第三話 1
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夏休みに入ってすぐの、ある暑い日のことだった。
「いやあ、暑い暑い。ただいまー」
「おかえりー、そしてただいまー」
「おかえりー」
箕形晴己とアルカンジェロ・クレメンティはふたりそろって寮の部屋へ戻ってきて、荷物をどさりと床に置いた。
その物音に驚いたのか、二段ベッドの下で黒猫のシュヴァルツがむくりと起き上がってふたりを見る。
シュヴァルツはそのガラス玉のような瞳でふたりの荷物をさっと見た。
そこに自分の餌が含まれていたら、さっさとそれだけもらって昼寝を再開しようとしているらしい――しかしどうやらその荷物は洋服のようで、シュヴァルツの餌は含まれていなかった。
すぐさまシュヴァルツは興味を失い、ぷいとそっぽを向いて尻尾を振る。
一方、晴己とアルは床の惨状を見て、同時にため息をついた。
「まったく、こいつはやんちゃっていうかなんていうか――まあ、本能的なもんなんだろうけどなあ」
フローリングというより板張りの床には、白い紙の残骸が散乱していた。
もとは手紙だったり、学校から出たプリントだったり、楽譜だったりしたものだ。
どうやらシュヴァルツは白い紙というものが大好き――あるいは大嫌い――らしく、それを見るといても立ってもいられないようで、見つけるとすぐに飛びかかって鋭い爪で引き裂いてしまうのだ。
それが猫の本能なのか、あるいはシュヴァルツの娯楽なのか。
晴己は、どちらかといえば娯楽なのではないかと思う。
なにしろ一日中ベッドで寝ているシュヴァルツだから、紙を相手に格闘するくらいの運動はしないと、どんどん太っていく。
この部屋で飼いはじめて約二ヶ月。
はじめて見たときより、若干重量は増したように見える。
ダイエット用の高級キャットフードも学生の懐にはなかなかきつい。
「そう考えれば、紙が犠牲になるくらいはいいんだけどな」
晴己は紙くずと化したものをまとめてごみ箱に入れ、買ってきたばかりの洋服を取り出す。
「えっと、このTシャツは旅行に持っていくとして、あとパンツも入れなきゃな。なあ、アル、やっぱりトランプはいるよな?」
「そりゃあいるよ、ハルキ」
「むう、そうなってくると鞄のなかがいっぱいになるなあ」
「じゃあ、トランプはこっちに入れようか? ぼくのはキャスター付きだから、重くなっても平気だし」
「おお、そうか、じゃ、そっちに頼む。ついでにジェンガも持っていこうぜ。電車のなかでやると、突然鬼の難易度になるやつ」
「いいねえ、楽しそうだ」
ふたりはにやにやと笑いながら、それぞれの鞄に買ってきたばかりの洋服やらなんやらを詰め込んでいく。
――というのも。
彼らは明日から三日間、旅行へ出るのだ。
そのために今朝は早くに寮を出て、必要なものを買い込んできたのである。
「行き先、どこだっけ?」
「長野県って言ってたよ」
「長野か。じゃ、海はないんだよな」
「でも先生が、きれいな川のそばだから、川では遊べるかもって」
「ほほう。やっぱり水着は必須か。ま、いざとなりゃパンツ一枚で入りゃいいけどな」
――旅行といっても、ただの旅行ではない。
学校からの依頼を受けた、演奏旅行だ。
この学校、皐月町音楽学校の生徒たちは、基本的に授業料は無料で通っている。
その代わり、学生のうちに出演したコンサートの出演料はすべて学校へ入ることになっていて、年長になるに連れ、学校の依頼で様々なところへ演奏へ出かけることが多くなる。
学校としては、もちろん出演料を稼ぐためでもあるが、学校名を広めるためでもある。
そのため、大小様々なコンサートへ出演し、とくに技術を認められた生徒たちは何ヶ月もかけてヨーロッパの各国をめぐるようなツアーを組んで回っていた。
学校は知名度向上と出演料のため、生徒たちは個人ではなかなか出られない大規模なコンサートで経験を積むため積極的に演奏旅行へ出ていくから、二十歳を超えた生徒はほとんど学校へは戻ってこなかった。
――明日からの旅行は、晴己たちにとってははじめての演奏旅行だ。
演奏旅行とは言いつつ、夏休み中だから日程もじっくり取って、遊べる時間も充分にあるらしい。
となれば当然、わくわくもしてくる。
晴己とアルはこれが演奏旅行であることをすっかり忘れ、鞄に数々の遊び道具を詰め込んで完全に遊び気分だった。
とくに、アルに至っては、シュヴァルツがびりびりに破いてしまった白い紙の正体、まだ読んでいなかった手紙に気づくこともなく――。
*
一方、同時刻、同じ寮内の別室では――。
「どうせ三日だし、着替えも大して必要ないわよね。ほかに持っていくものもとくにないし――このくらいで充分か」
「いや、そりゃ充分でしょ。そんなでっかい荷物持って、どこへ何泊で行く気なの?」
ルームメイトの言葉に、ユリア・ベルドフはそんなに多いかと床に置いたスーツケースを見下ろす。
それは、人間ひとりが余裕をもって入れそうなくらいの大きなスーツケースだった。
もちろんスーツケースの中身はいっぱいの洋服である。
いっそ、もうひとつちいさい鞄を持っていこうかと思うくらいで、三日間の旅行なのだからそれくらいは当然だとユリアは思うが、ショートカットのどこか男っぽいルームメイトからすればため息ものらしい。
「三日なら鞄ひとつで充分でしょ。真冬で着るものが多いならともかく、真夏だし」
「でも、Tシャツ三枚ってわけにはいかないでしょ。途中で雨が降るかもしれないし、転んで汚れるかもしれないし」
「意外とそういう心配性なところあるよね、ユリアは」
「う、べ、別に心配性じゃないけど。でもいろんな可能性を想定しておかなきゃ」
「いろんな可能性、ねえ――まあ、なんかの理由で服が汚れたら、裸で過ごせばいいんじゃないの?」
「あなたみたいに?」
「そ」
ユリアは二段ベッドの下にごろんと寝そべったルームメイトを見る。
真冬はともかく、初夏から秋のはじめまで、このルームメイトはだいたい裸だ。
もちろん下着はつけているが、それは彼女にとって最大限の譲歩らしい。
本当なら全裸で過ごしたいところを、ユリアを気遣ってとりあえず下着くらいはつけておいてやろう、ということらしいが、そこまでして脱ぎたがる意味がユリアにはわからない。
――まあ、見せて恥ずかしくない体型だ、というところはあるのかもしれないが。
「いいよー、裸は。楽だし、なにより涼しいし」
「わかったから、ごろごろするのやめてくれる? いろいろ見えそうだから」
「いいじゃん、女同士なんだし。いっしょに旅行するのも女子なんでしょ?」
「約二名、ばかもいるけど」
「女子ふたりの部屋だったら裸でもいいと思うけどなあ。ユリアも、いいもん持ってるし」
「いいもんって言わないでくれる?」
さすがはロシア人、とルームメイトが呟くのを聞きながら、ユリアはスーツケースの中身をもう一度確認する。
着替えに、薬類、あとはちょっとしたお菓子のようなものを入れると、もうスーツケースはいっぱいになってしまう。
やはりもうひとつ鞄を持っていこうかと思うが、当日はそれに加えてヴァイオリンも持っていかなければならないから、どうしても持ちきれない。
ううむ、と悩むユリアの横顔を、ルームメイトは眠たげな目で見ていた。
――美人は卑怯だな、と彼女は思う。
ただ旅行に持っていく荷物を確認しているだけの横顔でも絵になる。
とくに最近のユリアは、もともと美人なのに加え、すこしやわらかくなったように見えた。
「――ユリアさ」
「なあに?」
「最近、楽しそうだよね」
「……はあ?」
眉をひそめ、いかにも心外そうなユリアの顔だった。
「どこをどう見てそう思うわけ?」
「いや、別にどこがどうってわけじゃないけど――なんとなく、ね。全体的に、ちょっと前より楽しそうだなって。前は楽しそうっていうかぴりぴりしてたじゃん。だれにも隙は見せないぜ、みたいなさ」
「そう……でもないと思うけど」
「いーや、絶対そうだったね。でもなんか最近、隙だらけだよ」
「ど、どこらへんが?」
「いまもスカートめくれてパンツ見えてるし」
「早く言いなさいよっ」
ぱっと隠して、むむとルームメイトをにらむ。ルームメイトはけらけらと笑いながら、
「結構前から見えてたよ」
「だから早く言いなさいって」
「昔なら、そういうこともなかったしさ――そもそもパンツ見えてるなんて言える雰囲気じゃなかったじゃん」
「別に、あたしはなんにも変わってないわ」
ユリアはスーツケースに体重をかけて蓋を閉め、ぽんと叩く。
「ずっと昔のままだし、これからだってそうでしょ。もしそういうところが変わったっていうなら、たぶんあたしじゃなくてあなたが変わったんじゃない?」
「……そう、かも。でも絶対、雰囲気が変わったっていうのはあると思うんだよね。全部あたしの印象でしかないとしてもさあ――近寄りがたいなあってまわりに思わせてたのはほんとでしょ? いまは、あんまりそうは思わない。それってやっぱり、ユリアの雰囲気が変わったってことじゃないの?」
「さあ、自分ではわからないけど」
「さては、好きな男でもできた?」
「は、はあ?」
「うそうそ、冗談――ユリアくらい、そういうのが似合わない子もいないよ。美人だけど、そういう雰囲気が全然ないもん。まさに音楽が恋人って感じ」
「別に音楽が好きなわけじゃないけど――ねえ、あなたは演奏旅行とかいかないの?」
「あいにくクラフト・リペア科にはそんなものはないのです。あたしは一日中ごろごろしてるよ。ユリアは楽しんでおいで」
「――楽しんで、ねえ」
旅行といっても、そこには当然、演奏が絡んでくる。
単純に楽しめる旅行とはちがい、一種の仕事のようなものだ。
学生のほとんどは、演奏旅行は本物の旅行だと思っているようだが、ユリアはだからこそしっかり責任感を持つべきだと思う。
将来に渡って音楽家として活動するなら、若い時期にやったひとつの失敗も経歴の傷になる。
ユリアは将来、世界的な音楽家になる予定である。
有名になり、その名前が輝けば輝くだけ、傷は目立つようになる。
ユリアは与えられた仕事をしっかりやり遂げようと決め、ヴァイオリンの手入れをはじめかけたが、ふと思い出したようにスーツケースに戻る。
「そういえば、水着はどうしようかな。持っていってもいいけど、これ以上入るかどうか――」
「……あたしが言わなくても、充分楽しむつもりみたいだね」
ルームメイトがぽつりと言うのも、ユリアには聞こえていなかった。
*
さらに同時刻。
旧寮から新寮へ場所を移して、小嶋乙音のひとり部屋。
「はうう、どうしよう……なにを持っていけばいいんだろう?」
乙音は床に鞄を置き、それをじっと見下ろして、先ほどから独り言を呟いてばかりいた。
――三日間の演奏旅行。
電車に乗って、演奏をしに行く、そのための旅行だが、乙音のピアノは持ち運びできるようなものではないから、すでに現地にあるものを使うことになっている。
となれば乙音は手ぶらで、自分の荷物さえ持っていればよいのだが、その荷物というやつがくせものだった。
そもそも乙音は、いままでの人生で旅行というものに行ったことがなかった。
幼いころから父親が多忙だったこともあり、家族旅行もしなかったし、小学校での遠足や林間学校なども決まって休んでいた乙音なのだ。
旅行、と突然言われても、なにを持っていけばいいのかまったくわからない。
とりあえず、着替えは必要だろう。
三日間だから、三日分の着替えを詰め込むのはいいとして。
その服装は、ちゃんと人前に出られるような服がいいのだろうか。それとも動きやすいラフな格好でいいのだろうか?
演奏もしなければならないから、ドレスとまではいかないが、それなりに舞台映えする衣装も持っていかなければならないのかもしれない。
そうなったら三日分の着替えでは足りなくなる。
それに楽譜のたぐいはどうするのか。
いったいなにを演奏するのか、まったくなにも聞いていないから、用意のしようがない。
「う、うう……どうしよー」
乙音は途方に暮れ、ぺたんと床に座り込んだ。
しかし旅行は明日の朝出発なのだ。
もう悩んでいる時間もない。
そもそも昨日になって突然学校側から頼まれたことだったから、本音としては二週間ほど前から言ってほしかった。
まあ、それはそれで緊張して、二週間のあいだ苦しむことにはなっただろうが――。
「あっ、そうだ」
演奏旅行するのは、なにも乙音ひとりではない。
いつもの四人――カルテットでの依頼だから、ユリアや晴己、アルもいっしょに行くことになっている。
同じ日程、同じ目的で同じ場所へ行くなら荷物もだいたい同じになるはず、と乙音は気づき、ユリアに荷物を尋ねるため、立ち上がった。
新寮を出て、一度庭のほうへまわる。
校内は、夏休みということもあってさすがに静まり返り、楽器の音も聞こえてはこなかった。
歩いている生徒も数少なく、ほとんどは事前に計画していた旅行なりなんなりに出かけている。
乙音は、今年の夏休みもいままで同様学校に残り、外出することもほとんどないまま夏を終えようと思っていたが――今年は、どうもそうはいかないらしい。
しかしそれは、不快な変化ではなかった。
いままでピアノとしか過ごしたことがなかった夏を、友だちといっしょに過ごせるのだ――それほど楽しみなことはない。
乙音は以前に一度、ユリアの部屋へ行ったことがある。
そのときはユリアもそのルームメイトも外出中だったが、部屋の場所はしっかりと覚えていた。
旧寮の古い作りの廊下に立ち、ユリアの部屋の前で深呼吸をして、こんこんとちいさくノックをする。
今日は、部屋のなかでだれかが動く気配があった。
「だれ?」
ユリアの声だ。
乙音はどきりとして、
「あ、あの――お、乙音です」
「乙音? どうしたの――」
扉がぎいと開く。
その向こうに、輝くような金髪の、世にも美しい女の子が立っている。
乙音はいつもこの金髪碧眼の少女に見とれてしまう。
すらりとした体型で、顔はちいさく、目は大きくて、しかも瞳は澄んだ青色――海外のかわいい人形そのままの姿は同性でもどぎまぎしてしまって、じっと見つめているとなんとなく気恥ずかしくなる。
「あ、あの、ユリアさん――明日から、あの、旅行、だよね」
「そうね。あたしもいま準備してるところだけど――それがどうかしたの?」
「え、えっと、その、わたし、こういうのはじめてだから、なにを持っていけばいいのかわからなくて……服とか、ちゃんとしたやつのほうがいいのかな? 向こうで演奏もするっていうし」
「演奏っていっても、別に舞台に上がるわけじゃないでしょ? だったらラフなやつでもいいんじゃないかしら。ああでも、たしかに人前に出るんだし、一着はちゃんとしたやつがいるかもね。あとは――乙音は楽器もいらないし、好きなものを持っていけばいいんじゃない? 水着とか」
「み、みみ、水着?」
「向こうの川で遊べるかもって先生が言ってたでしょ。ま、遊ばないんなら、いらないけど」
「み、水着、わたし、持ってない……」
「そうなの? じゃ、これから買いにいく? ちょうどあたしも新しいの買おうって思ってたし」
ユリアといっしょに買い物、と想像して、乙音は急いで何度かうなずいた。
その勢いに怪訝な顔をするユリアの、すぐ後ろ――半分ほど開かれた扉の向こうに、なにかがさっと横切った。
乙音は一瞬、自分の目を疑う。
「い、いまの――」
「ん?」
とユリアが振り返った瞬間、またそれが、今度は先ほどよりもゆっくり通りすぎようとして、乙音を見つけた立ち止まった。
それは、下着姿の女だった。
「ああ、あれ」
ユリアはため息をつく。
「別に気にしないで。ルームメイトなんだけど、裸をひとに見せるのが好きなんだって」
「ちょっとユリア、その言い方は語弊があるでしょ」
しかしその女は下着姿のまま恥ずかしげもなく近づいてきて、乙音ににっこりと笑いかけた。
「はじめまして。ユリアの友だち? ちっちゃいねえ」
「あ、え、えっと、あ、あの――その」
話そうとすると、視線がつい、胸元やらなんやらに行ってしまう。
乙音がまっ赤になってうつむくと、ユリアはもう一度ため息をついて、ルームメイトを室内に追いやり、自分は廊下に出て扉を閉める。
「ごめんね、あの子、ちょっと……っていうかかなり変だから」
「ユリア、聞こえてるよー。あたし、普通じゃん」
「普通だったらもうすこし恥じらうと思うけど――じゃ、乙音、買い物行こっか」
「あ、う、うん。じゃあ、わたし、お財布取ってくる」
「あたしも準備するから、門の前で待ち合わせね」
乙音は廊下をすこし行って、ユリアの部屋を振り返った。
ちょうど扉を開け、ユリアが部屋のなかに戻ろうとしているところ――そのすき間から下着姿の女が顔を出し、乙音に手を振った。
乙音は赤い顔で頭を下げ、逃げるように廊下を駆けていく――なんだかよくわからないが、大人の世界を垣間見たような気がした乙音だった。




