第二話 7
7
舞台上の記憶はほとんどなかった。
ただ――楽しかったことだけを、しっかり覚えている。
あれだけたくさんのひとの前に出て、あれだけたくさんのひとが自分のピアノを聞いていて。
本当なら緊張してしまいそうなのに、なんだか緊張はぜんぜんなくて、曲のあいだも失敗したらどうしようなんて考えもしなかった。
そもそも――どんな曲を弾くか、なんて決めてもいなかったから、失敗もなにもない。
四人で話し合って決めたのは、ただひとつ、
「楽しくやろう!」
ということだけ。
それさえできれば、あとはどうなってもいい。
自分たちが楽しく演奏できればそれで満足だといって――もしかしたらそれは聞いているひとを無視した、ひとりよがりな音楽だったかもしれない。
でも、本当に楽しかった。
いままでずっとピアノを弾いてきて、こんなに楽しいと思ったことはなかった。
次はどんな音を弾こう。
どんなふうに弾けば楽しいだろう。
ただそれだけを考えて鍵盤を叩くことが、こんなに楽しいことだなんて思いもしなかった。
もしかしたらわたしは、その舞台上ではじめて、ピアノを楽しんだのかもしれない。
それもひとりじゃできなかった。
ひとりきりの舞台じゃ、きっとなにもできなかった。
みんなが――ほかの三人がいてくれたから。
このカルテットだから、はじめて音楽を楽しむことができた。
拍手はまだ聞こえる。
だれかがわたしたちの音楽をよろこんでくれている。
それは――本当に、夢みたいな出来事だった。
*
演奏がうまくいったのかどうかは、おれにはわからなかった。
たぶん、うまくいった――ような気はする。
すくなくとも歌っていて気持ちよかったから、おれとしてはそれで満足だったけれど、お金をもらっている以上、やっぱり聞いているひとにも楽しんでもらいたい。
おれたちの演奏は、客席ではどう聞こえただろう。
舞台上では――練習を通していままででいちばん、楽しかった。
音のやり取り、重なったときの和音の響き、独立して歌うときの音響――なにもかもがいままででいちばん気持ちよく感じて、どうやらそれは、おれだけではなかったらしい。
控え室に戻ってくるや否や、アルはわっと声を上げ、おれの腕を掴んだ。
「うまくできたよ、ハルキ! いままででいちばんよくできたと思う――練習よりずっとうまくいったよ! ほんとに、練習ではどうなるかと思ったけど――」
「どうなるもこうなるも、うまくいく以外ないでしょ」
ユリアは冷静そのもので、ただほんのすこし自慢げに控え室の椅子に座った。
「なんたって、あたしたちの曲はお手本があるわけじゃないんだもの。あたしたちがやったのが正解になるんだから、失敗なんかあり得ないわ」
「まあ、それはそうだけどさ。でも練習より演奏してて気持ちよかったってことは、それだけうまくできたってことじゃない?」
「たしかにね――ちいさいホールだけど響きはよかったし、狭い練習部屋でやるよりはよかったわ」
本当はユリアもすこしは不安だったにちがいない。
ほっとしたように息をついているユリアと目が合い、おれが笑うと、ユリアはむっと顔をしかめる。
「なによ?」
「いや、別に――乙音、ピアノもすげーよかったな!」
乙音は、おれの声には応えず、しばらくぼんやりとあらぬほうを見つめていた。
もう一度声をかけるとようやく振り向き、夢から冷めたような顔で何度か頭を振る。
「夢――じゃないよね?」
「なんなら確かめてみたら?」
「え、わ、ひゃう――」
ユリアの細い指がすっと伸びて、もちもちしていそうな乙音のほっぺたをきゅっとつまむ。
「どう、痛い?」
「いひゃい……」
「じゃ、夢じゃないってことね」
「う、うう、どうせなら自分で確かめたかった……」
つままれた頬を撫でながら、乙音はふうと息をついた。
「なんだか――あっという間に、終わっちゃった」
「ほんとだよなあ。おれも、十分ってもっと長いと思ったよ」
「――でも、楽しかった、よね?」
乙音は不安そうにおれやアルを見上げた。
「そりゃあ、楽しかったに決まってるだろ」
おれたちが言うと、うれしそうにこくんとうなずいた。
――そこに、控え室の扉がこんこんとノックされる。
アルが開けにいくと、若草先生が立っていた。
「あ、若草先生。どうでしたか、おれたちの演奏?」
若草先生はちゃんとスーツを着ていて、いつもよりずっとクールな雰囲気だった。
でも、その表情はやわらかい。
ちょっと小首をかしげるような仕草で笑って、言う。
「よかったんじゃない、なかなか? あれ、八割くらい即興でしょう」
「やっぱりばれてました?」
「だれも楽譜持ってきてないんだもの。暗譜でやれなんて言ってないのに」
「いやあ、どうせおれは読みながら歌うなんてできないし」
言いながら、おれは若草先生の後ろに視線をやっていた。
スーツを着た先生の後ろに、さらにもうひとり、スーツを着た男のひとが立っているのだ。
先生にしては見覚えのない顔で、だれだろうと思っていると、乙音が驚いたように椅子から立ち上がる。
「お、お父さんっ」
若草先生が場所を譲ると、背の高い、やけに格好いい男のひとが部屋に入ってくる。
「お、乙音のおやじ?」
乙音の親父さんとしては、たしかに年は合っているけど、どこの俳優かというくらいにスーツが決まっている。
乙音が駆け寄ると、親父さんはにっこり笑い、まるでちいさな子どもにするように乙音の頭を撫でた。
「見てたぞ、乙音」
「う、うん――珍しい、ね」
「仕事が忙しくてコンクールもあんまり見てやれなかったからな――でも、驚いたよ。すこし見ないうちに、またピアノがうまくなったな」
乙音はくすぐったそうに身体を揺らす。
その表情は、やっぱり、とてもうれしそうだった。
「それに――あんなに楽しそうにピアノを弾いているのも、はじめて見たよ」
親父さんも目を細め、本当に乙音のことを大切に思っているんだとわかる。
――羨ましくない、といえば、うそになるけれど。
もしおれにも親父がいたら、あんなふうにほめてくれるのかもしれないと思わないわけではなかったけれど。
でも、その幸せそうな親子を見ていると、こっちまで幸せな気分になってくる。
親父さんは散々乙音の頭を撫で回し、髪をぐしゃぐしゃにして娘から怒られたあと、おれたちに顔を向けた。
「みんなが乙音と同じカルテットの子だね。本当に楽しい演奏だったよ。聞いていて、われを忘れてしまうくらいのめり込んだ――プロの演奏でもあんな気持ちになったことはないくらいだ」
いやあ、それほどでも、とおれとアルが照れる横で、ユリアだけは当然でしょうというように胸を張っていた。ここまでくるとむしろすごいと感心してしまう。
「あれだけ複雑に演奏が変わっていくのに、ひとりも乱れなかったね――きっと、娘も含んできみたちはとっても仲がいいんだろう。今度、休みになったらうちへ遊びにおいで。私は仕事でいないかもしれないけれどね」
「あの、おじさんはなんの仕事を?」
「飛行機を飛ばしているんだ」
「おお、パイロット!」
こんなに格好いいパイロットが飛ばす飛行機なら安全だろうという気がする。
それにしても、絵に描いたようないい感じの親父さんだった。――やっぱりすこし、羨ましい。
おじさんはそれから乙音に二言三言話し、控え室を出ていった。
若草先生もいっしょに出ていってしまったから、部屋にはおれたち四人のほか、同じように出番を終えた生徒たちだけになる。
おれたちはだれともなく顔を見合わせ、すこし笑った。
身体はすこし疲れていたが、その疲労が心地よかった。
試験は終わって――おれたちはたぶん、やるべきことをやったのだ。
*
菊地は音響スタッフとともに会社へ戻り、まだなにも手を加えていない録音したての音源にじっと耳を傾けた。
あの場、あの瞬間は、音に飲み込まれて冷静な判断はできなかった。
ただただ圧倒され、包み込まれ、楽しんで、批評的な視線を持つことさえできなかったが、改めて音源だけで聞いてみれば、それがどんな音楽だったのかようやくわかってくる。
それはモザイク模様のように、いくつもの既存の曲が埋め込まれた空間だった。
言うなれば――東方正教会のイコンが飾られた教会のような場所。
散りばめられた「神の窓」を覗き、触れて、ほんの一瞬にせよ、ここではない世界を見る。
彼らの音楽はめくるめく展開を作りながら、どこか遊び心を感じた。
こんなふうにすれば楽しいだろう、と話し合いながら作り上げたんだろうな、と簡単に想像できる。
それは音楽の原始的な欲求で、だからなのか、遊びのなかにも本質的な響きを感じる。
「――これは、なかなか売れるのはむずかしいかもしれないな」
菊地はデスクでひとり呟いた。
その口元は、言葉に反してにっと笑っている。
はじめのような、クラシックに馴染みがない層へ売るのはむずかしいかもしれない――なにしろある程度クラシックの知識がある人間が楽しめるように、いくつもの旋律を織り込んであるのだ。
かといって、保守的な、伝統的なクラシックファンにも受けはしないだろう。
こんなものは音楽ではない、といわれるかもしれない。
菊地はしかし、このCDを求める人間は必ずいるだろうと確信していた。
純粋に音楽を聞き、楽しみたい人間には、これ以上のCDはない。
菊地が知るかぎり、この音楽はただ楽しむだけの、まさに「音楽」としての音楽だった。
*
――試験から数日後。
コンサート兼試験は日曜日に行われていたから、その振替休日のような形で、皐月町音楽学校は平日にも関わらずすべての授業を休みにしていた。
しかし生徒たちはみな校内に残り、なんとなくそわそわと落ち着かない雰囲気で庭や寮のなかをうろついている。
というのも。
先日の試験結果が、今日発表されるのだ。
生徒たちは組んでいたカルテットごとに学長室へ呼び出され、合否を聞かされる。
入学試験や進級試験というわけではないから、合格しなくても学校を辞めさせられるようなことはないが、代わりに約一ヶ月後に控えた夏休み中、補習授業を受けなくてはならなくなる。
これは、生徒たちにとっては死活問題だ。
いまから夏休みの予定を立て、どこへ遊びに行こうかと話し合っているのに、その前に補習では計画も立てられないのだ。
なんとか合格していますように、と生徒たちは祈る気持ちで呼び出しを待ち、学長室へ入っていく。
――箕形晴己、アルカンジェロ・クレメンティ、ユリア・ベルドフ、小嶋乙音の四人組もやはり同様だった。
旧寮の食堂に集まり、呼び出しをじっと待つ。
呼び出しは校内放送で行われていたから、寮にいても聞くことができた。
「まあ、たぶん、大丈夫――だよな?」
晴己が言うと、ユリアはこくりとうなずいた。
「別に不安はないけど。あたしが落ちるわけないし」
「うう、その自信が羨ましいよ、ぼくは」
アルはため息をつき、自分の腹部をきゅっと押さえる。
「昨日から緊張しちゃって、胃が痛くてさあ」
「ほんっと緊張に弱いな、アルは。大丈夫か?」
「うん、なんとか――でもたしかに、あれで試験がだめってなったら、ぼくたちにはどうしようもないよね。ぼくたちはできるかぎりのことをやった――そう、だよね?」
「そうそう、たぶん大丈夫だよ。問題は、ほかのカルテットとちがっておれたちの曲がほぼ即興だったってことだけど」
「でも、別に特定の曲をやれって指定があったわけじゃないわ。オリジナルでもよかったはず。それなら即興でも問題ないと思うけど」
「うーん、そう願うけど――乙音、大丈夫か?」
「え、う、うん、大丈夫……ちょっと、緊張してるけど」
乙音は顔を上げ、こくりとうなずいた。
――考えてみれば、これも成長だった。
晴己がはじめて乙音と会ったときは、会話はもちろん、顔を合わせることもできなかったくらいなのだ。
ピアノの陰に隠れ、話す代わりに鍵盤を叩いていた乙音は、すくなくとも彼らの前にはもういない。
「補習、やだなあ」
晴己はテーブルにぐったりと突っ伏す。
「夏休みは休みとして満喫したいよなあ」
「だねえ」
「海も行きたいなあ」
「行きたいねえ」
「水着美女を眺めたいよなあ」
「眺めたいねえ」
「はあ……ばかばっかり」
深々とユリアがため息をついたとき。
ぽーん、とA音が鳴って、呼び出しがかかる。
「十五番のカルテットは学長室へきてください。繰り返します、十五番のカルテットは学長室へ――」
四人は顔を見合わせ、立ち上がる。
寮を出て、学長室がある第一校舎に入るところで、別の四人組とすれ違った――顔色を見ればその合否は一目瞭然だ。
晴己は暗い顔でため息をつく四人組の後ろ姿を眺めながら、ごくりとつばを飲んだ。
一階の廊下を曲がり、学長室の前で立ち止まる。
晴己がノックして、扉を開けた。
「失礼します――」
「はい、どうぞ」
学長は、今日もにこにこと笑って窓を背に座っていた。
数々の楽器が飾られた部屋に入り、四人は一列に並ぶ。
学長は老眼鏡を鼻の上にちょこんと乗せ、一瞬四人を見たあと、手元の書類に視線を落とした。
「十五番のカルテット――演奏会では最後から二番目の出番でしたね。長丁場の演奏会ですから、あの時間まで緊張感を保つことはむずかしかったでしょう。箕形くん、どうでしたか?」
「たしかに待ち時間は長かったけど、特別緊張感があったってわけじゃ――なんていうかその、気楽に待ってました」
晴己が頭を掻くと、学長はふむとうなずく。
「では、ユリアさん――曲はいくつかのオマージュを含むオリジナルでしたね。それも、暗譜で弾いたそうですが」
「即興です」
堂々と胸を張り、ユリアは言った。
「決めていたのは最初と最後くらいで、あとはその場の雰囲気で弾いていました」
「なるほど、即興ですか――即興、とくに複数人による即興はプロでもなかなかむずかしいものですが、失敗は考えなかったのですか?」
「失敗もなにも、あたしたちの音楽ですから、あたしたちがやったことが正解で、失敗はそもそも存在しません」
満足したような学長の笑みだった。
視線がアルに動く。アルはびくりとして姿勢を正した。
「では、アルカンジェロくん――自分たちの音楽について、どう思いますか?」
「は、はい――その、考えこまれた音楽ではないかもしれませんけど、ぼくはああいう楽しい音楽が好きです。もちろん、弾くのは大変ですけど」
「たしかに、即興というのは全力で立ち向かわなければ弾いているほうも聞いているほうも楽しくはありませんからね。ぼくも会場で聞かせていただきました――そうですね、正直に言えば、あれは音楽ではないと思います」
学長は笑顔のまま四人の生徒を見回した。
「あれは、ひとつの遊びです。無邪気な子どもが音で遊んでいるだけ――それを音楽と認めるのは、すこし過大評価がすぎるでしょう。しかし――ぼくはあれほど愉快で、あれほど美しい遊びは見たことがありません」
ほっとしたように晴己が息をつく。
学長はくすくすといたずらっぽく笑い、驚かせたことを詫びた。
「学生のうちは、大いに遊んで結構です。まずは遊び、そして模範、その先に自分の音楽というものが見えてくるのです。自分の音楽にたどり着くまで、あるいは五十年、六十年とかかるかもしれません。しかし遊んでいる時間は決して無駄ではありませんから、みなさん、大いに遊んでください。――それから、小嶋くん」
「は、はい」
「演奏会は、楽しめましたか?」
学長はやさしく乙音を見た。
――楽しかったかと聞かれれば。
乙音はこくりとうなずき、応える。
「楽しかったです――ほんとに」
「そうですか、それはよかった。では、十五番のカルテットは全員試験に合格です。おめでとう」
四人は顔を見合わせ、ぱっと笑う。
「これで水着美女に会いにいけるぜ!」
「いやあ、楽しみだね」
「ま、試験に合格するのは当たり前だけど――夏休みかー、どうしようかな」
「よ、よかったあ、合格できて」
四者四様、とにかくよろこぶ姿を、学長はじっと見つめている。
――音楽に正解などないのだから、そもそも音楽の試験というのもおかしな話ではある。
この試験では技術の未熟さを見るのではなく、それ以上の様々なことを――たとえば十分程度に曲を編曲するセンス、四つの楽器を均等に響かせる耳、そして仲間たちと音楽を奏でる経験を見ていた。
その点で、十五番のカルテットはすべてにおいて及第点以上だった。
バランスのむずかしいカルテットの編成をうまく利用し、四人が協力し、ときには戦いかながらひとつの音楽を奏で、曲においてもおもしろみを作る――音楽として正解かはともかく、この試験においてこれ以上の正解はなかった。
だからこそ、このままカルテットが解散してしまうのはもったいない、と学長は思う。
「きみたち、ちょっと提案なのですが」
学長が言うと、生徒たちはきょとんとした顔で振り返った。
「きみたちのカルテットはとてもまとまり、完成度も非常に高い――だからこそ、もうひと舞台、出てみませんか?」
「ひと舞台?」
「夏休みが明けてすぐ、学校では皐月祭――いわゆる学園祭のようなものを行います。そこでも当然演奏会をするのですが、きみたちもその舞台に立ちませんか?」
「へえ、学園祭か、楽しそうだなあ」
「ええ、きっと楽しいですよ」
学長はにこにこと笑う――その舞台の詳細を知ったら、この生徒たちは驚くだろうなと思いながら。
しかしただの学園祭だと思っている生徒たちは、その場で皐月祭への参加を承諾した。
「では、夏休み中も練習は欠かさないようにしてくださいね。カルテットはなによりも四人の呼吸が大事ですから」
はーい、と生徒たちは明るく返事をして、学長室を出ていった。
ひとりになった学長は四人の書類に合格と書き込み、判子を押す。
「――さて、残りはあと一組ですか」
学長は次の呼び出しに備え、書類を取り替え、すこし窓の外を見た。
梅雨はまだ明けていないが――日差しは強く、室温もぐんと高くなっている。
――夏は、もうすぐそこまできていた。
続く




