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第一話 1

  1


『皐月町音楽学校学生新聞さっちゃん、六月十五日号。

 新入生インタビュー、声楽科箕形晴己さん。

 Q,好きなものはなんですか?

 A,色っぽいねーちゃん。

 Q,声楽をやる上で気をつけていること、意識していることはありますか?

 A,楽しむこと。

 Q,皐月町音楽学校へきて驚いたことはありますか?

 A,みんな音楽をやってること。あと女子がかわいい。

 Q,読んでいる方に一言。

 A,みんなで楽しくやろう!』



  *



 はあ、と箕形晴己はため息をつき、大きな大きな門を見上げた。

 その門――皐月町音楽学校内と町とを隔てる正門は、外側からでは「天国の門」と呼ばれていた。

 レンガ積みの壁で囲まれた門のすき間から、外側まで美しい音楽が漏れ聞こえてくるせいだ。

 一方で学校のなかから見たその門は「監獄の門」と呼ばれている、らしい。

 皐月町音楽学校は、原則的に全員が寮生活で、平日は許可なく学校の外へ出られない。

 遊びたい盛りの学生たちはそれを窮屈に感じ、立派な鉄の門をして「監獄」と呼んでいた。

 晴己はまだ、その門を天国の門と呼んでいる。

 しかし門がゆっくりと開き、そのなかへ一歩でも踏み入れると――晴己はもう、その学校の一員となったのだ。



  *



 箕形晴己は孤児だった。

 幼いころ、なんの理由か両親が揃って他界してしまった。

 事故だった、と晴己はある程度成長してから聞かされたが、その当時なにが起こり、どんな事故だったのかはわからない。

 両親の顔も、思い出せない。

 覚えている親の顔は、教会が運営する孤児院にいた「マザー」の顔。

 母親というより祖母に近い年齢で、しわだらけの手でよく頭を撫でてくれたこと、そのちいさな身体のどこから出ているのか不思議になるくらいの大声で叱られたことをよく覚えている。

 その「マザー」が死んでしまった日のことも。

 年齢を考えれば不思議な出来事でもなく、きっと体調が悪いとか、病気だとか、なにか前兆はあったはずなのに、晴己が覚えているかぎり「マザー」はある日突然いなくなってしまった。

 それから――孤児院には新しい「シスター」がやってきたが、年少組はシスターよりも年長組を頼り、年長組はシスターよりも仲間たちを頼るようになった。

 孤児院に世話になるのではなく、自分たちで暮らしていく場所を見つけなければ、と思うようになって、それぞれアルバイトをはじめたり、学校をやめて就職を決めたり――そんなことがあるなかで、晴己は年長組とも年少組とも言いきれない微妙な年齢にあり、どっちつかずでどうしていいのかわからなくなっていた。

 ――歌ってみないか、と言われたのは、そんなとき。

 もちろん歌手ではない。

 教会の聖歌隊として、聖歌を歌ってみないかという誘いだった。

 はじめは孤児院の運営を行なっている教会で歌い、それから同じ派の他教会にも呼ばれるようになり――そのうち、聖歌を目当てに教会へやってくる人間も多くなってきた。

 晴己としては、聖歌隊としての活動はちょっとしたアルバイト以上のなにものでもなかった。

 そもそも歌にはなんの興味もない。

 テレビで歌番組を見ても、歌っている若い女の子を見て、


「いやあ、かわいいなあ」


 とにやにやして真剣に音楽を聞いているほかの子どもに邪魔だといわれるくらいだった。

 ただ。

 昔から音楽に縁があったことはたしかだ。

 まだ「マザー」が生きていたころ。

「マザー」は孤児院にあるちいさなオルガンをよく弾いていた。

 子どもに歌わせるためではなく、単なる趣味として弾いていたのだ。

 晴己はいつもそのそばでオルガンの音を聞き、真似をして歌っていた。

 歌いたかったというよりは――大好きだった「マザー」と同じことを、そのしわだらけの指先が奏でているのと同じ音を出してみたかったというだけ。

 それも「マザー」が死んでからはなくなったが、代わりに聖歌隊として歌うことになって、気づけばなんだかやけにほめられるようになっていた。


「きみの声はすばらしい」

「きみは歌が上手だ」

「本当に心が洗われるようだった」


 ――はじめて会ったひとたちからかけられるそんな言葉。

 うれしい気持ちもあったが、それよりも困ってしまう。

 聖歌隊は全部で十二人いたのに、そんなふうに声をかけられるのは晴己だけで、ほかの十一人になんだか申し訳なかったから。

 だから、もう聖歌隊のアルバイトはやめようと思った。

 教会のほうにも別のアルバイトをはじめるからと断って、最後の一回としていつもの教会で歌うことになって――いままでにないくらいのひとたちが聞きにきてくれて、そのなかに、若草雪乃がいた。



  *



 鉄の門をくぐり、レンガ積みの壁を抜けると、大きな庭が広がっていた。


「うわあ、でっけえ」


 学校の校庭よりもずっと広い庭で、中央には噴水があり、そこから放射状に道が伸びて、道以外の場所はきれいに手入れされた花壇で区切られている。

 その長方形の庭を中心にして、建物は全部で三つあった。

 正面には大きな時計塔を有するゴシック的な校舎。

 右側は、それよりもすこしおとなしい雰囲気の、でも普通の学校とは比べものにならない歴史を感じさせる四階建ての校舎。

 左側にも同じ四階建ての建物がある。

 その三つに囲まれた庭で、そこを何人もの学生たちが横切っていく。

 ――まるで中世のヨーロッパにタイムスリップしたみたいだった。

 天国の門と呼ばれるだけのことはある。

 本当に内側と外側では世界がちがっている。

 前を歩く若草さんは、でもそんなことにはもう慣れた様子で、すたすたと庭を進んだ。おれも遅れないように荷物を抱えてついていく。


「わあ、すげえなあ。お、かわいい子。ちぇ、男連れか――」


 どうやらここには制服というものがないらしく、みんな思い思いの服を着ている。

 そのせいか、女の子たちはどこか華やかで、堅苦しい雰囲気はどこにもなかった。

 それですこし、不安が拭われる。

 もし規律に厳しくて先輩には絶対服従、みたいな学校ならどうしようかと思ったけれど。

 この場所なら、うまくやっていけそうだった。


「あの、若草さん」


 駆け足で若草さんに追いつくと、若草さんはちょっと首をかしげるように視線を流した。

 若草さんは美人だ。

 色っぽいねーちゃん、というにはちょっと堅苦しすぎるけど。

 色白だし、背はあまり高くなくて、でもきりっとしたオトナの雰囲気。

 はじめて会ったときもスーツだったし、今日もスーツで、縁のない眼鏡をかけ、短い髪を横へ流している。

 見た感じ、塾の敏腕講師ふうだった。

 でも本当はやさしいひと――なのだと思う。たぶん。そういうことにしておく。


「ここって、何人くらい生徒がいるんですか?」

「全校生徒で千人くらいかしら」

「はあ、千人――」


 普通の学校としてもそこそこの規模だが――ここにいる生徒はみんな音楽をやっているのだと考えると、人数以上に多く感じた。

 ――ここは音楽学校だ。

 皐月町音楽学校。

 日本で唯一の全寮制の音楽学校――らしい。

 ここの出身の生徒は世界中で活躍する音楽家になる――らしい。

 で。

 おれは今日からここの生徒になる――らしい。

 噴水の手前まで歩いてきたところで、若草さんがふと立ち止まった。


「えっと――」


 若草さんはいかにも困ったように眉毛を曲げて、あたりを見回す。


「あの、正面の建物が校舎ね。職員室とか医務室とか、まあそういう部屋は全部正面の建物にあるから。右側の建物も校舎で、ピアノ科やクラフト・リペアはこっち。声楽科も右側の校舎になるから、覚えておいて。それから左側の建物は寮になってるの。基本的には二人か三人部屋で――まあその、詳しいことはまただれかに聞いてちょうだい」

「若草さん。こういう案内とか、苦手ですか?」

「そうよ、悪かったわね」


 ちょっとふてくされたように若草さんは唇をとがらせる。


「やっぱり慣れないことはするものじゃないわ」

「まあまあ、いいじゃないですか。助かりました。で」

「で?」

「プールはどこに?」

「はあ?」

「だから、プールです。これからの時期はプールでしょ。プールといえば水着、水着といえば女子!」

「……妙な期待を裏切るようで悪いけど」


 はあ、と深いため息。


「プールなんて、ないわよ」

「あっはっは、まっさかー。プールのない学校なんてあるわけないじゃないですかー」

「ここは音楽学校なのよ。音楽に必要なものはすべて揃ってるわ。でもその代わり、音楽に必要ないものはなにひとつない。そういう場所なのよ、ここは」


 冗談を言っているような口調ではなかった。


「ま、まさか、そんな……ほ、本当に?」

「残念だけど。いえ、別に残念でもなんでもないけど」

「なんてことだ――ああ水着女子がいないなんて、おれはこの夏をどうやって乗り越えればいいんだ」

「普通に過ごせばいいんじゃないの?」


 どうでもいいけど、と言いたげな、ドライな口調で若草さんは言って、すたすたと歩き出す。

 おれはとぼとぼとその背中を追った。

 噴水を迂回し、正面の時計塔がある建物へ。

 そこへ近づくにつれ、音が――音楽が聞こえてきた。

 ヴァイオリンの音。

 深く、身体の芯に響くような弦のふるえ。

 ゆっくりと響きを確かめるように低い音から高い音までを往復している。


「ヴァイオリン、ですよね」

「ヴィオラよ」

「ヴィオラ?」


 聞き返すと、若草さんは驚いた顔で振り返った。

 むしろその顔におれのほうが驚く。


「な、なんか悪いことでも言いました?」

「あなた、ヴィオラも知らないの?」

「……なんですか、ヴィオラって?」


 はあ、とまたため息。

 おれはいったい、このひとに何回ため息をつかせるんだろう。

 今日、実ははじめて会って以来の二度目の対面なのだが、もう三、四回ため息をつかせてしまった気がする。


「ヴィオラはヴァイオリンと似た楽器よ。出せる音域がヴァイオリンとはちがうの。オーケストラでも地味な役回りが多いけど、大勢でひとつの音を構成するときに大事な楽器なのよ」

「はあ、なるほど」


 おれは若草さんの顔を覗き込む。

 若草さんはうっとうめいて、


「な、なに?」

「いや――音楽のことだと、やっぱりいろいろ話してくれるんだと思って」


 若草さんの瞳が、ふる、と揺れた。

 そのまま顔を逸らしてしまう。


「悪かったわね――自分が興味のあることしかしゃべれない女で」

「悪いとは言ってないじゃないですか。いいと思いますよ、そういうの――なんだか熱い気持ちが伝わってくる気がして」

「別に熱い気持ちなんてないけど」

「またまたー」

「ほら、早くきなさい。挨拶の時間もちゃんと決めてあるんだから」


 こつこつと踵を鳴らし、若草さんは正面の校舎へ歩いていく。

 ヴァイオリン――ではなくて、ヴィオラの音は止んでいた。

 代わりに。

 ぱっと花が開くように、いくつもの弦楽器が同時に音を奏ではじめる。

 最初の音はどうやら調律かなにかだったらしい――弦楽器独特のやわらかく包み込むような音。

 それがいくつもの重なって、力強い音になり、広々とした庭に響く。

 よく耳を澄ませれば、別の場所でも別の楽器が鳴っていた。

 ぴんと緊張した管楽器の音色。

 ぽろぽろと夜空に遊ぶようなピアノの音。

 ひとの足音に、話し声。

 そんなものまで混ざり合って、この学校全体がひとつの音を奏でているようだった。

 ――身体がふるえる。

 ふるえているのはたぶん、心だ。

 全身を包み込む音楽が心地よくて、自分も参加したくなる。

 どんな音がいいだろう。どんなメロディーがいいだろう。

 いや――どんな音やメロディーでもいいんだ。

 ただこの場所に寄り添う気持ちがあれば。

 でもおれはなんの楽器も持っていなかったから、仕方なく、声で寄り添うことにした。


「――あ」


 若草さんがおれの声に気づいて振り返る。

 目が合った。

 うれしくなって笑うと、若草さんはびっくりしたように目を見開いて、それから恥ずかしそうに視線を逸らした。

 おれのまわりを通りすぎようとしていた生徒たちも立ち止まる。

 足音がいくつか消えてしまう。

 それが残念で、もっと自分なりにこの音を支えようとして声を大きくすると――。

 すべての音が、ぴたりと止んでしまった。

 気づいてみると、歌っているのはおれひとりで。

 ヴァイオリンもヴィオラもピアノもフルートもなくなって、しいんと静まり返った校内に、おれの声の余韻だけが空しく響いてしまっていた。


「……あれ?」


 はあ、とため息が聞こえる。

 若草さんは頭を押さえ、首を振っていた。


「……おれ、邪魔しちゃった?」

「ある意味ではね。まあ、気にすることないわ。それよりも学長へ挨拶しないと」

「う、叱られなきゃいいけど……」


 また、とぼとぼと歩き出した。

 まわりにいた生徒はびっくりした顔でおれを見ている――まあ、無理はない。突然大声で歌い出したら、そりゃあびっくりするだろう。

 いくら音楽の学校とはいえ、校内で前触れもなしに歌い出していいわけではないらしい。

 ひとつ学習して、今度こそおとなしく若草さんについていく。

 校舎の入り口は観音開きの扉で、なかに入ると、古びた外見そのままに、まるで昭和のはじめの学校のように床は板張りで、階段もすこし急な木造だった。

 歩くたび、ぎしぎしと音がする。

 階段は使わず、靴だけ履き替え、廊下を左に進んだ。

 ――また。

 音がちらほらと再開していく。

 今度はちゃんと歌わないようにがまんする。

 失敗はしてもいいけど、同じ失敗はしないようにする、育った孤児院の教えだ。

 若草さんが立ち止まった。

 目の前の扉をこんこんとノックし、入っていく。


「失礼します」

「し、失礼します」


 すこし緊張。

 おれも部屋のなかに入って、でも、入ったとたんにそんな緊張は忘れてしまった。

 だって――その部屋は想像していたような堅苦しい「校長室」なんかではなくて。

 まるで博物館のような部屋だったから。


「わあ――すげえ――」


 ……なんだか今日はそれしか言っていないような。

 ともかく。

 おれは部屋のなかをぐるりと見回した。

 壁にはいくつもの楽器が飾られている――大小様々なヴァイオリン。

 なんだかよくわからない、ギターのような楽器。

 音楽室で見たことがある作曲家の肖像画。

 壁際にはガラスケースがあって、そのなかにも楽器や楽譜が並べられていた。

 ――この部屋を見れば、本当にここは音楽のための学校で、それ以外はなにもないのだということがわかる。

 音楽のためだけの空間に、音楽のためだけに集まった生徒たち。

 それはなにか、いびつような気もしたが、同時にきらきらとまぶしく輝いて見えた。

 でも、今日からはおれもその一員になる。

 音楽学校に通う自分の姿はいまでもよく想像できていないけれど、なんだかうれしく思う。


「学長、箕形晴己くんを連れてきました」


 そんな音楽だらけの部屋のなかに、小柄なおじいさんがいた。

 白いひげを生やし、やけに大きな机の向こうにちょこんと座って、にこにこと笑っている。

 どうやらそれがこの学校の学長らしい。

 学長はにこにことおれを見て、言った。


「さっき、外で歌っていたのはきみですね?」

「うっ――す、すんません。あの、なんか邪魔したみたいで」

「いえいえ、邪魔ではありませんよ」


 あくまで学長はにこにこと朗らかな笑顔だった。

 ――ただ、その笑顔は、なんとなくこわい。

 もしかしたらこれがこのじいさんの怒っている顔なのでは、と思えてくる。


「歌うことは好きですか?」


 学長は唐突に言った。

 歌うことは好きか。

 どうなんだろう、と考えてしまう。

 きらいではない。それだけはわかる。歌いたくない、と思ったことはない。

 でも。

 なんだかこの学校のなかで、軽々しく歌うことが好きだなんて言っちゃいけないような気がした。


「――わかりません」


 正直に、答える。

 学長はうんとうなずいた。


「それでいいんです。すくなくとも、きらいでなければ。だって、音楽とはこんなにすばらしいものなのに、くだらないきっかけできらいになってしまってはもったいないでしょう? 私はね、学生たちに望むことはただそれだけなんです。音楽をきらいにならないでほしい――それがうまく伝わっていれば、いいんですけどね」


 最後はなんとなく独り言みたいだった。

 そうか、と気づく。

 このひとはたぶん、なによりも音楽が好きで、人間も好きなのだ。

 自分の好きなものを、好きなひとに否定されることほど悲しいことはない。

 だからみんなが音楽を愛せるように――この学校は、そんな暖かいもので包まれている。


「きみは、今日から寮へ移るそうですね」


 ちいさな、きらきらとよく光る目がいたずらっぽく動く。


「寮は二人か三人部屋が基本ですから、詳しいことは同室の生徒から聞いてください。それから授業に関しては書類を渡してありますね」

「もらいました。あの、ちっちゃい字でいろいろ書いてあるやつですよね。鞄の奥底に入ってます」

「読みましたか?」

「な、なんとなく」


 読んでいないな、という声がとなりから聞こえてくる。

 若草さんはまたため息。ああ申し訳ない。ため息をつくと幸せが逃げるというし。


「まあ、生活していればわかることばかりですから、大丈夫でしょう。校則に関しても同室の生徒から教わるといいでしょう。ただ、注意しておかなければならないのは、平日のあいだは許可なく学校の外へ出ることができないということです。この許可というのは先生方からもらえますが、よほどの事情がないかぎりは認められません。反対にいえば必要なことはだいたい学校内で済ませるようにできていますから――出かけたいときは週末を選ぶように」

「はい、わかりました」

「では、ここでの生活を存分に楽しんでください。音楽を愛し、音楽に愛され――そしてひとびとを愛しましょう」


 なんだか綺麗事みたいな台詞も、このじいさんが言うと本当らしく聞こえるのが不思議だった。

 おれはうなずき、学長の手から皐月町音楽学校の生徒であることを示すちいさなバッジを受け取って、正真正銘、この学校の生徒となった。



  *



 先に箕形晴己を外に出してから、若草雪乃はじっと学長の顔を見つめた。


「――お聞きになりましたか、彼の声を」


 先ほどの、庭での出来事。

 なんのきっかけか、突然箕形晴己が歌い出して――その歌声はまたたく間に学校内を席巻してしまった。

 近くを歩いていた学生はもちろん、自分のすぐそばで楽器を奏でていた生徒たちの耳にまで届いて、だれもが驚いて手を止めてしまうほどの声。


「彼の声は、決して強い声ではありません。どちらかといえば弱い声でしょう。声楽的な訓練をまったく受けていないせいでしょうけれど、横隔膜もろくに使えておらず、喉に負担をかけるような歌い方です。でも――それがすばらしい。わたしは世界中でいろんな音楽を聞きましたが、あんな声は聞いたことがありません。だから――」


 不意に早口でまくし立てている自分に気づき、雪乃は恥ずかしそうに押し黙った。

 学長は例の笑みでそれを眺め、机に両肘をつく。


「たしかに彼の声は美しい。彼のような若者がこの学校で音楽を学ぶことは、将来的にすべての音楽好きによいことでしょう。しかしそれより、私はきみの変化のほうがうれしいですよ――変化というより、変化していないところ、というべきですか」

「う……」

「いまでも音楽が好きなのですね」


 雪乃は視線を逸らした。


「――好きかどうかは、わかりません。どちらかといえばきらいなのかもしれません。ただ――彼の声を聞いたときに、このまま埋もれさせるわけにはいかないと思ったんです。彼にとっては大きなお世話かもしれませんけど、でもあんなふうに歌える彼をいまのままちいさな教会で歌わせておくのは、あまりにもったいない」

「そうですね――」


 学長はあえて反論もしない。

 それがむしろ、雪乃にとっては恥ずかしいのだ。


「ただ、彼の指導はなかなかむずかしいですよ。天使の歌声というのは、よく少年の合唱団に使われる言葉です。言ってみれば、声変わりするまでのごくわずかな期間だけに使う。しかし聞く限り、彼は普通に声変わりを終えているようですし、姿を見てもホルモン的に変わったところがあるようにも見えません。それに彼の声は声変わり前の少年のような、澄んでいて天上から響く声にも似ていますが、どこかちがう――それをうまく指導していくのは至難の業でしょう」


 たしかに、と雪乃はうなずいた。

 指導の仕方次第では、あの美しい声が潰れてしまうかもしれない。

 あるいは魅力的ではあっても平凡な、一声楽家になってしまうか――どちらにしても、いまの彼の神がかり的な歌声ではなくなってしまう。

 彼の長所を伸ばしながら、それを支えるように指導していかなければならないのだ。

 簡単な仕事ではない。

 それに、声楽科では二十人ほどの生徒を一度に指導しなければならない。

 彼がいかに優れた声を持っていようと、彼だけ特別に指導する、というわけにはいかなかった。

 ここは音楽の宮殿である以上に、少年少女を集めた教育機関でもあるのだから。


「声楽科の先生だけに任せるのは、すこし荷が重すぎるかもしれませんね」


 でしょう、と学長は深くうなずく。

 雪乃の口からその言葉が紡がれるのを待っていた、というように。


「私もそう思っていたところだったんです。声楽科の授業を受けさせるより、彼のような生徒にはもっと適した授業があるのではないかと。もちろん、彼だけ特別扱いするというわけにはいきませんが、個人にあった練習はいまもやっていますからね。ですから――」


 いやな予感。

 その先を食い止めようとする前に、学長は言いきった。


「きみがやってくれませんか?」


 いやです、と即答できなかった時点で、雪乃の負けは決まっていた。


「――わたしは指導の経験もありませんし、声楽は専門ですらありませんから、指導なんてできません」

「いえ、専門的な部分は声楽科の授業で学んでもらえばよいのです。きみに期待するのは、もっと総合的な――言葉を選ばずに言えば、音楽そのものです。とくに、彼はここにやってきた生徒たちとはすこしバックグラウンドがちがいます。ここの生徒たちは大抵幼いころから楽器に触れ、音楽を学び、人並み以上にできるようになってからこの学校へやってきます。学校へきた時点で楽譜がまったく読めない生徒などひとりもいません――もちろん、いても問題はありませんが。でも彼は音楽的な教育をまったく、それこそ普通の小中学校でやることしか知りませんから、はじめのうちは授業にもついていけないでしょう。そうした根本的な『音楽』についてはだれかが補佐してあげなければ、ねえ?」

「でも――」

「まあ、指導というのは一種の大義名分というか、言い訳でして――指導することできみの音楽に対する考え方もすこし変化するかもしれないと思ったんですけれどね」


 残念です、というように学長は首を振った。

 雪乃はうっと言葉に詰まり、じっと学長に見つめられ、最終的に、折れないわけにはいかなかった。


「……わかりましたよ、引き受けます。その代わり、指導の内容については保証できませんよ。まったく見当はずれのことをして、有望な若者をひとり潰してしまうかも」


 ちょっとした復讐に脅してみても、学長は平然と笑っている。


「きみなら、そんなことにはならないと信じていますよ」


 ああ、やっぱり。

 雪乃はこの老人が苦手だった。

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