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第三話 7

  7


 基音の調律がすべて済むと、今度はユニゾンの整音になる。

 これは調律師が人生を通して取り組む課題だといわれるほどむずかしく、はじめから答えがない問題に取り組めといわれているようなものだった。

 リサは弦を押さえていたフェルトを取り除き、今度は一弦だけをミュートして、ちいさく息をついた。

 基音となる弦のすぐ横にあるビスにハンマーを引っ掛け、そこに手を置いて、鍵盤を叩く。

 ぽん、と音が整えられた基音と、それとは大幅にずれた音が同時に鳴る。


「――よし」


 ハンマーを動かし、常に鍵盤を叩いて音を確認しながらふたつの弦の音を近づけていく作業だ。

 弦は当然振動して音を出しているから、隣接した弦の振動の影響を受ける。

 うまく重なり合わないときはその振動、波動のぶれがうなりとなって響き、長く伸ばしたとき、音が波のように一定間隔で増幅されて聞こえる。

 そのうなりを消す位置まで調律するのもむずかしい作業ではあるが、その先はずっと感覚的な領域に突入してしまう。

 指針となるのは自分の耳だけだ。

 自分の耳を完全に信頼しなければ、いちばんいい響きを持つ場所がわからない。

 リサは一点をじっと見つめ、細かく、長く音を響かせながら、ふたつの波が完全に重なり合う場所を探す。

 それは同じ音だけに、わずかにちがうだけでも大きな違和感があった。

 リサはいつも、整音のときには視覚的に波を意識するようにしていた。

 基音となる波を思い浮かべ、そこに重なるもうひとつの波を想像する。

 波の形がぴたりと一致した場所が完璧なユニゾンで、それからずれると、ぶれがある音になる。

 それはコンマ以下の周波数の問題で、機械ではいまだに測定できない次元での調整だった。

 ――リサがハンマーを動かすたび、うなりがすくなくなっていく。

 それは正しい方向に調整が進んでいる証だ。

 しかしうなりがほとんどわからない位置までいくと、その先は進むべき方向さえ素人にはわからない。

 リサはそれでも道を見失わなかった。

 すこしずつハンマーを動かし、基音を通り過ぎたと思えばすぐに反対へ緩めて、またすこしずつ締めていく。

 ――わずか一本の弦を調節するのに、二十分ほどかかった。

 ようやく想像上の波が完全に一致し、音もぴんと張り詰めて、遠く伸ばしても波が動かなくなる。

 リサがハンマーを取り外すと、思わずといったように晴己と乙音が手を叩いた。


「すごいな、ほんとに。完璧に音が一致してた」

「む――調律師だもん。これくらいできる。まあ……あんたも、知識はないけど耳はいいみたいね」


 リサの言葉に晴己と乙音は顔を見合わせ、すこし笑った――どうやらリサとしてはそれが最大限の譲歩らしい。

 ともかく、これで二本目の弦を終え、次は三本目の弦だ。

 ミュートを外し、ぴたりと合った二本の弦に合わせて弦を締めていく。

 作業としては同じだが、同じ音で揃えようとした場合、弦が進んでいくごとにむずかしくなる。

 基音とそれに合わせた二弦目、そこからさらに三本目の弦を合わせなければならないが、基音とも二弦目ともぴたりと一致しなければ響きが崩れてしまうのだ。

 ほんのわずかなずれも許されない。

 職人の耳と手だけが頼りの、機械さえ踏み込めない人間の仕事だ。

 はじめは大きなうなりがあるが、リサの巧みな手さばきで音は徐々に近づき、やがてうなりが消えて、細かな調整に入る。

 いままで順調に調整をこなしてきたリサだが、その仕事はここではじめて躓くことになった。

 三本目の弦をぴたりと合わせても、どうしても響きがぶれてしまうのだ。

 それなら、と二本目の弦をすこし調整すると、今度は基音との音が合わなくなる。

 基音を動かすとほかのすべての弦の調律をやり直さなければならないから、基音には触れず、その左右にある弦をなんとか調節しなければならないが、片方に合わせるともう片方に合わず、という状況が続いた。

 二、三十分、細かな調整を繰り返しながら悪戦苦闘したが、どうしても音が揃わず、リサはすこし手を休めて息をついた。

 食堂には冷房が効いていたが、それでも緊張のためか、汗が流れる。


「やっぱり古い弦のせいかな――どうしても共振がコントロールできない。すこし大きくずらして、もう一度方向性をしっかり確かめたほうがいいか――」


 ぶつぶつと呟き、リサは汗を拭って、またハンマーに手をかけた。

 せっかく近くまで合わせた三絃目を大幅に緩める。

 そこからまたすこしずつ音を近づけ、響くユニゾンをかき分けてその奥に潜む不協な音を探し出す。

 しかし、何度も同じ音を聞いていると耳がそれに慣れてしまって、いま音が低いのか高いのかわからなくなってしまうことがあった。

 そうなるともうお手上げで、わざと音をずらすか、しばらく時間を置いてやり直すしかなくなる。

 リサも頭蓋骨のなかで音が反響しているような感覚になり、それが悪い兆候だと経験的に知っていたから、休憩するつもりでハンマーを離した。

 ふと時計を見れば――この音と格闘しはじめてから一時間以上立っている。

 このペースで、残り百五十本ほど――とても今日中には終わりそうになかった。

 やっぱりむずかしい、とリサはピアノを眺めて思う。

 この楽器は不思議で、調律していても、信じられないほどするすると音がはまるときがあれば、たった一音さえできないまま何時間も経ってしまうときがある。

 それはピアノのせいなのか、自分のコンディションによるのかわからないが、そうして思い通りにはいかない、常にうまくいかない部分があるということも楽しみのひとつではあった。

 ――このピアノは、なかなか手強そうだ。

 リサは床に座って汗を拭い、すこし離れた椅子を見た。

 そこにいる乙音と晴己は、もう一時間以上もまったく動きがない作業を繰り返しているにも関わらず、退屈した様子もなく真剣な顔でピアノを見ていた。

 それで、リサはなぜかほっとする。

 このふたりは本当に音楽が、この楽器が好きなのだ。

 やはりどうせ弾いてもらうならこの楽器が大好きな人間に弾いてもらいたいし、調律した音を聞いてもらうならこの楽器の奏でる音が大好きな人間に聞いてもらいたい。

 そのためなら、まだまだがんばれる気がした。

 リサはもう一度ハンマーを握り、鍵盤を叩く。

 三本の弦がふるえ、本来であれば一秒間に決まった回数のうなりしか出ないはずなのに、それが乱れて聞こえる。


「――三本目と一本目は合ってるけど、二本目がほんのちょっと高いんじゃないか?」


 不意に、晴己が言った。

 リサが振り返ると、晴己はしまったという顔で口を塞ぐ。


「悪い、邪魔しちゃって――」

「別に邪魔じゃないけど……二本目が、高い?」

「いや、そう聞こえただけだから、ちがうかもしれないけど」


 リサはゴムを使い、二本目の弦をミュートした。

 その状態で基音と三本目だけを鳴らせば、たしかにぴたりと合っている。

 今度はゴムを移動させて三本目をミュートし、鍵盤を叩いた。


「――たしかに」


 二本目が、わずかに高い。

 それはほんのわずか――人間の耳が聞き取れるぎりぎりの高低差だったが、それが和音となったとき、より大きな乱れに増幅させて聞こえるのだ。

 リサはハンマーを二本目の弦に付け替え、すこし弦をゆるめて、もう一度鳴らす――ゆるめすぎて、今度は低い。

 微調整を何度か繰り返し、二本目は再び基音と一致した。

 三本目をミュートしていたゴムを外し、鍵盤を叩くと、三本の弦が完全に一致したきれいなラが聞こえてきた。

 何度か鍵盤を叩いて音の広がりを聞いて、さらにピアニストの好み、つまり乙音に響きを聞いてもらいながら微調整して、ようやく望みどおりの音が出るようになる。

 時計を見れば――一時間半ほど。

 それだけかかって、ようやくたった一音、ラの音が出るようになっただけだ。

 しかしいまなら正解の音を聞き分けられるような気がして、リサは休みを挟まず、すぐさま次の弦にとりかかる。

 倍音を確認し、三度、五度の和音も調節しながら、すべての弦が調和するように、そしてこの部屋、この空間条件でもっとも美しく響くように考えながら調律を進めた。

 中音部から高音部までの半分程度を終わらせたところで、調律をはじめてから四時間。

 さらに弦の数がすくない低音部を終えてしまうまでに一時間半かかって、昼食後すぐに作業をはじめたのに、すべての調律が済んだころには夕方の六時を回っていた。

 リサは作業に熱中していたから、それほど長い時間が経っているとは意識しなかった。

 時間より、ただ音と向き合う。

 どんなふうに響けばいちばん心地いいか――どんなふうに弦がふるえれば耳に心地いいのかを考えて、半音の百分の一というレベルでの聞き取りを続けなければならない。

 だから、すべての調律が終わったとき、リサは思わずその場に座り込んだ。

 忘れていた疲労がどっと押し寄せてきて、立つこともむずかしくなる――でも。


「これで、きれいな音が出る」


 その満足感から、リサは疲労のなかで笑っていた。

 音そのものはこれで完全に整って、あれだけめちゃくちゃな音を立てていたピアノは正気を取り戻したのだ。

 最後まで食堂に付き添って見ていた晴己と乙音も、調律が終わった瞬間にほっと息をついた。


「お疲れ、リサ――いやあ、すごかったな。調律がこんなに大変だとは思わなかったよ」

「大変だったのは、もともとの音がこれだけ狂ってたせいだけどね。年に一回とか、二年に一回とか、そういう頻度の調律ならもっと楽なんだけど――それに、まだ終わりじゃないし」

「え、まだ終わらないのか?」

「弦の調律が済んだから、次は音色。これはピアニストの好みが強いから、オトネに聞きながらの作業になるけど」

「うん――大丈夫」

「じゃ、さっそくはじめる?」

「まあまあ、ふたりとも、まずは飯食ってからにしようぜ。休憩も大切だろ?」


 リサはわずかに薄暗くなりはじめた窓の外を見て、こくりとうなずいた。



  *



 夕食は長野の特産品が振る舞われ、なかでも別の地方からやってきた学生たちにとって衝撃だったのは、ステーキとして出されたダチョウの肉だった。

 はじめはなんの肉かわからない状態で食べ、柔らかくてうまい、これは高級牛肉だ、なんて言っていたところに種明かしを受けたものだから、そのときの晴己たちの表情はなんともいえないものだった。

 うまいことはうまい。

 しかもヘルシーらしい。

 それはいいが、あのダチョウの肉だ、と思うと、なんとなく牛肉のようにはいかない。

 野菜類は今日のうちに採れた新鮮なもので、この自然豊かな土地らしい、地元の材料だけを使った食事でもずいぶんと多様なメニューだった。

 夕食もまたとなりの席だった四人組の客は信州ワインを嗜んでいたが、未成年ばかりの晴己たちは特製のぶどうジュースで喉を潤し、夕食を終える。

 リサと乙音、それに力仕事担当の晴己はまたピアノに戻って、ユリアとアルは明日の演奏に使う曲の編集や資料集めの続きをはじめて、それらの作業が終わったのは、夜の八時を回ったころだった。

 とくにピアノのほうは、弦の調律は済んだが、リサは中途半端で仕事を投げ出せるタイプではないらしく、ひとつひとつの鍵盤のアクションに油を差し、フェルトに三本針を差して音をやわらかく整え、乙音の好みに合うようにこの場でできることをすべてやったから、それだけ時間がかかってしまっていた。

 最初に板を外して分解しはじめてから約八時間。

 ようやく元通りの外見になったピアノは、分解をする前に比べ、すこし輝きが増したように見えた。



  *



「でもほんと、調律って大変な仕事だよなあ」


 ――あたりはもうまっ暗になっている。

 山小屋のようなペンションの寝室で、晴己はふかふかしたベッドにごろんと横になり、天井を見上げていた。

 となりのベッドではアルが同じように寝る体勢で、うすく開けられた窓からは虫の声が聞こえてきている。


「あそこまで大変な仕事だとは思わなかったよ――ピアノの中身もはじめて見たし、あんなに複雑でむずかしいもんだとは思ってなかった」

「ピアノは、楽器のなかでもとくに調律がむずかしいし、部品数も多いからねえ。ヴァイオリン職人なんかもいるけど、それはヴァイオリンを修理したり作ったりするひとのことで、ピアノ調律師の場合は本当に調律するだけ、整備するだけが仕事だからね。実際にピアノを作る職人はまた別にいる――それくらい、むずかしい楽器なんだよ」

「だよなあ。リサも、おれより年下なのにすごいよ」

「あの子は――昔から、ピアノが好きだったからね」


 アルの口調はどこか、複雑な感情を含んでいるようにも聞こえた。


「おれもそう思うよ――調律し終わったあと、乙音が弾いてるのを見てるリサはほんとうれしそうだったもん。あれは、心の底からピアノが好きなんだろうな」

「そういえば、リサ、ハルキのこともほめてたね。知識はまったくないけど、耳はめちゃくちゃいいって」

「その前置きいるか? まあ、ほんとのことではあるけどさ」

「知識はあとからいくらでも詰め込めるけど、いい耳っていうのはなかなか手に入れられないものだからね。ハルキにとって大切な財産だと思うよ」

「そうかなあ――おれは、ちょっと楽器が羨ましいよ」

「羨ましい?」

「なんていうか、ほら、楽器っていろんな人間が関わってるだろ? その楽器を作った人間、その楽器を調律した人間、その楽器をいままで弾いてきた人間、その楽器をいま弾いている人間――そういうさ、人間の関係性がある。でも声って、そういうの、まったくないだろ。だれに調律されたわけでもないし、だれから引き継いだわけでもない」


 うーんとアルは唸って、しばらく虫の声が部屋のなかを支配した。


「でもぼくは、声のほうが羨ましく思うよ」

「なんで?」

「楽器は、突き詰めればだれにでも弾けるものだ。なかにはユリアやオトネみたいな天才もいる――彼女たちは、だれにでも弾ける楽器を使って彼女たちにしか出せない音色を作り出す。でも声って、はじめからそのひとにしか出せないものだ。ハルキの声はハルキにしか出せないし、ぼくの声はぼくにしか出せない。そういうものがひとつの楽器として使える、武器になるっていうのは、きっとすごいことだよ」


 今度は晴己がうーんとうなる番だった。


「――そう、かなあ。そういう考え方もあるのか」

「考え方、感じ方はいろいろだよね。あるひとつの理想なんて、本当はないのかもしれない」

「あるひとつの理想?」

「簡単にいえば、音楽の終着点だ。演奏家や楽器職人、作曲家はみんな理想を持ってる。こんなふうに演奏したい、こんなふうな楽器を作りたい、こんな曲を作曲したい――そうやってみんなそれぞれの理想に向かっていく。でもさ、それは答えじゃないんだ。自分が思う、自分がいちばん気持ちいい場所でしかない。だから、自分にとっての理想が叶えられたとしても、だれかがそれを認めてくれるとはかぎらない。自分が見つけた音楽の終着点は、だれかから見れば通過点でしかないのかもしれないし、ぜんぜん見当違いの方向なのかもしれない」


 報われないよね、とアルは呟いた。

 そうなのかな、と晴己は考える。

 音楽の理想――それは、ただの空しい幻想でしかないのか。

 全員が共有する理想は、存在しないのか。

 それは、まだ音楽をはじめて間もない晴己には姿すら見えない問題に思えた。

 このまま音楽を続けていけば、いつかはそんな問題とも直面しなければならないのだろうか――音楽に果てはあるか、なんて、到底答えがなさそうな問題に。


「皐月祭」


 ふとアルが呟く。


「どうなるんだろうね」

「さあ――でももう、一ヶ月切ってるからな。そっちの練習もはじめないと。そういや、皐月祭は毎年やってるんだろ? 去年とかはどうだったんだ?」

「うーん、いろいろやってたよ。学生の出し物もあれば、卒業生――つまりいまはプロの音楽家として世界中で活躍してるひとたちがきてくれたりとか」

「へえ、おもしろそうだなあ。どうなるか楽しみだ」


 晴己は大きくあくびをして、目を閉じた。


「さ、今日はもう寝て、明日は一日しっかり遊ぶかー」

「演奏の練習もしなきゃいけないけどね」


 アルはくすくすと笑い、暗闇をぼんやりと見つめた。

 しばらくすれば、晴己の静かな寝息が聞こえてくる。

 アルはそのままじっとしていたが、やがてむくりと起き上がり、晴己の寝顔をちょっと見下ろして、部屋を出ていった。

 ――静かな寝室に、ペンションを出ていく足音が響いた。

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