第三話 8
8
それはいい夢とも悪い夢とつかない夢だった。
登場人物は全部でふたり。
ひとりはおれと、もうひとりは音符だ。
音符はたくさんいて、それが四分音符やら八分音符やら、棒やら旗やらが山のように積み重なり、そこら中を飛び回っていた。
そいつらが地面を跳ねるたび、その音符どおりの音が鳴る。
ぴん、ぽん、ぱん、ぽん、と音符たちが飛び跳ねているのはいいのだが、その数があまりに多すぎて、それはもはや一塊の轟音になっていた。
しかも、だ。
やつらは飛び跳ねながらすこしずつおれを包囲し、じりじりと距離を詰めてくる。
やばい、このままじゃやられる、と逃げ出したが、回りこまれて、音符たちは一斉に飛びかかってきた。
鼓膜を直接殴りつけるような轟音と雪崩のような音符たちに飲み込まれ、おれはそのままあえなく沈んで――はっと目が覚めた。
「はあ、はあ……な、なんの夢だったんだ、いったい?」
音符のモチーフは、きっと昼間の調律のせいにちがいない。
音のひとつひとつと直接対峙するようなものだったから、その印象がぐるぐるとかき混ぜられて夢に現れたのだろう。
まったく、えらい夢だ。
額の汗を拭い、窓の外を見ると、当然まだ外は暗い。
時計を見れば夜中の十二時すぎ――眠ってから一時間も経っていない時間だった。
こんな時間に起きているのはもったいない、と布団をかぶり直したとき。
うすく開けられた窓から、ほんのかすかに、弦楽器の音が聞こえた。
ヴァイオリンではない。
もっと低い音階の――コントラバス。
となりのベッドで寝ているはずのアルを探すが、となりのベッドはちゃんときれいになっていて、アルの姿はなかった。
「――おいおい。これ、怖くね?」
もしや。
ミステリ小説でよくある、あの展開ではないか。
アメリカのホラーものでよくある、なぞの殺人鬼が現れるパターンではないか。
ぞくりと身体がふるえる。
コントラバスの音は先ほどよりもはっきりと聞こえるようになっている。
こんな夜中に、なにもない森のなかでコントラバスなど弾くだろうか――しかもアルがいなくなっているし。
この場合、考えられる可能性はふたつだ。
最初の犠牲者としてアルが選ばれたのか、それともアル自身が犯人なのか。
だいたいホラーだと、最初に殺されるのはグループ一のお調子者だと決まっている。
はっはっは、殺人鬼なんかいないさー、なんて言ってやるやつから殺されていくわけだ。
それで次に殺されるのは殺人鬼の存在を信じきっている人間だったり、冷静に警察に連絡しようとしているリーダー格の人間だったりするわけで、じゃあおれの立ち位置はどこなのかというと、なんだかいちばん最初に殺されそうな役回りの気がする。
と、なれば。
やっぱり犯人はアルということになるから、これはもう、恐ろしい。
とても寝ているような状況ではない。
おれはそっとベッドから出て、リビングに出た。
当然照明はすべて落とされている。
森のなかだから、窓から入ってくる光もなく、室内はほとんど完璧な暗闇だった。
手探りでスイッチを探すと、なんとか見つかった。
かちりと押した瞬間、天井でぱっと光が弾け、眩しくなる。
「――ふう、どうやら死体はないようだ」
リビングの様子はなにも変わらず――ただ、壁に立てかけてあったコントラバスケースがなくなっていた。
次に玄関の鍵を確かめると、しっかり施錠したはずなのに、開いている。
ぎい、と扉を押し開けて外を覗いた。
空はよく晴れていて、その月明かりがあるのか、森のなかはほんのすこしだけ明るく、足元くらいはどうにかなりそうだった。
「……行ってみるか」
アルの様子も気になるし、聞こえてくるコントラバスの音も気になる。
だいたいホラーでは、真相に早く辿り着きすぎた人間も殺されてしまうものだが、登場人物がおれとアルしかいないのではどっちみち同じだ。
ペンションの鍵は締めず、そのままにして、そっと森のなかに出た。
風はない。
森は死んだように静まり返っているが、その代わりに虫たちが大合唱を繰り広げていた。
そのなかに響くコントラバスの音色を辿って森を進むことはさほどむずかしくない。
バスの音は、川のほうから聞こえていた。
川へはすこし斜面を下りなければならないが、それもあまり急ではなく、川自体も浅く川幅もないものだった。
目よりも耳を頼って進んでゆけば――木々が生えず、森のなかよりは明るい河原に、大きな楽器を抱えて揺れる影があった。
コントラバスはゆっくりとした動きでなにかの曲を奏でている――それは、おれも知っている曲だ。
先月、試験でやったハイドンの「皇帝」。
なぜかそのメロディを確かめるように、何度も繰り返している。
「――アル」
声をかけると、バスの音はぴたりと止んだ。
こちらに背を向けていたアルがくるりと振り返り、ちょっと恥ずかしそうに笑う。
「ごめん、起こしちゃったかな」
「いや、起きたのは別の理由だけど――なにしてんだ、こんなところで?」
「ちょっと、弾きたくなってさ――あんまり近くで弾くとうるさいかなと思って。ここだと川の音と混じってあんまり聞こえないかと思ったんだけど」
おれは斜面を下り、アルに近づいた。
アルはコントラバスを支えたまま、大きな石のひとつに腰を下ろす。
「夜中に突然弾きたくなったのか?」
「ハルキはない? そういうこと」
「まあ――なくは、ないけど。でも、あんまりないな」
「そっか――ぼくはね、結構あるよ。たぶん性格なんだろうな」
いたずらっぽくアルは笑う。
「寝ようと思うと、不安になるんだ。ぼくはまだまだバスがうまく弾けなくて、それなのにゆっくり寝ててもいいのかって。そしたらどうしても弾きたくなってさ」
「ふうん――うまいと、思うけどな」
「自分でも人並みに弾けるようになったとは思うけど――人並みじゃだめなんだよ、こういうのは」
アルの口調に、なんとなくよくないものを感じた。
だから――。
「――そうだな、ハルキには、話しておかなくちゃ」
アルがそう言ったとき、おれは最悪の台詞を予感していた。
*
ぼくは、音楽が好きだ。
音楽は子どものころからすぐそばにあった。
ぼくの家はイタリアの北部でずっと昔から続く楽器職人の家系で、祖父もそうだったし、父親もそうだった。
次はおまえがそうなるのだと子どものころからずっと聞かされ、ぼくは育った。
子どものころから音楽漬けの毎日で――反抗期のころに音楽嫌いにならなかったのが不思議なくらいだった。
「ただ、やっぱり反抗期はあって、ぼくは楽器職人にはなりたくないと思ったんだ――生まれる前からどうやって生きるかってことが決まってるなんて、絶対にごめんだと思った。ただ、面と向かってそんなことを言えるほど気が強くなかったから、ずっと心にしまってたけど――日本に留学するって決まったときはうれしかったよ。やっと血の束縛から逃れられた気がした」
本当なら、ぼくはクラフト・リペア科を受験し、そこの生徒として皐月町音楽学校に入学するはずだった。
父親からはそう言われていたし、ぼく自身もそう言っていた。
でもそれは父親についたはじめてのうそで、ぼくはコントラバス科を受験し、合格した。
「――コントラバスは、好きだったっていうより、受験人数がすくなかったんだ。ヴァイオリンとかピアノは受験人数が多かったし、その分合格の倍率が高かったから。それにうちはバスの修理もやってて、ひと通りは弾けたからさ」
いまでも、父親はぼくが音楽学校でクラフトを習っていると思っている。
――本当は、もう何年もクラフトの道具にさえ触れていないのに。
「バスをはじめたきっかけは本当にそれだけだったんだけど、やりはじめるとすぐ夢中になった。やっぱり基本的に音楽が好きだったんだろうね。もしかしたら、この道で生きているかもしれないと思った。クラフトじゃなくても、音楽家として一人前になれるかもしれないって――ああでも、考えてみればそれって、ただ父親に認めてほしかっただけなのかもしれない。あなたとはちがう道へ進んだけど、ぼくはちゃんと生きていけるって、父親に言ってやりたかっただけなのかもしれない」
そしてぼくは夢を見た。
音楽家になる夢。
コントラバスを抱え、世界中を飛び回る夢。
CDを出したり、有名なオーケストラに所属したりする夢。
コントラバス科の授業は、さほどむずかしくなかった。
ほかの生徒たちと比べて技術が劣っているとはあまり思わなかったし、子どものころからずっと工房を見ていたから、楽器の理解には自信があった。
このまま学校を卒業すれば、夢が叶うかもしれないと思った。
――でも。
「ぼくは、きみと出会った。きみと出会ってぼくは本物の天才と触れ合った。ユリアやオトネ、それにきみは、ぼくなんかとはレベルがちがう、本物の天才だった。そして世界にはきみたちみたいな天才がたくさんいるんだってわかったんだ――ぼくはただの凡人で、きみたちみたいな天才に憧れてたんだって」
それはたぶん、決して見てはいけない夢だったんだと思う。
あまりに眩しくて、あまりに美しいから、ぼくのような凡人が見ると目を焼かれてしまうような幻想だったんだと思う。
天才は、生まれながらにして天才だ。
ぼくは凡人として生まれてしまった。
ただ、音楽が好きな凡人として。
「それでもがんばってみようとは思ったんだよ、ハルキ――きみたちがすごく楽しそうに音楽を奏でるから、ぼくもそんなふうになりたいと思って、いままで以上に練習したんだ。でも、どうしてもそうはなれなかった。きみが歌い、ユリアがヴァイオリンを弾いて、オトネがピアノを弾く――その三つの音の調和は信じられないくらい美しくて、ぼくがそのなかに入ると、とたんに音が淀んでしまう。きみはやさしいから気づいていなかったかもしれないね、ハルキ。でもユリアやオトネは気づいていたと思う――彼女たちもやさしいから、なにも言わなかったけど。本当は、ぼくがこのカルテットの足を引っ張ってるってわかってたし、気にしてたと思うんだ」
それは、どんなときでも意識してしまう差だった。
みんなが簡単にやってのけることが、ぼくにはなかなかできない。
みんなが楽しげに即興で演奏していても、ぼくだけはそんな余裕もなく、音を乱さないようについていくことに必死だ。
そしてぼくは知ってしまった。
ぼくはたぶん、演奏家としては大成できないだろうという当たり前のことに。
ぼくにはそんな才能はなかったし、才能がなりなりに逃げるということもできなかった。
一度クラフトから逃げていたから――またコントラバスから逃げ出して、次はどこへ行くのか。
どこまで逃げても自分からは逃げられない。
なんの才能もない自分からは。
「ねえ――ハルキ」
――頭がぼんやりと熱くなり、鼻の奥がつんとする。
「どうしてぼくは、ハルキじゃなかったんだろう? きみは――きみはいままで音楽とは無縁に生きてきたんでしょ? ぼくには、音楽しかないんだ。子どものころから音楽しかなかった。この世界から出ていくわけにはいかなかったんだ――なのに、ぼくには才能がなくて、音楽がなくても生きていけるきみには、とてつもない才能がある。どうしてきみには才能があって、ぼくには才能がないんだろう?」
そんなこと、言うべきじゃなかった。
ハルキを責めるつもりなんてまったくなかった。
ただ――ずっと、羨ましかっただけなんだ。
ずっと憧れていただけなんだ。
「ぼくはね、ハルキ、本当は、きみたちのことが大好きで、でも、きみたちのことを憎んでたのかもしれない。心の底からきみたちと笑い合うことはできなかったかもしれない」
ああ――それもこれも、音楽のせいだ。
音楽さえなければ、こんなことにはならなかった。
ぼくはぼくとして生きていられたし、みんなをひとりの人間として見ることもできただろう。
ハルキもユリアもオトネも、みんないいやつばっかりだ。
ただ、演奏家としてのぼくのプライドが、彼らを許せない。
才能にあふれている彼らのことを認められない。
すべては音楽のせいだ。
音楽がこの世界に存在していなければ、こんなに苦しむことはなかったんだ。
「ごめん、ハルキ。ぼくは、きみといっしょに皐月祭には出られないよ。ぼくは学校をやめてイタリアに帰る。工房を継いで、楽器を作るよ。そうやって音楽に関わる形がいちばんなんだ。もう――夢を見ている時間は終わりにするよ」
ぼくがそう言ったとき。
ハルキは、ぼく以上に悲しそうな顔をしていた。
「音楽が好きなことは変わらない。演奏が好きなことも変わらない。ただ、自分の好きなことばかりしていてもだめだってわかったから――それに、演奏はどこでだってできるしね。工房で楽器を作りながら、趣味として演奏をすることもできるんだ。ぼくは、そうやって音楽を楽しむことにする。――きみたちには、ぼくがたどり着けなかったずっとずっと遠い場所まで行ってほしい。ぼくには見つけられなかった音楽の果てまで行ってほしいんだ。きみたちならできる。ハルキにはその声があるし、ユリアやオトネにはそれだけの個性と技術がある。きみたちはぼくが知っているなかで最高の音楽家だから――だから、ぼくはきみたちの足を引っ張りたくないんだ」
もしぼくに才能があったら。
彼らと同じとはいわない、彼らの半分でも、三分の一でもいい――彼らを後ろから支えられるだけの才能があったら。
ぼくは、それで満足だった。
でも、ぼくにはそれだけの才能もなかったから――リサが来日したのはいいきっかけだった。
いつかはしなければならないことを、いま実行する――ぼくは自分のために、そしてみんなのために、みんなの前から去ることを決めていた。
*
晴己が川べりでアルを見つける、ほんの数分前。
森のどこかから聞こえてくるコントラバスの音は、十八号室の女子三人組にもしっかりと届いていた。
まず気づいたのは乙音だった。
もともと寝入りは浅いほうで、とくに慣れない場所ではなかなか寝つけなかったから、起きているのか眠っているのか曖昧な状況でごろごろと寝返りを打っているうち、その音に気づいたのだ。
はじめは、すこし離れた十九号室、つまり男子部屋でアルが弾いているのかと思ったが、どうも音を聞いていると、室内から聞こえてくる音ではない――森の奥から、風に乗ってかすかに聞こえてくるような音だった。
こういうときばかりは自分のできのいい耳が恨めしくなる。
しかもバスの低音は、なにか巨大な動物が低く鳴いているような声にも聞こえ、夜の森で聞くにはあまりに不気味だった。
乙音はしばらくじっとしていたが、耐えきれなくなって、となりのベッドで寝ているユリアを揺り起こした。
「あ、あの、ユリアさん――」
「ん、んん――」
ユリアは長い金髪をさらさらと揺らしながら寝返りを打つ。
その無意識の仕草はどことなく色っぽく、乙音は別の意味でどきりとしたが、すぐ首を振って肩を揺すった。
「あ、あの、起きて――ユリアさん」
「ん、なあに――乙音?」
ごしごしと目をこすりながら、ユリアは寝そべったまま乙音を見上げた。
「どうしたの――いま何時?」
「まだ十二時くらいだけど――あ、あのね、音がするの」
「音? なんの」
「コントラバスの――」
「じゃあ、アルが弾いてるんでしょ」
「でもね、それがね、森のなかから聞こえてて――な、なんか、怖くって」
森のなかから、と聞いてユリアも不思議に思ったのか、そのまま耳を澄ませるように身動ぎをやめた。
音は、まだ聞こえてくる。
たしかに屋内から漏れ聞こえてくるような音響ではなかった。
ユリアはむくりと起き上がり、髪を掻き上げる。
「たしかに、変ね――こんな時間に森のなかで練習でもしてるのかしら」
「わかんないけど――ど、どうするの?」
「どうするって、別に気にならないんならこのまま寝たらいいと思うけど――リサも、まだ寝てるでしょ?」
リサはユリアのベッドのさらに奥で寝ていて、音には気づかず、静かに寝息を立てていた。
おそらく昼間の調律での疲れもあるのだろうし、些細なことで起こしてしまうのもかわいそうだったから、ふたりは顔を見合わせ、ちいさくうなずく。
「ちょっと、見に行ってみる?」
「う、うん――」
「音がどこから聞こえてるのか、方向くらいならわかるし――まあ、十中八九、アルが弾いてると思うけどね」
ユリアは長い金髪をきゅっと後ろでひとつにくくり、寝間着のままペンションの鍵を開けた。
夜の森はすこし肌寒い。
そのなかを乙音とふたり、ゆっくり進んで――そして晴己と同じように音を正確に聞き取り、小川の近くまでたどり着いた。
そのときには、もうコントラバスは鳴り止んでいた。
代わりにぽつりぽつりとこぼれ落ちるようなアルの声を、ふたりは木の陰で聞いていたのだ。
*
小川は昼でも夜でも変わることなく、さらさらと清廉な音を立てて流れていた。
晴己はアルの言葉をどういう気持ちで聞けばいいのかわからなかった。
それは、相談ではない。
どうしたらいいか、と聞くのではなく、その問いに対する自分の答えをアルは持っていて、こうすることに決めた、と報告しているのだ。
そこにどれだけの葛藤があり、どれだけ悩んだのか――晴己は寮でも同じ部屋で生活していたのに、アルの悩みにすこしも気づかなかった自分がいやになった。
アルは自分の将来についてしっかり考え、自分なりの答えを出している。
いまさら、晴己が言葉を挟めるはずもなかった。
「――ほんとに、そうするのか?」
アルの話が終わってずいぶん経ってから、ようやく晴己は言った。
アルは楽器を抱いたままこくんとうなずく。
「もう、決めたことなんだ。でも、ほんとにこれでおしまいってわけじゃない。ぼくは楽器を作るって立場から音楽に関わるし、趣味として演奏も続けていくと思う。ただ――クラフトのほうでも、きっと成功は遠いだろうな。リサはちいさいころからずっとピアノの調律師になりたがって、その訓練をずっと積んできた。ぼくは途中で演奏のほうへ逃げてしまったから――またはじめからやり直しだ。遠回りして、またはじめに戻ってきちゃったんだな」
「――遠回りだったかもしれないけど、それは無駄じゃない。無駄にしたくないって思ってたら、絶対それは無駄にならないと思うぜ。だって、それを言うならおれはここまでくるのに遠回りしかしてない――音楽の教育も受けてないし、楽譜だってまだ完全には読めないからな」
「大丈夫、知識はゆっくり学べばついてくるよ。なによりハルキにはその声があるんだから、なにも心配いらないって」
「いや、それは――ああもう、おれが励まされてどうするんだよ」
晴己ががりがりと頭を掻くと、アルはちいさく笑った。
「大丈夫だよ、ハルキ。ぼくはそんなにつらくないんだ。もちろん、残念ではあるけど――いつかはこうしなきゃいけないって、ずっと思ってたことでもあるから」
「ずっと、自分は足手まといだと思ってたのか?」
「まあね――でもハルキたちと過ごした一ヶ月は、ほんとに楽しかった。いままでこんなに楽しく時間を過ごしたことはなかったってくらい楽しかったよ」
アルは笑っていた。
もう吹っ切れたように、清々しく。
――本音を言えば、晴己はもちろん、アルを引き止めたかった。
いっしょに演奏しようと言いたかった。
しかしそんな言葉でアルの決心が揺らぐとは思えなかったし――アルのためを思えば、クラフトのほうへ進むことを応援してやるべきなのかもしれない。
音楽家として成功できる人間はごくわずかしかいない。
夢は、諦めなければ必ず叶うわけではない。
最後まで諦めず、叶えきれないままになった夢はいったいいくつあるだろう。
それを考えれば、楽器職人になり、クラフトやリペアで生きていくほうが安定した生活を送れるのも事実だろう。
アルにはアルの人生がある。
それを他人が決定する権利はない。
アルは自分の人生について考え、答えを出したのなら――友人として、それを見送る以外にはない。
――それでも寂しい気持ちは、押し殺すこともできなかった。
諦めなくても、叶わない夢はある。
でも、諦めてしまった夢は絶対に叶わない。
晴己はアルに、諦めてほしくなかったのだ。
「なあ、アル。ひとつだけ聞いていい?」
「なに?」
「演奏するのは、いまでも好きなのか?」
「もちろん」
すぐにアルは答えた。
「なによりも好きだ――楽器を作ることより。でも、好きっていうだけじゃ、どうにもならないんだよ」
それも、事実にはちがいない。
晴己はもう言葉も出なかった。
ただ悔しい。悔しくて、ぎゅっと手を握り締めるが、それだけではなにも変わらない。
「――そろそろ、部屋に戻ろうか。明日もあるし、ゆっくり休まないと」
アルはコントラバスをケースに直し、それを持って斜面を上がった。
しかし晴己はその場から動けないまま、ぽつりと言った。
「おれ、もうちょっとここでぼんやりしてるから――先に戻っててくれ」
「ん――わかった。気をつけてね」
落ち葉を踏んでいく足音が遠ざかる。
晴己は石のひとつに腰を下ろし、ため息をついた。
「なんだよ、いったい――これから、楽しくなるはずだったのにな」
しかしそれは、仕方のないことでもあった。
音楽に限らず、受験などで自分の将来を考える年ごろだ――同じ道へ進んでいくと思っていた仲間がひとりずつそこからいなくなってしまうのは、決して珍しいことではない。
晴己は小石を拾い上げ、川へと投げ込んだ。
いまベッドに戻っても、眠れそうにはなかった。




