第二話 3
3
皐月町音楽学校にはふたつの寮がある。
ひとつは昔ながらの古い寮で、もうひとつは十年ほど前に新設された真新しい寮。
乙音は新しいほうの寮に部屋を持っていて、古い寮の練習部屋から飛び出したあと、そのまままっすぐ新しい寮の自分の部屋へと戻ってきていた。
新しい寮も、基本的にはふたりから三人部屋になっている。
しかし人数の関係でふたり部屋にひとりで暮らしている場合もあって、乙音もそのひとりだったから、部屋に飛び込んでもそれを気にする人間はだれもいなかった。
布団は二段ベッドの下段に敷かれている。
部屋に入るや否や、乙音はその布団に飛び込み、ぐるりと巻き込んで丸まった。
――泣いているわけではなかったが、泣きたい気持ちではあった。
悲しいわけではない。
なんだか悔しかった。
ユリアに言われたことよりも、そんなことにもろくに答えられない自分が悔しくて、泣きたい気持ちになる。
――思い出してみれば。
乙音は昔から、ずっとそうだった。
子どものころ、「ことば」を話すよりも音楽を奏でるほうが得意で、その分野ではすでに天才だとか神童だとかいわれていた分、同世代の子どもと馴染むことができなかった。
大人たちのなかでは、おどおどとして自己主張できなくても不審には思われなかったが、同世代のなかではそうもいかない。
結局乙音は孤立して、大勢のひとのなかで生きていくことを諦めるようになった。
でも、それは――まわりが悪かったのではなく、自分が悪かったんだと乙音は思う。
まわりにいた同世代の子どもたちはいつも親切だった。
乙音が大人たちにもてはやされているからといって変にからかったりもしないし、むしろ積極的に仲間に入れてくれようとした。
やさしそうな女の子や男の子。
いっしょに遊ぼう、といって手を伸ばしてくれたそのときの顔を、乙音はまだ覚えている。
――乙音はその手を握れなかった。
なんだか怖い気持ちと、この子たちは自分と遊びたいのではなく、やさしさからそう言ってくれているのだという妙な悔しさがあって、その場から逃げ出してしまった。
「――なんだ、そっか」
そのころと、まだなにも変わっていない。
差し出された手を掴んだのは、たった一度だけ。
――カルテットに入らないか、という、あの誘いだけだった。
ユリアはきっと親切で言ってくれたにちがいない。自分から輪のなかに入っていける乙音ではないから、ちゃんと意見を聞いてあげようとして話しかけてくれたのに、乙音はそれに答えられなかった。
結局、ユリアはあの場で悪者のようになってしまっただろう。
そう思うと申し訳なさと自分に対する悔しさが入り交じって、泣きたくなる。
乙音はかたつむりのように背負った布団からひょっこりと顔を出した。
部屋には、子ども用のちいさな電子ピアノが置いてあった。
白と黒の鍵盤、そのつるりとした表面の様子に、つい指を伸ばしたくなる。
乙音は無意識のうちにそろそろと伸ばしていた手を、はっと気づいて引っ込めた。
ピアノに頼っているから、いつまでもだめなのだ。
ピアノで会話ができると思ってはいけない――会話は「ことば」でするもので、みんなそうしているのだから、自分にもそれができるはずだと乙音は思う。
乙音には、いつも逃げ場所があった。
だれかとまともに会話できなくても、ピアノさえあればみんながほめてくれた。
いったいなにをほめてくれるのか、よくわからなくはあったけれど――でも、だれかが認めてくれるということは、きっと否定されることよりは気持ちよかったにちがいない。
ピアノは乙音の逃げ場所。
じゃあ、それを捨ててしまおうと思う。
ピアノはもう弾かない。
すくなくとも、いまの状況からちゃんと出られるようになるまでは。
このままみんなに迷惑をかけているわけにはいかないのだ。
まずはピアノを使わず、ユリアに謝ろうと思う。
今日のことはごめんなさいと、ちゃんと謝ることができたら、また一歩進める気がした。
よし、と乙音は布団のなかから這い出した。
思いついたうちに実行しなければ、またできなくなってしまう。
さっそくユリアの部屋へ行って、謝って――と考えているうち、ふと気づいた。
乙音はユリアの部屋を知らなかった。
古い寮のほうだとは知っていたが、それ以上、何階の何号室なのかはわからないままだったから、まず古い寮へ行って、寮母さんなりなんなりにユリアの部屋番号を聞き、それからユリアの部屋へ行って、謝らなければならない。
「う、ど、どうしよう……ゆ、ユリアさんの部屋を教えてくださいって言えばいいのかな。で、でも、だめって言われたら? ううん、教えてもらったって、部屋にユリアさんがいなかったら……ずっと部屋の前で待ってる? でもそしたら変なやつだと思われちゃうかもしれないし、それに、突然部屋に行って今日のことはごめんなさいなんて言ったら、余計になんか重たいやつだと思われたり……」
ちいさな影がぐるぐると部屋のなかを回る。
そのうち目が回って、乙音はベッドにぱたりと倒れた。
枕に頬を押しつけ、ぽつりと呟く。
「謝るのは、明日にしよ……」
乙音はそのまま目を閉じた。
頭のなかでは練習部屋で最後に鳴らした不協和音がずっと反響して、消えないままだった。
*
世間の学生は、週末といえば一週間のうちでいちばん気分がいい日にちがいない。
五日ないし六日間の授業を終え、やっと訪れた休日。
それを満喫してやろうと前日から気合いを入れる学生もすくなくないだろう。
そのあたりの事情は皐月町音楽学校の生徒にしても同じことだった。
むしろ彼らのほうが顕著といってもいい。
なにしろ、皐月町音楽学校の生徒たちは普段、生活のすべてを校内で済ませ、校外へ出ることは原則的に認められていないのだ。
――もちろん、こっそり出入りしている不良学生はどこにでもいるものだが、大半の人間にとっては一週間で唯一、町へ出られる日なのである。
そのせいか、日曜日の皐月町音楽学校は、驚くほど静まり返っている。
普段は耳に馴染んでしまっている楽器の音もなくなり、ひとの話し声や足音もなくなって、中世ふうの建物も相まってまるで忘れ去られた遺跡のようになってしまうのだ。
教師たちは休みといえどそう出歩くわけではないから、週に一度の静寂を思い思いに楽しんでいるが――生徒たちは静寂をあとにし、騒がしい町へと繰り出して、その一日だけは音楽のことを忘れて普通の学生のように過ごしていた。
箕形晴己ももちろん、そのひとりだ。
基本的に日ごろの授業をいやだとは思わないが、それとこれとは話が別とばかりに休日を堪能するため、朝早くから学校を出て、ルームメイトのアルとともに栄えた駅前のあたりを目的もなくぶらついていた。
「いやあそれにしても、もうすっかり夏だねえ」
昨日までの雨はすっきりと上がって、今朝は晴天。
青々と透き通った空を見上げ、晴己はううんと伸びをする。
「真夏になったら、海とか行きたいな」
「あー、いいねえ」
となりを歩くアルは、途中で買ったソフトクリームを舐めながらの徘徊である。
「海といえば、水着。水着といえば、水着美女――いやあ、しびれる」
「しびれる、しびれる。ま、現状は、ぼくとハルキの男ふたり組だけど」
「ばかやろう。おれたちはあえて男ふたりでいるのだ。なぜならば、やがって色っぽいおねーさんたちがやってきて、坊やたち、いっしょに遊ぶ? ――なんて声をかけてくれることになっているのだ!」
「ハルキ、ぼくが言うのもなんだけど、妄想はほどほどしないと社会復帰がむずかしくなるよ」
「すでに逸脱してるみたいに言うなっ。まだぎりぎり社会に残ってるわ」
「ぎりぎり、ね。ぎりぎり」
「音楽家なんてそういうもんさ」
否定はできないなあ、とアルは呟き、日差しの眩しさに目を細める。
――本当に、すっかり夏の空色だった。
梅雨はまだ明けていない。天気予報によると明後日からまた数日雨が続くらしく、それまでのわずかな晴れ間だが、ちいさな町から見上げるかぎり、雲ひとつない、永遠につながっていそうな青空だ。
ふたりは休憩がてら、駅前にあるベンチに腰を下ろした。
気温はもう二十五度をとっくに超えている。
待ちゆくひとびとの格好も夏そのもので、すぐ目の前を通り過ぎるノースリーブを着た大学生ふうの女性をふたり揃って目で追った。
「いやあ、実にいいねえ」
「実にいいよねえ」
その様子は半ば不審者だったが、幸い、だれもふたりには注意を払っていなかった。
晴己はともかく、アルはこのちいさな町では目立ってしまうような異国のひとだが、駅前にいるかぎりは特別視線を浴びることもなかった――というのも、この町に皐月町音楽学校があることはだれでも知っていて、そこには大勢の留学生がいることも知っているから、いまさら外国人の青年がいても驚くことはないのだ。
駅前の広場に置かれたわけのわからないオブジェを眺めながら、晴己はもう一度伸びをする。
「ほんっとにいい天気だなあ。これで悩み事さえなきゃ、完璧だったんだけど」
「オトネとユリアのこと?」
アルはソフトクリームを舐めながら、目にかかるカールした前髪を払う。
「たしかに、カルテットにとっては重要な問題だけど――若草先生にも放っておけって言われたんでしょ? ぼくもその意見に賛成だな」
「イタリア人もそう思うのか」
「いやあ、美人を見かけたら声をかけなきゃ失礼っていう人種はどう考えるのかわからないけどね。でも――うん、結局ああいうのって、女の子同士のコミュニケーションみたいなものなんじゃないかな。そこに男のぼくたちが関わっちゃうと、それでなんか、余計にこじれちゃう気がする」
「たしかになあ」
それもわかるんだけど、と晴己はため息をついた。
たしかに余計なお世話になる可能性も高いが、それでも放っておけない気がしてしまうのだ。
同じカルテットの仲間だし――もっといえば、同じ音楽を志す仲間でもある。
「――いや、ちがうのかな」
ユリアや乙音、アルは間違いなく音楽家を目指しているのだろう。そうでなければ音楽学校には入らない。
しかし晴己は、自ら望んで学校に入ったわけではなかった。
誘われ、おもしろそうだという理由だけで普通の学校から転入してきた存在だったから――入学したとき、学長に言われたことを思い出す。
――きみは歌うことが好きですか?
あのときは、わからないと答えた。
でもいまは。
歌うことに限定するなら、好きといってもいい。
ただ音楽が好きか、そのために人生を捧げられるかと迫られたら、ユリアやアルほどは即答できないとも思う。
ユリア、乙音、アルは、楽器こそちがっても同じ音楽を志す者同士だ。
晴己は自然とその輪に入ったつもりでいたが――ふとこの晴空に、そうではないのかもしれないと思う。
「なあ、アル」
「ん?」
「あの学校ってさ、卒業したらみんな音楽家になるのか?」
「いや、そういうわけじゃないよ。まったく関係のない仕事に就くひともいる。言っちゃえばさ、音楽家って、世間にそんなに必要ないんだ。ほんとに優れたひとが何人かいれば足りちゃうくらいだから――まあでも、その活躍の場所を制限しないなら、就職の手はあると思うけどね」
「どういうこと?」
「うーん、たとえば、世界有数のオーケストラの一員以外は音楽家じゃないっていうならむずかしいかもしれないけど、こういうちいさな町の楽団に所属する人間も音楽家だっていうなら、たぶん、そういう就職口はあると思う。なんたって皐月町音楽学校だからね。その卒業生ってだけでも、この業界では一目置かれるよ」
「へえ、そんなにすごいのか、うちの学校って」
「それも知らなくて転入してきたハルキほどじゃないさ」
アルはかりかりとコーンをかじり、手を払った。
「それにクラフト・リペア科っていうのもあるしね。簡単にいえば楽器の修理屋さんだ。もちろん、職人技が必要になる。そういうひとたちは音楽家っていうより楽器職人になるからね」
「ふむふむ、なるほど。クラフト・リペアねえ……じゃあアルは、将来はどうするんだ?」
「うーん、どうかなあ」
視線を空に投げ、アルは足をぶらぶらと揺らす。
「理想をいえば、どこかのオーケストラに入りたいかな」
「おー、やっぱりそうなのか」
「ハルキは?」
「なーんにも考えてない」
「だろうねえ」
くすくすとアルが笑うと、晴己はむっと眉根を寄せて、
「いや、やっぱり考えてる。将来はだな、美人の奥さんをもらって、幸せに暮らす」
「ハルキ、それは将来の目標じゃなくて、妄想というんだよ。まさか日本人に日本語を教える日がくるとは思わなかったけど」
「う、うるせえな、これも立派な目標だろ?」
「まあ、たしかにそうかもしれないけどね――ねえ、じゃあ、どんな奥さんがいい?」
「どんな?」
うーむと晴己は真剣な顔で腕を組んだ。
「まず、年上がいいなあ」
「なるほど。日本人?」
「いや、この際外国人でもいい。どっちかっていうと金髪が好きだ」
「うんうん、わかる」
「で、だ。まず、美人だろ」
「美人にもいろいろあるよ」
「あれだ、おれはSっ気が強いほうが好きだ」
「わあ、変態だね。わかるわかる」
「変態がわかるのか? それともSが好きなのがわかるのか――いやまあいいや。でも、あんまり大柄なのはあれだな」
「なるほどねえ――あ、ねえ、あんな感じがちょうどいいんじゃない?」
「どれどれ」
アルが指さしたずっと先、妙な現代彫刻の銅像のさらに向こうに、いま晴己が言ったとおりの後ろ姿があった。
この陽光に輝く金髪、身体はすらりとしているが、背は高すぎず、後ろ姿だけで相当な美人だとわかる人物だった。
格好は、白いTシャツにデニムのミニスカート。いかにも外国人らしく、あまり飾り気はない。しかしそれがかえって魅力的に見えるスタイルはさすがだった。
「いやあ、いいね。実にいい」
「声、かけてくる?」
「まさか。見るからに外国人だぜ? おれ、英語なんか話せないよ。あと外人こわい」
「いまイタリア人と話してるひとが言う台詞じゃないと思うけど」
「よし、じゃあ、アル、行け」
「や、やめろよ、背中押すなよっ。ぼくだって英語はだめだよ、イタリア語ならできるけど」
「ちぇ、じゃあここでおとなしく見物するか。いやあでも、いいなあ」
くだんの金髪少女は、どうやらちょっとした雑貨店に入ろうとしているらしい。
その入り口に飾られているものを眺め、いざ入ろう――というところで、その脇から勇敢なる男ふたりが金髪少女に声をかけた。
晴己とアルはベンチからそれを眺め、勇気あるなあ、と呟いていたが、金髪少女がハエでも追い払うように男ふたりをあしらった際、ちらと振り返ったのを見てふたり揃って声を詰まらせる。
金髪の下の、青く澄んだ瞳――気が強そうな鼻や、ちいさな唇――その唇はすごすごと立ち去った男ふたりになにか悪態をついているようだった。
その容姿、気の強さからして、間違いない。
「……ユリア、だな、あれ」
「うん、そうだね」
「……おれ、結婚するなら日本人がいいかな」
「そのほうがいいかもしれないね、うん」
「アル、どうだ。イタリア人とロシア人」
「うーん、ぼくももうちょっとおしとやかな子が好きだなあ……」
ユリアが美人であることは疑いがない。
学校一といってもいいくらいの美少女だが、ただ、あの気の強さを受け止められる自信がない晴己とアルだった。
ユリアの背中が雑貨店のなかに消える。
ふたりはどちらからともなく立ち上がり、その店から視線を逸らした。
「さて、もうちょっとぶらぶらしてから帰るか」
「うん、そうしようそうしよう」
そのまま、ふたりはユリアを見なかったことにして休日を楽しむことに決め込んで、その場を立ち去るのだった。
*
ちょっとした買い物を終えて店を出ると、目眩がするくらい強い日差しが照りつけていた。
ユリアは目を細め、日焼け止めを塗ってくればよかったと後悔したが、日陰ばかりを行くわけにもいかない。
意を決して日なたへと出る。
案の定、肌がちりちりと焼けるような気がして、ユリアは腕をちらりと見る。白い肌は、日に焼けても赤くなるくらいで大して目立ちはしないが、やはり身体にはよくないだろう。
ユリアは片手にちいさな袋をぶら下げ、それを前後に振りながら信号を渡った。
まだ時間は昼前だ。
寮に帰ってもすることはないし、もうしばらくぶらぶらして帰ろうと、すぐ近くの商業ビルに入る。
そこはいくつもの店がテナントとして入っているビルで、なかは若者であふれていた。
――この町で外国人自体は決して珍しくない。
しかし飛び抜けた美人はどんな町でも目立つものだ。
ユリアが歩くと、そのまわりにいる人間が男女問わずに振り返る。その視線自体はユリアも慣れているが、たまに声をかけてくる男たちには鬱陶しさしか感じなかったから、そういうものは羽虫でも追い払うようにあしらっていた。
まあ、大抵の男はこっちがロシア語をしゃべれば逃げていくものだ。
たまに日本語が染みついてしまって、とっさにロシア語が出てこないときもあるが、そういうときは適当な早口でごまかす。まさか見るからに外国人のユリアが「坊主が屏風に上手に――」と言っているとは思うまい。
ユリアはしばらくひとりで様々な店を見てまわった。
ありきたりな洋服よりは、あまり人気もない和服を売っている店のほうがユリアの興味を引いた。
しばらくそこでぼんやりと和風の柄を眺めたあと、本屋に行って、日本語がずらりと並ぶ空間にむうと眉をひそめた。
「話せるけど、読めはしないのよねえ……」
ベストセラーらしい本が平積みされているのはわかるが、それがなんの本なのかはまったくわからない。
たぶん、ひとが死ぬやつだろうとユリアは推測する。大抵、どんな国でも売れる本は、ひとが死ぬやつだ。ミステリでも、ファンタジーでも。
それから写真集のコーナーへ移動し、そこで言語でない共感を楽しみ、本題の楽譜のコーナーへと移った。
楽譜そのものは、学校に帰ればいくらでも閲覧できる。
しかしその量は膨大で、古今東西の楽譜を集めているから、かえって探しづらくなっていた。
そこへきて一般的な書店に置いてある楽譜は有名なものだけだから、この国で馴染み深い曲や作曲家が一発でわかる。
「やっぱりモーツァルトが多いわねえ……あとはベートーヴェンか」
どちらかといえばベートーヴェンのほうが好みではある。
モーツァルトは、ユリアにはすこし美的すぎる気がしていた。
おそらく、恐ろしく才能がありすぎて、いろいろなものを完璧に作ろうとしたのだろう――その結果、モーツァルトは最高の音楽家としていまでも名が残っているが、ユリアとしてはもうすこし原始的な、感情的な音楽が好きだった。
弦よ切れよとばかりに鳴り響くヴァイオリンや、楽器を壊さん勢いで奏でられるピアノ――そういう常識を超えた、一種の狂気的な部分に惹かれるのだ。
もしリストの時代に生きていたら、とユリアは考える。
リストの周囲にたくさんいた若い女のひとりになっていたか――でも、そういう才能がある人気者はあまり好きじゃないから、そっぽを向いていたか。
かといってリストの曲をやるわけにはいかない。
「――肝心のピアニストが、あれだもん」
小嶋乙音。
もちろん、悪いピアニストではない。
むしろ――天才集団といってもいい皐月町音楽学校において唯一、授業を受ける必要もなく、ピアノを弾いていればいいといわれただけのことはある。
乙音は天才だ。
それはユリアも認めている。
しかし、リストのように超絶技巧があるわけでも、ピアノを壊してしまうような情熱的な演奏があるわけでもない。
そういうものとは別に――いや、本質的には同じものなのだろうが、リストが技術や情熱という面でほかのだれも代わりができない音を作り上げたように、乙音もまた乙音にしか――あるいは乙音自身も再現できないような音を奏でていた。
乙音が奏でる音は儚い。
どんなメロディでも、作り出された次の瞬間、空中に消えてしまいそうな気がする。
その儚さが魅力ではあるが、なにも本人まであんな性格じゃなくてもいいのにな、とも思う。
「――ま、ああいう性格だから、ああいう音楽なのかもしれないけど」
ユリアはいくつか楽譜を手にとったが、この国では弦楽四重奏は比較的マイナーなジャンルらしく、めぼしいものは見当たらなかった。
結局、なにも買わず書店を出る。
書店は五階にあって、エスカレーターに乗り、一階へ降りようとしたところ、向かって右側の通路でわっと歓声が上がった。
からん、からん、とハンドベルのようなものも鳴りはじめる。
なんだろうと見てみれば、
「二等当選です、お見事、二等当選です!」
どうやら、くじ引きかなにからしい。
あたりからは拍手も上がる。
よくあんなところで恥ずかしくないな、と思いながらエスカレーターに乗ったユリアは、人垣のすき間からよく知っている人間によく似たふたり組を見つけた。
くじ引きをしている白い台の前、事態が飲み込めていないような顔で立っているひとりの日本人と、赤毛のラテン系。
「――に、二等だって、アル! ああこれは夢か?」
「現実だよ、ハルキ! すごいよ、二等だよ!」
「やったぜー!」
「……あいつら」
わあ、と祝福の声と拍手。ハンドベルもからんからんと鳴っている。
ユリアはエスカレーターの上でため息をついた。
まったく、恥ずかしいふたり組だった。
知り合いだとも思われたくないので、そのまま知らん顔をして通り過ぎる。
一階の出入り口から出たところでふと、
「あいつら、男ふたりできてたのかしら? うう、寂しいやつら」
自分はひとりでいることを棚に上げ、ユリアは呟いて、ふたりのことは見なかったことにしようと決める。
「さ、もうちょっと見回ろっと」
せっかくの休日、楽しまなければ損だと、ユリアはまばゆい陽光のなかでうんと伸びをして、また歩き出した。
*
「……そ、そうだよねー、休みの日なんだから、寮にはいないよねー」
しいんと静まり返った寮の廊下で、小嶋乙音はぽつりと呟いた。
――ありったけの勇気を振り絞り、緊張やらなんやらでこのまま死ぬのではないかという思いをしながら寮母さんにユリアの部屋番号を聞いたのが、だいたいいまから二十分ほど前のこと。
そこからユリアの部屋の扉をノックするまでに二十分かかり、今度も脂汗を流しすぎて脱水症状を起こすのではないかと思うほど緊張した挙句ノックをした結果、ユリアとそのルームメイトはどちらも留守だった。
まあ、考えてみればそのはずだ。
学校から出られる休みの日は、大抵みんなどこかへ出かけている。
寮に残っているのは乙音のような出かけるよりも自分の部屋が好きな生徒だけで、ユリアのような活発な女の子は出かけるに決まっていた。
昨日散々シミュレートをしたというのに、そもそもユリアが部屋にいない、という可能性は朝になるとすっかり忘れてしまっていたのだ。
「うう、せっかく勇気出したのに……」
しかしいないのでは仕方ない。
乙音はとぼとぼと廊下を戻り、自分の寮へ帰ろうと一階へ向かう。
古いほうの寮は建物の左右で男女が分かれていたが、一階部分は共用になっていて、食堂にはさすがに何人か生徒の姿が見える。
練習室からは楽器の音も聞こえていて、練習熱心な生徒もいるらしい。
乙音はうつむいたまま廊下を歩いていたが、練習室のなかから聞こえてくるピアノの音に反応して視線を上げた。
いまもだれかが練習のためにピアノを弾いているのだ――いいなあ、と乙音は思う。
電子ピアノなら部屋にもあったが、昨日の放課後からそれには触れていない。
ちゃんとユリアに謝るまでピアノには触らないと心に決めたのだ。
しかしピアノの音が聞こえてくると、その決心が鈍る。
ちょっとくらいなら触っても、と弱い自分が囁くと、乙音は慌てて首を振った。
「だめだめ、絶対だめ――ちゃんと、しなきゃ」
――そもそも乙音は、ピアノの練習というものをしたことがなかった。
昔からピアノはすぐそばにあるものだった。
練習という意識ではなく、一日中触っていたから、この曲を練習しよう、こんなふうに弾いてみようと意識してやったことがない。
ピアノは乙音の一部で、脆弱な乙音のなかで唯一他人と接しても変形しない、頑丈な部分だった。
言ってみればだれに見られても恥ずかしくない服のようなもので、ピアノがない乙音はなんだか裸で歩いているような気がして、常に落ち着かない。
それにも慣れればなんとかなるはず、とは思うものの、そもそも裸で歩くのに慣れるというのはどういうことなのかと悩む。
――そんなことを考えていたものだから、
「あ、乙音! いいところに」
「ひゃああっ」
自分でも聞いたことがないような声を上げ、乙音は壁にぺたりと張りついた。この廊下に隠れるところはなかったから、そうするしかなかった。
乙音の声に話しかけたほうがびくりとしたが、乙音なら無理もないと思ったのか、笑いながら近づいてくる。
ちょうど寮の階段を降りてきた箕形晴己だった。
「悪い悪い、びっくりさせて」
「う、う――ううん、あ、あの」
大丈夫、という言葉がうまく出てこない。
代わりに、乙音はごくりと唾を飲み込んだ。
晴己はとくに気にした様子もなく、あたりを見回して、
「珍しいな、こっちの寮にいるなんて。乙音って裏の寮じゃなかったっけ?」
「う、あ――そ、その、ゆ、ユリアさんに、あの」
「――ははあ、なるほど。ユリアに謝ろうと思ってきたわけだな? えらいなあ、乙音は。でもユリアなら留守だよ。ちょっと前に駅前で見かけたから」
「あ、う、うん――」
「もう一時間か二時間もすりゃ帰ってくると思うけど――なあ、乙音、ちょっと頼み事があるんだけどさ」
晴己はぱしんと手を合わせた。
その手に、白い紙が握られている――どうやら楽譜らしい。
「ちょっと、手伝ってくれない?」
その言葉の意味がわからず、乙音は首をかしげた。
*
ふたつある練習室のうち、ひとつは埋まっていたが、もうひとつは空いていた。
さすがに休日では取り合いも収まっているようで、おれが先に入ると、乙音はおずおずと、まるでなかに化け物でもいるかのように慎重に入ってきた。
「いやあ、悪ぃな、休みなのに」
「う、ううん――」
乙音はそのままピアノに近づく。
そこでふと、不思議に思った。
普段なら真っ先にピアノへ寄って、すぐ椅子に座って鍵盤に指を添えるのに、今日は近寄るのも恐る恐るで、なかなか椅子に座ろうともしなかった。
なにか、ピアノを怖がっているような雰囲気がある。
「――乙音? どうかしたのか?」
乙音はちょっとおれを見て、ぶんぶんと首を振った。
「じゃ、頼む。明日から声楽科の授業に出るから、若草先生からもらった基本的な楽譜を復習しとこうと思ってさ。でもおれだけじゃどうしていいかわかんなくて――楽譜は読めるようになったつもりなんだけど、自分なりに読んでも合ってるかどうかがわからないし」
楽譜を手渡すと、乙音はようやく椅子に座り、白い鍵盤に指を乗せた。そこでほっとしたように表情を和らげる――いったいなにがあったんだろう?
「大丈夫か、乙音? なんか理由があるなら、無理して弾かなくていいぞ」
大丈夫――と言ったかどうか。
ピアノがぽろろんと明るく鳴く。
それは普段よりも楽しげで開放的な音だった。
おれがなにか言う前から乙音の指は鍵盤をすべって、狭い部屋に音が満ちた。
はじめ、それは開放感に満ちあふれた心地いいものだったけれど、メロディの明るさはさほど変わらないのに、音が憂いを帯びていく。
――その音はいったい、どうしてそんな感情を与えるのか。
音程ではないし、旋律でもない――音そのものが変わるのだ。
おれは、それはそのまま乙音の感情なのだろうと思う。
乙音の感情が音に乗って、あるいは音になって、部屋にゆっくりと満ちているのだと。
もっと現実的に言うなら、同じ音でも鍵盤を押し込む強さや速さによって音色は変わるから、それで音の明るさを変えているのかもしれない――軽いところは軽快に叩いて、暗いところは重々しく押し込んで。
でも聞いていると、それ以上の感情が伝わってくる。
うれしかったり、悲しかったり――その機微は、音を聞けば言葉や表情よりずっとはっきり感じられた。
だから、なんとなく。
乙音はピアノを弾きたくないんじゃないかと思った。
かすかに揺らぐピアノの音色がおれにそう思わせていた。
音が止む。
乙音はちらりとおれを見上げた。
「も、もう、弾いていい?」
「え、ああ――」
伴奏を頼んでいたのだと思い出したが、音色が気持ちに引っかかっていた。
「乙音――ピアノ、弾きたくないのか?」
「え?」
驚いたように乙音は顔を上げ、おれをまじまじと見る。
乙音の瞳をまっすぐ見返したのはこのときがはじめてだった。
まっ黒な、その奥底へ吸い込まれそうな瞳――思っていたよりもずっと澄んでいて、ガラス玉のようにきらめいている。
「ピアノを――弾きたくない?」
言葉の意味を確かめるようにゆっくりと呟いて、乙音は鍵盤に添えた指を見下ろした。
白く丸っこい指。
ピアニストというにはちいさすぎるようにも見えるその手が、いままでたくさんの音楽を生み出してきた。
きっと子どものころからピアノを弾いてきたのだろうし、これからもそうしていくにちがいない――なにしろ乙音は天才と呼ばれるくらいのピアニストで、みんなにそう期待されているから。
乙音との付き合いはまださほど長くないが、期待を無視して自分の道をいくなんてことができる女の子じゃないことはわかっている。
――それはたぶん、乙音自身もわかっているにちがいない。
乙音はゆっくり首を振り、それからちょっと笑って、鍵盤を叩いた。
「でも――ピアノしか、ないから」
乙音の笑顔を見て、おれは決心する。
こんなのはだめだ。こんなのは、楽しくない。
だれかのために、好きでもないのに音楽をやるなんて、たぶん正しい形じゃない。子どもみたいだといわれても、音楽は楽しむべきだとおれは信じている――楽しくなければ音楽ではないと。
気づけば。
おれは鍵盤を叩こうとする乙音の手を掴み、言っていた。
「乙音、デートしよう」




