第三話 2
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空港には様々な人種の、様々な国籍の人間がいる。
もちろん、日本人が多い。
これから出国する人間、帰国した人間――日本人はみんな同じ顔をしている、と少女は思ったが、きっと日本人からすればヨーロッパの人間もそうなんだろうと考えて、自分もきっと周囲に埋没しているはずだと感じていた。
――しかしながら。
その少女は、ひとが行き交う空港でいささか目立っていた。
なにしろ十三、四歳という年ごろの女の子がひとり、空港のロビーにどかりと座り、不機嫌そうに腕を組んで、道行くひとびとをじろじろとにらみつけているのだ。
しかもそれが赤毛の、童話に出てきそうなそばかすの愛らしい女の子となれば、当然人目を惹く。
おまけに彼女は大きな荷物を足元に置いていた。
ただのスーツケースではない。
それよりもさらに一回りちいさな、ビジネスマンが持ち歩くノートパソコンケースのような黒い鞄だった。
道行くひとたちは、それぞれ頭のなかで、なぜ少女がその場所で不機嫌そうにしているのか、ストーリーを考える。
たぶん、日本へ家族旅行へきたはいいが、空港で家族がトイレかなにかに行っているあいだ荷物を任され、しかもその家族がなかなか帰ってこないせいで不機嫌そうな顔をしているにちがいない――。
あるいは、その無骨な鞄になにか秘密があって、並々ならぬストーリーが潜んでいるのかもしれない。
たとえばその鞄には決して気づかれてはいけないブツが入っているとか――まさかなあ、とだれもが少女の前を通り過ぎ、次の瞬間には赤毛の女の子のことなんてすっかり忘れてしまう。
しかし少女は、その場からじっと動かなかった。
一時間、二時間、三時間――五時間、六時間経っても動かなかった。
もちろん、苛立たしげに立ち上がったり、トイレに行ったり、荷物をがらがらと引いて空港内にあるレストランに行ったりはしたが、結局は同じ場所に帰ってきて通行人を眺めていた。
それがほとんど丸一日続いた。
彼女が来日してから二日目の朝、ついに少女はばっと立ち上がり、
「無視か!」
と叫んだ。
早朝から出国のために空港へきていた人間たちは突然の声にびくりとして立ち止まったが、少女のほうでは気にした様子もなく、ふんと鼻を鳴らし、荷物を引いて空港を出る。
「無視とはいい度胸だ――こっちから乗り込んでやる。っていうかアルのくせに妹を無視するとかどういうつもり? ばかじゃないの――ああでもアルはばかだしな。やっぱり、ひとりでこんなところに行かせるべきじゃなかったんだ。あのばかのアルが、こんなわけのわからない国でやっていけるはずないんだもん」
多方面にくまなく暴言を吐きながら、少女はタクシー乗り場へ向かった。
早朝からご苦労なことに、五、六台のタクシーが待っている。
少女は先頭のタクシーを覗きこみ、親指を立てて、ぐいと自分の後方を指した――どうやらトランクを開けろ、ということらしい。
少女は苦労して大きな荷物をトランクに積み込み、後部座席に乗り込む。
運転手はルームミラーで少女の顔をちらと確認し、困ったように、
「あー、ちょっと、きみ、日本語は通じるかなあ――ご家族の方はいないのかい?」
「いる。いまから迎えに行くの。早く出して」
十三、四歳とは思えない堂々たる指示だった。
腕と足を組み、後部座席でふんぞり返る姿はまるでわがままな金持ちの娘のようだ。
実際そうなのかもしれない、と運転手は思い、面倒なことに巻き込まれなければいいがと扉を閉めた。
「どちらまで?」
「皐月町」
「さつき町? ああ、上月市のことだね、音楽学校がある」
「その音楽学校まで行って」
ふむ、と運転手は息をつき、アクセルを踏んだ。
ゆるやかに車が加速し、空港の車回しを出て、ほとんど対向車もない道を行く。
「きみも、受験生かい?」
運転手はルームミラーで少女の顔を見て、その苛立ちを和ませるように言った。
「たまにいるんだよ、皐月町音楽学校へ行ってくれっていう外国人の家族とか――なんでも、みんな受験のために行っているらしいね」
「受験じゃない。ばかな兄を迎えにいくの」
「へえ、お兄さんを――じゃあ、お兄さんがそこの生徒なの?」
「そう」
「じゃあ、未来の音楽家だ。すごいねえ」
――この運転手は、自分の言ったことをどれくらい理解しているんだろう。少女は後部座席でふんと鼻を鳴らした。
音楽家がすごい、なんて、そんなのは、ただの妄言だ。
言ってみれば現代の勘違いにすぎない。
音楽をやっている、といえば、多くの人間が「すごい」という。
しかし彼らはその「音楽」がなんなのかをわかっていない。
とくにクラシックの音楽家がどんなふうに暮らしているかなんて。
音楽家という響きのいい呼び方とは対照的に、その世界はあまり裕福ではないし、成功を収める人間はごくわずかしかいない。
それに、だ――いちばん成功を収めている人間ですら、ポピュラー音楽の、つまりヒットチャートの一位に輝くような音楽の人気者には収入面でも知名度でも遠く及ばない。
ビートルズとカラヤンなら、ビートルズのほうが圧倒的に有名だ。
なかには、現在ではそうだが、五十年後には逆転している、という人間もいる――それこそおかしな話だと少女は思う。
自分が死んだあとで有名になって、なにがうれしいのか。
お金だって、生きているうちに稼がなければどうしようもない。
要は――音楽家なんてものを目指す人間は間違っている、ということ。
夢を見すぎている、といってもいい。
現実はそれほどやさしくない。
むしろ現実はいつだって厳しい。
だから――夢を追うなんて無駄なことは、しないほうがいいのだ。
「――学校まで、どれくらいで着く?」
「さあて、この時間だから道も空いているし、あと三十分くらいかな」
少女は目を閉じた。
三十分なら充分眠れるだろう。
眠って起きれば――そこは兄の待つ皐月町音楽学校だ。
*
朝の六時四十分。
皐月町音楽学校の正門前に、四人の生徒が勢揃いしていた。
箕形晴己、アルカンジェロ・クレメンティ、ユリア・ベルドフ、小嶋乙音のカルテットだ。
彼らはそれぞれに大きな荷物を持っている――これから三日間の旅行へ向けた荷物である。
ユリアとアルは荷物に加え、楽器ケースも携えていた。
とくにアルの楽器、コントラバスは巨大で、キャスターつきのケースに入れられてはいたが、四人のなかでいちばんの大荷物だった。
そして四人の前には教師の若草雪乃が立ち、これから三日間の説明をはじめる。
「場所や乗り継ぐ電車はさっき言ったとおりよ。忘れないように、ちゃんと覚えるか、なにかに書いておくこと。それから向こうについたらまず依頼主、クライアントに挨拶をすること。あなたたちは皐月町音楽学校の名前を背負っているのよ。あなたたちの態度が、そのまま世間に対する皐月町音楽学校の態度になる。そのあたりもしっかり自覚をして過ごすように。本番ではもちろん、きっちりミスなく演奏すること。それ以外の時間も先方に迷惑をかけないようにね」
「はーい」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
雪乃はくるりと踵を返し、校内へ戻りながらあくびを噛み殺した――生徒たちは元気そうだが、もういい年の大人としては、予期せぬ早起きはこたえる。
「せんせー、行ってきまーす! 土産、なにがいいですか?」
「なんでもいいわ、食べ物なら」
「むう、食べ物限定かあ……」
晴己はむずかしい顔をして腕を組んだが、ともかく、これから旅行に行くのだという高揚感があるから、適当に買えばいいやと片づけ、荷物を持った。
楽器は自分の身体である晴己と、現地にあるピアノを弾くことになる乙音は自分の荷物しかない。その分、どうしても楽器以外には持ちようがないアルやユリアの荷物を分担して持ち、駅に向かって歩き出した。
早朝の町は、どこか澄んだ空気に包まれている。
今日は天気もよかった。
空はうっすらと白んで、明日はすこし曇るらしいが、最終日の夜まで雨が降らないことは天気予報で確認している。
「いやあ、実にいい旅行日和だなあ」
空を見上げたまま、晴己はぽつりと呟いた。
アルもコントラバスをがらがらと引きながら空を仰いで、
「たしかに、いい天気でよかったよねえ」
「その代わり、死ぬほど暑そうだけど」
「でも、これから行くのは結構山奥なんでしょ?」
ユリアは片手にヴァイオリン、もう片方の手でキャリアーを引いている。
「だったらいい天気でも涼しいんじゃない? そのために長袖も持ってきたけど」
「いやいや、ユリア、きみは日本の夏を知らないな? 日本の夏っていうのは、全国的に死ぬほど暑いんだ。そして湿度が高いから、地獄のような体感気温になるんだ。山奥でもそんなには変わらないと思うぜ。唯一の救いは、泊まるホテルのすぐ近くに川遊びができるような場所があるってことだな。海を満喫できない分、川を満喫してやるぜ」
「一応、演奏しにいくってことも忘れないように。まだなにを演奏するのかもまったく決まってないんだから。一応、いくつか楽譜は持ってきたけど」
「試験でやったやつはだめなのか?」
「あんな変なやつを演奏して楽しんでもらえる? あのときは、客は結構クラシックに詳しいひとが多かったからよかったけど、今度の客はそうじゃないのよ。だれでも知ってるような、耳触りがいい音楽のほうがいいわ、きっと」
「って言いながら、実はそんなつもりは毛頭ないんだろ?」
ユリアはにやりと笑い、うなずいた。
「あったりまえでしょ。そんな耳触りがいい音楽なんて雑音と同じよ。食事しながら聞ける音楽なんて邪道、ほんとの音楽っていうのは、自分が存在してることも忘れるくらいその音にのめり込めるものを言うの」
ユリアの強気は相変わらずだ。
ほかの三人もそれを承知しているから、それぞれ苦笑いする。
「山奥のペンションだかホテルだかに本物の音楽を教えてあげるわ」
「おお、なんか決め台詞っぽいな、それ――乙音、言ってみろよ」
「え、ええっ、わ、わたし?」
「そう、ユリアの真似して」
「え、えっと……ほ、本物の音楽を、おお、おし、教えて……うう、恥ずかしいよっ」
からからと楽しげに笑うその横を、一台のタクシーが通り過ぎていく。
アルはふと、こんな時間にタクシーが通っているなんて珍しいな、とその姿を視線で追った。
しかし所詮はただのタクシーで、さほど意識にも残らず、四人は駅へ向かって進む。
風はほとんどない。
東の空には白い太陽が輝き、まだ早朝なのに、記憶はもう三十度近くにまで上昇していた。
天気はとてもいい――アルはコントラバスをがらがらと引きながら髪を掻き上げ、三人からはすこし遅れて歩く。
アルはこのカルテットを気に入っていた。
天才ヴァイオリニストと、天才ピアニスト、そして天性の歌声を持った声楽科。
才能も人柄も文句なしの三人といっしょにカルテットをやっていられるなんて、まるで夢のようだった。
とくに晴己との出会いは偶然のようなものだったし、ほかのふたりにしてもだれかに組めといわれて組んだわけではない――まったく偶然に、まるではじめから打ち合わせていたようにこの四人が集まってひとつのカルテットを組んだということが、ひとつの奇跡だ。
それぞれ担当する楽器を考えても、本来なら出会うことがなかったはずの四人なのだ。
「おーい、アル、どうしたんだ? 重たいのか?」
「――ううん、なんでもない」
アルはコントラバスを引き、先で待っている仲間たちに追いつく。
駅までは歩いて十分ほどで、すぐに到着した。
さすがにそこまでくると通行人もちらほらいるものの、やはりまだ人数はすくない。
大荷物でもあるし、混みはじめる前に町を出ようと、四人はそれぞれ切符を買って改札を抜けた。
ただアルだけは自動改札を通れないほど大きな荷物を持っていたから、駅員さんに手伝ってもらいながらまごまごとしていた――そのときだ。
駅前の車寄せに、一台のタクシーが横付けした。
アルはなんとなくそれを視界に収めてはいたものの、とくに気にせず、慎重にコントラバスを持ち上げて改札の上から通ろうとしていた、が。
「アル!」
タクシーから飛び出してきた赤毛の人影とその声に、アルは完全に動きを止めていた。
*
アルは、へんな格好をしていた。
駅の改札の前で、黒い大きな箱を頭の上で構え、駅員さんに支えてもらって、こっちを見ていた。
そのくすんだ瞳はじっとあたしを見ていたけど、なんだか感情がこもっていないような、びっくりしすぎて事態が飲み込めていないような瞳だった。
「……ま、まさか、リサ?」
「そうよ――アル、なんで迎えにきてくれなかったの? っていうか返事くらい出してよ、ちゃんと届いてるかどうかもわかんなかったんだから」
「い、いや、なな、なんでリサがこんなところに? っていうか、え、な、なんで?」
極度の混乱に陥っているらしい。
その表情を見るかぎり、あえて返事を出さなかったわけでも、あえて迎えにこなかったわけでもないみたいで――ちょっと、ほっとする。
でも、ほっとすると怒りがふつふつと湧いてきた。
「あのね、かわいい妹がわざわざ日本にくるっていうんだから、迎えのひとつくらいくれてもいいし、っていうかどこ行くつもりだったの。危なく行き違いになるとこだったじゃん! 途中の道で偶然見かけたから、慌てて引き返してきたけど――」
「いやだからあのなんでリサがこんなところに――」
「おーい、アル、どうしたー?」
む。
だれかの声。
駅の奥のほうから人影が三つ、こっちに歩いてくる。
うちふたりは、たぶん日本人だった。
残りのひとりはロシア人ふうの女で、それがまず気になる。
なにせ、そのロシア人ふうの女は、見たことないくらい美人だった。しかもスタイルがいい。もしや、と思ってにらんでみるけれど、その女は余裕ぶった顔で首をかしげるだけだった。
「い、いや、ハルキ、ちょっと問題が――」
「どうした、やっぱりバスは重量オーバーか?」
「いやそうじゃなくて――」
「……ん?」
日本人の男があたしに気づく。
じっと見つめ、ふむふむとうなずき、アルの肩をぽんと叩いた。
「わかったぜ、アル。おまえの恋人だな?」
「ちがうよっ。妹だよ、妹!」
「妹? へえ、妹……言われてみりゃ、たしかに似てるな」
「むう、わかってやってるだろ、ハルキ」
「ちょっとな」
ハルキ、という名前らしい日本人の男はけらけらと明るく笑った――その笑顔が、ちょっとアルに似ている。
最後のひとり、日本人の女は、ロシア人ふうの女の背中に隠れたまま、あたしのことをちらちらと見ていた。言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに。
日本人の男、ハルキは、にっこりと笑って改札の向こうから手を伸ばした。
「おれ、箕形晴己――寮ではアルと同じ部屋なんだ。って、日本語は通じるのかな?」
「通じるよ。ぼくが日本語を習ってたころに、リサもいっしょに習ってたから」
「リサちゃんか、よろしくな」
その差し出された手を、じっと見つめる。
なんだか悪いやつではなさそうだった。
仕方なく握手してやると、ハルキはうれしそうにぶんぶんと手を振り回す。
「で、なんでそのリサちゃんがここに? 日本に住んでるのか?」
「いや、イタリアにいるはずなんだけど――っていうかそろそろ腕が限界だからちょっと運んでもいい?」
アルは改札の向こう側に大きな荷物を運び込み、ふうと息をついた。
そういうのんきはところはなにも変わっていない。
「――で、リサ、なんで日本に?」
「なんでって――そりゃあ」
アルの顔を見にきた、というのが本当のところだけれど。
なんとなく、それを口にするのは恥ずかしかったから、ぷいとそっぽを向いてごまかす。
「別にどうでもいいでしょ、理由なんて。っていうか、学校にいるんじゃなかったの? なんでこんな朝早くに――」
「いや、実はこれからちょっと旅行に行くんだよ。学校の行事っていうか、演奏旅行で、三日間の予定なんだけど――なんだ、リサがくるってわかってたらなんとかしたのに」
「手紙、書いたもん」
「手紙?」
「そういえば」
ハルキがぽんと手を叩く。
「差出人の名前が書いてない手紙が何通かきてたな。全部白い封筒だったから、シュヴァルツの餌食になったけど」
「あ、そっか、その手紙か――ごめんよ、リサ、部屋で飼ってる猫が破いちゃったみたいでさ」
「別にいいけど――ねえ、それで、旅行はいくの?」
「え、どういうこと?」
「わざわざこんな遠いところまできた妹を置いて、旅行にいくのかってこと」
「うっ、そ、そう言われてもなあ……」
アルは困った顔で頭を掻く。
会ったのはだいたい二年ぶりだけど――そういうところも、やっぱりぜんぜん変わっていない。
知らない土地で暮らせばすこしは頼り甲斐もできたかと思ったけど、なんだかむしろ頼りなくなったくらいのアルの様子だった。
――こんなふうだから、妹が苦労するんだ、きっと。
「ねえ、なんでもいいけど、そろそろ電車の時間よ。乗り遅れたら向こうとの待ち合わせ時間に間に合わないけど」
ロシアふうの女が言った。
やっぱり、この女はロシア人にちがいない――あんな寒いところに住んでいるから、心や口調まで冷たくなるんだ。
「う、り、リサ、悪いけど、これも仕事みたいなもんだから――三日したら帰ってくるから、ちょっと待っててよ」
「むっ、妹より旅行をとるってこと?」
「そういう言い方をするとあれなんだけど――」
煮えきらないアルの態度。
やっぱり、いらいらする。
それも、こんな遠い国まで飛行機で十時間もかけてやってきた妹を置いて、自分はスタイルばつぐんのロシア女とその他大勢といっしょに旅行へいくというのだ。
このやけに湿度が高くて蒸し暑い国で、心まで冷たいロシア女といちゃつきながら旅行するというのだ。
きみの心は冷たいから夏にはちょうどいいよ、なんてくだらないことを言いながらパリの地下鉄みたいにアホみたいに身体を弄り合って座っちゃったりするというのだ。
そんなこと、許されることじゃない。
いや、あたしが許しても神が許さないし、神が許しても全宇宙の意志が許さない。はず。
――こうなったら。
「じゃあ、あたしも行くっ」
「は?」
「だから、あたしもそこに行くって言ってんの! アルひとりじゃ心配だから!」
「いや、ぼくたちは四人で行くし、どっちかっていうとひとりなのはリサのほうで――」
「うるさいうるさい! いっしょに行くったら行くの!」
アルは困った顔で首をかしげた――せいぜい困ればいいんだ、妹を蔑ろにした罰なんだから。




