流を貯め、空気を圧縮し、ユリアを狙う。

 狙ったのはユリアの足あたりで、晴己としてもまさか女子の身体を、とくに顔を狙おうなどとは思ってもいなかったが、発射の瞬間、


「わっ――」


 川底にあった石に足を滑らせて、銃口がぐんと上を向いた。

 その状態で引き金を引いたものだから、離れた水はきれいな放物線を描き、ユリアの頭上から雨のようにどっと降り注ぐ。


「きゃっ――」


 ユリアの長い金髪はまたたく間に濡れ、額に張りつき、毛先からはしずくが落ちる。

 おまけに黒いTシャツもずぶ濡れで、身体にぴたりと張りついていた。

 アルはその一部始終を見ていたから、無言でそっと晴己のそばを離れ、ぼくは関与していませんよ、と首を振る。

 晴己はバランスを保つことに必死で、水鉄砲の銃口がどこを向いていたかなど意識もしていなかった。

 なんとかバランスを取り戻し、ふう、と息をついてユリアを見た瞬間、状況を把握する。


「あ……や、やべえ」

「――いまの、あんたがやったの?」


 ユリアは濡れた髪を掻き上げ、じろりと晴己を見た。

 青い瞳がやけに怖い。

 晴己はぷるぷると首を振ったが、手に持っている巨大な水鉄砲は隠しようがない。


「い、いまのはアルがちょっかいを――あれ、アルがいねえ! あ、逃げたな、あいつ!」

「覚悟はできてるんでしょうねえ?」

「い、いや、それがぜんぜんで――もうあと十時間くらい待ってくれたら覚悟も完了するかなあ、なんて――ああ怖い! 無言で近寄ってくるのは怖いって! やだ、まだ死にたくない、おれにはまだ成し遂げなければならないことが――ぎゃああっ」


 ご愁傷様、とアルは手を合わせ、岸へ上がって、濡れたシャツの裾を絞った。

 すると、まだ川に入るべきかどうか迷っているリサと目が合う。


「リサ、いっしょに遊ばないの?」

「だ、だって、水着とか持ってきてないもん」

「別に大丈夫だよ。着替えはあるんでしょ? だったら問題ないって」

「う、そうかなあ」

「そうそう。ちなみにぼくもいまは水着じゃないし。見る?」

「見せなくていいから!」

「いやしかし、いい天気だなあ。こういう日は川遊びがいちばんだな、うん」


 アルは濡れた身体のまま、大きな石にごろんと横になった。

 そうして太陽の光を全身に浴び、服を乾かす。

 本当に寝転がっているうちに乾きそうなほど強い日差しで、森のなかでも気温は三十度を超えていた。

 アルが石の上でごろごろしていると、晴己を始末したらしいユリアが戻ってきて、濡れた服をつまんで眉をひそめた。


「やっぱり濡れたままじゃ気持ち悪い――どうせ水着着てるし、脱いじゃおっと」


 とシャツを豪快に脱ぎ捨てて、それをそこらへんの岩に引っ掛け、うんと伸びをした。

 なぜかそれを見ている乙音のほうが恥ずかしそうな顔でもじもじとしているが、アルは石の上で目を閉じているし、晴己は川の奥のほうで頭の先までずぶ濡れになってぐったりしているし、ほかに見ている人間もいなかった。

 ――しかし晴己は川を隔てて薄目で見ていたらしく、ぽつりと、


「さすがロシア人だなー、着痩せするタイプ」


 そんなことを呟いて、ぷるぷると頭を振っていた。

 ――本当にその日はいい天気だった。

 すべての心配が空に吸い込まれて消えてしまうような青空で、風もほとんどない。

 森には木漏れ日が差し、川では透き通った水面がきらきらと光り、ちいさな魚やサワガニが水のなかで元気に動いていた。

 リサもその雰囲気にがまんできなくなったらしく、服が濡れるのも構わず水に入って、冷たい清流を堪能していた。

 普段、音楽のなかで暮らしている彼らは、その一日を自然の音と空気のなかで過ごし、人口の音に慣れきった身体と心をもう一度まっ白の状態に戻した。

 そして昼過ぎからは、新しい気持ちで演奏の練習に入る。

 楽譜は印刷する機械がなかったから、ユリアとアルが苦労して手書きしたものを使い、楽譜がいまいち読めない晴己だけは乙音がピアノで弾いてやることでパートを覚えた。

 その作業を傍らで見ていたリサは楽譜も読めない晴己に心底呆れていたようだが、晴己が練習のために歌いはじめると一転して驚いたような顔になり、ある程度歌い終わったところでしてやられたという顔になる。


「――いいのは、耳だけじゃなかったんだね」

「ん、なにが?」

「別になんでも。でも、半日で丸一曲分、暗記できるの?」

「まー一曲くらいならなんとかなるよ。十曲っていわれたらちょっとわかんないけど」

「ふうん――やっぱり耳がいい分、音なら覚えやすいのかな」

「そんなに耳がいいって自覚もないけどなー。ほかの人間の耳ではどう聞こえてるのかもわかんないし」

「たしかに――声って、そういう不安はあるかもね」


 楽器の音ならある程度客観的に聞こえるが、自分の声は、自分が聞いている声と他人に聞こえている声に明確な差がある。

 普段話す分には問題ないにしても、テクニックや情感を込めて歌うとなったら、それは致命的な差異になるかもしれない。

 ――まあでも、それでも結局。

 楽器にしても声にしても、自分の感覚を信じてやる以上に、できることはないのだ。


「さ、練習練習――」


 乙音と晴己が練習しはじめるとリサは邪魔にならないようにピアノがある食堂を出て、ペンションの奥から森のほうへと出た。

 夏の森では虫や鳥が鳴いていて、風はないから葉擦れの音はしないが、それでも生命力にあふれた音が飛び交っている。

 そのなかに、低くうなるような低音の弦楽器が鳴っていた。

 道に沿って歩いていくと、十九号室のすぐ前で、地面にエンドピンを差し、アルが弓を踊らせていた。

 アルはリサに気づいてちょっと顔を上げたが、弓は止めず、弦楽器でもっとも低い音階を担当するコントラバスを奏でる。

 その低い音色は、単独で聞かなければほとんど意識さえされないほど控えめで、それでいて聞いていると耳の奥にしっかりと残って忘れられなくなる。

 どうしてアルがその楽器を選んだのか、リサにはよくわからない。

 リサが知っているかぎり、アルは実家の工房でヴィオラやチェロのリペアを手伝っていて、コントラバスはほとんど触ったことすらないはずだった。

 ほかの楽器に比べれば知名度も劣るし、必要となる場面もすくない――しかし譜面台を立てて演奏するアルは、すでに立派なひとりの音楽家で、リサはすこし羨ましくなった。

 音が止む。

 アルは弓をくるりと回し、リサを見た。


「どうだった?」

「まあ……ミスはないんじゃない?」

「そっか、よかった。やっぱりもうちょっと練習時間を長くしたほうがよかったかもしれないなあ。ハルキたちはこの時間でも問題ないだろうけど、ぼくは不安だよ」


 譜面をめくり、また最初に戻って、アルは弓をかまえた。

 それが弦をこする前に、


「ねえ、アル」

「ん?」

「なんでバスに転向したの?」


 アルは弓を離し、すこし考え込む仕草を見せた。


「そうだなあ――とくに理由はなかったかもしれない。入学試験を受けようとしたときに、コントラバス科の倍率がいちばん低かったからね。ヴァイオリンなんかでは、ほかの子たちに敵わないことはわかってたし」

「そうじゃなくて――なんで演奏したくなったのかってこと。クラフト・リペアじゃいけなかったの?」

「いけなかったってことはないけどね。たぶん、反抗期だったんだよ。親が決めたことはしたくないっていう単純な反抗期。でもさ、そんな簡単なことで人生って変わったりするもんなんだよね。もしあのときコントラバス科に入らなきゃ、いまぼくはここでこんなふうにはしてない。きっといまごろ、学校の工房で自分なりの楽器を作ろうとしてるだろうね」


 どっちがいいのかわからないけど、と言ってアルはすこし笑った。


「いや――どっちがいいってことじゃないんだろうな。どっちの道にもやりがいはあるし、楽しいことだってある。ただぼくは、こっちの道を選んだ」

「ずっと、演奏家としてやっていくつもりなの? そんなの――やめたほうがいいよ。仕事だってないし、お父さんも怒るし」

「わかってる。だから、演奏家は今日限りで終わりだ」

「え――」


 やめておけと言いながら、いざアルの口から言われると、リサはどきりとしてたじろぐ。


「なんで――やめちゃうの?」

「夢を見るのは終わりにしようと思ってさ。長い長い反抗期も、そろそろ終わりだ。もう親に反抗するって年でもないし、演奏家としての自分の限界もわかった。だから、工房に戻るよ。夏休み中に学校もやめて、イタリアに帰る」

「学校もやめるって――クラフト科に転向するんじゃなくて?」

「たしかに転向はできるけど、もう何年もやってないからね。いまからほかの生徒と同じ水準ではできないだろうから、イタリアに戻って基礎から勉強して――今度はクラフト・リペア科を受験できたらいいけどね。年齢制限的になかなかむずかしいかもしれないなあ」

「そんな――他人事みたいに」

「大丈夫、ちゃんと自分なりに考えたことなんだ。どうしても演奏がしたいなら、楽器を作りながら趣味として演奏することもできるしね」


 そう――音楽なんて本当は、趣味程度に収めておくのがいちばんいい。

 そうすればいつまでも楽しんでいられる――でも、趣味では抑えられなくなった人間がプロを目指すのだ。

 もし趣味として満足できるならはじめからプロを目指す必要はない。

 リサは、じっとアルの目を覗き込んだ。

 兄の気持ちは本当にその程度のものだったのかと見極めるように。

 アルはすこし目を逸らし、弓をくるりと回して弦に押し当てた。

 コントラバスが低く鳴く。

 譜面どおりの音を丁寧に奏でていく。

 リサは、その様子を見て不思議に思った――表情を見るかぎり、アルが演奏を楽しんでいるようには見えなかったから。

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