第三話 3
3
朝の時間帯、都心から離れていく下り路線は空いている。
しかしその四人プラスひとり組は全員が大荷物で、空いている車両の座席ふたつほどをすっかり占拠してしまっていた。
がたん、ごとん――と電車は進む。
ビルのすき間を縫うように進み、細々した住宅街をゆっくり抜けて、やがて田んぼやらなんやらの田舎らしい風景が見えてきた。
そこで一度電車を乗り換え、長野へ向かう。
広い県内へ入ったところでまた電車を乗り換え、今度はローカル線で最寄り駅を目指す。
目的地は松本市の南西、伊那市の外れだった。
伊那市までは電車でたどり着けるが、そこから最終目的地であるペンション木崎まではバス移動しかない。
自然豊かな伊那市の風景を堪能する間もなく四人プラスひとりは大荷物を抱えてバスに乗り込み、山道を揺られること四十分、ようやくペンション木崎の前まで到着した。
学校を出てからだいたい三時間、早朝に出たのに、着いたころには太陽も空の高くに昇っている。
「はあ、ここがペンションかー」
晴己はアルの荷物を抱え、広々とした駐車場からその建物を見た。
西洋ふうの、レンガ造りを模したような建物だ。
なかなか大きな建物ではあるが、周囲の森が深いせいもあって、森のなかに埋没しているようにも見える。
建物の前には駐車場があり、そこがバス停にもなっていて、バス停の名前はそのものずばり「ペンション木崎前」だった。
晴己はうんと伸びをして、山のなかの澄んだ空気を肺いっぱいに取り込んだ。
こういう場所にきてみて、はじめて気づく――普段はやはりそれなりに空気が汚れた場所にいて、そのなかですっかり慣れてしまっているのだ。
木々に囲まれ、酸素が豊富なこの場所は、そこに立っているだけで身体の内側から洗われていく気がした。
また、気温も町中ほどは高くない――小高い山の頂上付近にあるせいだろうが、暑すぎず寒すぎず、避暑にはちょうどいい気温だった。
それに、なにより。
このあたりは、空が青い。
町中の白んだ空ではなく、本当の濃い青色だった。
風が吹けば木々が揺れ、葉擦れの音があたりを駆け抜ける。
ときおり甲高く鳥が鳴くが、その姿までは見えなかった。
風に木々、鳥たちのさえずりは、原始的な、この地球自体が奏でるひとつの音楽だった。
晴己はしばらく目を閉じ、近くや遠くでざわめく自然の音を聞いて、にっと笑う。
その様子をリサが不審そうに眺め、アルの服の袖を引っ張った。
「ねえ、あいつ、なんで笑ってるの?」
「さあ? でもまあ――気持ちはわかるよ」
アルもどこか楽しげに言って、コントラバスを押した。
「ハルキ、まずオーナーに挨拶しに行かなきゃ」
「おう、そうだな――じゃ、行くか」
*
ペンション木崎のオーナーは、いかにもこのペンションが似合うような、髭面の大柄な男だった。
どうやら夫婦で切り盛りしているらしく、対照的に小柄な夫人もいっしょにいて、ふたりの共通点はといえば、常ににこにこと笑っていることだった。
「いやあ、こんな田舎までよくきてくれたね。遠かったでしょう。本当にお疲れさま」
「いえ、こっちこそこんないいところに呼んでもらえてうれしいです――精いっぱいがんばって演奏しますんで」
晴己はそう言いながら、ちらと後ろを振り返った。
ペンションを入ってすぐのところは土産物屋になっていて、ほかの面々はそこでさっそくなにかないかと物色しているが、そのなかに本来ここへくる予定ではなかった人間もひとり混ざっている。
そのことについて、これから交渉しなければならないのだ。
こういう役目はいつもおれなんだもんな、と晴己はちょっと拗ねたように考えながらも、おずおずと切り出す。
「あの、それで、ちょっとした問題があって――いや、問題ってほど大したことじゃないんですけど」
「どうかしたの?」
「実は、四人、カルテットを招いてもらったんですけど、道中でなぜかひとり増えて五人組になっちゃって――それであの、お金のほうはなんとかしますんで、もうひとり分、部屋を用意してもらっちゃったりなんかしたりしちゃうことは、ま、できませんよねー」
あはは、と空笑いする晴己に、木崎夫婦は顔を見合わせてくすりと笑った。
「そんなことなら、なんの心配もいらないよ。部屋はたくさんあるし、お金のことも大丈夫。こんなところまできてもらったんだから」
「ほ、ほんとですか? よかったー。実はそんなに金も持ってなくて、不安だったんですよね。いやあ、太っ腹ですなあ、オーナー」
「はっはっは、まあねえ。ビールばっかり飲んでたらこんなお腹だよ」
「まあ、あなたったら――」
三人の笑い声が響くと、土産物屋のほうでユリアがぽつりと、
「あいつ、どこにでもすぐ馴染むわね。どういうコミュニケーション能力してるのかしら」
「う、す、すごいよね、晴己くん」
乙音はどこか羨ましそうな視線だったが、ユリアはそうでもないようで、ため息をつきながらペンション木崎と書かれたキーホルダーを弄んでいた。
「えっと、女性が三人、男性がふたりになったんだね。じゃあ、女性の部屋をもうひとつ大きな部屋に移そうか」
「ありがとうございます、そうしてもらえるとありがたいです」
「じゃあ案内するよ」
「はい――おーい、愉快な仲間たち、部屋に行くぞー」
はーい、と愉快な仲間たちは返事を返し、木崎オーナーのあとに従ってペンションを出た。
「ペンションのなかに部屋があるんじゃないんですか?」
「うん、ペンションのなかにもあるにはあるんだけど、楽器の練習もあるだろうし、独立した部屋のほうがいいと思ってね」
ペンションの裏口から外へ出ると、森のなかに向かって一本の道が伸びていた。
途中、何号室はあっち、何号室はこっち、と立て札が出ていて、それに沿って森のなかを歩いていく。
晴己は生まれてこの方、これほど大自然に囲まれたことはなかったから、不思議な気分で森の息吹を聞いていた。
ここには車もなく、飛行機も飛ばない。
ひとの足音も、話し声もしない。
町の雑踏を作る音はここにはひとつも存在しない。
だから静かなようにも感じるが、耳を澄ませば無数の音が聞こえてくる。
とくに風に木々がさらさらと鳴くのは、本当に森が呼吸をしているような音に聞こえた。
道を歩いていくに従って、小川が流れる音も聞こえてくる。
その近くで木崎オーナーは立ち止まり、右手と左手に分かれた道を示した。
「右側、十八号室を女性部屋、左側の十九号室を男性部屋に使ってください。鍵はそれぞれ渡しておきます。それから、十九号室から下りたところに川があるから、そこで遊ぶときは足元に注意してください。あと、雨が降りそうだというときには、川には近づかないこと。あとはそうだなあ――迷子になるとあれだから、日が暮れてから森の奥へ入るのはやめたほうがいいね。昼食や夕食は準備ができると内線で連絡するから」
「了解っす」
「じゃ、またお昼に」
男性部屋の鍵は晴己が、女性部屋の鍵はユリアが受け取った。
「それじゃあ女子諸君、また会おう」
晴己とアルは手を振りながら別れ、手を振り返したのは控えめな乙音だけだったが、ともかく十九号室へと向かった。
道といっても、もちろん舗装はされていない。
ただ草を切り開いただけの土の地面で、そこをごろごろと押すと振動が激しいから、アルは大きな楽器ケースを苦労して持ち上げて進んだ。
十九号室はちいさな山小屋のような作りだった。
鍵を開けてなかに入ると、とたんに木の匂いに包まれる。
「おー、いい感じの部屋だな」
「だねえ」
部屋数はリビングを入れてふたつ。
奥に寝室があり、大きな窓からはすぐ近くにある小川の様子も見てとれた。
とにかく荷物を置き、ふうと一息つく。
三、四時間かけてここまでやってきたが、まだ時間は十一時にもなっていない。
昼まではまだ一時間ほどあるし、そのあいだのんびりしてもよかったが、ここまできてのんびりするというのもなんとなくもったいない気がした。
晴己とアルは顔を見合わせ、どちらともなくにやりと笑う。
「行くか、アル」
「行こうか、ハルキ」
ふたりは荷物のなかから水着を発掘し、それに着替えて元気に部屋を出るのだった。
*
乙音にとっては、目に映るものすべてが新鮮だった。
乙音は子どものころから都会で暮らしてきて、いままで旅行らしい旅行はしたことがない。
当然、山にも海にもほとんど行ったことがなかったから、このペンションはまったくはじめて見る新世界のようなものだった。
七月の陽気に揺れる緑、見たこともないような青い空、鳥のさえずりに小川のせせらぎ、肺に満ちる真新しい空気――そのすべてが乙音にとって新しいもので、興味は尽きなかった。
女性部屋、十八号室に入ったあとも、乙音は窓辺に張りついて、ぼんやりと森の木々が揺れる様子を眺めていた。
ユリアは座敷わらしのような乙音の後ろ姿を眺めながらソファに座り、ふうと息をつく。
学校を出てから三、四時間――もう半日ほど動いた気分ではあったが、時計はまだ十時を過ぎたところだ。
昼食までもしばらくありそうだし、どうしようか、と視線を巡らせたところに、まだユリアや乙音を警戒しているらしい顔つきのリサが目に入る。
ユリアは、ちょっとコミュニケーションをとってやろうか、という気になった。
道中ではとくに話もしなかったが、リサが持っている大きな荷物の正体も気になるところではある。
「ねえ、あんたさ」
「なに?」
リサはきっとユリアをにらんだ。
なんとなく嫌われているらしいことは察知しているユリアである。
しかし別に気にもせず、
「わざわざアルに会うために日本まできたの?」
「別に――偶然っていうか、なんていうか。アルはどうでもいいけど、日本にはこなくちゃいけなかったし」
「なんのために? イタリアからじゃ遠いでしょ」
「受験よ」
「へえ――じゃあ、受かったらうちの学校に通うのね。担当楽器は?」
「ない」
「ない?」
「楽器なんか、弾かない」
――それはつまり。
「クラフト・リペア科ってこと?」
リサはこくんとうなずいた。
なるほど、とユリアも納得する――それなら、大荷物はそのための道具にちがいない。
クラフトやリペアは音楽家には欠かせないものではあるが、区分けするなら音楽家というより職人に近い。
古い時代は工房に弟子入りし、師匠から技術を盗みなり学ぶなりするしかなかったが、いまではそれも学校で学ぶことができる――ただそれは厳しい道のりで、あるいは音楽家として成功するよりもむずかしいことかもしれない。
「でも、その年でクラフト・リペア科を受験するなんて珍しいわね」
皐月町音楽学校は、クラフト・リペアの分野でも一流の人材を育てていたが、そのほとんどは音楽家からの転身、つまりヴァイオリンやピアノ科で受験したあと、クラフト・リペア科へ移動する人間がほとんどだった。
理由は単純だ。
音楽をやればやるほどクラフトやリペアの必要性や偉大さがわかってくるから、必然的にある程度音楽を学んだあと、クラフトやリペアに移る人間が多くなる。
入学当初からクラフト・リペア科を受験する人間は十人に満たないにちがいない――それもリサのような年ごろの少女ともなれば、おそらくクラフト・リペア科では最年少の受験者だろう。
それはつまり、リサはこの年にして、音楽の本質を――音楽とは楽器を使って奏でるものだというごく当たり前の、しかし見落としがちな事実を理解しているということになる。
「なにか、クラフト・リペアに縁があるの?」
「縁っていうか――家が、そうだし」
ぶっきらぼうだが、無視するわけではないリサだった。
素直じゃないんだから、とユリアは自分のことをかなり高い棚に上げて思う。
「家が工房なの?」
「そう。昔からね」
「へえ――じゃあ、アルもそうなのね。いまはバスなんかやってるけど」
「そういえば……ねえ、なんでアルは――」
リサがなにか言いかけたのを遮るように、森のなかからひとの声が聞こえてきた。
「ふっふっふ、ここで会ったが百年目――いざ、決着をつけようぞ!」
「望むところだ、いざー!」
「……あのあほふたりは、なにをやってるの?」
乙音がうすく開けた窓から、遠くからでも間違えようがない晴己とアルの声だった。
「なんか、川で遊んでるみたい」
乙音はその声を聞きながらくすくすと笑う。
ユリアはため息をつき、ソファにぐったりと身体を預けた。
「移動で疲れてるでしょうに、元気ねえ、ばかって。ほんとは遊んでるひまなんかないはずだけど。まだなんの曲をやるかも決めてないし」
「わ、そっか――わたしも、まだピアノ見てないや」
「……あんた、ピアニストなの?」
リサはじっと乙音を見つめた。
その視線になにかを感じて、乙音はぎこちなくうなずく。
「ふうん、ピアニストね――じゃあ、あっちの、声のでかい男も?」
「あれは声楽よ」
とユリアが応える。
「だから声がでかいの。まあ、ばかだからっていう理由もあるけど」
「声楽……? ねえ、あんたたち、カルテットなんでしょ? 編成がおかしくない?」
「おかしいカルテットなの。ヴァイオリン、声楽、ピアノ、バスのカルテットだからね」
「……なに、それ?」
さあ、とユリアは答え、自分でも改めてなんだろうと考える。
カルテットといえば、ヴァイオリン二挺、ヴィオラ一挺、チェロ一挺と相場は決まっている。
なかにはすこし変則的なものもあるが、弦楽四重奏といえば、まずこの四つだ。
楽譜も当然、その楽器用に作ってある。
音階や弾き方、音の響き方まで計算されているから、本当なら弦楽四重奏曲をそれ以外の編成で弾いたりはしないが――急場とはいえ、たしかに変といえばあまりに変な四重奏の編成だった。
でも――。
ユリアは、このカルテットのことを、それなりに気に入っている。
もちろん口には出さないし、表情にも出さない――つもりでいるが、本当のところはなかなかおもしろい組み合わせだと感じている。
本来弦楽四重奏に含まれる楽器はユリアのヴァイオリンだけ――つまり正当な音を奏でられるのはユリアひとりだけだ。
もし、それに対してほかの三つの楽器がそれぞれのパートを肩代わりするだけなら、この編成はまったく意味をなさないに違いない。
パートを肩代わりするだけなら、ちゃんとした弦楽四重奏のほうがよほどきれいだ――もともと、四つの弦楽器で調和するようにと作られている音楽なのだから。
だから、真正面から取り組むのでは意味がない。
むしろ真横から、作曲者が考えもしないような位置から捉え、四つの楽器で自由に演奏するからこそ、このカルテットはおもしろい。
ユリアは試験のために一時的に組んだ、ちゃんとした構成のカルテットを思い出す。
あれは――音響的にはしっかりと安定したカルテットだったのだろうが、ユリアはどうしても馴染むことができなかった。
通常の編成のカルテットでは、ユリアの自由奔放で力強い、即興を多くふくんだ演奏にはついてこられない。
どうしてもユリアのヴァイオリンだけが抜け出すような形になって、四つの楽器のバランスが崩壊してしまう。
しかしこのカルテットは、たとえば同じA音を同時に奏でるだけでも、それぞれの楽器が抜けて聞こえる。
つまり、ヴァイオリン、声楽、ピアノ、コントラバスは、そもそも音響的に一致しないから、ひとつの楽器が別の楽器に埋もれることがない。
どれだけユリアが自由奔放にヴァイオリンの弦を響かせても、その音に声楽やピアノ、バスが負けてしまうことはなく、同じだけの強さでもって押し返してくるのだ。
――その心地よさは、ちょっと、くせになる。
とくにこのカルテットで奏でたときの、すこし不安定な雰囲気もユリアは気に入っていた。
安定しきって、聞いていてほっとするような音楽は、ユリアは音楽とは認めていない。
もっと聞いている人間を圧倒する、兵器のような音楽――攻撃のような音楽こそ真の音楽だと思っているから、聞いている人間を決して安堵させないカルテットの音色は、ユリアにとって理想に近かった。
思えば――ルームメイトが言っていたことは正しいのかもしれない、とユリアは考える。
ユリア・ベルドフは変わったのかもしれない。
ただひとり、孤独に鳴る音楽が至高だと考えていたユリア――だれかといっしょに奏でる音楽など雑音でしかないと考えていたユリアは、いまでも存在している。
やはり、一般的なカルテットやオーケストラは聞く気になれない。
それは予定調和のなかにあるもので、予定調和である以上、衝撃はない。
たとえば――チャイコフスキーの有名な「序曲1812年」にある大砲の音も、どのタイミングで鳴るかわかっていれば驚くことはない。
しかし唐突に、だれも予期していないタイミングで大きく鳴らせばだれもが驚くだろうし、だれもが強い印象を持つだろう。
もちろん、そんな無粋な形で驚かせ、印象を植えつけても仕方ないことではあるが――しかしその予定調和を破るということが、ユリアにとって優れた音楽であるひとつの要因なのだ。
そういう意味では、オーケストラに参加し、演奏がはじまると周囲を無視して独奏する――というのも痛快ではあるかもしれないが、さすがにそこまでするほどユリアも意地悪ではないから、自然とだれにも迷惑をかけない独奏で自分なりの音楽を追求することになっていた。
しかし。
このカルテットには、はじめから音響的調和など存在しない。
音響的調和が存在しないところからはじまっているから、あとは各々が自由にやるだけだ。
いくつかのモチーフと即興だけで作られる音楽――演奏している人間も先の展開がわからないのだから、聞いている人間が予想できるはずもない。
結局のところ、ユリアの好みはなにも変わっていなかった。
ただ――自分の音楽を他人と表現できる場を得た、というだけで。
「ぐわっ、顔面は卑怯だぞ!」
「へへ、そんなルール決めてなかったもんね」
「くそう、やりやがるな、イタリア人め――これでも喰らえ!」
「ぎゃあっ――タンクまるごと攻撃は国際法で禁止されてるよ!」
「知ったことか、こうなったら道連れじゃ!」
「――ほんと、元気ねえ、あいつらは」
窓の外から聞こえてくる声にため息をつき、それから、ユリアはすこし笑った。




