第二話 4
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どんな集団にも、不良とまではいわなくても、やんちゃなことをする人間はいるものだ。
全員が厳しい規律のなかで生活する皐月町音楽学校のなかにも、もちろんそれは存在する。
そしてそうした「やんちゃ」のノウハウは先輩から後輩へと受け継がれるもので、皐月町音楽学校には、教師の耳には絶対に入らないうわさ話というものがあった。
そのうちのひとつに――平日に学校を脱出する方法、というのがある。
晴己は転入して約二週間にしてそのうわさを聞き知っていた。
いわく。
平日、正門、裏門ともに堅く閉ざされているが、まったく出入りが不可能というわけではない。
正門はよほどのことがない限り開くことはないので、ここからの出入りは諦めたほうがいいが、裏門は食料やその他もろもろの出入りがあり、毎日決まった時間に鍵が開くというのだ。
それは、ちょうど二時間目がはじまったころ、十時前後といわれている。
その時間に集中して様々なものが出入りするから、うまくいけばするりと外へ抜け出せる――というのである。
晴己もはじめはふうんと話半分に聞いていたが、まさかそれを早々に実行することになるとは、もちろん晴己自身も思っていなかった。
「――そっち、どうだ?」
「だれもいないみたいだ」
「よし、行くぞ――」
「あ、ちょっと待ちなさいよ――ほんとに行くの?」
「静かに。ばれたらやばい――おれたちは一応、四十度の高熱で朦朧としてるってことになってるんだからな」
「それ、絶対先生たちも信じてないと思うけど」
――四つの影が、人気のない校舎裏を進んでいる。
無論、いつもの四人組だ。
先頭に晴己、その後ろにユリア、乙音と続いて、しんがりはアルが務める。
晴己は校舎の影から顔を出し、あたりに人気がないことをたしかめ、さっと手を掲げた。
ユリアと、ユリアに手を引かれた乙音が影から影へと移っていく。
やがてその先に裏門が見えてくる。
あまり大きくはない鉄の門で、それはぴたりと閉じているように見えた。
「ねえ、ほんとに鍵は開いてるの?」
「たぶん、開いてると思う。よし、おれが確認してこよう」
校舎裏の影から晴己が出ていった。
身をかがめ、そろそろと裏門に近づいたところで、
「ハルキ、だれかきたぞ!」
小声でアルが言った。
晴己は慌てて傍らの茂みに飛び込む。
そのすぐ横の道を、事務員のような格好の男がとことこと通り過ぎ、気楽な様子で裏門を開けて外へ出ていった――やはり鍵は開いている。
再び晴己は門に近づく。
出ていった男の姿が見えなくなるのを待って、全員に合図を出した。
「よし、いまだ」
アルがまず飛び出し、それに続いてユリアも出て行こうとする。
「ほら、乙音、急いで」
「え、あ、う――」
乙音はユリアに手を引かれるまま、裏門をくぐった。
そのすぐ外は薄暗い路地になっていた。
隠れるところもないような場所だったから、四人はすぐに大通りへ出て人混みにまぎれる。
平日の昼間の町は、なんとなく眠たげな表情をしていた。
道行くひとびとも種類は様々で、主婦らしいひとやスーツ姿のサラリーマンらしいひと、大学生ふうのしゃれた女の子や散歩中の老人など――そのなかに紛れながら、四人は顔を見合わせてかすかに笑い合った。
乙音も、どきどきしているやら、楽しいやら――生まれてはじめてだれかといっしょにする悪事は、不思議な興奮をもたらしている。
「よし、無事に脱出できたし、このまま目的地へ行こう」
「絶対、帰ったら怒られるわよ」
「怒られるくらいならいいさ。たまには息抜きも必要だろ」
「まあ、その息抜きは日曜日にしておくべきだけどね」
言いながら、ユリアもまんざらではないらしい顔をしている。
アルと晴己も楽しそうに笑っていた。
だから乙音も自然と楽しくなって、いつの間にか笑顔になっている。
四人は電車に乗り、一路郊外の遊園地を目指した。
*
「箕形くんは、今日から声楽の授業に参加する予定になっています――何事もなければ」
学長に報告しながら、若草雪乃はうっすらといやな予感を覚えていた。
しかしその正体を掴みきることはできず、学長の後ろにある窓から天気のいい空を見る。
昨日は雲ひとつない晴天で、今日は多少雲は見えるものの、まだ天気は明るく保たれている。これが明日には雨になり、またしばらく憂鬱に降り続くらしい。
学長は背中にぽかぽかとした陽気を浴びながら、いつものようににこにこと笑っていた。
「楽典の基礎は、ある程度教えられたと思います。まだ楽譜を読む速さは実際の演奏スピードよりも遅いですが、まあ、このあたりは慣れでしょう。しばらくは声楽科でも戸惑うと思いますが、とくに問題はないと思います」
「そうですか、ご苦労さまでした、若草くん」
「でも――本当に声楽科で教えてしまってもいいんですか? 彼の声は、いまの発声で支えられているものでしょう。もちろん、正しい発声をすれば喉への負担も減り、より声に深みは増すかもしれませんが、そうなるといまの彼の声は失われてしまいます」
「そうですね――ある意味で彼は、小嶋くんと同じ種類の指導法が必要なのかもしれませんね」
「小嶋乙音、ですか――先日、ミューズ出版の方がいらしていたようですが」
「ああ、お会いしましたか? 小嶋くんにCDを出してみないかというお誘いでした。ぼくとしては、それも悪くないと思ったのですが」
「小嶋乙音は断ったんですか?」
「保留というところでしょうか。引き受けたわけでも、断ったわけでもない」
「まあ、そうでしょうね。わたしも彼女には何度か会ったくらいですが、積極的にCDを出したがるようには見えませんでした。ユリアあたりなら、わかりませんけど」
「いやあ、彼女はどうでしょうね」
からからと学長は笑う。
「彼女なら、もっと大手でなければ出さないというかもしれませんね」
たしかに、と雪乃はうなずく。
「しかしまあ、出すにしても出さないにしても、それは小嶋くんが決めることです。われわれはそれをできるかぎりサポートしてあげましょう」
「はい、わかりました」
「それで――音楽は、どうですか?」
不意に、学長は言った。
雪乃はその意味がわかってしまう自分を情けなく思えながら、すこし沈黙する。
――雲が漂ってきたのか、まぶしく差していた光が陰って、学長の笑顔が薄暗くなる。
「箕形くんに音楽の基礎を覚えることで、きみもまた新しい気持ちで音楽に触れられたのではありませんか?」
「……全部計算づく、ということですか」
「どうも、ぼくは腹黒いのです」
自分で言って、学長は楽しそうに笑った。
「箕形くんもたったひとりの生徒ですが、非常に優秀なもうひとりの音楽家も、なかったことにするには惜しい存在ですからね」
「……まあ、昔のことを、すこし思い出しました。自分にもあんな時期があって――ただピアノの鍵盤を叩いて音を出すだけで楽しかったころがあったんだと」
子どものころは、ピアノは魔法の箱のように見えていた。
正体のわからない不思議な黒い箱で、きれいな音がこぼれてくるのを聞いているだけでも幸せな気持ちだった。
でも――いつからだろう、魔法の正体を知ってしまったのは。
鍵盤を叩けばハンマーが上がり、それが張られた弦を打つことで音が出る。それは魔法でもなんでもない、単純な機械構造で、その構造を支えているのは科学なのだと知ってしまったのは、いつごろだっただろう。
雪乃は、ひとよりも長く「音の魔法」を信じていた自信がある。
それはサンタクロースのようなものだ。
みんなはじめは信じていて、やがて信じなくなってしまうもの。
雪乃はそれを長く信じすぎて――ある瞬間、魔法なんてないんだと知らされて、あまりにも大きなショックを受けすぎた。
音楽は神秘ではない。
緻密な科学的計算によって生まれ得るもの。
音というのはある周波数の振動で。
A音は440ヘルツと決まっていて。
音楽には法則があって、その法則に従うことで人間の感情までふるわせることができて。
――ああ、でも。
考えてみれば、それが神秘でなくなったからどうだというのだろう。
A音が440ヘルツだと知っていても、それで音が変わるわけではない。
ピアノの構造を知ったから、ピアノの音の聞こえ方が変わるわけでもないのに――まるで現実に裏切られたような気がして。
そっぽを向けたのは、現実ではなく、雪乃自身だった。
音楽ははじめからそこにあって、いまも変わらず、そこにある。
そんなことに気づくまでに五年もかかってしまったのだ。
「学長は、音楽をどう思いますか。それは不可欠なものだと思いますか?」
「そうですね――人間が生きていくうえで、音楽は必ずしも必要ではないかもしれません。しかし、知っていますか、若草くん。ホモサピエンスという種は、文化と同時に音楽を創造しているのです。人間がまだ洞窟に暮らしていた時代から音楽はあったのです。それはいったいなんのために奏でられた音楽なのでしょう。心を奮い立たせるためか、危険を知らせるためか、それとも単なる楽しみとしてなのか――現在、われわれのまわりには娯楽があふれています。テレビを見ることもできるし、映画を見ることもできる。小説もあれば、漫画もある。遊園地に行って楽しむこともできるし、ボールを蹴ったり投げたりして楽しむこともできます。娯楽の種類は時代が進むごとに増えていきますが――音楽はいまもって消えていません。数多くある娯楽の一種類になっていたとしても、本質的に音楽を奏でるということは楽しいことなのです。リズムを取り、旋律を作り、生まれ落ちた音楽に身を任せる。それが心地いいことだと無意識のうちに承知しているのです。ただ楽しい――それでいいと、ぼくは思います」
ただ楽しい。
芸術でも、文化でもなく。
楽しいことをやろうという、その気持ちだけでも音楽は続いていく。
雪乃はちいさくうなずいた。
「たしかに、それでいいのかもしれません」
「きみも、早く以前のように音楽を楽しめるといいですね。そのためには箕形くんや小嶋くんを指導してみるのもいいかもしれませんよ。彼らはよくも悪くも純粋で、箕形くんはとくに、いま音楽が楽しくて仕方ない時期でしょうから」
「小嶋乙音も、そうですか?」
「彼女は――そうですねえ、すこし事情がちがうかもしれません」
学長ははじめて笑顔を引っ込め、眉根を寄せた。
「彼女は幼いころから天才、神童と呼ばれ続けています。もちろん、彼女の才能には疑いがない。きっと百年に一度、もっといえば、彼女のようにピアノが弾けるのは彼女以前にはいなかったし、彼女以降にも生まれないでしょう。しかしそれは――危ういことでもある。とくに理屈で弾いているわけではありませんから、ある日突然、弾けなくなってしまうこともあるわけです。そのとき彼女は、いったいどこに自分の存在価値を見出すか――だれもかれも、彼女の才能しか見ていませんからね。だれか、彼女の才能以外の部分を引き出せるような人間がいればよいのですが」
学長は上目遣いで雪乃を見た。
これには雪乃も首を振る。
「わたしには荷が重すぎます。正直、箕形くんの指導だけでも手一杯ですよ。まあ、声楽科の授業に出るようになったら、すこしは楽になると思いますけど」
「そう、なにもかもきみに背負わせてしまうのは問題ですね。それに――こういうことは案外、われわれのように腹黒い大人が考えもしない方法で解決したりするものです」
「……われわれ、っていうのはやめてもらえませんか? わたし、別に腹黒くないですし」
「大人はみんな腹黒いものですよ」
くすくすと学長は笑う。
やっぱりこの学長は苦手だ、と雪乃はため息をつき、くるりと踵を返した。
「箕形くんに関する話は以上です。またなにかあれば」
「はい、わかりました。ご苦労さまです、若草先生」
学長室を出ると、また雲が去ったようで、陽が差していた。
庭の中央にある噴水はきらきらと輝き、周囲にある花壇の草花もそのひとつひとつがまばゆく発光しているようだった。
こういう天気の日は、さすがに気分もよくなる。
雪乃は軽い足取りで職員室に戻り、自分の席に座ろうとして、机の上に白い紙が置いてあることに気づいた。
――つい先ほど、箕形晴己について報告したときに感じたいやな予感を思い出す。
「……まさか、ねえ」
そんなに都合よくいくわけがない、と思いながら紙をめくると、裏には一行だけ文字が書かれていた。
読んでいけば。
『ちょっとゆうえんちまで旅に出ます。夕方には帰ります。探さないでください。あなたの箕形晴己』
あなたの、とはなんのことだとか、旅ってなんだとか、言いたいことはいろいろあったが、万感を込めて雪乃はため息をつき、ぽつりと呟いた。
「遊園地くらい、漢字で書きなさい」




