第三話 6
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リサは白い鍵盤を人差し指で押し込み、アクション機構の動きをじっと見つめ、不意に鍵盤の先に指を引っ掛けて持ち上げた。
「わっ――そ、そんなことしていいのか?」
「そんなことって、別に普通のことしかしてないけど」
鍵盤と、鍵盤に一体化したアクションがごっそりと取れる。
そのアクションが動き、上にあるハンマーを叩いて弦を動かすことになるのだが、リサは慣れた手つきで鍵盤の裏にあるネジをゆるめ、元通りの位置に戻す。
それから何度か押して確かめてうんとうなずいた。
「あと直せるのは――こことここね」
晴己はリサの手際を眺め、はあ、と息をつく。
リサはまるで、どこにどんな異常があるのかはじめからわかっているように鍵盤を直していった。
ぽん、ぽん、と狂った音が響き、視覚でもハンマーが弦を叩く様子が見てとれる。
「そのハンマー、弦を叩いてるわりに、やわらかい音だよな」
「フェルトが巻いてあるの。ほんっと、なんにも知らないんだね」
「う、申し訳ない――でも、ピアノっていいよな。おれ、ピアノの音好きだよ」
当然でしょ、とリサは鼻を鳴らして、誇らしげに胸を張った。
「ピアノは完璧な楽器なの。音域も、音色も――だからその分、調律はむずかしい。ほかの楽器も構造的に変化していってはいるけど、ピアノほど工業的で、しかも手作りで作らなきゃいい音が鳴らないものはないもん」
「へえ――リサもピアノが好きなんだな」
「うん、大好き」
「でも、ピアニストは目指さなかったのか?」
「ピアニストじゃご飯は食べられないもん」
「おお、現実的……」
「それに、うちは代々、楽器職人の家だから」
「――そうなの? じゃ、アルも」
「アルはピアノじゃないけどね。あたしのピアノはちょっと特殊っていうか――普通、楽器職人の家でもピアノは作んないもん。ヴァイオリンとか、ヴィオラとか、そういう弦楽器はある程度共通した構造だから、修理もできるし作ることもできるけど――ピアノはもう個人で作れるようなものじゃないから」
「なるほどなあ。たしかに、ピアノってでかいもんな」
「それに木だけでできてるわけじゃないからね――知ってる? ベーゼンドルファーってドイツのピアノメーカーはね、ひとつのピアノを作るのに百年くらいかけるの」
「ひゃ、百年? なんだそれ。どういうことだ?」
リサはくすくす笑って、
「もちろん、百年間作り続けるわけじゃないけど――ベーゼンドルファーは木にすごくこだわってて、ピアノを作るために伐採する木は樹齢何十年っていうおじいちゃんの木に限ってるの。それを冬のあいだに伐採して、五年間も寝かせておく――ほかの作業にもすごく時間がかかって、木から数えれば、一台のピアノができるまでに百年近くかかっちゃう計算になる」
「ははあ、また壮大な話だな」
「その分、ピアノはちゃんと整備してあげると長く保つの。百年でもね」
「ふうん――それ、なにしてるんだ?」
リサは赤いフェルトを取り出し、それを縦に張り巡らせてある弦に取りつけはじめていた。
「これで弦を押さえておくの。そしたら音がしないでしょ。ピアノは一音で三本の弦を鳴らすから――」
「あ、それ、知ってる。だから和音が大事なんだよな?」
「和音っていうか、ユニゾンだけどね。ほんと音楽用語もめちゃくちゃなんだから。ちゃんと三本のうち二本を押さえておかないと、一本一本の調律ができないでしょう」
「なるほど、たしかに。勉強になるなあ」
すべての弦にフェルトをはさみ、それからリサは工具箱からチューニングハンマーを取り出し、くるくると手のなかで回しながら、ピアノに耳を寄せた。
「さ、ここからが調律の本番――音が大事なんだから、邪魔しないでよね」
「了解、おとなしくしてる」
現代は周波数を電子的に表示できるチューナーもあるが、リサは昔ながらの音叉を歯で咥えた。
「おお、職人みたいだ!」
「ひぁふぁって」
黙って、と言ったらしい。
晴己はこくんとうなずき、椅子から身を乗り出して興味深そうに眺める。
リサは中央のラ、つまりA音を鳴らした。
国際的な単位として、A音は440ヘルツと決まっているが、最近は442ヘルツに合わせるほうが一般的になっている。
場合によってはさらにピッチを上げ、明るい音色に仕上げる場合もあるが、リサはそうした一種の小細工はあまり好きではなかった。
そもそも――ピッチは時代や地域によっても様々に替えられ、場合によっては作曲者によっても変える場合がある。
ピアノは調律に時間がかかる楽器だから、コンサートなどではピアノを基準としてほかの楽器のピッチを合わせるが、リサはピアノも状況によってピッチを変えるのがいちばんだと感じていた。
そのために。
「ねえ、このピアノ、あの背の低い日本人が弾くんでしょ?」
「乙音か? そうだよ、おれは弾けないから」
「じゃあ、ちょっと連れてきて」
「はい?」
「いいから、早く。手伝ってくれるんでしょ?」
「う、わかったよ」
晴己は立ち上がり、お使いへ出ていく。
リサは静かになった部屋で、二股に分かれた音叉の先を軽く叩いた。
濁りのない440ヘルツ。
その音が歯からしっかりと伝わっているうちに、チューニングハンマーでビスを回し、何度も鍵盤を押して音を近づけていく。
音叉を叩いてはビスを動かし、鍵盤を叩いて、また音叉を叩く――その繰り返しを二、三度すると、A音はほとんど音叉と差がわからない程度に近づいた。
その手際のよさはほとんどプロの調律師のようだが、それだけ手際よく進めても、合わせなければならない弦は二百本以上あるのだ。
さらに何度か音を確かめ、高低を繰り返しながら限りなくA音に近づけて、ふうと息をつく。
すくなくとも一弦のA音に関しては違和感がないレベルまで近づけた。
しかしここから先は、言ってみれば好みの問題だ。
A音を440ヘルツとするか、442ヘルツとするか、あるいはそれ以下か、それ以上か――弾き手と奏でる曲、いっしょに演奏する楽器や弾く場所によってもベストなピッチはちがう。
そしてそれは、調律師ひとりでは見つけられないものだ。
弾き手や指揮者と話し、そのなかでベストな位置を見つけていく――そうした調律師の仕事にこそ、リサは楽しみを感じていた。
本当なら二、三万はする調律も、まだ素人だということもあるが、無料でやっても決してもったいないとは思わない。
リサは音や音楽と真正面から向き合う調律という作業が大好きなのだ。
「おーい、連れてきたぜー」
晴己と、いつも臆病そうな顔をしている乙音が食堂に戻ってきた。
リサはちょいちょいと乙音を手招きし、ピアノの近くまで呼んで、咥えていた音叉を離す。
「いま最初のA音をやってるんだけど、ピッチはどれくらいがいいの?」
「えっと――ふ、普通に442ヘルツでいいけど」
「ほんとに? ま、聞いてみて――いま、こんな感じ」
リサが鍵盤を叩くと、ぽん、と澄んだ音が鳴った。
「おお、すげえ、ラだ!」
晴己が感動するのを無視して、
「これがだいたい、高くも低くもないA。これから範囲内でどっちかに移せるけど、どれくらいがいい?」
乙音はちいさく喉を鳴らして、自分の指で鍵盤を叩いた。
アクション機構が動き、弦がふるえる。
その様子を眺めながら音を聞くのは、ただ音を聞くだけとはすこしちがう感覚があるらしい。
乙音は真剣な顔で何度も鍵盤を叩き、最後にはすこし首をかしげて、
「もうすこし、低めにできる?」
「やっぱりそのほうがいい? たぶん弦が古いからなんだと思うけど、ちょっと音が暴れちゃうんだよね――これ、十年使ってないピアノって言ってた?」
「十年くらい前にもらってから、ほとんど弾いてないってオーナーさんは言ってたけど」
と晴己が言うと、リサはうなずいて、
「たぶん、もっと長いあいだ弾いてなかったんでしょうね。二十年か、二十五年くらい――だからこんなに音が狂っちゃってる。ほんとは弦も替えて、フェルトも全部やり直したほうがいいけど、さすがにそこまでは道具も時間もないし。とりあえず、ちょっと低めに作ってみる」
リサは再びビスにハンマーを当て、音を鳴らしながら動かした。
そのハンマーの動きは、ほんの数ミリの世界だ。
手の感覚と音感だけを信じ、かすかに動かす。
何度も鳴らされるラの音だが――普通の人間なら気づかない範囲で音が上下していく。
しかしここにいるのは調律師とピアニスト、そして知識はないが音感だけは優れている晴己の三人だ。
三人が三人とも、そのかすかな音の動きを感じ取っている。
「これじゃ、ちょっと低すぎるから――これくらい?」
「もうちょっと高くできる?」
「ん――ああ、たしかに、これくらいが気持ちいいかも。ただほかの弦と合わせたときにどう共振するかだけど――」
それは、チューナーでは感じ取れないほど微細な変化だった。
チューナーは音の振動数をすぐに表示できるが、440ヘルツと441ヘルツのあいだにある無限にちいさな音の変化までは表示することができない。
小数点以下、半音の百分の一にも満たない音の高低差で、聞く人間によっては、そんなものは切り捨てても大差ないと感じるかもしれないが――彼らの耳はその切り捨てを許さなかった。
「じゃあ、これを基準にやってみる。またユニゾンさせたときにどう聞こえるか、教えてね」
「う、うん――あの、リサちゃん」
「なあに?」
「ありがと、ね――あの、ちゃんとやってくれて」
「そりゃあ、ちゃんとやるよ。こう見えてもあたし調律師だもん。ピアノのことは、適当にやったりしない」
ぶっきらぼうな言い方ではあるが。
それが照れ隠しであることくらい、だれにでもわかるような口調でもあった。
乙音もちょっと笑い、とことこと晴己のそばに戻ってきて、となりの椅子にちょこんと腰を下ろした。
リサはさっそく決めたA音を中心に、そこから上のD音を合わせはじめる。
A音との差は五度、その独特の響きを聞き分け、ぴたりの位置に合わせるのは一朝一夕でできることではなかった。
ちいさな調律師はハンマーを巧みに操り、何度もA音とD音を響かせてうなりが消えるのを辛抱強く待つ。
そばで聞いているふたりも、不快なうなりが消えた瞬間、張り詰めていたものが緩んだようにほっと息をついた。
――しかし調律師の本当の仕事はそこからだ。
不快なうなりというのは、要は機械でも判別できる不協和音であり、それが消えたということはすくなくとも五度差になったということ。
問題はそこから先、さらに厳密な音程の一致に向けての作業だ。
音程、つまりピッチだけならチューナーで合わせることもできる。
しかしほかの弦との共振や一致も含めるなら、チューナーではなく耳で聞き取るしか方法はない。
ピアノの状態、弦の状態でも響き方は変わるから、これと決めたA音に合わせるには、常にA音とD音を響かせながら音の奥底を探るように調律していくほかないのだ。
それは、ひりひりと焼けつくような緊張感のある作業だった。
わずかな音のずれも許されない、音と調律師の一対一の対決のような――わずかな雑音を立てることも許されない雰囲気があたりに漂う。
晴己と乙音も、自然と呼吸もはばかるようになっていた。
ほんのわずかな、ハンマーの動きとしては数ミリ、音なら一ヘルツのあいだで行われる整音の作業。
ようやくいい場所を見つけ、リサはふうと息をついた――そんなことを二百本以上ある弦すべてで行うのだ。
「――大変な仕事だな、調律師って」
思わず晴己が呟くと、乙音はこくりとうなずいた。
「でも――おかげで、すごくいい音が出るようになる」
「そうだよな。ピアノの完全さは、こういう作業があってこそなんだよな」
D音の次はさらに五度上のG音。
それが終わればC音と、基音を合わせていくだけでも一時間以上かかった。
もうすこし頻繁に手入れがしてあるものならこれほど苦労はないが、音が著しくずれてしまっているようなピアノは、一から組み立て直すのと大差ない大掛かりな調律が必要になる。
リサが真剣な顔で音を合わせているあいだ、晴己と乙音には出番がない。
しかしふたりは食堂を出て行こうとはせず、じっとリサの作業を見守っていた。
なんだか、そうして見守らなければならない気がした。
調律はたったひとりで音と向かい合う孤独な作業だから――そのピアノを演奏するピアニストとして、その音色が好きなファンとして、ふたりはその場にいなければならないような気がしていた。
休憩も挟まず、息が詰まるような基音を定める作業を終える。
そこで乙音はぱたぱたと食堂を出ていって、木崎夫妻に出してもらったらしいオレンジジュースを持って戻ってきた。
「リサちゃん、ちょっと休憩して」
「え、ああ――」
リサは声をかけられてはじめてふたりの存在を思い出したらしく、しばらく目をぱちくりさせていたが、すこし笑ってジュースを受け取った。
「退屈でしょ、見てるの」
「いや、そんなことないよ」
晴己は力を込めて言う。
「なんていうか、おれはちょっと、感動してる。なんかすごいんだな、楽器って――音楽って」
「あたしは、自分が調律したピアノがすごくきれいに歌ってるときがいちばん感動するけどね」
「そうだなあ――なんか尊敬で成り立ってるよな、こういうのって。演奏家と調律師、もっといえば、楽器を作る職人と弾く人間、それに耳を傾ける人間――みんながそんなふうに尊敬し合って、音ってできてるんだな」
「あ、あんた、よくそんな恥ずかしいこと真顔で言えるわね」
「恥ずかしいか?」
「かなり。聞いてるほうが恥ずかしいもん」
リサはぷいと顔を背け、ジュースをテーブルに置いた。
「よし、続きしよっと――まだまだ先は長いから、早くしないと今日中に終わらなくなっちゃう」
*
「――演奏家と調律師、もっといえば、楽器を作る職人と弾く人間、それに耳を傾ける人間――みんながそんなふうに尊敬し合って、音ってできてるんだな」
――食堂のなかから、そんな言葉が聞こえてきた。
アルは、ちゃんと調律が進んでいるかどうか見るために食堂へやってきたが、その入り口で立ち止まり、だれにも気づかれないうちに踵を返した。
――調律師と演奏家。
それは、とても近い関係にあって、決して重ならない音楽への関わり方。
どちらが優れているという話ではないことはアルもわかっている。
演奏家は調律師がいなければどうにもならないし、調律師は調律した楽器を優れた演奏家に弾いてもらうのを至高とする。
要は――どちらにより強い意識を感じるか、という問題だ。
「――そんなことは、わかってるんだけどね」
アルはぽつりと呟き、そのまま廊下を進んで、土産物コーナーを抜けてペンションを出る。
昼をすぎ、空はまだ天気もよく青々としている――その爽やかな空気を吸い込むと、気分は軽くなるどころか、さらに落ち込んでいく気がした。
「早く決めなきゃな――いままで先延ばしにしすぎてたんだ。ぼくも――もう、夢は捨てなきゃ」
こうなりたい、という自分の理想像と、自分が叶えられる限界点に大きな差異が見えはじめるのはいつのころからなのか。
成功者はいつも諦めないことが重要だという。
しかしその影に、諦めずにあがき続け、そして声もなく消えていった無数の失敗がある。
どこかで諦めていればもうすこしいい人生を歩めていたかもしれないのに、諦めなかったがゆえに取り返しのつかないところまで進んでしまった人間が大勢いて――わずかな成功者が、つまり天才が凡人に夢を見させるのだ。
おれはここまで諦めずにやってきた、だからおまえもここまできてみろと――でもそんなことは単なる才能の有無にすぎない。
才能がない人間は、どんなにあがいたところで無駄だ。
努力が認められるような世界ではない。
努力は単なる最低条件で、前提としての才能がなければ、努力なんてなんの意味もない。
いっそ、おまえには才能なんてない、とだれかが言ってくれれば楽になるだろう。
納得するにしても、反抗するにしても、それがひとつの指針となれば。
しかしだれにも才能を否定されず、肯定もされなかった凡人はどうすればいいのか。
「ああ――本当に、大変な世界だな、ここは」
アルは空を見上げ、ぽつりと呟いた。




