第三話 5
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おれとアルが食堂に入ったとき、乙音はピアノの前に座っていて、ユリアはピアノの横で腕組みし、むずかしい顔をしていた。
肝心のピアノは、奥に大きいグランドピアノではなく、もっとこぢんまりとした、高さがあるピアノだった。
ユリアはおれとアルにちょっと視線を向けて、
「あんたたちも聞いてみてよ、これ」
「なんだ?」
「乙音、出してみて」
「う、うん――」
乙音の指が白い鍵盤を撫でて、中央ドを押す。
ぽん、と音が出る――でも。
「――へ?」
つい、そんな声が洩れる。
音はたしかに出ていた。
グランドピアノよりも音はちいさいし、迫力には欠けるが、しかしちゃんとしたピアノの音ではある――ただ。
「なんだ、その音」
「おかしいね」
とアルも顔をしかめて、
「それ、鍵盤はドでしょ?」
「うん、ド」
「なのに――なんで、ミが?」
乙音はたしかにドの鍵盤を押していた。
しかし聞こえてくる音は、明らかにミだった。
おれたちは四人で顔を見合わせ、首をひねる。
「調律がおかしいってこと?」
「十年くらい使ってなかったんだって。ピアノ自体は結構いいものだから、故障はしてないんだけど、たぶん弦が緩んでるか、傷んでるんじゃないかと思うんだけど」
ユリアはさすがに鋭い。
おれとアルはほうとうなずく。
「弦が緩んでる、か。じゃあほかの音もそうなのか?」
「えっと、弾いてみるね」
乙音は両手を鍵盤に置いた。
――本当なら、めくるめく音を生み出すその白い指先。
しかし今日は、ドレミファソラシドのオクターブを奏でているのに、聞こえてくるのはミからはじまって、そのあとは高低もめちゃくちゃな雑音だった。
半音ずれているのもあるし、なんだかいろんな音が混ざり合ってよくわからない不協和音もある。
それはなんだか、聞いていて不安になる音色だった。
調律が狂っているというのは、ピアノの正気が狂っているような――一種異様な、不気味な不協和音だ。
「全部の音がそうなのか?」
「うん、そうみたい――ねえ、ど、どうしよう?」
「どうするって――調律し直すとか?」
「素人が?」
ユリアは呆れたような顔をする――なんだかユリアのそんな顔もすっかり見慣れてしまった。いいことか悪いことかはわからないけれど。
「ヴァイオリンの調律ならだれにでもできるけど、ピアノの調律は、ピアニストには無理よ」
「え、そうなの?」
乙音は困った顔でこくんとうなずいた。
「ピアノは複雑な楽器だから、調律ってすごくむずかしくて――弦の数も、いっぱいあるし」
「なるほど、たしかに――鍵盤の数だけあるんだもんなあ」
そう考えれば、ヴァイオリンやギターなんかに比べるととてつもなく弦の数は多いことになる――と思ったのだけれど。
「……あんた、それ本気で言ってんの?」
なぜか、化け物を見るような目で見られることになった。
「いや、本気もなにも――だって、鍵盤の数だけ弦があったら、大変だなあっていう実感を込めて言っただけであって」
「ほんっと、ハルキってすごいよね、ある意味」
「たしかに、ある意味すごいわ」
「おいこら外国人組、ある意味ってつけるな。その日本語は非常に危険だぞ」
「乙音、説明してやりなさい、このばかに」
「え、えっとね、晴己くん」
このばか、と言われただけなのに、正確におれのほうを向く乙音だった。
それでなんとなく、乙音にどう思われているかわかってしまう。くそう。
「ピアノってね、鍵盤と弦が同じ数で対応してるわけじゃないの」
「ん? どういうこと――ああ、そうか、鍵盤よりもすくない数でやってるんだな?」
たしかに、考えてみればそうだ。
ヴァイオリンは四本の弦を使い、押さえる位置を変えることで出す音を変えているのだから、ピアノも同じにちがいない。
鍵盤を押すことで内部のなにかが弦をふるわせ、その位置によって音が変化する――おれのなかでは完璧な理屈だったのに、ユリアとアルはまたため息をついた。
「乙音、この大ばかに教えてやって」
「えっとね、晴己くん」
「……なんか複雑な気分」
「ピアノの弦は、いちばん低いところでは一音につき一弦なんだけど、低音では一音につき二弦、中音より上は一音につき三絃張ってあるの」
意外とはきはき乙音は言った。
おれは首をかしげる。
「……どういうこと?」
「つまり」
とユリアは腰に手を当て、いかにもできの悪い生徒に説明する教師のような仕草で言った。
悔しいが、この状況では反論できない。
「三つの弦を同じ音に調律して、強く大きな音が出るように作ってあるの。簡単にいえば、低音と高音じゃ同じ強さで叩いても音の響き方がちがうでしょ? 低音はよく響くけど、高音は弦をぴんと張ってるから、大きくて深い音は出ない――それを改善するために三本の弦を同時に鳴らして低音の強さに近づけてるわけ。あとは弾き手次第でどうにでもなるってレベルまでね」
「なるほど、三本の弦を……ってことは、どういうこと?」
はあ、とユリアがため息をつくのは慣れっこだが、今回は乙音までやれやれというように首を振っていた。
「まあ、あんた声楽だし、感覚的に理解しろっていうのは無理なのかもしれないけど――八十八鍵のピアノの最高音はC8、このドを鳴らすのに三本の弦が張ってあって、三本の弦を同時にハンマーで叩くことで音を出してるの。そのとなりのシもラも同じ」
「ふむふむ……ってことは、中音までの鍵盤ひとつにつき三本ずつ弦が張ってあるってこと?」
「ようやくいちばん基礎の部分を理解してくれてうれしいかぎりだわ」
「おいおい、ばかにするなよ、おれの成長具合といったら――ん、鍵盤ひとつにつき三本の弦って、じゃあ、全体ではいったい何本弦が張ってあるんだ?」
「二百本以上」
「に、にひゃ、にひゃ……そ、それを全部調律するのか?」
「調律師はね。それにさっきも言ったようにひとつの音を表現するのに三本の弦を使うから、それぞれの弦は完全にピッチを合わせなきゃいけない――そうじゃなきゃ濁りがある一音になるの」
「たしかに――ヴァイオリンとかとちがって、素人には無理な作業だよな、それ」
「特別な工具も必要だし」
つまり、もとの話に戻ると。
素人にピアノの調律は不可能で、緩んだ弦を締め直すこともできない、ということだ。
「……じゃあ、どうやってピアノを弾く?」
「それが問題だね」
アルは腕を組んだ。
「本当に、これがヴァイオリンやバスなら音が狂っててもなんとか弾く場所を変えれば修正できるけど、ピアノはそれができないからね。一音がうまく鳴らなきゃ、弾きようがない」
「ピアノは諦めるしかないってことか? 四重奏じゃなくて、三重奏にするとか」
「最終手段としてはそうするしかないかもね。ピアノが弾けないからって演奏を中止するわけにはいかないし」
「う……なんだか、ごめんね」
「オトネが謝ることじゃないさ。楽器が壊れちゃうのは仕方ないことだし、オトネが壊したわけでもないんだから」
「とにかく、なんとかして調律できないか考えてみよう」
おれは意味もなくあたりを見回した。
「工具もなにかで代用できるかもしれないし――演奏は明日の夜だ。それまでにできることを考えて、どうしてもできなかったら、三重奏にするしかない」
ユリアやアル、乙音はこくりとうなずいた。
――そのとき、
「なにしてんの?」
入り口からひょっこり、リサが顔を出す。
リサはすたすたと食堂に入ってきて、一瞬アルを見たが、アルのほうはぎこちなく視線を逸らした――ように、おれには見えた。
「ピアノ? だれか弾くの?」
「いや、それがさ――」
おれが説明するより早く、リサはピアノに近づき、鍵盤を押し込んだ。
本当ならラなのに、聞こえてきたのはラとわずかにずれたシや半音よりもちいさく外れた、淀んだ音だった。
「わっ、なにこれ。調律めちゃくちゃじゃん」
「それで困ってるんだよ。ずっと弾いてなかったみたいでさ――でもピアノの調律って素人じゃできないんだよ。知ってるか、リサ、ピアノってのはな、一本の弦でひとつの音を奏でてるんじゃないんだぜ。中音以上では三本の弦で――」
「あたし、調律できるよ」
「――はい?」
「だから、調律、できるよ」
赤毛のそばかす少女は平然と言って、おれを見た。
うそや冗談という顔ではなく――本当に当たり前のことを言っているだけのような顔だ。
「――たしかに、リサなら」
なにかを思い出したようにアルも呟く。ユリアもぽんと手を叩いて、
「あんた、クラフト・リペア科って言ってたもんね。ピアノが専門なの?」
「そう。クラフトはまだやったことないけど、調律と簡単なリペアくらいは家でやってたし」
「でも、技術はあっても、道具がないと」
「道具もあるよ?」
「――へ?」
「学校の入学試験に使うかと思って、全部持ってきてるもん。さすがに替えの弦とかは持ってないけど、緩んだ弦を調律し直すくらいならこの場でもできるけど」
その瞬間、おれにはリサが女神のように見えた。
*
リサが持ってきた、ビジネスマンが持っているような黒い鞄――そのなかにピアノの調律に使う道具が収められていた。
ピンを回すチューニングハンマー、ドライバー、フェルトやゴム、アクション調整工具――一式すべてを収めることができる特別製の鞄なのだ。
「ピアノの調律は、ヴァイオリンとかとちがってただ音を合わせるだけじゃないの――ほんとはアクション部分の機構から点検しなきゃいけないけど、今日は時間もないし、弦の調律だけで済ませるね」
「お、おう、頼むぜ、リサ――なんか頼もしく見えるなあ」
うんうん、と乙音もうなずく。
乙音としては自分が弾く楽器を調律する専門家なわけだから、興味もあるだろう。
ユリアとアルも、なんとなくじっとリサの挙動を見つめている。
リサはうっと手を止め、おれたちをぐるりと見て、
「あのさ、そんなに見られるとやりづらいんだけど?」
「お、そうか、悪い悪い――じゃ、おれたちは退散するか」
「そ、そうだね――」
「あ、ちょっと!」
立ち去ろうとしたおれの服の袖を、リサがぎゅっと掴む。意外と力強い。
振り返ると、リサは座った状態でじっとおれを見つめてきた。
「……なんだ? あ、わかったぞ、おれに惚れたな?」
「ばかなの?」
「うるせい」
「全員で見られると邪魔だけど、ひとりで全部やれっていうつもり? 手伝いくらいしてよね」
「でも、おれ、ぜんぜん知識ないぜ」
「力仕事だからいいの」
「だったらアルのほうが――」
「いいから、手伝ってよ!」
アルはやれやれというように肩をすくめた。
「ごめんね、ハルキ。お願いできるかな?」
「そりゃ、別にいいけど――」
――なんとなく、だけれど。
兄妹のあいだに、不協和音を感じる。
どことなくすれ違うような、互いに相手の音を乱そうとするような――そんな雰囲気があって、おれはついうなずいていた。
「わかったよ、おれが手伝う。その代わり!」
「その代わり?」
「おまえら、おれが手伝ってるあいだに川で遊ぶなよ? 川で遊ぶときはおれを呼べよ?」
「遊ばないわよ、子どもじゃないんだから」
「いや、怪しいね。のけものはヤだからな」
はいはい、とユリアは適当に手を振って食堂を出ていく。
「あ、あの――晴己くんも、リサちゃんも、よろしくね?」
乙音もおずおずと言う。
「大丈夫だ、任せとけ――リサに」
「う、うん――」
それでも不安そうに乙音が出ていって、最後にアルもいなくなると、リサはちいさく息をついて立ち上がった。
「じゃ、さっそく力仕事だからよろしく」
「よしきた。なにをするんだ?」
「まず、アップライトだから屋根を外して――そのいちばん上のところ」
椅子に上り、ピアノの天井部分の板を持ち上げる。
それはなにで止められているわけでもなかったから、簡単に開いた。
「おお、すげえ」
狭いすき間から複雑なピアノの内部が覗けるようになる。
たしかに、そこには無数の弦が張られていて、楽器というよりは機械のなかのような、金属と複雑な機構が入り混じった構造だった。
「次は前の板を外すんだけど、左右に留め具があるでしょ?」
「ん、どれだ――ああ、これか」
「それをくるって回して」
「くるっと……おお、回った」
「そしたら前が外れるようになるから、外して――これはいっしょにやったほうがいいかも。結構重たいから、落とさないようにね。これ落としたら、ピアノはおしまいだから」
「き、緊張させるなよ――」
椅子から下り、鍵盤の真上にある板を慎重に外す。
がこん、と大きな音を立てるたびにおれはびくついてしまうが、さすがにリサのほうは平然としていて、外した板を床に置いた。
そうすればピアノ内部が完全に現れる。
「――なんだ、これ」
つい、そんな声が漏れた。
金属の板に止められた無数の弦、その下には白い帽子をかぶったようなハンマーがずらりと並び、複雑でありながら、信じられないほど構造が美しい。
ピアノの内部は、よくできた機械時計の内部に似ていた。
構造的には単純なヴァイオリンなんかと比べて、ピアノがどれほど科学的で、時代とともに進化してきたのか一目でわかる――ピアノは完璧な楽器だといわれる所以がすこしわかったような気がした。
「すごいでしょ」
リサは誇らしげに言って、じっとピアノの内部を覗き込んだ。
「うん――弦も傷んでるけど、でもまあ、替えもないし、プロが使うようなものじゃないなら交換は必要なさそう。ハンマーも壊れてないみたいだし、切れてる弦もないし――これならすぐ直るわ」
「ほんとか」
「まあ――すぐって言っても、四、五時間はかかるけど」
「ご、五時間も……」
でも、たしかに。
これだけの数の弦を一本一本調律しようと思ったら、そのくらいの時間はかかるかもしれない。
「ほら、ぼんやりしていないで、次は鍵盤の蓋を外して。これも重たいから」
「うっす――一、二の三で持ち上げるぞ」
「え、一、二の三の『三』で持ち上げるの? それとも三のあとに一拍置いて?」
「いやどっちでもいいけど――じゃ、一拍置くほうで」
両側から慎重に持ち上げ、鍵盤蓋も外してしまうと、ピアノはすっかり丸裸だった。
弦を支える部分は鉄の板だが、鍵盤の周囲は楽器らしい木製で、どことなく素朴な雰囲気だ。
リサはその丸裸にした状態で、鍵盤をいくつか叩いてみる。
鍵盤を押し込むとハンマーが動き、それが弦を叩いて音が出る仕組み――構造のわりには単純だ、と言うと、リサは鍵盤を叩いて動きを確認しながら、
「これはアップライトだから、複雑なほうだよ。グランドピアノはもうすこし簡単だもん。グランドピアノのなか、見たことあるでしょ?」
「……そういや、ある。っていうかグランドピアノは最初から丸見えだもんな」
「弦の部分は、本当は外部に開いてるほうがいいの。音が内側でこもらないで、外側に出ていくから。でもこういうアップライトは、構造上音が逃げにくいから、どうしてもグランドピアノよりもこもった音になっちゃう」
「ふむふむ、なるほど」
「まあ、場所は取らないから、家とか学校では便利だけど。それに鍵盤もちがうし」
「え、ちがうの?」
じっと見てみるが、同じ白鍵と黒鍵にしか見えない。
リサはなぜかおれを見つめて、ため息をついた。なんだかみんな同じリアクションばかりでおもしろくない。
「いくら声楽科でも、ピアノの構造くらい知らないの?」
「う、仕方ないだろ、おれ声楽科でも途中入学で、それまで音楽なんかやったことなかったんだから」
「なに、それ。あんた、皐月町音楽学校の生徒なんでしょ?」
「一応」
「あの学校に、入学するまで音楽やったことないような生徒がいるわけないでしょ」
「いや、いるんだよ。っていうかおれだし。それまで教会の聖歌隊で歌ってたんだけど、勧誘されてさ」
「……それで、転校?」
「そういうこと。でも、おれ、楽譜読めるようになったんだぜ。おれの音楽的ポテンシャル足るや恐ろしいだろう?」
「いや楽譜なんか小学生でも読めるし――ほんとにあそこの学生なの?」
疑いの眼差しだった。
しかしおれとしても証明できるものはなにもない。
「成り行きって怖いよな」
「成り行きで済ませていいのかどうかわかんないけど」
「で、グランドピアノの鍵盤とはなにがちがうんだ?」
「鍵盤そのものは同じ。ただその構造がちがうの。ここ見て――鍵盤を押したらハンマーが動くでしょ? アップライトピアノは、縦に弦を張るから、ハンマーも前後に動いて弦を叩いたり離れたりするようになってる。鍵盤を押し込んだらハンマーが奥に動いて弦を叩くってこと。で、鍵盤を離すともとの位置に戻るんだけど、このときにアップライトピアノはバネの力を借りるの。グランドピアノはハンマーが上下に動く、つまり鍵盤を押したときにハンマーが持ち上がる構造だから、ただ手を離せば重力で自然ともとの位置に戻る――そういう構造のちがいが鍵盤を連続して押せる速さがちがったりってことになるわけ」
「ふむ、なるほど」
八割方理解できなかったが、それを言うとまた疑いの眼差しを向けられてしまうので、いまは黙っておく。
まあ、わからないことはあとで乙音あたりに聞いてみればわかるだろう。
ユリアに聞いたらまたばかにされそうだが、乙音ならやさしく教えてくれるにちがいない。
「――ここ、ちょっと歪んでるなあ」
リサはひとつひとつの鍵盤を押しながら、そのアクションをじっと観察する。
その横顔は、年下の女の子とは思えないくらい真剣で。
でも――きっと、音楽をやっている人間の横顔は、みんなそんなふうなんだろうと思う。
たぶん、至って真剣な顔をしているか、笑っているかのどっちかだ。
「この鍵盤も沈みが悪いし――ああ、やっぱりいろいろ直すところがありそう」
「おれに手伝えることがあったらなんでも言ってくれよ。とくに力仕事は任せろ」
「もう板を元通りにするまで力仕事はないから、どっか行ってていいよ」
「う、つれないなあ……」
ハエでも追い払うようにリサは手を振ったが、そのまま部屋を出ていくのもしゃくなので、椅子にどかりと座り、リサの仕事を観察する。
リサがちゃんとできるかどうか気になるというより、ピアノの調律なんて見たことがないから、どんなふうに行うのか興味があった。
ピアノは音楽を生み出す魔法の箱だ。
だからピアノの調律師はたぶん、魔法使いなんだろう。
*
食堂でリサと晴己がピアノの調律をはじめているころ。
ユリア、乙音、アルの三人は木崎オーナーに頼み、パソコンで楽譜の物色をはじめていた。
「わあ、ほんとにいろいろあるんだね」
ユリアが操作するパソコンを後ろから覗きこみ、アルが目を丸くした。
「これ、全部ただなの?」
「そう。著作権が切れてるから。現代音楽じゃないかぎり、だいたい全部の曲があるのよ――で、なにをするの?」
「パーティーではあるけど、BGMじゃなくて、ちゃんとぼくたちの演奏を聞いてくれるみたいな雰囲気だから、ちょっと派手目のやつでもいいかもね。やっぱり有名どころがいいか」
「ま、前と同じような感じはどうかな?」
乙音はアルの背中に隠れるようにしてパソコンの画面を見ている。
「有名なモチーフをいくつかつなげて、大部分は即興でやる?」
「それでもいいけど――即興部分は、もうすこし考えたほうがいいかもね」
「どういうこと?」
「前は、それなりに音楽に詳しいひとたちだったからいいけど、今回はそうじゃないから――音楽的表現っていうよりは、単純に音楽としておもしろいもののほうがいいかもしれないよ」
「おもしろいもの、ねえ――有名っていうだけならいくらでもあるけど、おもしろい音楽なんてある?」
「わあ、相変わらずユリアは挑戦的だなあ――そのへんはまあ、なんとか探そうよ。知名度は関係なく、よさそうなものを選んでもいいし――問題は、もうひとつのほうだ」
「たしかにね。クラシックは、まあいいけど、そうじゃないとなったら――まずカルテットをどうするかよね」
「やっぱりそこはハルキをメインにする形でいくのがいいと思うけど」
「あえてヴァイオリンを立たせるって手もあるんじゃない?」
「そうだねえ――」
ふたりはまじめな顔で画面に見入り、ううむとうなる。
その後ろで乙音は、同じように心配しなければならない立場ではあるが、本当はピアノのほうが気になって仕方なかった。
あの調律が狂ったピアノは、ちゃんとした音に戻るのだろうか――それに、いくつか鍵盤にも違和感があった。
そこまで直すというわけにはいかないだろうから、その違和感をちゃんと理解しておかなければ、まともに弾くことはできない。
演奏家にとって、楽器の調子がおかしいというのはいちばんの不安材料だった。
ピアノがちゃんと弾ける状態になるかどうかは、リサと晴己にかかっているのだ。




