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第二話 6

  6


 皐月町音楽学校からすこし離れたところに、皐月町市民ホール、というものがある。

 収容人数は五百人ほど、こぢんまりとしているが音響には定評があり、時折オーケストラの演奏が行われるような地域密着型のホールである。

 皐月町音楽学校によるカルテットの試験は、その市民ホールで行われることになっていた。


「いやいや、聞いてないけど! おれてっきり教室かなんかでやるもんだとばっかり思ってたけど!」


 生徒用の控え室まできたところで、晴己はようやく叫んだ。

 おかしいなあ、とは思っていたのだ。

 試験三日前くらいにアルが衣装をどうしようかと悩んでいたり。

 当日はあんまり練習できないからと前日に詰めて練習したり。

 現場に入ると雰囲気がちがったりするからね、と生徒たちが話し合っていたり。

 普段授業を受けている教室で試験をやるなら衣装は必要ないし、当日だって試験まで練習できるし、現場というのがそもそも意味不明だし、いったいなんのことを言っているんだろうと思っていたのだが――まさか、客を入れて、コンサート形式で試験が行われるとは想像もしていなかった。


「っていうか客がいるとかそれもうコンサートじゃん!」

「そうよ、お金だってちゃんと取るんだから」


 あまり派手すぎないドレスふうの衣装を着たユリアは、鏡に向かって髪を整えながら平然と言った。


「学校の金儲けの一環よ。生徒には一円も入らないけど」

「え、なにその搾取スタイル」

「その代わり、授業料はタダでしょ? だれでも音楽を学べる代わりに、学生のときに出たコンサートやらなんやらのお金は全部学校へ行くようになってるの。っていうかなんでそんなことも知らないの?」

「だって説明されなかったし――たしかに授業料はいらないって話は聞いたけど、なるほど、そういう仕組だったのか」


 納得、とうなずいた晴己だが、ふと疑問が浮かんで、


「でも、そんな収入だけでやっていけるのか、学校は? そんなに学生参加のコンサートなんかやらないだろ」

「定期演奏会はあるけど、それ以外にもいろいろやってるわ。たとえば、十八歳以上の年長組はヨーロッパをツアーで回ったりしてるし。そうやって年長組が稼いでくれたお金で年少組の授業をやるの」

「ははあ、よくできてるなあ――っていまはそんな話じゃねえよっ。コンサートって、おれ、どうすりゃいいんだ?」

「どうもこうもないよ、ハルキ」


 アルもぴっしりしたタキシードを着て、くるくるとカールするくせっ毛をどうにかできないものかと鏡の前で悪戦苦闘していた。


「普段どおりにやればいいんだよ。場所が変わっただけで、やることは変わらないんだから」

「いや、そりゃそうだけどさ。おれコンサートなんかはじめてだし」

「そうなの? じゃあ人前も?」

「いや、教会で歌ってたときにもお客さんはいたけど、別に金取ってたわけじゃなかったからなあ」

「いっしょだよ、結局は。お客さんを楽しませようっていうよりは、これは試験なんだから、いままでやってきたことをちゃんとやり切ろうとしたほうがいい」

「むう、そういうもんか……ま、人前でも緊張するタイプじゃないし、気楽にやりゃあいいのかな」


 晴己も一応、アルに言われて、それらしい服装をしていた。

 しかし服装以外はなにも変わらず、鏡にも向かわないで、しばらくぶつぶつと独り言を言っていたが、


「十五番のカルテット、舞台リハーサルだぞ」


 と呼ばれ、ユリアやアルといっしょに控え室を出た。


「そういえば、乙音は?」

「さっき学長に呼ばれてたけど」

「ふうん――そういや乙音は大丈夫なのか? 人前に強そうには見えないけど」

「大丈夫じゃない? いままでもコンクールくらい出たことあるだろうし」

「おまえも余裕そうだなあ」

「あったりまえでしょ」


 ユリアは長い金髪をさらりと背中に流し、見せつけるように笑った。


「あたしは近い将来何万人って規模のコンサートに出る天才だもの。こんなちいさい会場で緊張するわけないでしょ」

「お、おう、そうか、なんかよくわかんねえけどおまえらしいな――で、アル、大丈夫か?」

「う、うん、大丈夫。ちょっと緊張してきたけど」

「ちょっとか? 顔色が死人みたいだぞ」

「い、言わないでよ、余計緊張しちゃうから」


 三人は係員に導かれるまま、幕が張られた分厚い扉の向こうに出る。

 そこはもう、照明が燦々と照らす舞台上だった。


「おお、すげえ!」


 天井に吊るされた大きな照明がいくつも舞台上へ向かい、磨き抜かれた床はきらきらと輝く。

 反対に客席のほうは暗く沈んでよく見えず、広さを感じるのは高い天井を見上げたときだった。

 まだ舞台上にはなにもない。

 いくつか楽器や椅子を置く目印となるテープが貼られているばかりで、がらんとした広い空間だった。

 晴己は照明の眩しさに目を細め、手で庇を作って客席を眺めた。

 当然、客席はまだ空だ。

 最前列あたりでスタッフらしい人影が動いている。

 舞台上から空間の奥までは何十メートルもあって、天井もまた高く、この広くぽっかり空いた空間に自分たちの音が満ちるのだと思うと、わくわくする気持ちで身体がふるえた。

 舞台袖から大きなピアノがふたりがかりで運ばれてくる。

 それに合わせて、乙音も舞台上にやってきた。


「わ、広い――」

「おお、乙音。すげえよな、ここ。おれ、こんなところで歌うのってはじめてだよ」

「うん――わたし、昔、ここで弾いたことあるよ」

「ほんとに? やっぱりすげえなあ」


 乙音はちょっと恥ずかしそうに笑い、ピアノの椅子にちょこんと座った。

 ――その頭には、音符の形をしたヘアピンが見える。

 ユリアとアルが楽器を取り出し、それぞれ定位置につけば、音響リハーサルがはじまる。

 まずそれぞれに音を出し、ホールでの響き方を確認した。

 晴己もとりあえず適当に歌ってみて、教室や狭い部屋で歌うのとはまったくちがう音響に驚く。


「――声って、こんなに響かないもんなのか」


 普段、耳元で鳴るととてつもなく大きく聞こえる楽器の音でさえ、まるで虚空に吸い込まれるように消えてしまう。


「オーケストラならまた話はちがうけど、四重奏はこの沈黙との勝負になるみたいね」


 ユリアは細いあごにヴァイオリンを挟んだまま、ふふんと挑戦的に笑った。

 弓をさっと構え、強く弦をこする。

 ヴァイオリンの美しい中音が響き、その残響が消える前に高音が追いかけて、それは空中で融合し合い、この広いホールに朗々と響き渡った。


「おー、ちゃんと響いた!」

「ま、あたしにかかればこんなもんよ」

「アル、同じ弦楽器として負けてられないぜ」

「うう、むずかしいんだよ、あれ――ただ強く弾くだけならできるけど、強く引きながら響きを一定に保つのってほんとに集中力が必要だから」


 言いながら、アルも弓を構える。

 ヴァイオリンとは楽器の持ち方からしてちがって、コントラバスは後ろから抱きすくめるように持ち、弓もほとんど真横へ動かす。

 チェロよりも低いバスの低音がゆっくりと響き、音は徐々に膨れ上がって、ちょうどよく反響する場所を探しているようだった。

 アルの耳と弓を操る指先がちょうどいい場所を探し当てる。

 響きは拡張され、増幅し、ホール全体を包み込んだ。

 低音部がうまく響けば、それ以外の楽器も低音部に乗るようにしてよく響く。

 乙音もピアノの鍵盤をいくつか叩き、ちゃんとこのホールに合わせて調律してあること、ほかの楽器ふたつとピッチが合っていることをたしかめた。

 それが終わると、今度はスタッフから、舞台上の移動について説明を受ける。

 下手から出てきて演奏し、また下手へ掃ける――要はそれだけなのだが、時間がきっちりと決まったコンサートでもあるだけに念入りにリハーサルをして、四人は揃って控え室へ戻った。

 開場まではあと一時間ほど、開演まではそれからさらに三十分――控え室の雰囲気もなにやら緊張して張り詰めてくる。

 コンサート兼試験に出演する生徒は、だいたい十五、六歳の生徒たちで、コンサート慣れしていない生徒も多かった。

 控え室でも演奏する曲を確認したり、チューニングを直したりする音がずっと響いていて、ふとなにかの拍子に静寂になると、堪え難いような張り詰めた空気になる。

 こうしているうちに――あっという間に開場時間になり、ホールのなかに客の入場を知らせるアナウンスが響いた。

 開演まであと三十分。

 カルテットのお披露目まで、あと三十分。



  *



 ――時間は数日遡って。

 週末に試験を控えたある日のこと、クラシック関係のCDを多く出版しているミューズ出版の菊地好人は皐月町音楽学校に出向いていた。

 学長室で茶を飲みながら待つことしばし、扉が控えめにノックされ、ちいさな影が怯えたように入ってくる。

 菊地は立ち上がろうかと思ったが、自分の大柄は重々承知していたから、立ち上がってはまた怖がらせるかもしれないと座ったまま頭を下げる。


「どうも、小嶋さん――お久しぶり、というほどではないですが」

「あ、あの――」


 部屋に入ってきたちいさな影は消え入りそうな声で言って、身体を折り曲げるようにしてお辞儀をした。

 小嶋乙音はそのまま椅子の端にちょこんと座る。

 そこまでは、先日はじめて顔を合わせたときとなんら変わらない。

 菊地が見るかぎり、小嶋乙音はたしかに一種の天才めいた、不器用な雰囲気があった。

 ひとと話すことが苦手らしく、声もちいさい――しかしひとたびピアノを弾けば、だれにも真似できない名演奏をやってのける。

 天才というのは、要はそういうものなのだと菊地は感じていた。

 仕事柄、芸術家肌の人間とはよく会うが、そういう人間に共通しているのは、ある意味ではとても素直だということ。

 言い方を変えれば子どもっぽく、あまり社会に馴染んでいないということ。

 よくも悪くも上辺でごまかすことができず、自分の感情を隠すことが苦手な人間は、ある分野では飛び抜けた才能を発揮することが多かった。

 なんでも器用にこなせるくせに取り柄がない、絵に描いたような器用貧乏の自分とは正反対だと菊地は思い、年齢的には自分の娘でもいいような乙音を羨ましく感じる。

 しかし大人としてそういう気持ちを隠し、菊地はにっこりと笑った。


「CDの件、ご検討いただけましたでしょうか? 今日はさらに詳しい資料もお持ちいたしました。もしCDを出していただけるなら、どのようにレコーディングし、どのような流通になるのかという資料ですが、よろしければひとつの判断材料としてお使いください」

「あの――」

「はい?」

「あ、あの――その」


 菊地は辛抱強く待つ。

 乙音はちらりと菊地の顔を見て、わっと改めて驚いたような声を上げた。


「その、あの――CDを出すのは、いいんですけど」

「本当ですか? ありがとうございます、小嶋さんに加わっていただければラインナップが強化されます」

「で、でも、その――あの」

「はい?」

「なにか、条件があるんですか?」


 菊地の後ろから学長が助け舟を出した。

 乙音はこくりとうなずき、


「その――わ、わたしひとりじゃなくて、あの」

「ひとりじゃなくて?」

「あの――わたし」


 おずおずと、かなり時間をかけながら乙音が行った提案は、菊地にとっては想像もしていなかった提案だった。

 菊地は、その場では即答はせず、社に持ち帰って検討するといって学校を出る。

 しかし時間的猶予はほとんどなく、菊地はほかの仕事をこなしながら考えに考え、結局、その提案を飲むことにした――まさかその決断が、将来的に社内での彼の立場の押し上げる重要な決断だったとは思いもせず。



  *



 菊地は数人の音響スタッフとともに、開場時間の二時間前には市民ホールへやってきていた。

 マイクを定位置に設置し、録音準備を終えたのがだいたい開場の三十分前で、菊地はホールの隅に立ち、関係者のひとりとしてコンサートの成り行きを眺めていた。

 ――コンサートといっても、まだ無名な学生ばかりのコンサートだ。

 それも有料だから、五百人程度のちいさなホールでも充分に対応できる。

 客も親や親戚が多く、一部純粋に音楽を聞きにきたクラシック好き、あるいは全国にそれなりの数がいるという皐月町音楽学校の追っかけを合わせ、だいたいキャパシティの八割程度になる。

 開場がはじまると、客たちが続々とホールへ流れ込んできた。

 菊地は客の年齢層が高いのを見て、音楽業界に携わる人間のひとりとしてどこか切ない気持ちになった。

 ――クラシックはどうしても年寄りの音楽と思われがちだ。

 すくなくとも若者がこぞってクラシックのコンサートへ出向くような時代ではない。

 それはもちろん、コンサートの値段が高いためでもあるだろう。

 CDも、基本的に曲自体の著作権は切れているから、安価に作ろうと思えばいくらでも安価にできる一方、著名な楽団、著名な演奏家、著名な指揮者のしっかりした作品となれば普通のCDと同じ値段ではむずかしい。

 要は両極化しているのだ。

 しっかりとしたものを作ろうと思えば値段が上がり、値段が上がれば一部のファンにしか届かず、数が出ないとなれば単価を引き上げるしかなくなり――という悪い循環をどこかで断ち切らなければ、このまま先細りしてしまうにちがいない。

 そのために、菊地は若い層へ向けたクラシックのCDを作ろうと企画したのだ。

 きっかけはなんでもいい――それこそ、安っぽいコピーではあるが、美少女ヴァイオリニストとか、美少年ピアニストとか、そんな触れ込みでもいい。

 とにかく若い層にまず知ってもらわなければ話にならない。

 いっそテレビへの出演やほかのメディアの露出を自ら望むような、一種のアイドルのような存在がいてくれれば楽なのだ。

 入り口はそんなところでいい。

 菊地は、古くさいやむずかしいという先入観なしに聞いてもらえれば、クラシックは必ず若い層にも響くはずだと信じていた。

 若い層によく響けば、若い音楽家が増える。

 それは次世代の音楽を発展させる種だ。

 音楽業界全体のためにも、菊地は自分の企画を成功させる必要があると意気込んでいた。

 開場が進み、ホールにはざわめきが満ちる。

 客の入りはやはり八割ほどで、だいたい四百人弱が集まっていた。

 開演のアナウンスが流れる。

 ざわめきがひとりでに止んで、舞台上の照明が強くなった。

 菊地はプログラムをめくる――皐月町音楽学校主催、カルテット音楽祭。

 その名のとおり、出演はすべてカルテットだ。

 カルテットそれぞれに名前はないが、番号と参加している生徒の名前、そして担当楽器が掲載されている。

 一般的なカルテット編成、つまりヴァイオリン二挺にヴィオラ一挺、チェロ一挺の四重奏は半分ほどで、あとはなかなか見る機会もない、変わり種のカルテットになっている。

 声楽だけの四声合唱もあれば、ヴァイオリンの代わりに管楽器を入れたカルテットもあり、ピアノがふたつ、チェロふたつ、というバランスがむずかしそうな編成もある。

 そのなかでひときわ目立つのは、やはり十五番のカルテットだ。

 ピアノ、コントラバス、声楽、ヴァイオリンという異色も異色のカルテットで、いったいどんな曲をどう演奏するのか、想像もつかない。

 おまけに参加している生徒も独特だった。

 ピアノの小嶋乙音はいわずもがな、ヴァイオリンのユリア・ベルドフという名前も菊地には覚えがある。

 この世代、この学校でも飛び抜けた天才と呼ばれているふたりだ。

 菊地は、乙音の演奏は以前あるコンクールで聞いたことがあったが、ユリアの演奏は聞いたことがない。しかしこのふたりが同じカルテットで演奏するというのは、早耳のファンにとっては楽しみな出来事だった。

 残りのふたり、コントラバスのアルカンジェロ・クレメンティと声楽の箕形晴己についてはなんの情報もないが、それはつまり、至って普通の生徒ということだろう。

 なんといっても乙音とユリアの共演――あるいはCDの企画として、当初の予定よりおもしろいものが出来上がるかもしれない。

 乙音から、カルテットの試験を録音してほしい、と提案を受けたときは正直戸惑ったが、結果としてスタジオでピアノの名曲だけを録音するより、玄人好みの変化球ではあるが、菊地自身も楽しめるような録音になりそうだった。

 ――最初のカルテットが舞台袖から出てくる。

 四百人あまりの拍手を受け、さすがに緊張した様子で舞台の中央まで歩き、頭を下げる。

 構成は普通どおりの弦楽四重奏で、演奏はすぐにはじまった。

 静まり返ったホールに四つの楽器からなる音だけが響き渡る。

 緊張か、それともあまり経験がないホールでの演奏に意識が負けているのか――その四重奏はか細く頼りない音を奏でている。

 さすがに皐月町音楽学校の生徒だけあって、音を間違えるようなことはない。

 しかしふるえる指先のかすかな動揺が音に乗り、聞いている人間の心までどこか不安定にさせていた。

 それでも年齢を考えれば上出来にちがいない。

 普通、四重奏の曲は複数の楽章で作られるが、このコンサートではそれを十分程度に縮めてある。

 表向きは大勢の出演者全員に演奏機会を与えるため。

 裏向きは、四重奏としての調和以外に、自ら楽譜を編集する試験でもある。

 カルテットは十分間の演奏を終え、ほっとした顔で弓を離した。

 拍手が起こり、頭を下げ、下手へはけていく。

 楽器の変化がない場合は、すぐに次のカルテットが出てくる。

 そうして一時間半、二時間近くも経つと、客のほうも疲れが溜まってきて、ホール全体に倦怠感が漂いはじめた。

 その様子を眺め、肌で感じながらも菊地は、演奏する生徒たちが悪いのではないと思う。

 たしかにいままで出てきたカルテットの半分ほどは、音が弱かったり、各パートでの音の補正がうまくいっていなかったりで、とても料金を取れるものではなかった。

 しかし何組かはそのあたりも完璧に仕上げているカルテットもいて、プロと比べても遜色のない演奏を十代半ばで行えるといういい見本にもなっていた。

 ただ――。

 いまは、ただ完璧な演奏でどうにかなるような状況ではない。

 このホール全体を包み込む倦怠感を払拭するには、完璧なだけではなく、もっと劇的な――奇跡のような演奏が必要なのだ。


「――さて、どうなるか」


 十四組目のカルテットが終わる。

 出演カルテットは全部で十六組、あと二組で終わりだ。

 ようやく終わりが見えてきたことに会場にもどこかほっとしたような空気が流れて――そして。

 舞台上にピアノが運び込まれる。

 椅子が撤去され、舞台上には孤独なコンサート・グランドだけが残された。

 菊地は音響スタッフに録音の開始を命じる。

 下手から、四人が出てきた。

 すでに疲れ果てた観客からはまばらな拍手――しかしその四人は気にした様子もなく、堂々と胸を張って舞台の正面まで歩いた。

 ほう、と菊地は内心で息をつく――四人ともそれぞれしっかりした表情はしているが、とくに先頭をきって歩いてきた日本人の少年、箕形晴己は見事だった。

 まるで目の前にいる客はすべて自分を待っていたのだと主張するように顔を上げて進み、定位置に立ち止まって、客席をぐるりと見回す――その目は、これから起こる楽しい出来事に爛々と輝いていた。

 乙音はピアノの前に座った。

 残りの三人もそれぞれに立つ。

 声楽やコントラバスはそもそも立って演奏するものだが、ヴァイオリンまで立っているのは珍しい。

 ヴァイオリン担当のユリア・ベルドフはそもそもが美しい少女で、まばゆい照明の下ではそれがより一層輝き、まるで音楽の女神がそこに立っているようだった。


「――ああ、そうか」


 ユリアの自信に満ちた表情を見て、菊地は納得する。

 ユリアは、ソリストとして立っているつもりなのだ。

 別に規定があるわけではないが、オーケストラにしても四重奏、五重奏にしても、楽器というのは調和を作るひとつの音の発生器にすぎない。

 いわば全体でひとつの楽器であり、そのうちのひとつが突出しては、それはむしろ音楽にとっては邪魔な存在となる。

 だからこそ、オーケストラでも四重奏でも、基本的に演奏者は椅子に座って、いわば影に徹する。

 しかしソリストは、自らの音だけが主役だ。

 オーケストラを背負っても、ピアノ伴奏を背負っても、まず注目を集めるのは自らであり、だから指揮者の傍らやピアノの傍らに立ってスポットライトを浴びる。

 ユリアは四重奏のなかにいながら、ソリストとして振る舞うつもりでいるのだ――これはまずいな、と菊地は眉をひそめた。

 音の調和が第一の四重奏において、ひとりよがりな演奏は不協和音でしかない。

 大事な録音が交じり合わない個性のせいでめちゃくちゃになるのは困るが――しかしいまは、演奏がはじまるのを待つしかない。

 舞台のいちばん奥にはピアノ、舞台の下手側にバスがあり、上手側にヴァイオリンがある。

 ひとり舞台の正面に立つのは声楽担当の箕形晴己だ。

 晴己は充分に客席を見回したあと、ピアノを振り返った。

 大きなピアノと比べるといかにも小柄な乙音は、鍵盤をそっと叩いて音を確かめる。

 全員の意識が、その音に寄り添う。

 四人の視線が重なって、それぞれにうなずき合った。

 箕形晴己が前を向く。

 ――その瞬間、場の空気が変わった気がした。

 菊地は背中がぞくりとするのを感じ、気のせいかとも思ったが、そうでないことはすぐにわかった。

 箕形晴己が口を開き、ちいさいところから静かに歌う。

 はじめはちいさな声で、前列の客にしか聞こえないくらいだった。

 しかし晴己の声を聞いた人間の表情が変わっていく――すこし眠たげな、疲れたような顔から、まるで唐突にまばゆい光を見つけたような表情に変化していく。

 客の顔を見れば、晴己の声がいまどこまで届いているのか一目でわかるほどだった。

 声はすこしずつ増していく――そのあいだ、一度の息継ぎもなく、長い長い一声だった。

 やがてそれがホールの奥まで広がり、壁に当たって、晴己まで返ってくる。

 それを待っていたように晴己はにっと笑い、歌い出した。

 だれでも知っている、ハイドンの「皇帝」。

 第二楽章の有名な旋律を晴己が独唱する。

 菊地が知っている「皇帝」の旋律は、穏やかで気品にあふれ、それでいて荘厳なまさに王者の響きだった。

 しかし晴己が歌うそれはもっと軽やかで、皇帝でありながら重たいマントや冠はつけず、もっと親しみのある――我が子に笑みを向けるような皇帝の姿だった。

 バスの低い響きが晴己の声を支えるように響く。

 ヴァイオリンが遅れて晴己の旋律を、今度はもっと情熱的に、苛烈に立ち上がって兵士たちを叱咤激励するように奏でた。

 それを支えるのはピアノで、ホールにはたちまち、まったく種類のちがう四つの響きで満たされる。

 原曲には存在しないフーガ。

 やさしく響く声を情熱的なヴァイオリンのうねりが追いかける。

 一瞬、意識が混乱するような時間差で広がるふたつの旋律は、いつしか情熱的なヴァイオリンが優勢となり、やさしげな「皇帝」は姿を消した。

 勝ち誇ったようにヴァイオリンの高音が響き、舞台上のユリアが輝く。

 その旋律はすでに「皇帝」から離れ、より熱っぽい、弦がびりびりとふるえて声のかぎりに叫んでいるような旋律に変わっていた。

 最低音から最高音まで自由自在に動き回り、細かいビブラートを常に含み、ユリアのヴァイオリンはホール全体をまたたく間に魅了する。

 あまりにヴァイオリンが激しく鳴きすぎて、いつの間にか伴奏が止んでいることにだれも気づいていなかった。

 菊地は音の洪水に呑まれ、全身に鳥肌を立たせながら、いまさらのように四人が一枚の楽譜も持っていないことに気づいた。

 ピアノにさえ、楽譜はない。

 ユリアが独奏する旋律も聞いたことがなく、おそらく彼女自身が作ったか、即興で作り上げている途中にちがいない。

 ピアノがぽろんと鳴った。

 ユリアはまだ情熱的なソロを続けている。

 ピアノとバスは低音からゆっくりと流れるようなメロディを作り、そこに声が乗った。

 晴己が歌っているのは――モーツァルトだ。

 ハイドンから、ハイドン・セットへ。

 それはユリアの奏でる即興的、そして極めて技巧的な音楽の後ろで鳴り、ピアノやバスと協力して徐々に大きさを増していく。

 ユリアのヴァイオリンが悲鳴のような高音を上げた。

 穏やかな『春』を拒むきびしい夏のような旋律――しかしやがては『春』のなかに飲み込まれ、ヴァイオリンは自己主張をやめて、四重奏らしい調和になる。

 そのまま落ち着くのかと思いきや、今度はピアノが『春』の旋律から外れはじめた。

 最初は、それこそ弾き間違えたのかと思うような一音だけで、それが二音になり、三音になり――ピアノは同じ調の範囲でいたずらっぽく『春』を出たり入ったりしている。

 そのピアノの音の軽さ、よろこびの表現といったら――まるで音自体が跳ねまわり、高い声で笑っているのが目に見えるようだった。

 それはまさに乙音の魅力だ。

 乙音はユリアのように技巧的な部分ではなく、その表現力ゆえに天才と呼ばれているのだ。

 牧歌的な春――花が咲き誇り、小鳥や昆虫が舞い踊る。

 いたずらっぽく顔を出すピアノを叱るように、ヴァイオリンがピアノが担当しているヴィオラパートに移った。

 代わりに声楽が第一ヴァイオリンのパートへと繰り上がり、それに伴ってバスが低い位置で第二ヴァイオリンのパートを担った。

 弾き出された形のピアノは、それならとばかりに調も変え、舞踏曲のような三拍子へと移って好き放題に踊る。

 ほかの三つの楽器は、すこしずつその三拍子へとつられはじめた。

 そして奏でられるボロディンの四重奏曲第二番。

 もともとが変わった編成のカルテットだけに、どの楽器がどのパートを担当しているのか、すこし聞いただけではわからない。

 しかしここではヴァイオリンが活躍し、燃え上がるようなドレスを着て舞い踊る美しい女が目に浮かぶような、見事な演奏を披露する。

 甲高く裳裾をたなびかせるような高音がピークに達すると、その瞬間に再びピアノが調を変え、また全員のパートが入れ替わり、音響として不思議に混ざり合って、曲の正体がわからなくなった。

 なんとも奇妙な演奏だ――あっちからモーツァルトが聞こえてきたと思えばこっちからはベートーベンが聞こえ、他方ではドヴォルザークが鳴って、ヴァイオリンが奏でているかと思えば声楽があとを引き継ぎ、それがピアノやバスへと伝播していって――最後には、すべての楽器がまったくちがう曲を奏で、しかもそれは曲が楽器のあいだを飛び交うように演奏する曲を取り替えながらの演奏だった。

 ポリフォニーといっても、四重奏でこれほどはっきりと複数の旋律が聞こえるとは信じられなかった。

 しかもそれはすべて調和のなかにあるのだ。

 同じ意志で統一された和音かと思えば、有名な旋律に気づいてはっとする。

 しかしその瞬間には旋律は消えていて、また別の旋律がどこからともなく聞こえ、泡沫のようになくなって――。

 そうしながら四つの楽器はすこしずつ音の階段を上り、頂点に達しようとしていた。

 ヴァイオリンが鳴く。

 声部がそれを追う。

 バスとピアノで支える。

 ヴァイオリンの高音がひときわ強く鳴り、最後の一音に向かって無意識のうちに観客全員が緊張したが、それを裏切るようにすべての音がふと消えた。

 そして――穏やかな「皇帝」の旋律を、再び晴己が歌う。

 やはり原曲よりもずっとやさしく、透き通る印象の「皇帝」。

 その主題部を歌い上げ、最後に長く音を伸ばして、晴己の声はホールに吸い込まれていった。

 晴己はゆっくり深呼吸をして客席を見回す。

 曲は終わっていたが、拍手はなかなか起こらなかった。

 いままでの生徒たちとは次元も、そして目的もちがうような音楽に、聞いている全員が圧倒されていた。

 われに返るのが早かった人間は、多少なりとも音楽に詳しい人間たちだった。

 彼らがぽつぽつと拍手をはじめると、それで気づいたように観客全員が拍手をしはじめる。

 四百あまりの拍手はホールを埋め尽くし、四人の生徒たちはそれぞれに表情を変えて、横一列に並んで礼をした。

 下手へその姿が消えても拍手は鳴り止まない――だれかが強制的に止めさせるまで終わらないような、四百人分の強い拍手だった。

 その場にいる全員が、ひとり残らず彼ら四人の音楽に魅了されていた。

 ――かわいそうだったのは彼らの次、トリとして出てきた十六番目のカルテットだろう。

 なにしろ彼らは、他人の音楽に魅了された状態で自分たちの音楽を奏でなければならなかったから。

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