第二話 5
5
やってきた遊園地はとある山の麓にある比較的大型の遊園地で、近づく前からぐねぐねとうねるジェットコースターのレールや、尖塔のようにまっすぐ伸びるフリーフォールの支柱が見えていた。
最寄り駅で下り、徒歩五分。
晴己は入り口の前でくるりと振り返り、ごほんと咳払いした。
「えー、諸君。われわれはこうやって遊園地にやってきたわけだが、なぜ遊園地へきたかといえば、このわたし、偉大なる箕形晴己大先生がくじ引きで四人分のチケットを当てたためであり、諸君は入場の際に全身で感謝を表してから入場するように。ちなみに女子ふたりに関してはお礼にちゅーくらいはしてくれても苦しゅう――」
「わあ、すごい、見てあれ。あんな高いところから落ちるの? おもしろそう!」
「え、こ、こわいよ、あれ」
「あっちのジェットコースターもいいなあ。空いてそうだし、全部乗れるかも」
「いや、ユリア、さすがに全部乗ったら、ぼくたち死ぬと思うんだ。あとぼく高所恐怖症だし、ジェットコースターとか死ねばいいのにと思うくらいきらいだから、基本的に見学で――」
「なに言ってんのよ。遊園地きて見学するばかがどこにいんの? 全部乗り尽くすに決まってるでしょ。ほら、早く行くわよ」
「……いいんだ、おれなんて。どうせ無視されるくらいの存在さ。はあ、いっそ透明人間になりたい。そして女湯に突入したい」
さっさとゲートを超えてしまった三人を追い、晴己も受けつけのお姉さんにチケットを渡してとぼとぼと敷地に入った。
しかしいざ入ってしまえば、その楽しげな雰囲気に無視されたことも忘れてしまう。
平日の昼前ということで客もすくなく、どのアトラクションもほとんど待たずに乗ることができそうだった。
「ねえ、まずどれ乗る?」
ユリアは目をきらきらと輝かせ、ジェットコースターを見上げた。
「やっぱり、これ? まずはこれよね、うん」
「いやいや! ほか三人の顔を見てみろ、乗りたそうな顔をしてるやつがいるか?」
「えー、乗らないの? 絶対楽しいって」
「絶対死ぬって。見てみろ、あれ、角度おかしいだろ。真上どころか反ってんじゃねえか」
「それがおもしろいんじゃん。じゃあ、じゃんけんね。あたしが勝ったら、全員で乗る。あたしが負けたら、あたしといちばん嫌がってるアルで乗る」
「なんで!? なんでぼく巻き込まれたの!?」
「いいかい、乙音、ああいうひとのことをドSっていうんだよ、覚えておくといい」
「ど、どえす……」
「そしておれはドMだ」
「どえむ……」
「なに教えてんのよ、ばーか――ほら、早くじゃんけん。最初はぐー、じゃんけん――」
アルはぎゅっと両手を組み合わせて祈った。
どっちにしろ乗ることは決定しているが、それならせめて全員道連れに、と願ったのである。
しかし、祈りは届かなかった。
「ちぇ、負けちゃった」
ユリアは唇を尖らせ、自分のちょきを見下ろしていたが、すぐに気分を切り替えてアルの腕を引っ張る。
「ほら、行くわよ。わー、楽しみー」
「は、ハルキ、頼む、一生のお願いだ、ぼくと代わってくれ!」
「残念だけど、それはできないよ。本当に残念だけど」
「めっちゃ笑ってるじゃん! いやだー、ジェットコースターこわいー!」
抵抗はしているらしいが、アルは驚異的な力でユリアに引きずられ、ジェットコースターの下にあるちょっとした建物に入っていった。
なかではちょうど、コースターが戻ってきたところだ。
数少ない客が下り、同じくらいすくない客が乗り込む。
アルは最後まで係員の腕を掴み、
「これはほんとに大丈夫ですか? 死にませんか? ぼくだめなんですこういうの。ほんとに死にませんか? 途中でどーんとはじき出されたりとか――わ、わ、動き出した。うう、田舎のお父さんお母さん、そして妹、さようなら、ぼくは今日死んでしまうかもしれません」
「あはは、動いた動いた」
ユリアは至って上機嫌に足をばたつかせる。
コースターは屋根がある部分を出て、細いレールをゆっくりと進んだ。
傾斜が徐々に強くなり、アルは下を覗いて、晴己が手を振っているのを見た。瞬間、殺意を抱いたが、コースターが頂上で止まるとそれどころではなくなる。
がたん、ごとん――とゆっくりコースターが下りはじめた瞬間、アルの口から絶叫がほとばしった。
ユリアは反対に甲高いよろこびの声を上げ、金髪をなびかせて猛スピードで急降下していくスリルを楽しむ。
ふたりの乗るコースターは急降下した勢いのまま再び上昇し、反り返ったレースを進み、何度か縦に周回して、縦横無尽に走り回る。
それを下から見ていた晴己は笑顔で手を振りながらも、内心ではほっと胸を撫で下ろしていた。
「おれ、乗らなくてよかったあ……」
「こ、こわそう……」
乙音もジェットコースターを見上げ、ぷるぷると身をふるわせている。
晴己はふと、ここにいてはまた恐ろしいアトラクションに連れていかれるかもしれないと考え、そっとコースターから離れる。
「乙音、あっち行ってみようぜ」
「え、う、うん――」
怪物の恐ろしい視線から逃れるようにふたりはコースターから遠ざかり、子どもたちで賑わう一角、メリーゴーランドへ向かった。
子どものころはなにも思わなかったが、大人になってから見るメリーゴーランドは意外と回転が素早く、晴己は見ているだけで目が回りそうになる。
その横を抜けると、ヴァイキングという名前のアトラクションがあった。
大きな船が前後に揺れるものらしい。
なんとなく害がなさそうな外見で、下見がてらぼんやり眺めていると、なんてことはない、船は激しく前後に揺れ、そのまま一回転するのではないかという大きな動きで子どもたちを絶叫させていた。
「……これもやめようか」
「う、うん」
ふたりはまた、広い園内を進む。
ヴァイキングの奥はコーヒーカップがあって、コーヒーカップの非道さについてはふたりともよく理解していたから、その場は立ち止まりもせずに通りすぎた。
すぐ近くを子どもが走り抜ける。休みをとって遊園地にやってきたらしい父親は苦笑いしながらそれを追いかけていた。
なんとなく雰囲気のいい、のんびりとした遊園地だ。
「――こういうところくるの、ほんとに久しぶりだな」
晴己は彫刻のように立ち並ぶ遊具を眺めながら呟く。
「昔さ、一回だけマザーに――ああ、孤児院の母親役のひとに連れてきてもらったことがあるんだ」
「……孤児院?」
「おれ、親がいないからさ。教会が作ってる孤児院で育ったから」
「あ――」
乙音はぐっとうつむく。
晴己は明るく笑った。
「別に大したことじゃないよ。不幸ってわけでもないし。むしろ、おんなじ境遇の人間に比べればおれなんてかなり恵まれてたほうで――幸せとかそういうのって、自分にしかわからないもんだしね」
「うん……そう、だね」
「乙音は、こういうところきたことある?」
「い、一回、だけ」
「そっか――そういや乙音の親ってどんなひと? やっぱり音楽家とか」
「ううん、普通の……でも、音楽が好きな、ひとだった気がする」
「十二歳でいまの学校に入ったんだもんな。あんまり家には帰らないのか?」
乙音はこくんとうなずいた。
「そっか――ま、いろいろだな。お、あっちに土産屋があるぞ。行ってみよう」
晴己はとくに気にした様子もなくずんずんと進む。乙音は遅れないように、すこし早足でついていった。
土産屋にはあまりひともおらず、店員がレジカウンターの向こうでぼんやりしているほかは、BGMも流れていなかった。
その静寂にふと、乙音は存在しない音楽を聞いた。
考えてみれば――朝起きてから昼までピアノに一度も触れずにすごすなんて、ここ十年ほどでははじめてのことだった。
いつも朝起きてまずピアノに触れて――それから一日中、ピアノの鍵盤に指を置いている。
そうしろ、と命令されたことは一度もないが、幼いころから自然とそういう生活になっていた。
そういう生活が普通で、ピアノがない生活――それも、友だちと遊園地で遊ぶなんて生活は想像もしなかった。
ましてや、学校をずる休みして遊園地に行くなんて。
そんな――普通の子どものような生活ができるなんて思いもしなかった。
「――いいの、かな」
「ん?」
土産物を手に取っていた晴己は不思議そうに振り返る。
「こんなこと、してて――い、いいのかな」
「こんなことって、ああ、学校をサボってってこと? それとも――音楽をやってないってこと?」
乙音はうつむいて答えなかった。
しかしそれがなによりも答えになったらしく、晴己はにっと笑って、乙音の頭になにかをぽんと載せる。
「わっ――な、なに?」
「別になんでも。さ、金払って出るか。そろそろユリアたちも終わってこっちを探してるころだろうし」
乙音が頭に載せられたものを手にとってみると、それは黒いカチューシャで、頭の上に猫のような耳が一対、ついていた。
なぜ遊園地でそんなものが売っているのかはわからないが、恥ずかしがる乙音を晴己が「まあまあ」といなして、つけさせたまま遊園地のなかを戻る。
くだんのジェットコースターの近くまで戻ってきたところで、元気があり余っているようなユリアと、ぐったりとして死んだような顔をしているアルに合流する。
「あんたたち、どこ行って――あれ、乙音、どうしたの、その耳?」
「ふふん、おれが買ってやったんだ」
となぜか晴己が自慢げな顔をする。
「いいだろ、これ」
「ほんと、よく似合うわ。かなりばかっぽいけど」
「う、う……や、やっぱり外すっ」
「いやいや、まあまあ――それよりアル、大丈夫か? 生きてるか?」
「死んだよ、五回くらい――天国は、なんにもなくてつまんなかったよ」
「ほんとか。きれいなねーちゃんがいっぱいいるところだと思ってたのに」
「ねえ、次、どれ乗る?」
ユリアは爛々とした目であたりを見回す。
「ねえ、あの高い塔みたいなやつってなんなの?」
「あれはだな、ゆっくり上昇してそのまま垂直に落下するという悪魔のような――」
「おもしろそう! あれ行こ、あれ!」
「ええっ、おまえすげえな! よし、アル、行ってこい」
「またぼく!? だめだって、ほんと、ぼく高所恐怖症だから、間違いなく死ぬって――あ、ああ、ああ……」
再びアルは大股で進むユリアに連れて行かれる。晴己はその後ろ姿を眺め、一見金髪の美少女と仲良くデートしているように見えるが、こんなに羨ましくないのはなぜだろうと首をかしげた。
「いやあ、アルがいて、ほんとによかったぜ……おれだったら死んでたな、たぶん。いや、アルでも死ぬかもしれないけど」
晴己はちらりととなりの乙音を見て、自然と乙音の手を握った。
「おれたちもなんか乗ろうぜ。あんまり怖くないやつ」
「う、うん――」
乙音は晴己の手の温かさを感じて――それはピアノの鍵盤に指を乗せたときくらい、心地いいものだった。
*
昼食は、園内にある屋台で済ませることにした。
ユリアはフランクフルト、乙音はポテトだけという控えめなメニューで、晴己は焼きそばとたい焼きにデザートとしてかき氷を食べた。
六月の半ばだが、よく晴れている今日は気温も高い。
風が吹き抜ける野外で食べる食事は格別だったが、約一名、ベンチに寝そべってぐったりと動かないのもいた。
「おーい、アル、生きてるかー?」
「……返事はない。ただのしかばねのようだ」
「よく知ってるなあ。おまえ、ほんとにイタリア人か?」
「ほんっと、情けないわね」
フランクフルトをかじりながら、ユリアはため息をつく。
「まだ三つ乗っただけじゃん。午後からはあと五つくらい乗るから」
「ああハルキ、死ぬ前に一度でいいから女体に埋もれてみたかった……」
「わかる、わかるぜ、アル。その夢はおれが引き継ぐ。だからおまえは安心して死ね」
「ひどいっ」
「だっておれ、絶叫系苦手だもーん」
「もーんじゃないよっ。ぼくだって苦手だし、高所恐怖症だし、っていうかなんでぼくばっかり乗せられてるのかまったく意味不明だし!」
「しょうがないだろ、今日は一応ダブルデートって名目なんだから。おれと乙音がペア、おまえとユリアがペア」
「なんでそういうことになったの? ねえ、じゃんけんで決めようよ」
「おっとそろそろ時間だ。次のアトラクションへ行くか」
「薄情者ー!」
三人は立ち上がり、うんと伸びをした。
さわやかな風が吹き抜け、空には太陽が輝く。
そして時間はまだ一時前。帰るために三、四十分かかるとしても、まだ三時間は遊べる時間だった。
ユリアは午前の疲れも感じさせず、泥のようになったアルの腕を引っ張り、新しい絶叫系のアトラクションへずんずんと歩いていった。
晴己と乙音も揃って歩き出し、射的やらなんやら、体力を使わないアトラクションを中心に回った。
乙音もはじめは、本当にこんなことをしていてもいいのかと不安に思っていたが、時間が進むに連れてそんなことも忘れ、目の前のことを楽しむようになっていた。
気づけば――乙音はよく笑い、よく驚き、よく戸惑う。
ピアノがなければ、乙音はどこにでもいるような、感情豊かな女の子だった。
会話も、心を許しはじめている印なのか、すこしずつ増えている。
晴己はようやく、乙音といっしょにここへきてよかったと息をついた。
晴己としても一種の賭けだったのだ――どれだけ乙音のためにと思っていても、所詮は大きなお世話かもしれないし、ありがた迷惑かもしれない。
しかし無関係でいるよりは、失敗しても乙音のためになにかをしてやりたかった。
それはおそらく晴己の性格で、基本的に、他人のためになにかをすることが好きなのだ。
それが空回りするときもある。
うまくいかずに反省するときもある。
でも、ときにはうまくいく。
晴己は、それが今回でよかったと息をついたのだった。
*
一方、絶叫系のアトラクションめぐりをしている組はといえば。
「うう、怖い、怖いよう。高いよう。は、早く下りないかなあ」
「ねえ、揺らしてもいい?」
「絶対やめてよ! いや冗談とかじゃなくてほんとにやめてよ!」
「ちぇ、つまんないの」
遊園地にある絶叫系のアトラクションをあらかた乗りつぶし、ちょっとした息抜きにと観覧車に乗っていた。
しかしそれも高所恐怖症のアルにとっては絶叫以外のなにものでもないらしい。
座席の真ん中に身を縮めて座り、どうか落ちませんように、どうか早く地上へ生還できますようにと必死に祈っていた。
ユリアは平然として、七分丈のデニムに包まれた足をばたばたと動かし、わざと籠を揺らしている。
「や、やめてったら! ほんと怖いんだから!」
「怖いほうがおもしろいでしょ。ほらほら」
「わわわっ」
「あーあ、これがぐるんって一回転したり、ぽーんって跳ねたりしたらもっとおもしろいのに」
「そしたらなかにいるひとは死んじゃうと思うなあ……うう、怖い」
ユリアはちいさくため息をつき、大きく取られた窓から真下を見下ろした。
ふたりの乗るゴンドラはまだ大きな輪を上りはじめたばかり。
がこん、と音がするたびにアルは身体を跳ねさせ、ユリアにはわからないイタリア語でなにかを早口に呟いていた。
広い遊園地の景色が、すこしずつ遠景になっていく。
代わりに空が広くなり、すぐ後ろに控えた山や、その向こうに傾きはじめた太陽が近く感じた。
「――結局、今日のこれって、意味あったの?」
ユリアはぽつりと呟く。
「い、意味って? うう、怖い……」
「乙音を励ますっていうか――乙音とあたしを仲直りさせるためにここまできたんでしょ、どうせ」
「ああ、そういうこと――いや、ハルキがどう考えてるのかはわからないけど、ぼくは単純に遊ぶつもりできたよ。まさかこんなことになるとは思わなかったし、こんなことになるってわかってたらこなかったけどねっ」
「もっと激しく揺らしていい?」
「だ、だめ!」
アルは慌てて座席の端にしがみつく。
ユリアはそのままぼんやりと遊園地を見下ろしていたが、ふと特徴的な耳を生やした頭を見つける。
日本人のふたり組は、射的場のようなところから出てきてベンチに座った。
そうやって見ているかぎり仲のよさそうなカップルにも思われるが、片方が頭に耳を生やしているせいで「ばか」のつくカップルの印象が強い。
「……そういえば、あのふたりって、どうなの?」
「な、なにが?」
「付き合ってるのかどうなのかってこと。別に興味ないけど――おんなじカルテットのなかでそういうことがあると面倒でしょ」
「ああ、別に付き合ってはないんじゃないかな。お互い、友だちだと思ってると思うけど――」
「ふうん――でも結局、余計なお世話よね」
「付き合ってるかどうかってこと?」
「そうじゃなくて。あたしと乙音が仲直りしやすいように、わざわざこんなところまできたってこと」
「うーん、ほんとにハルキはそのつもりだったのかなあ……そしたらわざわざこんなところまではこない気がするけど」
「まあ、なんでもいいけど――どうせなら、もうちょっと怖いやつがあるところに行きたかったわ。ここは子ども向けで生ぬるいもん」
「あ、あれで? うう、絶対ユリアが運転する車には乗りたくない」
「車は安全運転するわよ。レースでもするんならともかく」
観覧車はようやく円の真上あたりまでやってきた。
そこからあとは徐々に下りていくだけで、この遊園地のなかでいちばん高い場所だ。
「――でも、意外だったな」
「なにが?」
「ユリアが、こういうところが好きだってこと。つまんないとか言っていっしょにきてくれないかもって思ってたけど」
「む……悪かったわね、子どもっぽくて」
唇を尖らせ、ユリアはわざとゴンドラを揺らした。アルは悲鳴を上げてユリアをなだめる。
「別に、そんなに好きじゃないわよ――ただ、まあ、あれよ、その」
「なに?」
「つまり、まあ、なんていうか――誘われたんだし、楽しまなきゃ悪いかなって思っただけよ」
ふん、とユリアは鼻を鳴らした。
がたんとゴンドラが揺れる。
アルは悲鳴も上げず、まじまじとユリアの顔を見つめたあと、笑い出した。
「な、なによ? そんなにゴンドラを揺らしてほしいわけ?」
「ち、ちがうよ――そうじゃなくて、その、ユリアってほんとはすごくいい子なんだと思っただけで――ああなんで揺らすの!? ほめたのに!」
「やっぱりイタリア人だわ、あんた。っていうか晴己にしてもそうだけど、あんたたちふたりとも変なとこで照れないんだから」
「ぼくとハルキはユリアについていろいろと聞いてたからね――わがままだとか、自分勝手だとか。でもやっぱりそんなのはただのうわさだ。まあ、たしかにわがままだし、自分勝手なところもあるし、基本ひとが嫌がることをしたがるし、ドSだけど」
「うわさよりかなり悪口が増えたけど? いますぐここから紐なしバンジージャンプさせてあげましょうか」
「死ぬ! それこそ死んじゃうよ! ――でも、ほんと、悪い子じゃない。それがよーくわかっただけでも、今日はこうやってきた価値があったよ」
「あれだけアトラクションに乗せられても?」
「うっ……いまいい感じで終わりそうだったのに」
ユリアはすこしずつ近づいてくる地面を見下ろしながら、独り言のように呟いた。
「あたしも、まあ、楽しかったわ」
アルはなにも言わず、聞こえないふりをした。
きっとなにか言えばまたゴンドラを揺られることはわかりきっているし、それになにも言わなくても、ユリアが楽しんでいることは表情を見ればわかる。
振り返ってみれば、たしかに今日一日楽しかった――とは言いきれないところがアルとしてはつらかったが、とにかく、このところ授業とカルテットの練習で忙しかったから、いい息抜きにはなっていた。
ゴンドラはゆっくりと高度を下げ、地上にたどり着く。
待ち受けていた係員がドアを開けると、偶然、次に乗り込もうとしているのは晴己と乙音だった。
「あれ、猫耳のばかっぷる、まだ乗ってなかったの?」
「だ、だれがばかっぷるだよっ――やっぱりこういうのは最後に乗るべきだろ?」
「なあに、日本ではそういう決まりなの?」
「決まりってわけでもないけど――おっと、早く乗らなきゃ」
晴己が先に乗り込み、わっと慌てる乙音の手をなかから引っ張ってやって、無事にふたりともゴンドラのなかに収まった。
まったく仲睦まじいことだとユリアはため息をつき、ぐったりしたアルを引き連れ、ふたりを待つためにベンチへ向かった。
*
時間はもう四時前になっているが、夕暮れにはまだしばらく時間があった。
ゴンドラはあまり揺れず、静かに、ときおり大きな歯車が回るような音を立て、上っていく。
「わあ、高い――」
乙音は窓に張りつき、じっと下を覗いた。
すぐ近くのベンチにユリアの金髪とアルの赤毛が見える。
さすがにこのあたりまでくると外国人もそうそういないから、ふたりの姿はこのきらびやかな世界でさえ目立っていた。
「あのふたり、なんだかんだ言って仲良さそうだよなあ」
晴己もふたりの頭を見下ろし、もしや、と呟いた。
「あのふたり、実はそういう仲だったりして――」
「そ、そういう?」
聞き返しつつ、意味はわかっているらしい、乙音はうっすらと頬を赤らめる。
「いや、まさかなあ……おんなじカルテットのなかでそういうのは、まあ、ない話じゃないんだろうけど」
「そ、そうなの?」
「いや、わからん。おれもカルテット内の恋愛事情には詳しくない。でもまあ――わからなくは、ないけどな。ユリアは美人だし、まあ、悪い子じゃないし、アルもいいやつだし。まあ、もしほんとにそうなったら、アルのやつ、苦労しそうだけど」
今日一日でさえそうだったんだから、と晴己は呟き、視線をつと持ち上げた。
青い空には、すこしずつだが、分厚い雲が増えはじめていた。
明日にはまた雨になるらしい。
やはり今日のうちにきてよかったと思う。
きっと明日では、こうはうまくいかなかっただろうし、たぶん昨日でもだめだった――今日こうしてきたから、いまここでこうしていられるのだ。
「――なあ、乙音」
乙音は窓の外から晴己へと視線を移した。
もともと小動物的な、黒目がちな大きな目は、今日は頭につけた猫耳があるせいでいかにも猫の瞳のように見える。
「音楽なんかなくても、結構楽しいだろ?」
にっと笑った晴己に、乙音は忘れていた傷が強くうずいた。
「あ、あの――」
「音楽って、別になきゃいけないものじゃないと思うんだよな。それ以外にも楽しいことっていっぱいあるし。こうやって遊びに行っても楽しいし、たぶんほかのことをしてても楽しさって感じると思うんだ。でも――それでもたぶん、おれは音楽が好きなんだよな」
そう言って、照れくさそうに晴己は笑った。
「だから、やらなきゃいけないっていうんじゃなくて、やりたいって――音楽を楽しみたいって思いながら音楽ができたら、ほんとにすごいことだと思う」
「……うん、そうだね」
「おれ、乙音のピアノ、好きだよ。おれ以外にもそういうやつがいっぱいいると思う。でも、乙音が楽しくないって思ったら、無理して弾く必要なんかないんだよ。自分がやりたいことを押し殺して、他人の期待に応えなくたっていいんだ――いや、別に期待されたこともないおれが言っても説得力はないかもしれないけどさ、でも、おれは乙音みたいにうまく音楽にして伝えたりできないから、思ってることは言葉にして言っておきたいんだ。いつか、おれも考えが変わるかもしれない。まわりの期待に応えなきゃって思うようになるかもしれない。でも、いまの気持ちはさっき言ったとおりだから。おれは――乙音がやりたいようにやればいいと思う。もし手伝えることがあったら、なんでも手伝うよ。まあ、なにができるってわけじゃないけど――もし乙音にピアノを弾けって強制する大人がいたら、おれが追い払ってやる。それくらいなら、できるからさ」
ゴンドラはゆっくりと揺れていた。
まるで雲のように、やさしく緩やかに。
乙音は水滴が頬を伝うまで、自分が泣いていることに気づかなかった。
慌てて目をこすり、頬を拭って、しっかりと晴己を見た。
乙音は思う――きっと、この光景は、この言葉は、一生忘れないだろう。
ピアノとは切り離された、小嶋乙音というひとりの人間をはじめて許された気がした。
そうやって生きていてもいいんだと、他人にはじめて認められた気がした。
それは――きっとなによりも大切で、なによりもほしかったものだったから、乙音はあふれてくる涙を止めることができなかった。
――言わなくちゃ。
ちゃんと、言いたいと思ったことを言わなくちゃ。
「あ、あの――あ、ありがとう。その、ね――わたしも、音楽は好き、だから」
もともとはすべて、そこからはじまったこと。
子どものころ、おもちゃのピアノの鍵盤を叩いて、ちいさなスピーカーから聞こえる音に心躍らせた――はじまりはその場所だった。
そこからいろんな場所を通り、いろんなものを見て、いろんな言葉をかけられ、いろんなことを考えて。
そうしてようやく、この場所までたどり着いたはずだった。
乙音がこの場所に立っているのは、乙音自身がそれを望んだからだ。
無限の選択肢があったわけではない。いつも選べる選択肢はいくつかしかなく、でもそのなかで選びとってきたものは、音楽だった。
なぜ音楽をするのかといえば、きっといろいろ理由は思いつくだろうが、突き詰めればたったひとつしかないのだ。
乙音は、音楽が好きだった。
ピアノが好きだった。
だからピアノを弾き、音楽を奏でている。
「そっか、よかったよ」
晴己はすこし笑って、視線を窓の外にやった。
ゴンドラは観覧車の頂点までやってきて、ゆるやかに下りはじめる。
地上へ帰るゴンドラのなかで、晴己はだれともなく、音楽を口ずさんでいた。
最近カルテットで練習した、ハイドンの有名な四重奏曲、七十七番。
いまはドイツ国歌として知られているそのメロディを無伴奏のソロとしてちいさく歌う。
やさしく偉大なメロディはどこか切なくもあって、ゴンドラにゆっくりと満ちていった。
ゴンドラが地上へ着き、晴己が先に降りて、乙音を待つ。
それからアルとユリアに合流し、四人でしばらくベンチに座っていた。
特別な会話はなく、みんな風のように吹き抜けていく時間を惜しむようにぼんやりとしていた。
乙音の目が赤いことには、アルやユリアも気づいたにちがいない。
しかしふたりとも気づかないふりをして、何気ない話を続ける。
やがて――そろそろ帰ろうか、とだれともなしに言い出した。
時間は四時をすこし回って、学校では授業も終わっているころだ。
電車に乗り、帰り着くころには、すこしずつ日も落ちてくる。
四人は散々遊び尽くした遊園地に別れを告げ、最寄り駅から町へ帰る電車に乗った。
帰宅ラッシュにはまだ早いし、学生たちが家に帰るには反対方向だったから、電車のなかは空いている。
車両の両側に向かい合わせでつけられた席にぽつぽつと客が座り、四人はふた手に分かれて向かい合って座った。
晴己とアル、ユリアと乙音が並んで座っていたが、晴己とアルは電車が走り出すかどうかという時点で目を閉じ、眠りはじめる――どうやらよほど疲れたらしい。
とくにアルは、眠っていてもいやなことを思い出すのか、眉をひそめ、時折「うっ、わっ」とうめきながらの居眠りだった。
ユリアと乙音はその様子をぼんやり眺めていたが、不意にユリアが鞄をがさがさと漁りはじめる。
なんだろうと不思議に思った乙音が何気なく窺っていると、ユリアは無言のまま、ちいさな紙袋を乙音に差し出した。
「これ、あげるわ」
「え、ど、どうして?」
「どうしてって、別にその、理由はないけど」
渡すだけ渡して、ユリアはぷいとそっぽを向いた。
「なんていうか、昨日ちょっと買い物に行ったら、まあ、そこそこよさそうなやつがあったから。あたしより乙音のほうが似合うんじゃないかと思って――それ以上の意味はないわ」
「そ、そう――開けても、いい?」
「大したもんじゃないけどね」
ちいさな包を開けると、その中身はヘアピンだった。
それも八分音符がついたヘアピンで、派手ではないが、乙音でもつけられそうなものだった。
「わあ、かわいい――あ、ありがと、ユリアさん」
「どういたしまして」
「それからね――あの、謝らなきゃいけないと思ってて、あの」
「ああ、それは別にいいわよ。お互いさまってことで――そもそも、別にけんかしたわけじゃないでしょ?」
ユリアの言葉に乙音はこくんとうなずいて、うれしそうにヘアピンが入った小袋を抱いた。
電車はがたごとと音を立て、揺れながら、音楽の町へ向かってひた走る。




