第三話 4
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昼食は、すぐ近くの川で採れたというアユの塩焼きを中心とした和風のメニューだった。
食事の準備ができたと呼び出しを受け、男子ふたりと女子三人はすぐにペンションへ戻ったが、男子ふたりはなぜか髪の毛から水が滴っているような状況だった。
「いったいなにしてたのよ、あんたたち」
ペンションへ戻る道すがら、ユリアが聞くと、ふたりはにっと笑って、
「小川で戦争ごっこをしてた。おれ、旧日本兵役。アルはイタリア軍兵士役」
「はあ……子どもじゃあるまいし」
「ばかやろう、男は何歳になっても子どもなんだよ。いやあ、非常に熱い戦いだったな」
「最後はなりふり構わない感じになったけどね」
まあ、ばかふたりが満足ならそれでいいか、とユリアは無視することにして歩いていく。
一方、乙音はなんとなくふたりのことが羨ましそうな顔で、リサはずぶ濡れになったアルを見て呆れた顔をしている――やはりどこの世界でも、男の遊びは女には理解できないらしい。
五人がペンションに戻ると木崎オーナーが待ち受けていて、二階のテラスへと案内された。
テラスは広々としていて、晴己たち五人のほかに、もう一組四人組の客が待っていたが、どうやら泊まっているのはその二組、九人だけらしかった。
しばらく待つと、木崎夫妻によって食事が運ばれてくる。
新鮮なアユの塩焼き、それに山で採れたらしい山菜も加え、和風だが、どこかしゃれた雰囲気のあるメニューだった。
「いただきまーす」
と全員で手を合わせ、食事をはじめる。
晴己はアユの身をほぐし、一口食べて、むっと目を見開いた。
「うまい――うまいぞ、これは」
「うん、おいしいね――リサ、うまくお箸使える?」
「つ、使えるよ、子どもじゃないんだから」
言いつつ、やはり苦労しているリサのためにアルが身をほぐしてやる。リサは箸を咥え、悔しそうにうなっていたが、ほぐした身を食べるとご満悦になった。
「やっぱり生魚より焼いたほうがおいしいね。日本人もなかなかやるじゃん」
「なぜか知らんがほめてもらったな――まあでも、イタリア人もなかなかやるぜ。なにしろ、美人を見たらすぐナンパしにいくしな」
「う、そ、そんなの一部だけだよ。全部じゃないもん」
「ねえ、それより、そろそろ明日やる演奏の打ち合わせしない?」
ユリアは器用に箸を使って魚を食べながら言った。
「なんの曲やるかっていうのもそうだけど、どれくらいやるかもわからないし」
たしかに、と晴己もうなずく。
アルと乙音もすこし真剣な顔になり、取り残されたようなリサはふんと鼻を鳴らして食事に集中した。
「そもそも、どんな場所で、なんのために演奏するのかってことだよな。それによってやる曲もちがってくるだろうし」
「そうだね。盛り上げてほしいなら、舞曲なんかがいいかも。ああでも、楽譜がないか」
「楽譜ならインターネットでどうにでもなるでしょ。版権が切れてるから、全部タダで手に入るし」
「おお、そうなのか――すげえな、ユリア」
「べ、別にすごくはないけど――じゃ、晴己、あとよろしく」
「へ?」
「オーナーに演奏のことを聞いてきてよ」
「なんでおれが?」
「きみのコミュニケーション能力はすごいよ、ハルキ」
アルは晴己の肩をぽんと叩く。
「きみにイタリア人の称号を与えよう」
「いや別にいらねえけど――わかったよ、聞いてくるよ。おれも結構人見知りなんだけどなー」
「絶対うそでしょ。人見知りっていうのは、乙音みたいな子のこと言うのよ」
「え、わ、わたし?」
「むう、たしかに、乙音には負ける」
「うう……そ、そんなに人見知りかなあ、わたし」
自覚なかったのか、と大仰に驚いて晴己は立ち上がる。
そのままペンションの奥にいる木崎夫妻に話を聞きに行こうとしたときだった。
「ちょっと、きみたち――」
「はい?」
晴己たちといっしょにテラスで食事を取っていた三人組が手招きをしている。
それぞれ四十前後の男女で、男がふたり、女がふたりという組み合わせだった。
「おれですか?」
「うん、きみきみ。ちょっといいかな?」
「はあ――なんでしょう?」
「きみたち、もしかして、明日の夜に演奏してくれるっていう音楽学校の生徒さんたち?」
その四人組は、オーナーの木崎夫妻と同じように、にこにことしたひとのよさそうな四人組だった。
晴己は四人組のテーブルに近づきながら、二組の夫婦なのかなと考える。
「そうです――皐月町音楽学校の生徒なんですけど」
「ああ、あの有名な――よかったよ、そんな有名な学校の生徒さんで。いったいだれが演奏してくれるんだろうって、ずっと話してたもんだから」
「そうなんですか――あれ、じゃあ、みなさんもこのペンションの関係者っていうか、オーナーさんの知り合いで?」
「うーん、知り合いってわけじゃないんだけど――もう二十年も毎年通ってるからねえ」
「に、二十年! はあ、それはまた常連さんですねえ――みなさんはご夫婦なんですか?」
「夫婦? やあねえ」
女性ふたりはくすくすと笑って、男性ふたりは照れたように顔を見合わせる。
「いやあ、夫婦ってわけじゃないんだ。高校時代の同級生でね――ま、紆余曲折あって、いまはみんな別々に結婚してて」
「そうなんですか、同級生――じゃあ、毎年みなさんできてるんですね」
「そういうこと。夏の、この時期にね。ここは本当に静かでいい場所だから、一年の疲れを癒しにくるんだよ――ただ」
気のよさそうな男性はすこし目を伏せる。
「それも、今年で終わっちゃうんだけどね」
「終わっちゃう?」
「聞いていないかい? このペンションね、明日で閉鎖するんだよ。ぼくたちはその最後の客ってわけなんだ」
「え――そう、なんですか」
晴己は自分たちがなぜ呼ばれたのか納得できた気がして、ゆっくりとうなずいた。
普通のペンションに、何事もないのにわざわざ音楽学校の生徒が呼ばれるはずはない――なにかあるから、その演出の一環として呼ばれるのだ。
「ぼくたちもここがなくなるのは残念だけど、そればっかりはどうしようもないからね――だから、明日の夜はせめて派手なパーティをしようと思ってるんだ。たぶん木崎さんもそのつもりできみたちを呼んだんだと思うんだけど――そのことで、ちょっといいかな?」
その男はにっこりと笑い、内緒話をするように手招きをした。
晴己は耳を近づけ、話を聞いて、ふむふむとうなずく。
「なるほど、なるほど――じゃあ、おれたちはそれに合わせてなにか弾く、と」
「うん――協力してくれるかい?」
「もっちろん」
と晴己がうなずくと、四人はぱっと表情を明るくした。
「もとはといえばそのために呼ばれたようなもんだし、音楽でできることはなんでもやりますよ。じゃあ、タイミングなんかはそっちで出してもらって、こっちはそれに合わせて動きますんで」
「ありがとう、助かるよ。でも曲は大丈夫かい? 練習の時間が必要なんじゃ――」
「そのへんはお任せください。こう見えても音楽学校の生徒ですから、なんとかやります。じゃ、仲間と打ち合わせてきますね」
ありがとう、と彼らはもう一度繰り返す。
それがくすぐったくなって、晴己は適当にうなずき、自分たちのテーブルへ戻った。
楽しげに悪巧みする彼らの頭上を、清々しい風が遊ぶように通り抜けていった。
*
ペンションの奥、屋内の食堂のような部屋の片隅に、国産のアップライトピアノが置いてあった。
アップライト、つまり普通のピアノが奥に広がりを持つ構造なのに対し、縦に長いピアノは、場所もあまり取らず一般的な家庭に置くにはちょうどいいものだったが、そのピアノ自体は、もう十年以上使われていないものらしい。
――ピアノを見てみたい、といって部屋に案内してもらった乙音は、あまり弾いた経験がないアップライトのピアノをしげしげと眺める。
「ここをオープンするときに知人から譲ってもらったものなんだけど、なかなか弾けるひともいなくてねえ。それでも昔は定期的に演奏家を呼んで、弾いてもらったりしていたんだけど、ここ最近はそういうこともなくて――一応埃は取っておいたけど、まだ弾けるかな?」
「た、たぶん――大丈夫だと、思います」
「そう、よかったよ。この部屋は明日まで使わないから、練習したかったら自由にしてくれていいよ」
「は、はい――ちょっと、弾いてみます」
それでも、木崎オーナーが部屋からいなくなるまで、乙音はピアノの鍵盤には触れなかった。
ここ一、二ヶ月ほどのあいだにいろいろあり、人見知りはいくらか改善されたものの、そう簡単に社交的な性格にはなれない――乙音は広い部屋にひとりきりになって、ほっとしたように息をついた。
アップライトピアノの黒い外装は、埃もなくぴかぴかと真新しい光を放っている。
鍵盤もきれいで、一見、異常は見られなかった。
これなら、と乙音は、中央のドを押してみる――普段よりもすこし軽く、ぎこちない鍵盤の感触。
そして、ぽん、と音が出る。
「――え?」
気のせいか、と思って、もう一度同じドを鳴らしてみる。
構造上、アップライトのピアノはグランドピアノのような広く深みのある音響はむずかしく、どうしてもわずかにこもったような音になるのは乙音も知っていたが――それ以前に。
「――乙音、ピアノのほうはどう?」
食堂の入り口に、ユリアの金髪がひょいと覗く。
乙音はそれを振り返り、泣きそうな顔で言った。
「ゆ、ユリアさん――どうしよ」
「なに、どうしたの。アップライトは弾けないの?」
「ううん、そうじゃなくて――音が、ちがうの」
*
晴己は明日の演奏のために木崎夫妻と打ち合わせ、乙音はピアノを見にいって、ユリアはその様子を見にいっている。
つまり。
いま、二階のテラスにいるのは、アルとリサの兄妹ふたりきりだった。
すこし離れたテーブルにいた四人組の客も部屋に戻って、静かなテラスに、紅茶のカップがソーサーに触れる金属的な音だけが響く。
「――いいとこだね。ここは」
アルがぽつりと言った。
「イタリアの山とはまたすこしちがうね。こっちの山は、やっぱりそれほど過酷じゃないし」
「――そんなこと、別にどうでもいいけど」
リサは唇を尖らせて、横目でアルをにらんだ。
「アル、なんかあたしに隠してることあるでしょ?」
「隠してること? さ、さあ、なにかなあ、ぼくは知らないけどなー」
そっぽを向き、吹けない口笛を拭くアルは、露骨に怪しすぎてむしろ後ろめたいことはないのかと思うくらいだった。
しかしリサは、兄がそれほど器用でないことを知っている。
むしろ不器用の最たる例で、生き方にしてもなんにしても、アルほど不器用な人間を知らないくらいだった。
だから、追い詰めるのは不本意だが、本人が言わないつもりでいるなら仕方ない。
「アル、なんでコントラバスなんかやってるの?」
「――それは、音楽学校の生徒だからね」
「でも、おかしいじゃん――学校には、クラフト・リペア科で受験したはずでしょ?」
アルはなにも言わず、紅茶を一口飲んだ。
「いまもクラフトをやってるんだと思ってた。自分のヴァイオリンのひとつでも作って、ちゃんと勉強してるんだって。なのに、コントラバスなんか持って、演奏旅行だなんて――きっとお父さんもそんなつもりでアルを日本に行かせたわけじゃないと思う」
「わかってるよ、そんなことは」
――アルには珍しく、苛立ったような口調だった。
「ぼくは、自分がなにをしてるのかわかってる」
「――じゃあ、もうクラフトはしないってこと? 弾くほうに回るの? うちの工房を継がないってこと?」
「そうまでは言ってないよ。そりゃあ――工房は、継ぐさ。継がなきゃいけないんだ、わかってるよ。でも――ぼくはただ、父親のあとを継ぐために生まれてきたわけじゃない。ぼくにはぼくの人生があるんだ。ぼくの人生はぼくが決める」
その言葉は、リサの知るアルが言うような言葉ではなかった。
リサのなかのアルはもっと気弱で、親の言うことに逆らえるような人間ではなかったし――ましてや、自分のことは自分で決めるなんて、堂々といえるような強気な人間ではなかった。
――たった二、三年。
そのあいだに、アルはこの国でリサの知らない青年になっていた。
「――クラフトが、いやになったの?」
リサは、自分がなぜか涙声になっていることに気づいた。
なにが悲しいのかはわからない――知っていた兄がいなくなったことが悲しいのか、別のなにかが悲しいのかわからないまま、涙が出てくる。
「いやになったわけじゃないよ」
アルは妹の変化に気づいていたが、どうしようもないというように首を振った。
「いやになったわけじゃない――でも、クラフトよりもやりたいことがあるのはたしかだ」
「それが、コントラバス?」
「そう――だね」
「どうして?」
「さあ、そんなことわからないよ。リサだって、どうしてクラフトをやってるのかはわからないだろ?」
「わかるよ――あたしは、それが好きだから」
アルは驚いたように妹を見つめた。
リサは椅子を蹴って立ち上がり、ペンションのなかに戻りかけて、
「アルのばーか!」
べっと舌を出して、今度こそ屋内へ入っていった。
ひとりになったアルは背もたれに身体を預け、ぐっと喉をのけぞらせて空を見た。
青い空。
白い雲が、ぽつりぽつりと浮かんで流れる。
空の色は透き通り、浮かぶ雲の色も牧歌的で、ゆったりと気楽に揺れている。
「――たしかに、いつまでもこのままでいるわけにはいかないよなあ」
逃げる、ということにも限度がある。
子どものうちはそれでもいいかもしれない。
いやなものから顔をそむけ、好きなものを探すために遠回りをしても――でも、もうそれが許される年ではなくなっているのかもしれない。
アルはくせっ毛を掻き上げ、自分はもう十七になったのだと他人事のように思い出した。
十七歳、といえば、もう子どもではないのかもしれない。
逃げまわっているだけでも許される年では、ないのかもしれない。
なにが好きか。
なにがきらいか。
なにをすべきか。
なにをしたいか。
アルは不意に泣きたくなる。
自分の人生を振り返って、まだなにも成し遂げられてはいないし、これからもなにかを成し遂げられそうにはない――この世界は残酷だ。
音楽がだれよりも好きだという人間より、音楽の才能がだれよりも秀でている人間がもてはやされる。
好きでも、才能がなければどうしようもない。
ただ好きなだけなら大勢いるのだ。
有名な音楽家は、みんなアルの年にはそれなりの成功を収めていた。
たとえば、晴己やユリア、乙音だって――。
「――だめだ、そんなの」
アルは慌てて首を振り、椅子から立ち上がった。
自分が考えようとしたことが恐ろしく、いつの間にか手のひらにじっとりと汗をかいている。
「絶対、だめだ――ハルキたちはみんな大切な仲間なんだ。ぼくは、いったいなにを考えてるんだ」
ぶんぶんと何度も首を振る。
余裕がないのだ、とアルは思う。
余裕なんてあるはずがない――もう十七歳、いまからなにかをはじめるには、遅すぎる気がする。
この世界は、子どものころからずっとやり続けて、もしかしたら死ぬまで目が出ず、死後にやっと評価されるかもしれない世界だ。
ある程度成長してから音楽をはじめ、成功を収めた人間はほとんどいない。
そう考えるなら、十七歳は、決して若くない。
アルはテラスの手すりをぎゅうと握りしめた。
痛いほど握りしめて――こんなことをしても無意味だと感じて、息をつく。
晴己が戻ってきたのはそのときだった。
「おお、アル、まだここにいたか――さっき、下でリサちゃん見たぜ。すれ違っただけなんだけど、すげえにらまれた」
――晴己はまるでのんきだった。
アルは晴己に背中を向けたまましばらくじっと動かずにいて、ようやく笑顔を浮かべられるようになってからくるりと踵を返す。
「ごめんね、ハルキ。あの子、どうも気難しくってさ。昔からなんだけど――」
「いや、別に気にしてないよ。あれだろ、一種のツンデレだろ?」
「うーん、デレがあるかどうか……」
「っていうかそんなことは別にどうでもいいんだ。ちょっときてくれよ、ピアノのほうで問題があったみたいでさ」
「問題?」
首をかしげながら、アルは晴己に続いて屋内へ戻った――そのときにもまだ、心のなかにある薄暗いものは、消えていなかった。




